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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
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七 確執

「……だあれ?」


 まだ醒めきらぬ意識の中、そう尋ねる幼い声を聞いた。

 薄暗い御帳台のうちに見えた、ふくりとした頬とまっすぐな瞳。ようやく伸び始めたばかりのやわらかな髪、冷たい東北ひがしきた対屋たいのやにそぐわぬその気配。そして、頬に触れるあたたかな指先のいとけなさが、揺羅ゆらの記憶の奥底をくすぐる。


 ───ちい姫、わたしの姫……。


 お父さま、と揺羅は心のうちで呼びかけた。

 抱き上げてくれた父の頬を両の手で包んで、その深いまなざしを覗き込むのが好きだった。

 お父さま、お目にかかりたい。懐かしいお邸に帰りたい。ここは冷たくて、暗い。

 夢とうつつの境を漂いながら、揺羅は思わず懐かしい呼び名を口にする。


「ちい姫……」


 その瞬間、頬にある小さな掌がびくりと揺れたのを感じた。

 小さな姫君はざわときぬを鳴らし、弾けたように立ち上がる。くるりと背を向けるや否や、軽やかな足音を立ててあっという間にとばりをすり抜け、姿を消した。

 その気配が幻のように消え去ると、揺羅はぼんやりと薄闇を見つめる。

 だあれ? ───わたくしは、誰? 今の姫君は誰だったのだろう?

 幼い時を過ごした邸に降り注いでいた春の日ざしのように、あたたかな指。あれは、幼い頃のわたくし? 苦しい心が見せた幻だろうか?

 ふと、揺羅の口許にやわらかな笑みが浮かぶ。

 ああ、あのように愛おしい日々が己にも確かにあったのだと、揺羅はどこか夢見るように考えていた。



     *****



 同じ頃、春恒はるつねの住まう西の対を先触れもないままにおとのう者がいた。兄の基冬もとふゆだ。

 人払いをし、小袖と下袴に直衣を羽織っただけで物憂げに脇息に凭れかかっている弟の姿に、どこか慌てた様子で妻戸をくぐった基冬ははたと足を止め、わずかに眉を寄せながら呼んだ。


「……中将?」


 ひそやかな呼びかけにも気づかず、春恒はぼんやりと闇の一点を見つめたままだ。


「春恒」


 もう一度そのを呼んだその瞬間、凍てついた薄氷が砕け散るように春恒の気配が揺れた。

 ゆっくりと妻戸にいる兄の方を見て、だけどまたすぐに視線を逸らし、他人行儀に答える。


「───ああ……これは兄上。今日もまた早いことで」

「何を言う、もう卯の刻*だ。参内の準備はいかがした」


 春恒はしばしの間を置いて、ふっ、とわらいか吐息かも分からぬ息を零すと、気だるげに脇息からその身を起こした。

 半ば諦観の面持ちで弟の様子を眺めていた基冬もまた、小さくため息をつく。そして、静かにあたりを見回しながら春恒に歩み寄り、尋ねた。


「すまぬ、こちらにちい姫が参らなんだか?」

「ちい姫?」


 それは誰かと言わんばかりの声で春恒が問い返すのをやり過ごし、基冬は冷たい板の上に腰を下ろして頷く。しばしの間を置いて、春恒はさしたる興味も示さぬまま呟いた。


「何ゆえ……ああそうか、確か、母上が引き取られると、そのような話で……」

「そう、本日よりこの高倉の邸に暮らすこととなる。そなたにも迷惑をかけることもあろうが……今もさっそくどこぞへ行ってしまい、姿が見えぬ」


 そこにあるのは、父としての基冬の姿だ。春恒は苛立たしげに言い捨てた。


「こちらには誰も」

「そのようだな。まあ幼子のことだ、邸から出ることはあるまい」


 基冬はしばらく何ごとかを考えるようなそぶりを見せたあと、わずかに身じろぎして弟に寄った。


「春恒、ちょうどいい機会だ。少しよいか」


 春恒からは否も諾も返事はない。

 いつものことだ、慣れてはいる。それでもどこか、虚しさがよぎる。

 小さく咳払いをした基冬は、努めて冷静に切り出した。


「昨日、畏れ多くも主上おかみより厳しいお言葉を賜った。いつになれば中将は自覚を持つのか、いつまで待てばよいのか? と」


 ちらりと春恒に視線を遣ってみたが、その横顔はどこまでも無表情だ。


蔵人頭くろうどのとうの座を空けたままにしておくにも限度がある、年齢的にももはや限界であろう、秋の除目じもく*までだ、あとはないと思え、との仰せだ。過日・・の件(・・)でもかなり心証を悪くしておいでなのは明白」

