六 悪夢
足音が近づいてくる。
子ができたと聞かされたあの日から一月、一度もなかった夫の訪い。空気を震わすその気配は、ふくらみ始めた桜の蕾をも払い落としてしまう野分の前触れのようだ。
今、渡殿を渡り終えた。もうじき妻戸が開かれて、そうして───
「……そなた、何をした?」
乱暴に妻戸を開け、宵の口の薄暗い東北の対に足を踏み入れた春恒は、設えられた茵にもつかず威丈高に揺羅を見下ろし、そう言った。
「殿、ご機嫌よろしゅう───」
「何をしたのかと訊いておる!」
ついぞ聞いたこともない夫の声音に、揺羅は顔を伏せたまま、じっと床の板の一点を見つめた。
控えていた泊瀬が春恒を茵に誘おうと腰を浮かせると、春恒は一言、退がっておれ、と吐き捨てるように言った。
なすすべもなく対屋を出ていく泊瀬の裳裾の擦れる音が消えると、揺羅はしぼり出すように小さく答える。
「何のことでございましょう?」
言葉尻が震えはしなかったか? この怯えに気づかれはせぬか?
ともすれば竦みそうになる心を隠すために、姉女御の形見でもある紅の匂*の、わずかに覗く紅梅の単の袖口をぎゅっと握りしめ、揺羅は努めて冷静に夫の次の言葉を待つ。
一方の春恒は業を煮やしたように茵につくと、揺羅の方を見ようともせず、ただ苛々と脇息に載せた手を拳に握るばかり。
そのままどれほどの時が経ったか、揺羅はいつもそうするようにそっと視線を上げ、夫の美しい横顔を窺い見た。
初めて目にする、焦りすら滲んだその表情に、夫もこのように動揺することがあるのかと、どこか新鮮な感慨を覚えるほどだ。
いつまで経っても春恒が何も言おうとせぬので、揺羅は仕方なく口を開いた。
「───左近の君のことでございましょうか?」
分かりきったことをと思いながら、それでも揺羅はあえて尋ねた。春恒は頷くこともせぬまま、冷え切った視線を揺羅に向けてくる。
怯むまい。揺羅は密かにくちびるを噛み、もう一度、心にそう念じた。
夫が東北の対に来る予感はあった。三日前に宿下がりした左近の君から、もう高倉の邸には戻れないという文が今日、春恒に届けられたのを知っていたからだ。
左近が揺羅の乳母であった榊の許へ戻った表向きの理由は、榊の体調が思わしくないがための見舞い。当然、春恒にもそのように伝えられていたはずだ。
けれど実際は違う。左近の悪阻も一向におさまる気配をみせず、ますます酷くなるばかりで、このままでは遅かれ早かれ子を宿したことを春恒に知られてしまう、それだけは避けたい、早く退がらせて欲しいと左近がまた泣きついてきたのだ。その苦しげな様子に、揺羅自ら、左近を母の許へと帰すよう手筈を整えてやるしかなかった。だって、左近の運命を狂わせたのはすべて、揺羅が不甲斐なかったせいなのだから───だから、揺羅は償いをせねばならぬのだ。それがまことか否かはともかく、揺羅は今でもそう信じていた。
そうして里へと戻った左近は、計画どおりそこで体調を崩し、高倉邸に戻ることができなくなった。
企みは成功したのだろう。すべては左近の作り上げた筋書きどおりに進み、だがその結果、主人である揺羅がすべてを背負うことになってしまったということに、果たして左近は気づいていたのかどうか。
とにかく、文が届いた時には左近の持ち物もすべて運び出されたあとだった。そのことが何を意味するか、春恒も気づいたのに違いない。
「急なこととて、わたくしも驚きました。ですが、床から出られぬほどの様子であれば無理を言うわけにも参りませぬ」
己を奮い立たせ、あらかじめ考えておいた言葉を淀みなく告げれば、春恒は抑えきれぬ怒りをぶつけるように無言のまま拳で脇息を打った。鈍く響いた音に揺羅は一瞬びくりと肩を揺らし、縋るようにまた袿の袖をきつく握りしめた。
春恒は脇息に肘をつき、口許に拳を当てて黙り込んでいる。ぎりぎりと歯を噛む音が聞こえそうなほど、うちに込み上げる怒りを辛うじて抑えつけているその様子を見ていると、揺羅の心は徐々に冷静さを取り戻していく。
妻を顧みず他の女を傍に置き、あまつさえ子をもうけた我が夫。世にもてはやされる、美しい男。
今は苦渋に歪むその横顔を窺い見ながら、ふと考えた。このお方もまた、左近を想うておられたのだろうか? と。
夫の身につけた桜*の直衣から漂う薫衣香が、常よりわずかにきつい。今様色*の指貫を派手に合わせるなど、左近ならば決して選ばぬ色合わせだ。春恒の身のまわりの世話を一手に引き受けていたのであろう左近が姿を消して、他の女房たちがその任を奪い合っている様子が容易く想像できる。
殿はまこと、左近を?
