三十七 決別
「おやめください、なぜ今? あの殿のことです、また何をされるか───」
春恒が住まう西の対へと繋がる透渡殿のたもとで、泊瀬は半泣きになりながら揺羅の袖を引いた。
「大丈夫、もう先触れも行ってくれたのだし」
「でも……」
揺羅は振り返ると、なだめるように乳姉妹の背を撫でさすった。
「先ほど、合歓どのも大納言家に入られたと…‥是親どののお話を泊瀬も聞いていたでしょう? ではこのあと、殿はどうなさると思う?」
「それは……」
是親の報告と時を前後して、久々に乳母の榊から文が届いていた。隠れ住む家の前を中将が通ったと、そう書かれてあった。恐らくは、都中を捜し回っているのであろう。
春恒は、合歓が大納言の娘であると知っている。ならば、いつか必ず大納言家で二人は再会するだろう。そうなった時、恐らくはもう、揺羅と春恒の関係は完膚なきまでに壊れ果てるはずだ。
その前に殿に会っておきたいの───揺羅はそう言った。
「どうして……姫さま。もう、捨て置かれればよいではありませぬか。なのになぜ?」
「なぜ……?」
そう呟いて首を傾げた揺羅は、この日最後の輝きに彩られた宵の空を見上げた。
「わたくしのためでもある。だから、ね? 泊瀬」
まるで揺羅自身に言い聞かせているような言葉に、泊瀬はきゅっとくちびるを噛んで涙を堪え、分かりました、と答えた。
西の対屋は、すでに光が届かなくなった東北とは違い、夏日の残照で未だ朧げにあたりの様子が窺えた。
ぽつんとひとつだけ大殿油が灯された対屋のうちに足を踏み入れると、掲げられた御簾のほど近くに脇息を置き、虚ろな表情で庭を眺めるともなく眺めている春恒が見えた。揺羅は臆することなく夫に歩み寄り、控える女房に有無を言わさず人払いをと伝え、そのまま夫の背後に腰を下ろす。
「……何の用だ」
振り向きもせず、ぶっきらぼうに春恒が問うた。揺羅はまばたきを幾度か繰り返すと、心を落ち着かせるように一度大きく息をした。
「もう長らくお目にかかっておりませんでしたゆえ」
我ながらおかしな言葉だと思った。
妻夫なのに。妻夫だったのに。同じ邸にいながら姿を目にすることさえせぬ日々をこれだけ送れば、こんなにも簡単に心が離れる関係でしかなかったのだ。
春恒は、ふんと鼻で笑ったが何も答えようとはしない。揺羅は構わず言葉を続ける。
「宴の折にはお見かけいたしましたが……気づけばお姿が見えなくなり」
「……」
「あの日、合歓という娘がはるばる都まで、殿を訪ねて参ったのだとか」
揺羅がそう言った瞬間、春恒は打たれたように振り返った。
まっすぐに夫の目を見る。怒っていても、悩みやつれていても、やはりこの男は───わたくしの夫は美しい。
だが、それだけだ。揺羅にとって、もはや何の関心も呼び起こさぬ存在。
「なぜ、そのことを」
「お義母さまに教えていただき……宴の翌日、東の対で対面いたしました。殿によう似た、美しい娘御でした」
春恒の怒りが一気に広がるのを感じた。揺羅は竦みそうになる心を奮い立たせる。
「対面……? 邸にいたのか?」
「ご存じありませんでしたか?」
揺羅は必死に穏やかさを装う。
「殿はもしや、他所をお捜しになっておられたのですか? ずっと、このお邸におられましたのに」
皮肉めいた言葉に、春恒の目がみるみる険しくなった。怯むものか、と揺羅は奥歯を噛みしめた。
「合歓は今……どこにいる?」
そう尋ねる夫の視線を、真正面から受け止める。もう決して、恐れはしない。
「まだこの邸にいるのか? ならば───」
「いいえ」
揺羅が首を振ると、春恒はざっという衣擦れとともに揺羅に詰め寄った。
「ではどこだ? どこにいるのだ!?」
咄嗟に身を退いた揺羅の袖を抑え込み、春恒はその美しい顔を歪めて問い詰める。
これまでの六年間で春恒にされた許容し難い行為の数々が脳裏に蘇る。いつだって揺羅を理解しようとはせず、ただ理不尽に責められるばかりだった。その呵責をずっと、真正面から受け止めて傷ついてきた。
だけど、今はもう。
「……かようなことをされては、お伝えすることもできませぬ」
