三十三 実梅
「……女?」
耳を疑うような言葉に基冬は思わず振り返り、そう聞き返した。
「はい」
「女がひとりで訪ねてきたと?」
「はい」
「しかも、馬で?」
「はい」
にわかには信じがたい話だ。
「どこにいる」
「門は目立ちますゆえ、東の曹司*の一室に通しております」
すぐさま門の方に向かおうとしていた基冬は、それを聞いて足を止める。
「曹司に通した……? 邸に入れたのか?」
基冬はあからさまに眉をひそめたが、すぐ何かに思い当たったように顔を上げた。
「もしや、女というのはあれか、おまえに頼んでいる例の」
かつて左大臣家よりやって来た女房を春恒が我がものとし、今は東北の女がひそかに面倒を見ていることは知っていた。帝に下賜されたらしい女御ゆかりの衣を渡そうとしていたので、さすがにそれはまずいと基冬が手を回して似たような衣を届けさせたのが、つい先頃のこと。
「いえ、あの者では……。先日も衣を届けております。見間違えるわけはございませぬ。それに」
是親は何ごとかを言いかけ、すぐに口を噤んだ。
「それに?」
訝しげに問い返す主人に、是親は言いかけた言葉を呑み込み、視線を下げた。
「……そのなりも到底、都の者には見えませぬ。太刀一振だけを持ち、ただ、中将さまに会わせろ、と」
「太刀……?」
ますますもって分からぬと訝しむ基冬に、是親は静かに、しかし迷いなく、その太刀に見覚えがある、と言った。基冬は小さく唸ると、いつものように考え込む。
この者が考えなしに言葉を吐くことはない。太刀に見覚えがあるというのは、間違いのないことなのだろう。
春恒を訪ねてきた女、見覚えのある太刀。失踪していた春恒が戻ってきた時、母から春恒に伝えられた兵部卿宮家の太刀の行方が分からなくなっていた───
基冬は何ごとかに思い当たったかのように、鋭く是親を見返した。是親はその通りと言わんばかりに頭を下げる。
「もう、春恒は会うたのか?」
「いえ、あちらが気づくより先にこちらで対処しましたゆえ、邸に通したこともご存じありませぬ。今は西にお戻りかと」
そこでまた何ごとかを考え込んだ基冬は、曹司の方へと向きを変え、強く言った。
「春恒を西から出すな。よいな?」
は、と頭を下げ、ただそれだけの指図を聞いてひとりその場を立ち去る是親の背を見送ると、基冬は新たな問題の発生に一度大きな吐息をついた。宴のさなかであるのに、と焦りを覚えつつ、女が通されたという曹司へ向かう。
やはり、女か。
基冬は苦々しくそう胸のうちで呟いた。またか、と。
東の対と寝殿とをつなぐ渡殿にある曹司の前で、女房である安芸が静かに控えていた。安芸がいるということは、曹司の中ではすでに右大臣家の北の方が対応しているということだ。
基冬が来たことに気づいた安芸が頭を下げる。
「母上が?」
「はい、騒ぎを大きゅうしとうない、ご自分で対処なさる、と」
だからと言って母だけに任せてはならぬだろうと基冬は声をかけた。
「母上、入ってもよろしいで───」
「ならぬ」
ぴしゃりとはねつける声がした。
「女人がおるのです、入ってはならぬ。客人もまだおられるであろう? そなたはそちらを応対なさい」
母の毅然とした物言いに、思わず安芸を振り返る。安芸は口を噤んだまま、小さく首を振って基冬を引き止めた。
基冬はそれ以上何か言うことを諦め、落ち着かぬ心地であたりを見回した。はぐれた蛍が一匹、ふらふらと壺を飛んでいる。そうだ、まだ宴は終わってはおらぬのだ。
しばらく黙然と立ち尽くしていた基冬は安芸に、宴に戻る、後ほど母上を訪ねると言い残し、その場を離れた。
*****
たん、たん、と、右大臣の北の方の癖である脇息を指で叩く音が、狭くて薄暗い曹司の中に響く。普段は物置として使われている曹司の中は空気が澱み、どこか埃っぽいにおいがしている。
この娘を邸に入れてからすでに小半刻が過ぎようとしていた。だが、娘は一向に口を開こうとはしない。
邸に現れた時、ただ中将に会いに来たとだけ言ったという。女ひとりの身を訝しんだ下人の問いかけには、都に入る前までは付き添いの者がいたと説明したらしいので、決して口がきけぬというわけではない。
