三十一 再会
皐月朔日、月のない夜を迎えた一条高倉の邸に明々と松明が灯されていた。
蛍を愛でるためと謳われた宴にそぐわぬ明るさが、古めかしく威厳のある邸を闇の中に浮かび上がらせ、遣水の流れる東や東北の対屋の柱影に忙しく立ち働く女房や家人が行き来する。
そのざわめきは、対屋の奥でちい姫と過ごす揺羅の許にも届いていた。
「小丸。こ、ま、る」
淡い灯火を片頬に受けたちい姫が、萌黄の衣にうずもれるようにしどけなく寝そべり、頬づえをついて、床に置かれた小さな竹籠の中の山雀を覗き込みながら呼びかける。山雀は眠いのか、時々思い出したように、ぴ、とだけ返事をしていた。
「ちい姫さま、小丸はもう眠る刻よ。静かにしてあげなくては」
揺羅にそう言われて、ちい姫はしぶしぶ身を起こし、竹籠に布をかけた。
「ねえ揺羅さま、小丸はもうおとなになってしまった?」
揺羅は小さく首を傾げ、それからやわらかく微笑んだ。
「もう、ちい姫さまより大きくなってしまったかもしれないわね。ちい姫さまと違って、お寝みの時間もちゃんと守れるようですし」
あ、という表情でちい姫は御簾の向こうを見る。闇夜にぽつんぽつんと灯された明かりが浮かび上がる様子を見て、ちい姫はようやく刻を意識したようだった。幼い姫君に、宴への参加は許されてはいない。
可愛らしく頬を膨らませ、それでもちい姫は素直に師でもある揺羅に頭を下げる。
「揺羅さま、ありがとう。また明日参ります」
「今日もよう励まれました。また明日、お待ちしておりますよ」
揺羅は微笑んでそう言うと、ほら、と背に隠してあった小さな紗の袋をちい姫に差し出した。中には、何匹もの蛍が淡い光を放っている。
ちい姫は息を呑んで顔を輝かせた。
「東の対まで、この明かりがちい姫さまを照らしてくれるでしょう」
「すてき、すてき! 揺羅さまが作ってくださったの?」
「是親どのが捕らえてきてくれたのですよ。眠る前には放してあげましょうね」
揺羅は諭すようにそう言うと、ちい姫の頬をそっと撫でて微笑んだ。
「ね?」
ちい姫はぱちぱちと瞬きを繰り返し、それから少しくちびるを尖らせつつ頷いた。
つい、と寄ってきた鈍を纏う小宰相が、ざわりと衣擦れの音をさせてちい姫の肩を抱く。
「さあ、姫君さま」
名残り惜しげに揺羅に背を向けたちい姫が、ふと思い出したように振り返り、小宰相の手を払い除けて尋ねた。
「揺羅さま、今日もお父さまへの御文はないの?」
不意の問いかけに揺羅は、ま……、と零して絶句した。無邪気な問いに、なぜか頬に血がのぼる。
春恒との言い争いを仲裁してもらった翌日、告げることもできなかった礼の言葉を文に綴り、ちい姫が父に宛てて書く毎日の文とともに託した。もちろん、基冬からの返信はなく、それは揺羅の心を安堵させ、そしてわずかに落胆もさせた。朧げに自覚した宰相へと向かう想いは、あの日以来、揺羅の胸のうちに燻り続けたままだ。
「なぜ? 宰相さまに御文など……」
掠れた声で取り繕うようにそう答えた揺羅を見て、ただ文遣いすることを楽しんでいるだけのちい姫は、他意もなく大仰にため息をついた。
「つまんない」
そんな姫君の背を促すようにそっと押した小宰相は、わずかに揺羅の方を振り向いて小さく会釈し足早にその場を後にする。その小宰相の揺羅に向ける目はやはり、どこまでもきつく冷ややかなのだった。
