八 目覚
次に揺羅が目覚めた時、陽はすでに高くなっていた。
朝の光が未だ閉めきったままの蔀戸をくぐり抜けて対屋のうちを淡々しく照らし、御帳台の帳を透かして揺羅の許にまで届く。
明るくなるまで眠るなど、いつ以来だろうか。
重い瞼を上げて、遠くに聞こえる女房たちの立ち働く気配や鳥の囀りをぼんやりと聞いた。とても深く眠った気がする。久しくなかったことだ。
揺羅は、ゆるりと御帳台のうちを見まわしてみた。いつもの調度に囲まれ常となんら変わらぬそこに、眠りのはざまに出会った小さな姫君の気配はもちろんない。
今思い出そうとしても、かの姫君は朧げな姿でしかなく、やはり夢であったのやもしれぬなどと思いながらゆっくりと身を起こすと、すぐそこに控えていたのだろう、泊瀬がそっと帳をかき分け顔を覗かせた。
「姫さま、お目覚めでいらっしゃいますか?」
「……今は?」
「もうじき、辰の刻*になります」
泊瀬はそう答えると、待ちかねていたかのように立ち上がり、静かに半蔀を開けた。
揺羅は胸元を整える手を止め、辰の刻、と呟き返して思わず瞳を上げる。差し込む春の光のまばゆさに咄嗟にこめかみを押さえて目を閉じると、泊瀬がしばしお待ちを、と言い置き対屋を出ていった。
掌の陰で深い息を胸のうちから吐き出す。瞼も頭も重く、どこかすっきりとした心持ちとは裏腹に、身体が悲鳴をあげていた。そうだ、あれほどまでに泣いたからだ、とようやく昨夜の出来ごとを思い出して、春恒が乱暴に掴んだ腕にそっと触れる。
あの時の夫の顔。
あんな風に激しく感情をぶつけてくる姿を見たのは、春恒の妻となって以来初めてのことだ。いつだって突き放してこちらの出方を窺っているような、こちらの動揺を見て腹のうちで嗤っているような、そんな態度しか揺羅には見せてこなかったのだから。
誰かを想うだとか、恋い慕うというようなことほど春恒に似合わぬことはない。揺羅の見てきた夫の姿は他人に無関心で、ただ、己が感情にのみ視線を向けているような男だったはずだ。
ただの召人でしかない左近の君を失ったくらいであれほどまで動揺するなど、いったい何を恐れ、何に怯えておいでなのだろう、あのお方は───
そこまで淡々と考えて、揺羅は、まるで人ごとのようにどこまでも冷静な自分に気がついた。
考えても思っても手の届かぬ、そのことにただ苛々と遣る瀬ない思いを持て余すしかなかったこれまでとはまったく違う。どれほど春恒のことを考えても、揺羅の心は冷ややかに凪いだままだ。自身を守るために、わたくしは傷ついてなどいない、と心を強ばらせる必要もないほどに。
揺羅は、自分の心もまた変わってしまったかと小さくくちびるを噛み、視線を落とした。
何の力も持たぬ細くて白い己の手の上に、淡い春の日差しが気遣わしげに揺らめいている。
そっと、その光に指を伸ばしてみた。光はするりと揺羅の指をすり抜けて、そのすぐ傍でまた、あたたかな光を揺らす。
つかまえようとしても決して手のうちに留められぬ、気まぐれな光。手に入れたくとも、決して叶わぬもの───
ことりと音が鳴り、戻ってきた泊瀬が揺羅の傍に白湯を置いた。淡い光に白い湯気が立ちのぼり、ほのかな柚*の香りが滲む。
「どうぞ召しませ。お頭の痛みも和らぎましょう」
「……ありがとう」
一口含めばあたたかな香りが喉をすべり落ち、痛みも憂いも洗い流されていく心地がした。
泊瀬は、東北のもう一人の女房である中務が運び込んだ角盥で手拭いを絞り、揺羅に手渡す。
「お顔を」
言われるまま熱い手拭いをぼんやりと腫れた目元に当てると、揺羅は吐息のように呟いた。
「なんでもお見通しね、おまえには」
泊瀬はそれには答えず、泔坏*を手に静かに揺羅の背後にまわると、御髪筥*をわきに寄せ、主の艶やかで豊かな髪を整え始めた。首の後ろにも熱い手拭いを当てられて、揺羅は胸の奥深くに澱のように溜まっていた息を吐き出す。
泊瀬は昨夜の出来ごとを知っている。自身の姉の行いによって揺羅が春恒に責められているその姿を、間に割って入ることも許されぬまま、身を震わせ目の当たりにしていたはずだ。
「気持ちがいい。ありがとう、泊瀬」
今の揺羅の精一杯を伝えるその言葉にも、泊瀬は一言も返さなかった。きっと、一度でも触れてしまえばあとはもう己の務めなどそっちのけで、涙と詫びしか口にできぬことを、泊瀬自身が痛いほど分かっていたからだろう。
