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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
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四 春宵

 その日の宵、娘の住まう西の対へと通じる透渡殿すきわたどのを渡っていた基冬は、対屋たいのやから届く賑やかな物音に眉をひそめた。

 笑いさざめく声を聞きながらひさしへと足を踏み入れて、白梅邸と呼ばれる美しい邸宅のその惨状に言葉を失う。

 対屋の至るところ、ひいなや碁石、貝覆かいおおい*、草子などが所狭しと散らばっている。よけて歩くだけでも一苦労なほどだ。


「……これはいったい何ごとか?」


 邸のあるじの問いかけにようやくその訪れを知った西の対の女房たちは、慌てふためいて頭を下げる。水を打ったような静けさが広がった西の対に、何も知らぬちい姫が母の形見の衣をひき被り、女童めのわらわとともに奥の塗籠ぬりごめからきゃあと声を立てて飛び出してきた。


「お父さま!」


 父に気づいたちい姫は、驚いた女童が思わず立ち止まるのも構わず父に駆け寄る。


「お父さま、これ綺麗でしょ? これはお母さまの───」

「ちい姫!」


 父に強く呼ばわれてびくりと口を噤んだちい姫は、ちらと後ろから追いかけてきた乳母めのと周防すおうを見遣った。周防もまた、裳裾を翻してその場にひれ伏す。


「殿、申し訳もございませぬ。わたしの目が行き届かぬばかりに───」

「言い訳は結構。今、何刻だと思うておる? ちい姫はもうやすむ刻ではないか」


 基冬は低い声でそう言うと、ちい姫の前にひざまずいた。


「このきぬは?」

「……塗籠で、見つけたの」


 さすがのちい姫も父の静かな怒りに気づいたのか、訥々と答える。基冬はそっとその薄紅梅の衣を撫でながら、一度大きく頷いた。


「そうだね。これは貴女の母宮がとても大切にしておられた小袿こうちき*だ。父帝からの贈り物だよ」


 ちい姫は黙って父の瞳を見返した。


「お母さまが今のちい姫をご覧になったら、なんと仰るだろう?」


 ちい姫はそのつぶらな瞳をぱちぱちと瞬かせて、少し考えてから言った。


「ああうるさい、頭が痛くなる、と仰るわ」


 それを聞いた基冬は、咄嗟に言葉を返すことができずに黙り込んだ。せいぜい、もう少し静かにいたしましょう、というようなことを言うと思ったのだ。まさか、幼子にまでこのような言葉を聞かせていたのかと、基冬は眩暈すら覚えた。


「……そうだね。静かになさいと、ちい姫は叱られてしまう」

「はい」

「お母さまが悲しまれるようなことはせぬように。分かったね?」

「……はい」


 分かったなら、もうやすむ準備をしなさいとちい姫に言った基冬は、静かに立ち上がるとぐるりと対屋を見回し、そこにいる女房たちに早う片付けよと命じた。

 重い音を立てて半蔀はじとみが閉じられ一瞬にして薄暗くなった対屋に、女房が灯を運び込んでくる。ゆらゆらと揺れるその灯をぼんやりと見つめていると、どこからともなく声が聞こえてきた気がして、基冬は思わず立ち竦んだ。


 ───ああうるさい。だから子など生みたくなかったのに。泣き声を聞くだけで頭が痛くなる、向こうへ連れて行って頂戴。


 ぎゅっと目を瞑り、その幻を追いやる。心を鎮めようと一度深い息を吐き出し、それからのろりと目を開くと、ちょうど前を通りかかった女房が、先ほどちい姫が悪戯していた小袿を運んでいるところだった。