「……」

「この機を逃せば、今後そなたに道が開けることも難しくなろう」


 しんと冷え込んだ西の対の中に、基冬の言葉が吸い込まれて消えた。気詰まりな沈黙が落ちる。

 基冬が、務めていた蔵人頭の座を春恒に引き継がせるため参議となったはすでに一昨年の秋。だが、その時の審議で春恒の素行を理由に異を唱える者が現れ、以来、今の役職に留め置かれたままとなっていた。

 それまで黙り込んでいた春恒は、ゆっくりと額に落ちた後れ毛をかき上げると、あからさまに面倒くさそうな態度で口を開く。


「……たかだか、取るに足らぬ女に子が一人できたぐらいで、帝までが騒ぎ立てるとは」


 呆れたと言わんばかりのその言葉に、基冬はぴくりと視線を動かした。


「女と子への対処は済んでいますよ、母上にも念を押されたのでね。それ以上どうせよと?」

「違う、そういうことではない。そなたも分かっておろう───少納言という女、あるじたる尚侍ないしのかみ*を蔑ろにし、主上のご不興をも買って宮中を追われるように去った者であることを忘れたか」

「……」

「今さら言うても仕方のないことではあるが……何ゆえ、そんな女に」


 春恒は、苛立ちの混じった兄の言葉にも、さあ、どうしてだったかな? とまるで他人ごとのように首を傾げ、それから、ふと何かを思いついたように脇息を己の前に動かした。春恒はそこに両腕を預けると、不遜な笑みすら浮かべてその身を乗り出し、兄の顔を覗き込むように言った。


「兄上だって、わたしと変わらぬではないですか。決して睦まじかったとは言えぬ北の方との間に生まれた姫を手放し、母上にお預けになるのでしょう?」

「どういうことだ?」

「現実から目を背け、厄介払いしたいのはお互いさまではないか、ということですよ」


 基冬はその言葉を聞いた瞬間、鈍く頭を殴られたかのような心地がした。思わず目を瞑ると、ちい姫だけではない、妻であった萩の宮や抱くことも叶わず亡くなった赤子のことまでが脳裏に甦る。

 わき起こる言いようのない怒りをなんとか腹のうちに収めようと、基冬はくちびるを噛みしめた。


「……そなたの言わんとすることが分からぬ」


 絞り出すようにそう言った基冬の声は、わずかにかすれていた。


「わたしがいつ、現実から目を背けた? 厄介払いとは何のことだ、ちい姫のことを言いたいのか?」


 春恒はわずかに肩をそびやかし、口を噤むばかり。

 鈍色にびいろの直衣の胸元に挿し入れていたしゃくを基冬は無意識に取り出し、きつく握りしめる。

 ここで弟の挑発に乗ってしまうは愚かだ。

 震える息を深く吸い込み、それをまた細く細く吐き出しながら冷静を取り戻そうとした。


「……わたしのことはどうでもよい。前にも言うたが、母上はそなたの北の方のことをひどく案じておられる。それはもう、まるで我が娘を案じるようにだ。左大臣ひだりのおとどへの気遣いもあろう。なぜ、少しでも打ち解ける努力をせぬ? なぜ、現実から目を背ける?」


 わたしは努力した。あの、気高く冷たい萩の宮をそれでも我が妻といつくしむ努力を。

 そう心に呟いた基冬に、春恒は鼻白んだような声をあげた。


「努力? 兄上はまこと、努力でなんとかなると思うておいでか?」


 これはこれは、と春恒は喉の奥でくつくつと笑った。


「打ち解けようともせぬのは、あちらとて同じ。何も言わず、ただじっとこちらの様子を窺ってばかりいる面白みもない陰気な女です。ともにいると息が詰まりそうになる。人の心など、努力でどうこうできるものではない」