揺羅の手にする手拭いを黙って受け取り、もう一度絞って手渡した泊瀬は、衣をざわと鳴らしながら再び揺羅の背後にまわると、ふと思い出したかのように話し出した。
「そう言えば姫さま、姫さまがお寝み遊ばされている間に、結構な騒ぎがあったのですよ」
「騒ぎ?」
問いながらわずかに後ろを振り向くと、泊瀬は揺羅の頬にかかった下がり端を優しい手つきで直した。
「ええ、東北の女房たちも駆り出されて……姫さまが長くお寝みくださったお陰で、助かりましたわ」
揺羅の髪を撫でつけるようにしながら冗談めかしてそう答えた泊瀬は、訝しげに眉をひそめた揺羅の耳元に、身をかがめ口を寄せて小声で答えた。
「今朝がた、東の対屋に小さな姫君がいらしたのです」
思わず揺羅の心の臓が跳ねる。
「……それは?」
「宰相さまの姫君さまです。こちらにお移りになられたそうですわ。これからは東の対で、大臣の北の方さまとともにお暮らしになるのだとか」
母宮さまがお亡くなり遊ばしたゆえでございましょう、という泊瀬の言葉に、揺羅はあの時の姫君が夢幻などではないことを知った。
また人の気配が近づき、衣の入った匣が御帳台のうちに差し入れられる。そこにある、桜重*の蘇芳の色を目の端に捉えながら、宰相さまの姫君であったか、と心のうちに呟くと、もっと重大な秘密でも明かすかのように泊瀬の声が一段と低くなった。
「ところが姫さま、その姫君さまはお邸に入られるやすぐに、姿を隠してしまわれたのです」
「え?」
泊瀬は困ったように大仰に頷く。
「ええ、それはもう、突然神隠しにでも遭うたかのように。下男まで駆り出され、床の下まで捜しておりましたのよ。邸に入られて早々ですもの、東の対の方々もそれは大層な慌てぶりで。わたしたちもお捜しするのをお手伝いしました、邸中、女房の使う曹司から庫裡に至るまで。でも、どこにもおられぬのです」
「まあ……」
泊瀬は、明らかに迷惑そうな様子で肩をそびやかした。
まさか、その姫君がこの東北の対に入り、揺羅の眠る御帳台のうちにまで忍び込んでいたなどと、誰も思いもせぬだろう。今さら泊瀬にも言えるわけもなく、揺羅は訥々と呟いた。
「それは……お義母さまも宰相さまも、さぞやご心配なさったことでしょうね」
それを聞いて、泊瀬は一瞬思案顔になったが、すぐにこう続けた。
「宰相さまは冷静に対処なさっておられました。さすがでございましたよ。北の方さまも、あのように気丈なお方でございますから」
「それで? その小さな姫君さまは?」
真意を悟られぬよう、揺羅は窺うように尋ねる。
「……それが、宰相さまが西の対の方にまで捜しに行かれているその間に、また突然、ひょっこりとお姿を現して」
「見つかったの?」
「見つかったのではなく、ご自分でお戻りになられたのですわ、姫さま」
どこか吐き捨てるかのような調子でそう言うと、泊瀬の髪を梳く手が止まった。
「お泣きになるでもなく、ええ、まったく何ごともなかったかのように、ひょっこりと。そして、いくら問われても、どこで何をしておいでだったとも仰られぬまま。わたしたちがどれだけ拍子抜けしたか、お分かりになります? 姫さま」
「……」
「乳母や東の対の者たちは安堵しておりましたけれど、朝も早うから駆り出された他の者たちはもう、ひどく憤慨しておりましたよ。皆、一様に申しておりました、宰相さまはよほど姫君さまを甘やかしてお育てになっておられるに違いない、と」
「……おまえたちが迷惑を被ったのは分かるけれど、言葉が過ぎるわ、泊瀬」
揺羅にたしなめられて、泊瀬ははっと口を噤んだ。髪を梳る手が再び動き出す。
「申し訳ございませぬ。でも、あまりに悪びれた様子もなく……きっとまた、あの姫君さまは騒ぎを起こされるような気がいたします」
「ならばなおさら、何ごとも起こらぬようおまえたちも見守って差し上げねば。まだお小さいのでしょう?」
「四つだとか」
「袴着*もきっとこれからでしょうね」
「今はまだ、母宮さまの喪に服されておいでです」
「どれほどお寂しくていらっしゃるか。本当にまだ稚いお歳だもの……」
そこまで言うや揺羅はふ、と口を噤み、そっと目許から布を外した。鏡に映る己の顔を窺い見れば、それはまるで九十九髪の老女のようだ。十六という歳に似つかわしくないくすんだ影を纏った姿に、情けなく目を逸らした。
ふいに、このままでいいのだろうか、と心の奥底からの思いが湧き出てきた。このまま真の意味で老いていく、その時を諦めとともにただ待つだけでいいのか?