静かに、だがきっぱりと言い放てば、春恒の眉がぴくりと震えるのが見えた。のろりと春恒の手が揺羅の袿の袖から離れる。
肩から滑り落ちた袿を引き上げ、頬にかかった下がり端を払う。何を言うべきかと言葉を探せば、春恒がまた苛々してきているのが手に取るように伝わってきた。
「合歓どのは、先ほど大納言さまのお邸に───」
それを聞くや否や、がたん! と傍らの脇息を倒して春恒が立ちあがろうとした。揺羅は静かに押しとどめる。
「殿、今はまだ……。大納言さまにとって、二十年もその存在すらご存じなかった己が娘と対面なさる時ですから」
腰を浮かせた春恒は、肩を大きく上下させて何ごとかを考えているようだったが、やがて観念したように再び腰を下ろした。まだ辛うじて理性は残っているらしい。
揺羅の心に、ふいに左近の君のことが浮かんだ。
左近が春恒の子を宿し、高倉の邸を出て行ったあの時も、春恒は同じように激昂していた。だが、あの時は揺羅を責めるばかりで、己の足で捜しに行こうなどとは決してしなかった。
今、左近は産み月も近づき、体調の芳しくない母親の榊と二人、日々の暮らしにも難儀しているようだと、揺羅の代わりに面倒を見てくれている是親からも聞いている。なのにこの夫は、他の娘のことで頭がいっぱいなのだ。可哀想な左近の君。
揺羅はそっと手を伸ばし、倒れた脇息を元に戻した。それをちらと見遣りながら、春恒は落ち着かぬ様子で立てた膝に腕を載せ、拳を口元に当てる。
「わたくしがお伝えするのはこのことだけです。あとは、殿のお心のままに」
春恒が床に落としていた視線を上げ、怪訝な目つきで揺羅を見る。
「なぜだ? なぜ、邸の誰もが隠していることを、そなたは伝えにきた? 兄上に頼まれでもしたか?」
今度は、揺羅が春恒の顔を見返す番だった。
「なぜ宰相さまが? これは、殿とわたくしの問題でございましょう?」
合歓との対面後、図らずも基冬に出会ってしまったがゆえに直接その手を借りることにはなったが、合歓の処遇を決めたのは、あくまでも春恒の妻である揺羅だ。
「殿がお望みなのでしたら、どうぞあの娘御をお訪ねくださいませ。わたくしは止めませぬ。これまでもそうであったように」
揺羅がそう言うと、春恒は口元にあった拳を広げて額を覆った。
やがて春恒はふふ、と嗤いを洩らす。その声は徐々に大きくなり、まるで吠えてでもいるような声が対屋中に響き渡った。
「殿?」
「そなた……変わったな」
「さようでございますか?」
「変わった。わたしのせいか、兄上のせいか」
揺羅はしばし考えたあと、静かに言った。
「六年です、この高倉に参ってから。その年月のお陰───」
「そなたはいつも」
揺羅の声に吐き捨てるような春恒の声が被る。
「……そなたはいつだって、わたしを惨めな気分にさせる。初めて会うた時からずっとだ。そなたを見るたび、己がどれほど愚かな男なのかを突きつけられる」
春恒はそう言い、また自嘲するように笑った。揺羅の眉が、痛々しいものでも見るように寄る。
「そなたといる限り……そなただけではない、この邸であの兄や母上といる限り、わたしは愚かで何もできぬ、悪い男でしかない。いつまでも」
嗤いとともに吐き出されたその言葉尻がわずかに震えた。泣いておられるのか───しんと冷え切った心で揺羅は思った。
なんてひどい、理不尽な言葉だろう。これまでの揺羅なら、こんな春恒の言葉ひとつで自責の念に駆られ、思い悩んでいたに違いない。だが、今の言葉は揺羅だけではなく春恒自身にも向けられていて、だから揺羅は少しだけ驚いた。このような言葉を夫の口から聞くとは思ってもみなかったから。
同情などない。ただ、もう少し早く、揺羅がこんな春恒の心でも受け止められるだけの大人になっていたなら。出会った時がもう少しだけ遅かったなら。二人の関係はまた違ったものになっていたのかもしれない。そんな、言っても詮のないことを考えた。
西の対にもいよいよ闇が迫る。
ただひとつだけの灯がちりりと揺れて、目の前で頭を抱える夫を辛うじて闇から守っている。
揺羅は春恒の言葉に答えることなく、手をついて深く頭を下げた。
「では、失礼いたします。中将さま」
春恒はぴくりとも動かず、揺羅を見ようともしなかった。