揺羅は、改めて醒めた瞳で夫を見た。
何をこんなに怒っておられるのだろう。そんなに左近の身が心配ならばわたくしなど訪ねずとも、ただ、彼女の許へと駆けつければいい。
そう……恐らく夫は左近を想うているわけではない。夫の苛立ちは、己に真実が告げられぬまますべてが為されたことに対するもの。自身を蔑ろにされたと感じるがゆえの怒り、そうしてもしかしたら、勝手に動いた名ばかりの妻への不快感も。
そう思い至れば、揺羅は憐れみさえ覚えた。人の心を解せぬ夫にも、そして、そんな夫をそれでも真心から恋い慕ってしまった左近の君───水無瀬にも。
情けなくて哀しくて、揺羅の口からかすかな嗤いの滲む吐息が零れ落ちる。それを聞き咎めた春恒がまた、ちらりと視線を投げた。揺羅は春恒の視線に気づかぬそぶりで言葉を繋ぐ。
「殿にはただただ申し訳なく思うております。……なれど、身体も自由に動かぬとなれば致し方なきこと。こちらから薬師を手配しておきます。どうか、ご理解くださいますよ───」
最後まで言い終えるより先に、春恒がざわりと衣を鳴らして揺羅に詰め寄った。揺羅が驚いて顔を上げるより早く、激情の赴くまま揺羅の細い腕を掴む。揺羅の喉の奥で、か細い声が鳴った。
「そなたが仕組んだのか? そうであろう? 今さら何ゆえ……」
春恒が、揺羅の細い身体を荒々しく引きずり上げる。揺羅は情け容赦なく抱き寄せられ、息遣いも混ざり合うほど間近に夫の顔を見た。
憎悪にも似た眼差しを己に投げつける、世に名高い光中将───おかしなものだ、これほどまで夫に近づいたのはあの婚儀の夜以来かもしれない。
揺羅はわずかに目を見開き、春恒の視線をまっすぐに受け止めた。まわされた手に腰を抱かれ、互いの衣がこすれ合い音を立てる。記憶の奥底で、同じ衣擦れを聞いた気がした。
今にも鼻先を掠めてしまいそうなほどの距離にまで掴み寄せられ、その眼差しに捕らえられて、焚き染められた春恒の薫りに包まれる。抗うことも叶わず、揺羅のくちびるからは力ない吐息が零れ落ちた。
この男を我が夫と愛おしく思えたら、どんなによかっただろう。
この男に我が妻よと守り想われたなら、どれほど。
そこまで考えて、己の心に揺羅は眩暈を覚える。そんな馬鹿げた願望が、今、この期に及んで出てくるだなんて。
「───わたくしがいったい何をしたと?」
思いやりのかけらすらない夫の腕の中で為されるがまま、揺羅は逆に問うた。
ひやりと冷え切った風が張りつめた二人の間を吹き抜け、半蔀にかけられた御簾が突然ばさりと音を立てて揺れた。それはただ春の風を受けただけに過ぎぬのに、春恒の苛立ちをぶつけられた揺羅の心はその気配にすら慄き震える。揺羅の眦から密やかな涙が一粒零れ落ちた。
春恒の腕の力が、ふ、と抜け、その瞳に湛えられていた苛立ちがわずかに揺らいだ。今、初めて己の行為に気づいたかのようにその涼やかな目を眇めると、腕の中にある揺羅をいきなり突き放した。
突然自由になった揺羅の身体が大きく傾いで、思わずついた手が床を打つ。嫌な静けさをたたえる対屋の黒光りする床に揺羅の袿の紅が広がり、乾いた音が鳴り渡った。
左近がいなくなることで春恒の心が揺羅に向く、などという愚かな期待は持っていなかった。それでも、左近を失ったそのやり場のない苛立ちまで、こんな風にぶつけられるとは思ってもいなかった。
なぜ、何ゆえ。この男はこんなにも残酷なのだろう。人の心をなんと思うておられる?
