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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
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五 発露

 春恒はるつねの足音が遠ざかり、張りつめた東北ひがしきた対屋たいのやにぽつりと残された左近さこんを見つめる揺羅ゆらのくちびるから、あえかな吐息が零れて落ちた。

 どう言葉を交わせばよいのかすら分からぬ夫の、あのような態度にはいつまで経っても慣れることなどできない。隣に春恒の召人めしうどである左近がいればなおさら、冷え切った二人の様子を見られてしまった情けなさも募る。

 常とたがわず、長居は無用と立ち去った春恒が、何ゆえ今日この日、六年もの間顔を合わすことさえ叶わなかった左近をわざわざ連れてきたのだろう。


 ───左近の知る春恒は、己が知る夫の姿とは違うのだろうか?


 ふと、蘇芳すおうの唐衣を纏った左近の肩から流れ落ちる黒髪を見て、そんなことを考える。じくりと胸が疼いた。


「左近……? 顔を上げて」


 よからぬ思いを振り切るように左近ににじり寄り、揺羅はその背に触れた。


「ね、泣かないで。顔を見せて。ようやくこうして会えたのですもの。ほら、泊瀬はつせだって……」


 そう言って後ろを振り返れば、そこには茫然自失といった態で座り込む泊瀬の姿があった。揺羅は続ける言葉を見失い、視線を彷徨わせる。大殿油おおとなぶらの灯を受けて、先ほど贈られた宰相邸のものという美しい白梅がぼんやり浮かび上がって見えた。

 幼い頃には、白梅咲く庭でともに遊んだ仲だ。今はこのような境遇に陥ってしまった者同士だとしても、この孤独な邸で、それを疎遠の理由にしたくはない。

 揺羅はきゅっとくちびるを引き結び、微かな笑みすら浮かべて二人を力づけるように声を上げた。


「ほら、左近の君も泊瀬も、会うのは久方ぶりなのでしょう? ちょうど今朝、左近に白梅を届けましょうと話していたところだったのよ。雪の朝のこと、覚えてる?」

「……北の方さま」

「おまえに会えて、本当に嬉しい。嬉しいのよ……左近の君」


 揺羅の呼びかけが対屋に切なく落ちて、ついに左近が顔を上げる。泊瀬はもう見ていられぬとばかり何も言わずにその場を立ち去り、あとには同じ男を挟んだ二人が残された。

 六年の時を経て、左近はすっかり雰囲気を変えていた。すでに二十歳をいくつか超え、なんというのだろう、揺羅には到底及ばぬなまめかしさをその身に纏っている。

 それもまた己が夫ゆえかと考えれば頭の芯が熱くなる心地がして、揺羅は動揺を隠そうと妙にはしゃいだ調子で言葉を繋いだ。


「同じ邸のうちにいながら、どうして思う時にまみえることもできぬのかしら? お父さまのお邸では、そんなことはなかったのに」


 それから、ああ、言いたいことはそんなことでなくて、と首を振る。


「どうしていたの? 息災に過ごしていた? 泊瀬には、それでも時々は会うていたのでしょう?」

「年に幾度かは……」


 そう言って揺羅を見返した左近の瞳にみるみる涙が盛り上がる。揺羅の意に反して左近は袖で顔を覆い、また突っ伏すように頭を下げた。


「姫さまには、申し訳のしようもございませぬ。かようなことになって、どれほど、どれほど───」

 

 くぐもった声でそれだけを言って、それきり言葉を継ぐこともできなくなった左近の伏せた睫や、はらはらと零れ落ちる黒髪から覗く耳にすら成熟した女の気配が匂い立ち、揺羅の口許に浮かべられていた痛々しい微笑みも消えた。もう、どう返せばいいのかも分からなくなって、うつむいた頬に下がりさがりば*が触れる。己がどうしようもなく子どもじみているように感じた。


「おまえのせいでは、ないわ。おまえも……苦しかったでしょう」


 揺羅はかすれる声で呟く。それを聞いた左近はなおも顔を袖に埋め肩を震わせて、畏れ多いことにございます、と呻くように言った。


「姫さまこそ、どれほどにお苦しみ遊ばしたことでしょう。わたしにはそのことだけが辛く、ただただ申し訳なく」

「わたくし……? わたくしは」


 揺羅はそう呟いて小さく首を傾げ、しばらく何かを考え込むような仕草を見せたあと、ふ、と笑った。その気配に左近が訝しげに顔を上げる。


「おかしなことね。わたくしは苦しくなどないの。本当よ」


 そう言いながら、揺羅は視線を左近から揺らぐ灯火の方に移した。


「わたくしは殿に関わることではもう……石か岩のように何も感じぬようになってしまったのかもしれぬと、そんな気もするの」


 薄暗闇に、揺羅の儚い笑いに彩られた言葉が漂って消えた。左近がかつての主人あるじの自虐的な態度に黙り込む中、揺羅は灯から白梅に視線を戻し、ぽつりと尋ねる。


「ねえ、左近。おまえの人生を狂わせた、その償いはどうすればいい?」


 その言葉に左近は打たれたかのように身じろいだ。


「今また、殿はひどい仕打ちをなさった。左近だって傷ついたに違いない……そうでしょう?」


 左近だって(・・・・・)と言う揺羅の方こそ、本当は誰よりも傷ついているであろう。だのに、当の本人はそのことにすら気づいていないのだ。

 あれほどまでに手中の珠と育てられた左大臣家の末姫の、誰がこのような日々を想像しただろうか。かつて母代わりを仰せつかってこの邸に来たはずの左近もまた、主人を守れなかった罪悪感から縋りつくように言った。