 ちい姫が、御帳台に設えられた褥の上で乳母に鈍色にびいろあこめを脱がされているのを見ながら、基冬は妻のことを思い出す。

 ちい姫が生まれた三年前、はからずも聞いてしまった高貴な妻のこぼす声。夏の名残の日ざしの下、背筋が凍るほど驚いたあの言葉は、基冬の心に決定的な何かを残した。


「───おしずまり遊ばす前にご挨拶なさいませ、ちい姫君」


 乳母の声が聞こえ、基冬はゆっくりと御帳台の方に向かう。うちを覗き込みながら、褥の上にちょこんと座った娘に言った。


「明日は周防を困らせてはならないよ」

「お父さま……ごめんなさい」

「謝るのはお父さまにではない、周防にだ」


 基冬が言えば、ちい姫は周防に向かって素直にごめんなさいと頭を下げた。周防は滅相もございませぬ、と首を振る。


「ゆっくりとやすみなさい」


 綿入りのふすまをかけられたちい姫にそう言って微笑んだ基冬は、周防に向かって、あとで母屋もやに参るよう言い置くと、静かに妻戸をくぐった。

 陽の落ちた簀子すのこに出ると、夕闇に沈む白梅の花から馥郁たる香りが漂う。どこか沈んだ瞳で吐息をつくと、鈍色の直衣姿の基冬は天を振り仰いだ。

 月のない空に、霞のような雲がたなびいていた。




「───殿、周防にございます」


 ひさしから声がして、基冬はゆっくりとその涼やかな目を開いた。


「近う」


 はい、という返事に続いてざわりと衣擦れの音がした。基冬は脇息から身を起こし、額に遣っていた手を下ろす。


「ちい姫は眠ったか?」

「はい、あのあとすぐに。ですが……」


 そこで言い淀んだ周防に、基冬は尋ねる。


「またか?」

「……はい。眠りについてしばらくすると、うなされたかのようにお泣き遊ばして」


 基冬は唸るようにため息をついた。

 母宮を喪って未だ一月ひとつきだ。物ごともはっきりと分かってはおらぬいとけない年頃、さほど悲しむ様子は見せぬが、それでもやはり母が恋しいのは当然であろう───たとえあのような(・・・・・)母であったとしても。

 それが証拠に、ちい姫の夜泣きだけではなく、ここ最近のわがままぶりは度を越していて、周防も女房たちもかなり手こずっているらしい。


「お寂しいのであろう、そう思い、西の対の者はみな姫君をお慰めしようと必死にございます。それゆえ、あのような不始末を……まこと、申し訳ございませぬ」


 深々と頭を下げる周防に基冬は一言、よい、と呟いた。


「そのことはもうよい。そなたたちには面倒をかけて、かたじけない」

「もったいない仰せにございます」


 周防はまた頭を下げる。

 基冬は傍に置かれていた白湯を一口含むと、ひれ伏す周防を見ながら口を開いた。


「それよりも、今宵そなたを呼んだのは相談があってのことだ」


 そう言われて周防は顔を上げ、なんでございましょうかと基冬を見返した。


「母上が、ちい姫を一条高倉に住まわせてはいかがか、と仰っておられる」

「……一条高倉に、でございますか」


 周防はどこか戸惑ったような声を上げた。それはそうだろう、この提案は、周防たち白梅邸の者にちい姫を預けてはおけぬと言われたようなものであろうから。

 実際、今朝高倉邸を訪ねた折に母ははっきりと言った。


 ───貴方も忙しく、ちい姫のことにまで心を砕いてはおれぬのでしょう? 乳母と女房だけに任せておくのは不安です、高倉邸こちらに連れていらっしゃい。


 基冬はそのことには触れず、取りなすように続ける。


「決してそなたを信頼しておらぬ訳ではない。ただ、母上の許にいることは、姫にとって決して損はないだろうと思う」


 そう言うと、基冬は少し思案するような仕草をし、それからこう続けた。


「中将の方にはなかなか子ができぬようでね、母上はお寂しいのだろう。宮もあのようなことになって……」


 あのようなこと───基冬の北の方は昨年の大晦おおつごもりの日、基冬の二人目の子のお産で、子もろとも命を落としたのだった。

 ふ、と口を閉ざした基冬に、周防はそっと尋ねる。


「殿はそれでよろしいのでございますか? 殿の方こそ、寂しくおなりなのでは……?」


 窺うようにそう尋ねられて、基冬は静かに笑った。


「そうだな、寂しいよ。白梅邸ここには帰らず、高倉邸あちらにばかり行ってしまうかもしれない」

「まあ」


 まさか、そのようなことを言うなどと思いもしなかった周防が驚いて声を上げると、基冬はもう一度小さく笑った。


「とにかく、もし姫があちらに移ることになればそなたにも行っていただくつもりゆえ、その心づもりを。よろしいか?」


 そう問われて、周防は再び深々と頭を下げた。


「畏まりましてございます。殿がお決めになられたのならば、わたしの方にいなやはございませぬ」

「忝い。よろしく頼む」


 基冬はそれだけ伝えると、周防を退がらせた。

 また脇息に寄りかかり、目を閉じて息をつく。

 萩の宮亡き今、これが最善と頭では理解している。今のままでは、ちい姫の将来が心配であった。それでも、あの小さくてあたたかな存在を手離さねばならぬのだと考えれば、まるで冷たい風が心のうちを吹き抜けるような心地がする。