いつかと同じ思いを心に呟く。
春恒はそれ以上何も言わず、床に倒れ伏す妻の涙を顧みることもなく、ただ、薄暗闇にあでやかな桜の直衣の軌跡だけを残して去って行った。
*****
───漆黒の闇の中、遠くに灯りがひとつ、薄ぼんやりと浮かんでいた。
春まだ浅く底冷えのする夜、右大臣家にやって来たばかりの十歳の揺羅は身も心も疲れ果て、泥のような眠りに落ちていたはずだった。
なぜあの時、目覚めてしまったのだろう。
揺羅は深更にあるまじき気配を感じて独りぼっちの褥から身を起こした。そして、そこから抜け出し御帳台の帷をそっと分け、気配のするあたりを探ったのだ。
黒々とした何かが蠢いている。
灯りを背に朧に浮かび上がる影と、抑えようとして抑えきれぬ息遣い。まだまだ稚い揺羅が、今そこで起こっていることを理解するまでには少しばかり時間がかかった。
その影は、昨夜揺羅の夫となったばかりの男のもの。
片肌を脱いだ春恒が、胸元も露わな女を背後から羽交いじめするように抱いて、その首筋に噛みつくような口づけを落としていた。
揺羅はまるで暗示をかけられたかのように動くこともできず、目の前に繰り広げられる光景を見た。
その行為が何を意味するのかは、さすがの揺羅にも分かった。だって、この邸に来る前にさんざん乳母の榊から教え込まれたと同じことだったから。
その時、妖艶な目つきで春恒が揺羅の視線を捉えた。春恒はゆっくりとそのくちびるを離すと、光少将と呼ばれるにふさわしい、美しくて酷薄な笑みをその口許に浮かべた。そうして、そう、まるで揺羅に見せつけるかのように、女の顔にしどけなくかかる長い髪をかき分けた。
「……!」
言葉にならぬ声を呑み込み、揺羅は目を背けた。
虚ろな瞳に涙を浮かべ、あらぬ方を向いたままの女は水無瀬だった。榊に代わり、揺羅の母代わりともなる覚悟で左大臣家からこの邸に来たはずの。
じっと揺羅に視線を向けていた春恒は、再び荒々しく水無瀬の身体を抱え直した。絡み合う二人の身体が波打つ衣の中に沈み込んでいくのを目の端に捉えながら、揺羅は怯えるように御帳台の中に姿を隠すしかなかった。
激しく脈打つ動悸が揺羅を支配して、どうやって息をすればいいのかすら分からなくなった。がんがんと頭のうちに鳴り響く鼓動が揺羅を叩きのめした。
這うように褥に戻った揺羅は、倒れこむように横になると衾を引き被った。
耳を覆っても聞こえてくる絶え間ない衣擦れの音と、水無瀬のなまめかしい喘ぎ声や春恒の吐き出すような息遣いだけが、揺羅の住まいとなった高倉邸の東北の対を覆っていた。
身体の芯から震えが起きて、揺羅は己を抱きしめ目を瞑るしかなかった。
夜の闇は明けることを知らぬかのように果てしなく深く、揺羅はどこまでもどこまでも落ちていくのだ───
*****
ひっ、と喉に引っかかったような声をあげ、揺羅は飛び起きた。
心の臓が、揺羅を眠らせまいとするかのように激しく打ち続けている。
未だ微睡みから目覚めぬ春の夜が、揺羅を取り巻いていた。あたりはまだ暗く、何の物音も聞こえてこない。夢だと知って、揺羅はぎゅっと目を閉じた。
まただ。また、あの時の夢を見てしまった。輝きに満ちていたはずの揺羅の人生が、あえなく崩れ去ったあの時のこと。しばらく見ることもなくなっていた、悪夢。
じっとりと嫌な汗をかいていた。揺羅はうつむいて、大丈夫、と心のうちで唱える。
大丈夫、これは夢。ほら、今はもう対屋には誰もいない。もうじき鳥の囀りが聞こえて明るい朝がやってくる。だから、大丈夫。
深い息を胸の奥から吐き出すと、揺羅はこわばった身体の力を抜いて、こめかみに張りついた下がり端を払った。
もう一度小さく吐息を零し、どこか観念したようにのろのろとその身を再び横たえると、御帳台の中の空気が重くのしかかる。
苦しい。
人の心にある負の思いをぶつけられるのは辛い。たとえ己に非はなくとも、相手の心の闇に毒されてしまうから。
宵に起こった出来ごとを思い出し、春恒にきつく掴まれた腕をそっとさする。
本当ならば、妻である揺羅を守り愛しんでくれる存在であるはずであった夫───相手にされないだけなら、まだよかった。こんな風に心をぶつけられるなら、もう駄目だ。
揺羅は己を抱きしめ、ぎゅっと目を閉じた。
この広くて暗い邸でどこまでも孤独な存在であることなど、とうに分かっていたはずなのに。なぜ、こんなにも辛いのだろう。
いつまで、この闇の中にいなければならぬのだろうか。今は何刻ほど?
その時、どこか遠くの方でかすかな物音を聞いたような気もしたけれど、揺羅はそのまま纏わりつくような眠りに引きずりこまれていった。
それからまた、どれほど眠ったのだろうか。
何かあたたかくてやわらかなものが、頬に触れている。
少しずつ少しずつ、闇のような眠りから覚醒して、彼方のざわめきが現実のものとなり───ゆっくりと目を開くとあたりはすでに曙の気配が満ち、そうしてそこに小さな姫がひとり、揺羅をじっと見下ろしていた。
紅の匂
濃紅〜薄紅のグラデーションになった襲、単は紅梅。
(くれなゐのにほひ。うへ紅にほいて。したへうすくにほいて。紅梅のひとへ。───『満佐須計装束抄』より)
桜
表が白、裏が赤花の色目。ほんのりと赤の透ける白。
今様色
表が紅梅、裏が濃紅梅の色目。今様とは、今流行りの、という意味があります。