 そんなこともお分かりでないとは。だから、真面目一辺倒の兄上に分かっていただこうなどと思ってはおらぬと申しているではないですか。ふと真顔に戻った春恒は、兄をじっと見返して言い放った。


「うちで得られぬものを外に求めて、何が悪い?」


 基冬もまた、黙って弟を見る。

 その結果として、実の子でもない赤子を押しつけられ、宮中での立場すら失おうとしているではないか。女とは、それほどの代償を払わねばならぬほどに大切なことなのか。そうしてそなたは、果たして求めるものを得られたのか。

 ぶつかり合う視線をふいと先に逸らしたのは、基冬の方だった。時を同じくして、背けた視線の先にある妻戸が、かたんと揺れた。


「殿……宰相さま」


 女房が密やかに呼びかける。


「何か」

「あの……ちい姫君、無事見つかりましてございます」

「そうか、分かった。すぐに戻る」


 基冬は握りしめていた笏を再び胸元に収め、静かに立ち上がった。


「子どもじみた戯言ざれごとを申すのもたいがいにせよ。早う、参内の準備を」


 もはや視線を合わそうともせぬ春恒を見下ろしながらそう言い置いて、基冬はくるりと背を向けた。




 透渡殿すきわたどのを渡り、東の対に近づくにつれ、女たちの笑い声が風に乗って聞こえてくる。

 基冬は心を落ち着かせようと一旦足を止め、考えた。

 言葉に惑わされてはならぬ。言葉の裏に隠された春恒の心を見極めねば───それでも、棘のある言葉を投げつけられて喜ぶ者がどこにおろうか。

 じくりと痛む胸を押さえくうを見上げれば、春の気配を孕んだ曙の光が見慣れた邸を照らし出していた。

 このところ、いつ来ても時が止まったかのように淀んだ空気をたたえていたこの高倉の邸で、笑い声を聞くのはいつ以来であろう。

 幼い頃は、弟もともに何も知らず、この邸で楽しく過ごしていた。あの時のことがなければ……不用意に言葉を吐いた女房さえおらねば、すべては違っていたのだろうか。

 基冬は、東の対屋の向こうに見える、かつて暮らしていた東北の対を見遣った。

 ちい姫の存在ゆえに多少は明るさを取り戻したかに見える東の対に比べ、東北は相変わらず暗く沈んだ気配を纏ったままだ。


 ───ただじっとこちらの様子を窺ってばかりいる、面白みもない陰気な女です。ともにいると息が詰まりそうになる。人の心など、努力でどうこうできるものではない。


 六年前、左大臣家の末姫が春恒の正妻としてこの邸にやって来た時の、母の喜びように偽りはなかった。

 なんと愛らしい姫が来てくれたことか、これで春恒の心も少しは明るさを取り戻してくれましょうぞ───そう言って涙を流さんばかりに安堵していた母の姿を思い起こせば、今の春恒の話はどうにも解せぬ。

 何があったのかと詮索する気など更々ないが、基冬が思っていた以上に状況は深刻なのやもしれぬと知り、またひとつ心に重いものを抱え込んだ気分だ。

 壺*に植えられた桜の蕾が膨らみ始めていた。梅の季節は終わったが、これからますます春の色が濃くなってくるだろう。凍えるような闇に沈む弟に、いつ春は訪れるのだろうか。

 そんなことを考えていると、広廂ひろびさし*にかけられた御簾からひょいとちい姫の顔が覗いた。そうしてそこに父の姿を見つけると、後ろに聞こえる女房の制止の声も聞かずにまろび出てきた。