東の対屋へと戻るふたりを見送った揺羅は、小さく吐息をついて視線を落とす。
夫の兄に文を送ったことを小宰相に知られてしまった。ただ礼を綴った文なのだ、なんのやましいこともない。にもかかわらず、どこか気まずい気分になるのはなぜだろう。
さまざまな物思いが重なって、あれだけ望んだ父との再会を前に揺羅の気分はまったく晴れなかった。
姉のものであった白撫子*の、袖口の色の重なりをそっと指で辿る。夜の宴に映える色目の袿を、と泊瀬が出してきてくれたものだ。本来、姉女御が今上の御前で纏っているはずであった衣。姉を越える歳となった今、蛍舞う宵にこの衣を作らせた父の前でその衣を纏って見せることにすら、揺羅の心は竦み怯える。
何もかもを見透かされてしまうかもしれぬ。
今まであえて伝えてこなかったこと───安心させるためについていた嘘、この高倉の邸で己の置かれている立場、そして、決して幸せではなかった日々。
それらをすべて、あの優しかった父に知られてしまうのは、揺羅にとっては辛いことだ。
それでもきっと、話さねばならぬ。これ以上、心が朽ちてしまう前に。
「……姫さま」
揺羅の背に、泊瀬がそっと声をかけた。
「大殿さまがお着き遊ばしたそうにございます」
揺羅は振り返ることなく、ただ、どこか悲壮な面持ちでついと視線を上げると、まっすぐに前を見つめた。
*****
六年ぶりに会った父は、揺羅が思っていたほどに大きな人ではなく、そして、揺羅が思っていたほどに年老いてもなかった。
「久しいな。息災にしていたか」
満面の笑みを浮かべ、問うてきたその声だけが、揺羅の記憶と寸分違わぬものであった。
御簾のうちに招き入れられた左大臣は、勧められた揺羅のすぐ傍らの円座を少し離れたところへと動かすと、ゆっくりと腰を下ろした。ふわりと届く懐かしい父の匂いは、抱きしめる腕のぬくもりと耳をくすぐるように名を呼ぶ声を引き連れ、揺羅を過去へと攫う。あの、何も知らずに幸せだった時へと。
はい、と返事をした揺羅は、もう胸がいっぱいになって父の顔をまっすぐに見ることもできず、瞳を伏せて次の言葉を待った。
父もまた、会えぬ間にすっかり成長した娘にどう声をかけるべきか、考えあぐねているようだ。
「しばらく会わぬ間に大きゅうなったな。どうだ、ここでの暮らしは?」
そう尋ねる父を、揺羅はそっと視線を上げて見た。まっすぐにこちらを見る父の瞳の前では、恐らく何をどう取り繕ってもきっと無意味なのだろう。
「……痩せたか?」
また、父が呟いた。
揺羅はその口許になんとか小さく笑みを浮かべ、初めて口を開いた。
「もう十六になりました、お父さま」
そう言った瞬間、予期せぬ涙が揺羅の瞳から溢れ出る。
「お久しゅうございます。お会いしとうございました」
うん、と父が唸るような声で頷くのを見る前に、揺羅は床に額をつけるほど深々と頭を下げた。父に涙は見せたくなかったから。
「中将は……おらぬのか?」
顔を伏せたままの揺羅の耳に、どこか戸惑ったような父の言葉が届き、揺羅はくちびるを噛んだ。
息を整え、顔を上げる。娘を見る父の視線がどこか訝しげに歪んでいた。
揺羅は覚悟を決めて口を開く。
「殿は西の対においでかと。……実は───」
「おおそうか。ならば、宴で会えるであろうな」
左大臣は、揺羅の言葉を最後まで聞くことなく、どこか安堵したように明るくそう言うと、娘に置いていた視線を室礼へと動かした。