それでも、曹司に通されたのちは顔すら上げようとはせず、ただの一言も発せぬその様子に、さすがの北の方も苛立ちを抑えられなくなってきた。途中で基冬もやって来たが、男が入ればなおさら頑なになるであろうと思い、曹司には入れなかった。だが、いっそ追い出してもらうべきであったか。
脇息を指で打ちつつ、燈台のわずかな明かりで前に手をつく娘の様子を窺い、思案する。
雑仕女の如きいでたちだ。後ろで纏めた髪も乱れている。だが、瞳を伏せたその顔に下卑た様子は見受けられない。何よりその、ついた手の指のなめらかさは下々に常に働くものの指ではないようにも見える。
じじ、とかすかな音を立てて紙燭の炎が揺れた。大きく息をつき、北の方はもう一度、目の前の娘に問うた。
「もう一度訊きます、春恒……中将とはどこで?」
「……」
苛立ちを抑え、北の方はなおも問いかける。
「……お尋ねしたいことは多々ありますが、何よりこれ」
そう言いながら、北の方は傍らに置かれた太刀を手に取った。
「おまえはなぜ、これを持っているのです?」
娘はそう問われてもなお、ちらとも瞳を動かさず、口を閉ざしたままだ。強情な娘よ、と北の方は肩をそびやかし、大仰にため息をついた。
「その様子では、何を問うても無駄なようね」
仕方ない、と北の方は脇息を一度たん! と掌で叩いた。
「安芸、この娘を追い出しておしまいなさい」
戸の向こうに控える腹心の女房にそう言い放つと、衣をざわりと鳴らして腰を浮かせた。それと同時に、娘がはっと顔を上げる。
立ち上がった北の方は初めて、その娘の顔を正面からはっきりと見た。その瞬間、声にならぬ声を呑み込んで、北の方は動きを止める。
立ちすくんだまま、対峙するかのように娘と向かい合う。静かに戸が開いた気配に、北の方はただ、かすれた声で言った。
「……よい。安芸、すまぬがもうしばらく外で待っていて」
安芸はわずかに戸惑った様子で二人を窺い、小さくはい、と答えてまた戸を閉めた。細く開いた戸の隙間から聞こえていた宴のざわめきが消えた。
仄暗い灯の中、北の方は再び茵に腰を下ろし、前にいる娘をまじまじと見た。瞳は伏せられてしまったが、先ほどよりもその顔の様子が窺える。
「もう少し、近う」
北の方の呼びかけにも娘は動こうとはしない。業を煮やして灯りを手に取り、娘の方へと立膝でいざり寄った。
娘の頬を火で照らし、その顔を覗き込む。それだけでは足りず、その顎を指で上げさせると、初めてまっすぐ目が合った。そして、北の方は静かに息を止める。
やはり似ている。瓜二つと言ってもいいほどに。
血を分けた兄の道ならぬ想いに巻き込まれ、伊勢へと追いやられてしまったあの異母妹に───藤命婦に。
「……そなた、もしや伊勢から?」
「……」
「藤命婦に所縁が? ……いえ」
絞り出すようにそう問うた北の方は、すぐにまた思い直して首を振った。
あり得ぬ。藤命婦がいたのは斎宮だ、子を生せるわけがない。ならば、まさか。
「まさか、彰良の……大納言の?」
独り言のように北の方が呟くと、異母弟の面影をも宿した娘の肩がわずかに揺れ、その視線はまた床に落ちた。
力が抜けたようにその場に座り込んだ北の方の前で、娘はなおも頑なに口を閉ざし続ける。
*****
「お疲れでございましょう」
労るような泊瀬の声が、脇息に伏せた揺羅の背を撫でた。傍らに置かれた白湯からふわりと湯気が立っている。
宴は終わった。揺羅はまた、この高倉の邸に残されてしまった。
ひとつだけ開けたままにした半蔀から、やわらかな風とともに下人たちが篝火などを片付けている物音が聞こえてくる。女房たちがひそやかに声かけしながら、酒器を運ぶ音も風に乗って届く。なのに、東北の対屋のうちは、隔絶されたかのように恐ろしく静かだ。
父とは、宴の最後にもう一度だけ言葉を交わした。いつでも案じておる、そう言って父は帰っていった。
顔を伏せた袿の袖がわずかに湿っているのは繰り返される吐息のせいか、知らず零れる涙のせいか。
分かっている、分かっていた。
思い返せば、今宵の父は不自然なほどに明るく振る舞っていたようにも思える。何らかの深い思惑があったからこそ、幼い揺羅を手放して高倉へ遣ったのだ。今になってその意を翻すような父ではないだろう。