「お父さま!」


 基冬の許に駆け寄り、薄色*の指貫さしぬきに纏わりつく。

 軽く首を振って終わりのない物思いを断ち切り、鈍色のきぬを身につけた愛し子を静かに抱き上げると、妻戸をくぐって東の対屋に入った。

 その場にいた女たちが衣擦れのざわめきとともに一斉にこちらを向き、それから頭を下げる。

 ちい姫を抱いたまま伏した女房たちの間を縫うように母の許へと向かうと、見つかりましたよ、と笑いを滲ませた母の声が几帳の陰から聞こえた。


「どこにいたのですか?」


 ちい姫を横に座らせ、設えられたしとねに座ると、几帳の陰からまた笑い声が聞こえてきた。


「さあ? わたくしどもにもとんと分からぬのですよ。ちい姫に聞いてご覧なさい」


 そう言われて、どこにいたのかと尋ねれば、ちい姫は小さく首を傾げて言った。


「お綺麗なお姉さまのところ」


 それ以上は何も言おうとせぬちい姫の言葉の意味が分からず、眉をひそめて母に救いを求めるものの、北の方もまた頬に手を遣って首を傾げるばかりだ。


「ね、何のことやらさっぱり……。きっと、どこぞで若い女房の誰かとでも過ごしておったのでしょう」


 基冬は、ちい姫、と低く呼んでその瞳を覗き込む。嬉しそうに父を見上げたちい姫の表情が、基冬の鋭い視線の前にみるみる萎んだ。


「よろしいか。姫は今日この日よりこの高倉の邸でお祖母さまと暮らすのだ。勝手に姿を消すなど言語道断。お祖母さまやほかの者たちを困らせるようなことをしてはならぬ」


 はい、と消え入るような声で言ってうつむいてしまったちい姫を見て、北の方が取りなすように口を挟む。


「大ごとにならずに済んだのですから、そこまで厳しく言わずとも」

「母上、姫を甘やかすことは望んでおりませぬ。どうか、厳しくお導きくださいますよう」


 そうして基冬は、周防すおう、と娘の乳母めのとを呼んだ。だが、その呼びかけに咄嗟に応えたのは別の女房だ。

 不審げにそちらを見遣った基冬に、後ろに控えていた乳母が言った。


「畏れながら、こちらのお邸にすでに周防どのがおられましたゆえ、北の方さまより新しい名を頂戴いたしましてございます」

小宰相こさいしょうと呼ぶことにしました。よろしくて?」


 母の言葉に基冬は一瞬たじろいだが、すぐに小さく頷いた。


「小宰相……相分かった。どうかこれまで通り、ちい姫のことをよろしく頼む」

かしこまりましてございます」


 その時、隣に座っていたちい姫が涙の滲んだ声でお父さま、と呼んだ。


「姫はこれからずっとここで暮らすの?」

「そうだ」

「嫌だ……嫌、お父さまとご一緒がいい」


 背後で小宰相が 、ちい姫さま、と優しく呼びかけた。


「殿も、参内の帰りにはこちらにお寄りくださいます。どうか───」

「嫌! いや、いや! 嫌なものは嫌じゃ!」


 ぽろぽろと涙を零しながら、ちい姫は基冬の首に抱きついた。女房たちが困惑と同情のため息を零す中、基冬はちい姫を受け止め、その背を優しく撫でながら改めて心に呟く。

 違う。これは厄介払いなどではない、断じて、と。

卯の刻

おおよそ、現在の午前六時の前後一時間。


秋の除目

平安時代中期以降、諸官の任命を行うことを除目と呼びました。春の除目は主に受領ずりょうなど国司の任命を、秋の除目には在京諸官の任命を行いました。


尚侍

帝の側近くに仕える女官のこと。帝の命令を臣下に伝える秘書的な役割だけでなく、宮中の女官を束ねる長としての職務もありました。やがては帝の寵愛を受ける者も多くなり、后妃に準ずる位となりました。


寝殿と渡殿、対屋に囲まれた小さな庭のこと。四季折々の草花などが植えられ、時には遣水が流れていました。


広廂

対屋の南面には、通常の廂の外側にもう一段低い廂の間を設けてあり、これを広廂と呼びました。簀子まで用いるとかなり広い空間となり、この場所で管弦や宴が催されました。


薄色

薄い紫のこと。

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