揺羅は対屋を見回す父を前に、口から出かかった言葉を呑み込む。
「ここに住もうてもう、六年になるか」
「……はい」
「そなたの母もずっと案じておる。揺羅はどうしているかと」
「お母さまもお元気でいらっしゃいましょうか?」
「文にあるとおり、相変わらずじゃ。相変わらず、花など愛でながらゆるりと過ごしておる」
「それは……ようございました」
戸惑いとともに頷く揺羅の心が、俄かにざわめき始める。
なんであろう、どうにも居心地の悪い会話が続く。この調子ではうわべだけの話しかできぬ。話したいこと、訴えたいことは山とあるのに。
揺羅は無意識にぎゅっと袖口を握りしめ、重なる色の移ろいに視線を落とした。そのことに気づいた左大臣がぽそりと問うた。
「その袿は、女御の?」
「……はい」
「そうか、女御の」
左大臣はそう呟くなり、先ほどとは違う、どこか遠い目をして揺羅を見た。まるで、揺羅を通して姉姫を見ているかのような、そんな視線だった。
揺羅のくちびるが、意に反してかすかに震えた。
お父さまは、お姉さまの死を未だ受け入れてはおられぬのだ───そう直感する。
揺羅にとっては唯一の存在である父。大好きな父に会える日を心待ちにしていた。だが、父にとってはどうだったのだろう。
揺羅は二人いた娘のうちの一人でしかない。しかも、姉は左大臣家のすべての期待を背負って育ちながら、不幸にも中宮に立つ直前で世を去らねばならなかった帝の寵姫である。
そう思い至った瞬間、揺羅は思わず息を呑んだ。
幼い頃には気づいていなかった、己の存在の軽さ。父にとって、ひいては左大臣家にとって、一族にとっての揺羅の存在。それは、女御として東宮まであげた姉とは比ぶべくもない。
父の視線ひとつでそれを見せつけられたような、そんな感覚に揺羅は動揺する。
揺羅は、つい先ほどまで父に訴えるつもりだったこの六年間の辛い日々について、どう切り出せばいいのか分からなくなってしまった。なぜ揺羅が幼い時分にこの高倉に来なければならなかったのか、父はそのような話をしたくてここに来たのではないのだろう。ただ、六年という長い年月会うことすら叶わなかった娘に会い、その成長を確かめたかっただけなのだ、きっと。
揺羅の心の揺れに気づいているのかおらぬのか、左大臣はどこか落ち着かない調子で円座に座り直した。
「どことのう、我が邸と同じ気配を感じると思うたが、この香かな」
小さく咳払いし、そう言いながら鼻を動かした左大臣は娘に微笑みかけた。
「そなたらしい、なかなか良い薫りじゃ。あの、我が家に伝わる伽羅を使うておるのか。足りぬようならまた届けよう」
「お父さま、実は───」
「書もよう読んでおるようだな、結構結構。今日もいくらか持ってきてあるゆえ」
文机の傍に積まれた書を見ながら頷く父に、揺羅がいくら言葉を挟もうとしても無理だった。話すきっかけを掴むことすらできない、こんな対面は予想だにしていなかった。
「そなたからの文を見て、父はいつも安堵しておる。家を離れて寂しいこともあったであろうが、日々、よう暮らしているのだなと、頼もしく思うておった」
「……」
「先日、右大臣の御方からも丁寧な文をいただいてな。それを読んで、そなたがここにいる限り、父は安心していてよいのだと積年の憂いも晴れた心地じゃ」
「お義母さまから?」
いったい、どのような御文を送られたのだろう?