のろりと顔を上げた。頬にかかる下がり端もそのままに、いつもと変わらぬ薄暗い対屋にぼんやりとした視線を向ける。ほんの少し口にした慣れぬ酒のせいか、頭が重い。
すぐ近くで、迷い込んだ一匹の蛍が飛んでいた。その頼りなげな光に揺羅はそっと指を伸ばした。あの日、父がしていたように。
御簾を掲げて背を向けた父に、姉女御を喪って泣いていた父の姿が重なり、お父さま、と呼び止めてしまいそうになるのを必死で抑えた。
その時の情景を思い出して喘ぐような息を小さく吐き出した揺羅は、ゆっくりと己が掌に視線を落とす。そこにまだうっすらと残る爪痕は、父との別れの時に無意識に手を握りしめていた名残だ。
並んだ爪痕をそっと撫でる。わずかに眉を寄せ、心に湧き上がる失望を打ち消そうとくちびるを噛む。
構わぬ。これまで通り、生きていけばいいのだ。ちい姫の成長をこれからも見守ることができる、それは嬉しいことではないか。自分を慰めようと、揺羅は必死にこの邸にいる理由を探す。そして、脳裏に浮かんだ一人の面影。
揺羅は思わず口を両の手で覆った。
父の背をなすすべもなく見送るしかなかったあの瞬間、揺羅の視界の端にまっすぐにこちらを見る瞳が閃くように見えた気がした。
息が止まるかと思った。
ただ、そこで父を見送るために待っていたのであろう宰相の視線が、それでもはっきりと御簾の陰にいる揺羅の方に向けられているように思え、視線が強く交わされたようにも感じられたのだ。
……きっと、揺羅の勘違いだろう。再び篝火が焚かれた庭は煌々と明るく、暗い対屋のうちにいる揺羅の姿など、宰相に見えようはずはないのだから。
それでも、と心が抗う。基冬が纏った、光を放つように白の透ける二藍の衣の涼しげな美しさも揺羅の目に焼きついていた。その姿を思い浮かべ、ならぬと首を振り、そうしてまたあの瞳を思い出す。そんな逡巡を繰り返す己の心の浅ましさに気づき、揺羅は落ち着かぬ心地で胸元を押さえて邪念を追い払おうと躍起になった。
そういえば、相変わらず派手やかな紅の強い二藍を着て、一人で酒を口にしていた夫の姿はいつの間にか宴から消えていた。父は、夫と何か話したのだろうか?
否、そのようなことはもう、どうでもいい。
たとえ父があの夫に何かを言おうとも、もう二人の関係が変わるとは到底思えぬ。そして何より、今この瞬間まで春恒のことなど気にも留めていなかったことに、揺羅は思わず失笑した。
夫? 夫と呼べるのだろうか、このような関係でも。
このような関係でも、わたくしはこれからもずっと「光中将の妻」として生きていかねばならぬのだろうか。
己の人生を己の手で選ぶことができぬ、それがこの世の定めであるのなら、それはなんと理不尽なのだろう。
そんなことを考えた時だった。
「……もし」
ほとほと、と妻戸が鳴って、東の対へ渡る渡殿と繋がる戸の向こうで声がした。
「夜分遅くに申し訳ございませぬ。泊瀬どの?」
夫の母の腹心の女房である安芸の声だ。
御帳台のうちで褥を整えていた泊瀬が怪訝な表情で顔を覗かせ、窺うように揺羅の方を見る。
「早う」
揺羅は促すように囁いた。
泊瀬が暗がりに沈んだ妻戸をそっと開け、わずかにさし込んだ明かりが対屋の板の上に細くて長い線を描く。
泊瀬と安芸の間で交わされる声が細い隙間から聞こえるものの、何を話しているのかまでは聞こえなかった。
相変わらず対屋のうちをさ迷う蛍がまた、揺羅の傍らを横切る。泊瀬の用意してくれた白湯を口にすると、揺羅はそっと立ち上がり蛍を追った。ふわりふわりと心許なげに飛び惑う蛍を白撫子の袖口にそっと捕らえると、そのまま蔀の向こうの夜闇に放してやった。
飛び去る蛍を見送っていると、ひそめた二人の話し声が簀子を吹く風に乗って途切れ途切れに届くことに気づいた。
「……その者は今、どこに?」
「……明日の朝……」
「御方さまが……」
揺羅は耳をそばだてて話を追おうとしたが、よく聞こえない。
やがて話し声は途絶え、こと、と戸が閉まる音がして、さし込んだ光が消えた。