「姫さま……揺羅さま。償いなどとそのようなこと、お考えくださいますな。左近は人生が狂ったなどと思うてはおりませぬ。もとより左近は、そのようなことを言える身でもありませぬゆえに。わたしの方こそ、ただ姫さまへの申し訳なさに幾度眠れぬ夜を過ごしたことか」


 揺羅はだけど、小さく首を振る。


「かようなことになったのは、殿のお心を満たせなかったわたくしに責任がある。先ほどは聞いていただけなかったけれど、いつか折を見て殿にもお話しするつもりよ。子のことも、左近の君、おまえのことも」

「姫さま、それは……」


 涙を拭って揺羅ににじり寄った左近が、何かを言いかけ、そのまま言葉を呑み込んだ。左近の衣ががさりと鳴る。


「わたしのことなど、よろしいのです。ただどうか、どうか、姫さまがお心穏やかに在られますよう。子は……油小路に生まれた子は、姫さまのお心を悩ます存在とはならぬはず」


 揺羅は、黙って視線を上げた。

 まただ。先ほど、春恒の母北の方に言われたと同じようなことを、左近も言っている。揺羅は訝しげに眉をひそめ、左近を見返した。


「どうして?」

「それは……」


 左近はそこで一度口ごもり、揺羅の視線を避ける。


「……わたしの口からは。ただ、どうかお悩みくださいますなと、そのことをお伝えいたしたく───」


 そこまで言った左近はその時不意に眉をひそめ、咄嗟に袖で口許を押さえた。


「左近?」


 どうかしたのかと問う揺羅に左近は幾度も首を振る。胸苦しそうに目を閉じて、それから小さく息を吐いた。


「……姫さま、もうひとつお話がございます」


 そう言ったきりまた口を噤んだ左近の様子は明らかに変だった。風が蔀戸しとみどを叩いて、灯が揺れる。揺羅はまた左近に近寄り、そっとその背を撫でた。

 揺羅の慰めに応えるように幾度か頷いた左近は、やがて意を決したように揺羅に向き直った。


「未だ、殿にも申し上げておらぬことでございますが……わたしはもうじき、こちらのお邸を去ることになろうかと」


 予想だにしなかった言葉に揺羅の手が宙に浮いた。絶句して瞳を見開き、どうか姫さまお許しくださいませ、と再びひれ伏し泣き咽ぶ左近の姿を、ただ呆然と見遣る。

 こんなにも寂しく暗い高倉の邸で辛い立場に置かれ、それでもかつての日々を知る者たちが確かに邸のうちにいるということが、どれほど揺羅の救いになってきたことだろう。

 なのに、ここを去るというのか? 揺羅や妹の泊瀬を残して? それは、その理由は───


「……なぜ?」


 絞り出すようにそう問うた揺羅の声音は、まるで幼子のようだった。

 なんという日だろう。朝から怒涛のように押し寄せるさまざまな出来ごとが、足元すら覚束ぬ揺羅を押し流してしまおうとほくそ笑んでいるかのようだ。雪の下のかさねの青*のひとえの袖をきつく握る。