そこにあるのは、これまで散々揺羅を威圧してきたはずの、夫だった男の力ない肩の線。それが、揺羅が見た最後の春恒の姿だ。
そのまま、揺羅は西の対屋を出た。もう決して、春恒の方を振り返らなかった。
*****
未だ雨の時季だいうのに、まるで真夏のような陽が燦々と照りつけ、内裏の殿舎の影も色が濃い。
朝政を終えた殿上人たちは、ある者は手にした檜扇で影を作り、ある者は忙しなく扇ぎながら暑い暑いと愚痴を言い、浅沓*で白砂を踏みしめ帰途を急ぐ。その黒々とした袍を着た人々の中、涼しげな二藍の直衣に冠をつけた基冬は一人、人々と逆行して黙々と清涼殿に戻っていた。牛車に乗り込む直前になって、帝からのお召しを伝えられたからだ。
薄暗い殿舎に足を踏み入れると、外から入った身には幾分涼しさを覚える。殿上の間には他に人もおらず、腰を下ろして、ほ、と息をついた。
基冬が、叔父である大納言彰良を訪ねたのは二日前のこと。
是親によって届けられた文に、恐らくはひどい衝撃を受けたのであろう。基冬は御簾越しでしか対面を許されず、叔父は褥から身を起こすことすらできぬありさまだった。それゆえ基冬は最後まで反対したのだが、これは東北の方の意向でもある、という母の言葉には勝てず、昨日、合歓と呼ばれる娘は春恒の不在の間に、父親である彰良の邸に移った。
怒涛のような毎日を、なんとか心を奮い立たせてやり過ごしている。基冬とて、鋼のような心を持つわけでは決してない。なのに、今度は帝からの呼び出しである。今また覚悟している以上の出来ごとが起こるのであれば、果たして精神は持つであろうか。そんな、基冬らしからぬ物思いさえもが心をよぎる。
磨き抜かれた殿上の間の板は黒く輝き、それは童殿上が許されて以来ずっと見続けてきた、変わらぬ光景だ。夏が過ぎれば、すべては平穏に戻るのであろうか。否……これからの人生に平穏などあるのだろうか。
そのようなことを悶々と考えていると、侍従が御前に伺候するよう伝えにきた。
静かに踏んだ見参の板*が鳴る。聞き慣れたその音さえ、基冬の心に重くのしかかる。
御簾の上げられた昼御座には、御引直衣*の胸元をわずかに緩めた帝がゆるりと座っていた。その背後で、侍従がゆっくりと扇いで風を送っている。
「来たか」
いつものように親しく声をかけられ、いつものように手をつき頭を下げた。
「蒸し暑いな、不快でたまらぬ」
「は」
視線を落としたままの基冬のこわばった返事に、帝は声もなく笑う。
「何を言われるかと恐れているようだ」
「……」
「そなたを責めるつもりはない、顔を上げよ」
のろりと顔を上げた基冬に、帝はまた小さく笑った。
「そなたらしゅうもない。何か、よほど参ることでもあるのか」
「……いえ、そのようなことは」
否定しつつ、しかし基冬はすでに察している。このような物言いで問うてこられるということは、帝はその「何か」をすでにご存じなのだ。
身構え黙り込んだ基冬を見て、帝は興味深げに身を乗り出し、なおも矢継ぎ早に尋ねてくる。
「いつもと様子が違うぞ? 具合でも悪いのか? 先ほどは、そうは見えなかったが」
「いえ」
「聞こう。何を恐れている?」
「特には」
何を問うても続かぬ会話に、ついには帝も口を閉ざしてしまった。
いったい、何を言えるというのか、と心のうちにだけ呟く。ここ数日に起こったことの、これからの数日に起こるやもしれぬことの、いったい何を。
「ふ……ん」
帝は小さく唸って、傍らにある脇息を引き寄せると、そこに凭れかかった。
「なんぞ悩ましいことがあるということか。中将のこと以外にも」
独り言のような、なおも思わせぶりな帝の言葉に、基冬は頭を下げるしかない。
「実はな」
それ以上話を引き伸ばすつもりもない様子の帝は、話を思わぬ方向に振った。
「大納言が来た」
思わず顔をあげた基冬の口から、え、と声が洩れる。
「……朝政にはいませんでしたが」
「そうだな。もう、出ることはないやもしれぬ」
「というのは」
「出家したい、と自ら申し出た」
基冬は驚きのあまり、言葉を失った。昨夜初めて娘である合歓と対面したはずの叔父が、出家?