「……仕方あるまい」


 そう独り言ちて、基冬は頬に灯を受けながら夜更けまでそこに座り込んでいた。



     *****



 日の落ちた邸のうちはひどく寒い。

 傍らの火桶の中で炭が爆ぜた音にふと我に返った揺羅ゆらうちきの胸元を掻き合わせ、視線を落としていた書から顔を上げた。

 いつの間にかあたりはすっかり暗くなり、几帳に切燈台の灯影が揺らめく。揺羅は、もう一刻以上も向かいながらまったく頭に入ってこない書に見切りをつけ、ぱさりと閉じた。


「……泊瀬はつせ?」


 呼ばってみたけれど返事はない。

 仕方なく脇息を引き寄せ凭れかかると、深い息を吐き出して目を閉じた。

 文字を追いながら、気づけば夫のことやまみえたこともない油小路の女君、そして二人の間に生まれたという赤子のことばかり考えてしまっている。

 おかしなものだ。

 揺羅の中にはもう、夫を恋い慕う心など持ち合わせてはおらぬつもりだし、実際、独り寝の夜に夫が誰の許へと向かったのかを深く考えたことも久しくなかった。なのに、赤子という確かな存在を突きつけられた今になって、揺羅は明らかに動揺してしまっている。

 世のことなど何も知らずこの邸にやって来て六年、表向きは近衛中将の北の方としてふるまってきたけれど、実際はあのとおの頃で揺羅の瞬間ときは止まったままだ。

 本来なら揺羅にも任せられるべき邸の采配のすべては右大臣の北の方が、春恒の身のまわりのことは左近の君が。そこに揺羅の出る幕はない。

 主人あるじとして向けられるはずの尊敬も、夫との睦まじい語らいや想い想われる喜び、もちろん我が子を抱く慶びも手にする機会を失った。これからもきっと今までと変わらぬ日々を送り、やがては独り老いていくのだ。この、広くて暗い一条高倉邸の東北の対で。

 それがどのような人生であるのか、淋しいのか悲しいのかさえ、揺羅には分からない。暗闇に押し込められ、ただいたずらに過ぎ去っていった年月は、揺羅から明るい輝きや年相応の経験を奪っただけでなく、生きているという実感さえも奪い去ってしまった。

 これ以上傷つかぬように、これ以上悩まずに済むように。そうやって辛うじて己が心を守ってきた揺羅にとっての春恒はもはや、ささやかで危うい平穏を揺るがす存在でしかない。

 不意に慌ただしげな衣擦れが近づいてきて、揺羅の背後で声がした。


「姫さま……間もなく殿が参られると」


 どこか焦りの滲んだ泊瀬の様子に、瞼を上げた揺羅の心が小さく竦む。


「なぜ……また?」


 思わず口をついて出たその呟きの滑稽さに気づき、揺羅は続く言葉を呑み込んだ。

 宵が来て、夫が北の方の許に来るのは至極当然のはず。けれど、揺羅と春恒の間でそれはあまりにも稀なことだった。今はただ、月に一度あるかないかの春恒のおとないのたび、息をひそめ身構えてしまう己が情けない。

 今朝もいらしたばかりなのにいったいどういうお心づもりかと、揺羅は訝しげに眉を寄せた。泊瀬の様子もどこかおかしい。何かを言いあぐねているかのように、視線を落ち着きなく彷徨さまよわせている。


「泊瀬?」


 揺羅は再び問うた。

 はっと視線を上げた泊瀬は、小さく頭を下げる。


「……いえ」


 釈然とせぬままに、やがて渡殿の方からの気配を感じて揺羅は几帳の陰から滑り出た。伏して迎えた夫の焚き染める薫りが、対屋に漂う白梅の香りと混ざり合う。そのの後ろに続いたざわりというきぬの音に、揺羅は常ならぬものを感じて顔を上げ、そこに在る人影を見て息を呑んだ。そんな揺羅をよそに、春恒はいつもと変わりなく腰を下ろす。


「白梅……兄上からか」


 誰に問うでもなくそう呟く春恒は、その場にいる者たちの心になど、まるで頓着しておらぬかのようだ。

 揺羅は春恒の影に隠れるようにひれ伏した者から目を逸らすことができず、ぎゅっと袿の袖を握りしめた。二人の姿に引き出された思い出したくもない光景が脳裏に甦り、春恒の声も遠くなって、一瞬目の前が真っ暗になったような心地さえした。