小さな姫君が思い出させてくれた、かつて己にも確かにあった幼い日々は、あれほどまで輝きに溢れていたものを───
「桜重などと……中務はいつになったら姫さま好みの衣を選べるようになるのかしら」
揺羅の髪を梳り終えた泊瀬は、そう不満げに独りごちながら匣の中の衣をふわりと広げている。
いつも、歳にそぐわぬ落ち着いた色目のものばかり好んで身につけてきた。少しでも大人びて見られるように、夫に相応しいと認めてもらえるように。
わたくしは、わたくしの心は。
「………ねえ泊瀬、桜の蕾はいつ開くかしら?」
小袖のうちでぎゅっと手を握りしめた揺羅の問いかけに、泊瀬は深く考えることなく答える。
「今日は暖こうございますゆえ、きっと今日のうちにはちらほらと……」
「本当に?」
「はい」
「ならば……」
その桜重に香を、と言った揺羅を、泊瀬は珍しいものでも見るような目で見返した。
「姫さまからそのようなことを仰るだなんて、お珍しい」
「春だもの。誰の上にも等しく……」
泊瀬はそれを聞いた瞬間わずかに顔を歪め、それから、すぐに、と頭を下げた。
泊瀬の衣の音が遠ざかり、あとには春の日差しだけが残る。
揺羅は御帳台の帳を分け、恐る恐る春の光の中に一歩を踏み出した。
まばゆい光に溢れるそこは、なんという清々しさだろう。その光の前には、これまで揺羅の心を覆っていた恐れや不安ですら霞んでいくようだ。
何を恐れているのだろう。あのお方は───否、わたくしは。
深い深い息をついて静かに目を瞑った揺羅は、その口許に静かな笑みを浮かべ、まるで、目に見えぬ、耳に聞こえぬ何かに心を傾けているかのように、光の中にじっと立ち尽くし続けた。
*****
高倉の邸で妻としての役割を果たせぬままに日々を送り、息をひそめるように暮らす揺羅にとって、できることは少ない。
時間はあり余るほどにある。揺羅はその時間を、書に向かうことに熱心に費やすようにしている。
ただし、物語は苦手だ。かの物語など、夫のことを嫌でも思い出してしまうから。
揺羅が好むのは歌、そして漢詩だ。
言葉の世界にいる間は、現世の辛さは忘れていられる。書を読み、新たな言葉を知ることは、邸に閉じこもっている揺羅の世界を広げてくれる気がするのだ。
その日の夜もまた、揺羅は切燈台*を傍に置き、いつもと違わずもう一刻以上も書に向かっていた。
ぱらりと書をめくる。静かな紙の音とともに、だけどその時、対屋のうちでかすかな物音を聞いた気がした。
じきに戌の刻*になろうかという刻、書に向かっていることを知る泊瀬や東北の女房たちは、揺羅が呼ぶまでやって来ぬはずだ。
揺羅は怪訝そうに視線を上げ、あたりの様子を窺った。
「……誰?」
揺羅の声が乾いた響きをもって対屋に広がる。
なんの応答もない。それでも見過ごすことができずに、揺羅は立ち上がって気配の感じる方へとそっと向かった。
対屋の南にある妻戸にも近い廂のあたり、ちょうどその日の昼間、泊瀬に頼んで久しぶりに出してもらった、父から贈られた春の描かれた屏風の陰───
「……ま!」
揺羅はそこに在る人影を見て、思わず声をあげる。
まるで迷い猫のように身を縮こませ、涙で濡れた瞳を震わせながら揺羅をまっすぐに見つめる、それは確かにあの、夢のはざまに出会った小さな姫君だった。
辰の刻
おおよそ、現在の午前八時の前後二時間。
柚
柚子のこと。
泔坏
整髪の時に、米の研ぎ汁を入れる器のこと。この時代、米の研ぎ汁に浸した櫛で髪を梳かしていました。
御髪筥
この時代の女性はとても髪が長かったので、眠る時には枕元にこの箱を置き、そこに束ねた髪をまとめて入れていました。
桜重
蘇芳〜紅梅〜白の華やかな襲。単は紅。
(さくら重ね。表しろく うらあかきあか花。紅のひとへ。紅梅のうはぎ。すわうの小うちぎ。───『女官飾鈔』より)
袴着
男女とも、三歳から五歳頃に初めて袴を着る儀式。着袴ともいいます。現在の七五三の前身。
切燈台
大殿油のうち、背の低いものを切燈台とも呼びます。
戌の刻
おおよそ、現在の午後八時の前後二時間。