「何も聞いておらなんだか?」
「は……」
ふん、とまた帝は唸り、基冬はどこか情けない気分で尋ねる。
「して、主上はお許しになられたのですか?」
「仕方なかろう、あのようにやつれた姿を見せられてはな。もう長く、出仕もしておらぬ」
「叔父は……大納言卿は何か申しておりましたか?」
「身体も思うようにならず、気力もないと」
仕方あるまい、と帝はもう一度言った。
揃えた手にじっとりと汗が浮かぶ。これほどまで、次から次へと起こる一族の問題の矢面に常に立たねばならぬのは、いったいどのような因果なのか。
「申し訳……ございませぬ」
「そなたが謝ることではない。ただ、大納言の席が空席になるな」
帝はそう言いながら、じっと基冬を見た。
もうじき司召し*がある。春恒について、秋までだ、もうあとはないと帝に言われた、その時がやって来る。
「して、なぜ中将は姿を見せぬ? 何があった、また病か?」
対屋に籠めることをやめて以降、邸を出入りしているにもかかわらず、春恒は出仕していない。そのせいで内裏の女房たちも喧しく騒いでおり、帝も動かざるを得ない状況となりつつあるのは理解していた。
「病、ではございませぬ」
ようやく答えた基冬の言葉を、帝は、ふん、とあしらう。
「まあよい。それともうひとつ」
もうひとつ? 基冬は胸のうちで半ば叫び出しそうになる気持ちを抑え込み、きつく目を瞑って大きく息を吸い、そうして覚悟を決める。
「秋頃に、右大臣の邸に行こうかと思うておる」
また、予想だにせぬ言葉が耳に飛び込んできた。
「我が高倉……にでございますか?」
「そうだ。萩の咲く頃に」
基冬はごくりと生唾を呑み込む。
かつて帝の妹である女五の宮が基冬の許に降嫁した折、萩の宮の名と同じ萩の株が右大臣家に下賜されていた。その株も十年の年月を経て、ずいぶんと大きく立派に育っている。
「できることならば、久々にそなたの舞も観たいものだ」
かつて、帝が御位につかれた折の宴で舞ったことがあり、その時のことを言っているのだろう。舞うことは嫌いではないし、何より、帝の行幸*を賜るなど名誉この上ないことのはずなのだが、今、喜んで受けるような心境にはとてもなれなかった。
「まずは、大臣に相談して参ります」
「そうせよ」
その時、侍従が帝にこそりと何ごとか耳打ちをした。
「……そうか。すぐ参るよう、伝えよ」
帝が言うと、侍従は頭を下げてその場を離れる。
凭れかかっていた脇息から身を起こした帝は、ゆるめていた襟元を直し、そして呼んだ。
「基冬」
滅多にないその呼ばれ方に、基冬は思わず顔を上げる。
「今から、少し面白いものが見れるやもしれぬぞ。そこに……」
そう言いながら、帝は御座のすぐそばにある御帳台の陰を指した。
「しばし、そこに隠れておれ」
訝しげにそちらを見遣った基冬を追い払うように、帝は手を振った。
浅沓
束帯、衣冠、直衣などを着用した時に履く、浅い木製の履のこと。
見参の板
清涼殿の孫廂の南端にある、釘付けされていない板のこと。そこを踏むと音が鳴るため、人が出入りすることを知れるようになっていました。
御引直衣
帝が日常に用いた身丈の長い直衣。普通の直衣が裾を引き上げて着用するのに対し、御引直衣は裾を長く引いて着用し、下には紅の長袴を穿きました。
司召し
都の諸官を任命する儀式。古くは春、平安中期ごろから秋に行われるようになりました。秋の除目とも呼ばれます。ちなみに、春の除目は県召しといい、地方の諸官を任命しました。
行幸
帝の外出。