「どうしてそんなことを言うの? おまえにはずっと、この邸にいて貰いたいわ。殿だって……おまえのことを頼りになさっているのでしょうし」


 震える声でなんとかそれだけを言うと、左近はそれを打ち消すようにふるふると首を振った。


「いいえ、もはやここにとどまることは叶わぬのです」


 それを聞いた揺羅は、はたとひとつのことに思い当たる。


「……左近、おまえもしや」


 その瞬間、左近はその大人びたかんばせをくしゃりと歪ませた。今にも血が滴り落ちそうなほどぎりぎりと噛みしめたくちびるから、色が消える。


「もしや……子が?」


 揺羅には、己の声が滑稽なほど震えているのが分かった。言ってから、ぐらりと地が揺れた気がした。左近はますます深く頭を下げる。

 なんという日なのだろう。揺羅はまた思った。いったい、なんという。

 召人という立場であれば、その身分に甘んじながら子を生み育てることは許されない。子を手放すか、もしくは母子ともども主人あるじの許を去るか。

 左近は、子とともに邸を去ることを選ぶと、そういうことなのだろう。


「……泊瀬は、知っているの? 殿はもう、ご存じで?」

「まだ誰にも打ち明けてはおりませぬ。左近が仕えるべきお方は本来、姫さまお一人でございますれば」


 涙ながらにそう言う左近の声に、苦渋が滲む。


「なぜ、今すぐにでも殿に言わないの? そうすればきっと、邸に残る手立てを───」

「いいえ!……いいえ姫さま、それは叶わぬ願いでございます。己が立場はわきまえているつもりです。それに、殿のお悩みを増やすことも……本意ではございませぬ」


 これでいいのです、と左近は涙の向こうで微笑んだ。その笑みの中に春恒に対する情を見い出し、揺羅はまた言葉を失う。

 揺羅が手にすることのできなかった春恒と積み重ねた時の重みを、想いのよすがを、左近は手に入れたのだ。春恒をこれ以上悩ませたくはない、という左近の想いは、春恒と左近の関係が一方的に無理を強いたものでないという証でもあろう。なぜだか苦しくて、揺羅は思わず胸元に手を遣った。


「おまえ、あのお方を……?」


 ほとんど無意識にそう尋ねていた。左近が息を呑み、視線を落とす。その様子を見極めるかのようにじっと見ていた揺羅は、やがて囁くように言葉を紡ぐ。


「そう。殿をお慕いしているのね」


 左近は、はいともいいえとも答えなかった。ただくちびるを震わせ、床を見つめていた。揺羅は脇息きょうそくを引き寄せ、その身を凭せかける。強ばった肩からふっと力を抜いて、かすかに笑った。


「わたくしに気兼ねなど、必要ないのよ」

「姫さま」

「そう……想うお方の子を身ごもった、と」


 そう呟き、脇息に凭れたまま目を閉じる。静かな沈黙が東北の対を覆った。

 揺羅は、胸のあたりに何か手に負えぬものが膨らんでいくのを感じていた。

 腹立たしさでもない、悔しさでもない。だって春恒を恋い慕う心は、揺羅にはもうないのだから。だから妬みでもないはずだ。

 なのに、なぜこんなにも心がざわめくのだろう。


「……おまえがいなくなっては、殿もお困りになるでしょうに」


 ぽつりと揺羅が言うと、左近は曖昧に微笑んで見せた。


「西の対にはほかにも女房がおります。わたしがお側を離れたとて、殿が、わたしに子ができたことを聞かされる以上にお困りになることは恐らくありますまい」


 淋しげにそれだけを言った左近は、揺羅に向かってこうべを下げた。


「今日、こうして姫さまの許へ参らせていただきましたのは、このことを殿には知られぬままでお邸を離れることができますように、お力添えをいただきたいからにございます。わがままは承知の上……どうか」


 そのあとはもう、うわ言のように、姫さまお許しくださいませと繰り返すばかり。

 揺羅はしばらく黙って左近の伏せた背を見つめていたが、やがてぽつりと、分かりました、と頷いた。


「子のことは内密に。機会があれば、おまえのことを殿にそれとなくお話してみるわ」

「ありがとう、存じます……」

「でも、わたくしにもお願いが」


 揺羅に言われて左近は顔を上げる。


「泊瀬にだけは、本当のことを言ってあげて。泊瀬も、姉のおまえを心の支えにしていたのだから……」


 その瞬間、左近の目からまた大粒の涙が零れ落ちた。


「承知……いたしましてございます」

「それから、邸を出る前にはもう一度、ここに来て」


 言葉もないままに頷いた左近は、引きつった笑顔を浮かべて立ち上がる。


「左近の君。……水無瀬みなせ。どうか身体を、殿の御子を大事に」


 召人となる前に呼ばれていた名で呼びかけた揺羅に、やはり何も言えずただ深く頭を下げた左近は、静かに東北の対を出て行った。




 あとに残された揺羅は、頼りなく揺れる大殿油の薄明かりを遠くに眺めながら、動くこともできずその場に座り込んでいた。

 なんという一日であったか。

 一時いちどきに夫の二人の子の存在を知らされることになるなどと、誰が思うだろう。

 腹立たしさもない、悔しさもない。妬ましいとも思わぬ。


「……は」


 脇息に置いた手で顔を覆う。指の隙間からため息ともつかぬわらいが落ちて、同時に、抑えることのできぬ涙が双眸から溢れ出た。

 妬ましいわけではない。ただ、虚しい。

 何をも成し得ぬ己の人生を思えば、焦燥ばかりが揺羅の心を責め苛む。

 どうして───どうして?

 明るい光はもう二度と、閉じ込められた己を照らしてはくれぬのだろうか。春恒の許に来て六年、またひとつ、出口を失ってしまったような心地だった。

 泊瀬すらも今は傍におらぬ。深く深く闇に落ちていく揺羅に、手を差し伸べてくれる者は誰もいない。

 がたんと蔀が風に揺れ、懐かしい白梅の香りが揺羅の頬を撫でる。だけど、こらえきれぬ嗚咽を零す揺羅には、その優しい香りも届かぬままだった。

下がり端

女性の長く伸ばした髪のうち、前髪の一部を頬から肩くらいの長さで切りそろえたもの。


現在の緑。

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