 その視線の先にいるのは、左近さこん

 本当なら、妹の泊瀬とともに揺羅を守り仕えてくれただろうはずの女房。春恒が、正妻である揺羅の代わりに我がものとしたひと

 おおよそ六年ぶりの再会に息をすることすら忘れていた揺羅は、左近から目を逸らせぬまま、絞り出すように春恒に答える。


「───お義母かあさまが、お持ちくださいましたゆえ」


 お義母さま、という揺羅の言葉に、春恒の眉がぴくりと動いた。今初めてその存在を思い出したかのように妻に視線を向け、揺羅が何を凝視しているのかに気づいた春恒は、ああ、と小さく呟き、淡々と言い放つ。


「そなたと話がしたいと申すゆえ、連れてきた。長らく会うておらぬのであろう?」


 その言葉に、左近はますます額をこすりつけんばかりに頭を下げる。その肩が憐れなほど震えているのは、泣いているせいであろうか。揺羅は我に返ったかのように視線を揺らし、あり得ぬと言わんばかりに春恒を見た。

 なぜ、何ゆえ。このひとはこんなにも残酷なのだろう。人の心をなんと思うておられる?

 揺羅は強く目を瞑り、憤りに詰まった息を吐き出した。


「……ほんに懐かしゅうございます。もう六年になりますもの。 ねえ、左近の君」


 ともすれば途絶えてしまいそうになる声を隠し、春恒に答えるでもなく静かに語りかける。

 左近の髪が、纏った青*の唐衣からぎぬからを辿り、裾へと流れ落ちるさまを見た。それはかつてとたがわず豊かに美しく、春恒の許へ行った左近が決して蔑ろにされているわけではないと揺羅は知る。それを知れただけでもよかったと、左近を見ながらどこか感情の伴わぬ心で考えた。

 しんと沈黙が落ちる。その時、春恒が長居は無用とばかり、ざわりと音を立てて立ち上がった。本当に、左近をこの対屋たいのやに連れてくることだけが目的であったらしい。

 そのあまりにも短い滞在に、左近がかすかな動揺を見せて顔を上げた。その様子を目の端に捉え、揺羅は滅多にせぬ問いを投げかける。


「殿、今宵はいずこへ?」


 すでにひさしへと足を踏み入れていた春恒は、思いがけぬものを聞いたとばかりにはたと足を止めた。そうして、わずかに振り返るとその口許に微笑みを浮かべる。


貴女・・がそのようにくだらぬことを尋ねるとは珍しい」


 それこそは、世の人々が光中将ひかるのちゅうじょうと誉めそやすその人を表す美しい笑み。だが、その微笑の陰に隠された春恒の心の底知れぬ冷たさを、いったいどれほどの人が知るのだろう。

 相手の心に突き刺さると分かっていて吐かれた棘のある言葉に、揺羅は思わずまた、ちらりと左近を窺う。きゅっとくちびるを噛みしめた左近は、黒光りする床に視線を落としたままだ。揺羅は春恒の方へと向き直り、まっすぐに見返した。


「これからのこともお話できればと思うておりますゆえ」

「これからのこと?」


 そう尋ね返されて、揺羅は一瞬言い淀む。


「……殿の御子のことで───」

「子はここには引き取らぬと言うている。元よりそなたには関係のないことだ」


 そなたには(・・・・・)関係・・のないこと(・・・・)

 突き放したような春恒の言いざまに、揺羅もそれ以上は続けられず口を噤むしかない。苛立ちを隠そうともせず背を向ける春恒に、揺羅はただ黙って頭を下げた。


「今宵はどこにも出かけぬ」


 そう冷ややかに言い捨てた春恒は、そのまま足早に東北の対屋を出て行った。

貝覆

二枚貝の中に描かれた絵柄を合わせる、神経衰弱のような遊びのこと。現在『貝合わせ』と誤称されることが多いですが、貝合わせとは貝に描かれたものの優劣を競う遊びです。


小袿

普通の袿よりも一回り小さく仕立てられた上着。高貴な女性の準礼装。

この時代、十二単と言われて連想する唐衣裳は女房装束と言われ、高位貴族に仕える女房が身につける衣でした。女性は高位になればなるほど唐衣裳を身につける機会は滅多になく(帝の御前や入内の時くらい?)、婚儀の際にもこの小袿姿で臨みました。


現在の緑のこと。

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