半蔀のそばに立ったまま振り返った揺羅の目に、暗がりの中の泊瀬の影がどこか空恐ろしい気配を纏っているように見えた。不安にかられ、泊瀬、と呼びかける。
戻ってきた泊瀬の姿を大殿油の灯が照らし出し、揺羅はほ、と安堵の息をついた。それでも、その顔がどこかこわばっているように見えて心がざわめく。
「泊瀬? どうしたの?」
揺羅の問いかけに、泊瀬は引きつったような視線を上げる。だが、その目が主人の姿を捉えた瞬間、纏っていた昏い気配を払うように微笑んだ。
「姫さま、東の御方さまよりこれをいただきましたよ」
手にした小籠を上げて見せる。そこに入れられているのは、色づき始めたばかりの青い梅の実だ。
「とても良い香りがいたします。宰相さまのお邸のものだそうでございますよ」
揺羅は眉をひそめて泊瀬の方へ寄ると、その顔を覗き込んだ。
「何があったの? 安芸は何と?」
「……明日の朝、東の御方さまがこちらに参られる、と」
「明日の朝? なぜ?」
「さあ、そこまでは何も」
そう答えながら視線を逸らした泊瀬は、それ以上何も言おうとはしなかった。
揺羅ももっと尋ねたいことがあったけれど、言葉を呑み込んで、小籠の中の梅の実にそっと手を伸ばした。酔った頭に清涼を届けてくれる爽やかな香りがする。
「宰相さまがお住まいであられるお邸の梅の木に、成った実だそうです」
「お邸は確か、白梅邸と」
夫の母やちい姫がいつか話してくれた、珍しい白梅ばかりが集められた庭がある、と。
手にした梅の実に顔を近づける。
「良い香りだこと」
揺羅はそう呟き、幾度もその香りを味わった。
「……明日、お義母さまが何のご用事でいらっしゃるのかは分からないのね?」
揺羅に重ねてそう問われ、泊瀬はまた視線を落とした。言おうか言うまいか迷うそぶりを見せたあと、観念したように口を開く。
「誰ぞお邸に参られたようでございます。そのことで、御方さまからお話がある、と」
「お客人が? 宴のではなく?」
「詳しいことは存じませぬ」
「……なぜ、その者のことでわたくしに?」
揺羅は泊瀬の答えを待つことなく、また半蔀の方に向かった。これ以上泊瀬を問い詰めても仕方ない。
「良い香りだから、梅は御帳台の中に」
「承知いたしました、枕辺に置いておきましょう」
泊瀬はどこかほっとしたように頷くと、静かに御帳台へと消えた。
邸に現れたのはいったい誰なのだろう。お義母さまはいったい、わたくしに何の話があるというのだろうか。
その者がまた新たな問題を持ち込んだのではないか。揺羅は半ば諦めとともにそう確信していた。きっとそうだ。また、明日には新たな悩みごとが増えるのだろう。
梅の実を手に持ったまま、揺羅は息をついて半蔀から身を覗かせる。
宴の後片づけも大方終わり、静けさを取り戻しつつあるようだ。時折、蛍の淡い光が糸を引くように通り過ぎていく。
思い出したように吹く弱い風が、わずかな雨の匂いを孕んで纏わりついてくることに気づいた。そういえば、もうじき雨の時季だ。悩みごとに満たされたこの邸に来て、幾度めの季節だろうか。
「泊瀬、そろそろ蔀を───」
蛍の軌跡を目で追いながら言いかけたその時だった。
壺の向こう、東の対と寝殿とを繋ぐ渡殿のあたりから淡い二藍を纏った基冬の姿が一瞬現れ、そうしてそのまま東の対屋に消えるのを見た。
その瞬間、揺羅の心の臓は滑稽なほどに弾んだ。
思わず、袖で口元を覆う。ほんの一瞬、その姿を目にしただけで他のすべてを忘れ、平静ではいられなくなる己に気づく。今はもう姿も見えぬというのに、こちらのことになど気づいてもおらぬというのに、ついさっきまで父のことや明日のことで憂鬱だったはずの揺羅の心は浅ましく基冬の面影を追い求め、彼の男のことでいっぱいになる。
そんな自分自身に戸惑い呆れ、揺羅ははたと蔀戸に背を向けてぎゅっと目を瞑った。
胸に抱くことすら許されぬはずの想いが、己の意思とは関係なく、止めることもできぬほどの力で溢れ出ようとするのを、揺羅は必死に抑え込む。
胸元で握りしめた手のうちにある実梅が、なだめるようにかぐわしい香りを放っていた。
曹司
寝殿造の対屋を結ぶ渡殿に作られた小さな部屋のこと。
主に邸に勤める女房たちの私室として使われました。