「お父さま、あの……」
「さて、ここにあまり長居してもようない。また後ほど、宴でゆるりと、な」
左大臣はそう言い置いて、どこか追われるようにそそくさと東北の対屋を出て行こうとする。
「お父さま……!」
揺羅は思わず声をあげて呼びかけた。
その声に足を止め、ゆっくりと振り返った左大臣は、じっと揺羅を見下ろした。その視線は先ほどとは違い、はっきりと揺羅自身を捉えていた。
「もはやそなたは、わたしの大切な……ただ一人の姫じゃ。それだけは忘れるでない」
その言葉を娘に伝える父の目は、わずかに歪んでいるようにも見えた。けれど、揺羅が何かを尋ねるよりも先にゆっくりと背を向けた左大臣はもはや何も言うことなく、一歩一歩踏みしめるようにして対屋を出て行ってしまった。遠ざかる背の向こう、妻戸の外で控えていた泊瀬から気遣うように向けられた視線が一瞬、視界の端をよぎった。
こんなはずではなかったのに。揺羅は震える息を吐き出した。
閉じられた妻戸の向こうから、泊瀬にかける父の声が聞こえてくる。やがてその声も遠ざかると、独りぼっちになった対屋で揺羅は力が抜けたように座りこんだ。
噛んで含めるような、または自身に言い聞かせるかのような父の最後の言葉が、混乱した揺羅の脳裏に幾度も繰り返される。
今日、父との対面で分かったことはただひとつ。揺羅はこれからも高倉邸で、これまで通りの日々を送らねばならぬのだということ。
すべての気力が抜け落ちていくような、目の前が暗くなるような感覚に、揺羅は思わず床に手をついた。対屋に満ちる気配は、これまでのどんな時よりも重く揺羅にのしかかった。
*****
右大臣家の蛍の宴は、あえて寝殿ではなく遣水の流れる東の対の広廂で催された。
大臣家の宴でありながら招かれた人もごくわずか、大がかりな舞台なども見当たらぬささやかな宴は、北の方の意向に沿ったそれでも趣にあふれるものとなっていた。
そもそも、右大臣家の宴に左大臣が招かれるなど、これまでなかったことだ。それもすべて今上の御代の安寧ゆえであり、そして、その両家を繋ぎ止める鎹とも言える存在が他の誰でもない己であることを、揺羅は宴が始まってすぐに悟った。
驚いたことに、この日ばかりは夫である春恒も宴に姿を見せた。揺羅や東の御方など女君ばかりが集う御簾のうちからは離れた廂の勾欄に凭れかかり、いかにもつまらなさそうな表情を見せつつも、一応は宴に参加していたのだ。
あの日以来一度とて顔を合わせたことのない夫を、揺羅は御簾のうちからそっと見遣った。
紅の勝った二藍の衣を纏い、物憂げな瞳を庭に向けるその横顔はやはり美しい。なのに、その美しさにすら嫌悪を覚え、揺羅は思わず扇を高く上げて視線を逸らした。
篝火が、飛び交う蛍の光を呑み込んで明々と燃えている。ごく身内の者だけを集めた小さな宴であれば特に大がかりな楽も用意されてはおらず、時折気の向いた者が手すさびのように楽器を奏でるだけで、今はそこここで語らう人々のさざめくようなざわめきが邸を満たしていた。今日の宴の趣向はおおよそ聞いているものの、今はそばに誰もいない揺羅はぽっかりと空いた空間に独りぼっちでいるような気分になり、どうしても先ほどの父との対面を思い出してしまう。
あの最後の言葉。父は何を伝えたかったのだろう。揺羅の弱音をあえて拒絶するかのような対応をしておきながら、そなたはわたしのただ一人の姫と、あたかも大切に思うているという言葉を残したのにはどういう意味があるのか。
また宴の時にと言っておきながら、左大臣は一向に揺羅の許にはやってこない。父の影にひそりと座る兄も同じくだ。落胆を隠せず御簾越しにその様子をぼんやりと見ていると、やにわに立ち上がった父が夫の許へ行くのが見えた。揺羅は思わず扇を下ろし、少し覗き込むように二人の様子を見守る。
左大臣と春恒はわずかな言葉を交わしたようだったが、二人の間に親密な空気はなかった。やがてそれほどの時を経ずに左大臣がその場を離れると、春恒はまた憮然とした表情で酒を口にし始める。
揺羅は思わず吐息をついた。
何かを変えることができるやも、というような期待を持ったのが間違いだったのだ。揺羅を待っているのは、右大臣家で続く、これからも変わらぬ日々。
ふい、と夫から目を逸らした揺羅は、すぐ近くに右大臣の北の方がいざって来たのに気づき、慌てて取り繕うように口元に笑みを浮かべた。
「お疲れかしら? 宴ももうじきお開きですけれど。最後にきっとあなたも驚くことを準備してあるのよ」
北の方は衵扇で口元を隠し、どこか悪戯っぽく声をひそめて揺羅に言うと、そっと揺羅の背に手を遣った。
「お父君と久方ぶりに会われたのでしょう? さぞお喜びだったのでは? ずっとご心配でいらしたでしょうから」
北の方にそう言われて、揺羅は答えに困った。果たして、お父さまは喜んでおられただろうか? ずっと心配しておられたのだろうか?
揺羅にはなんとも答えようがなくて、言葉を探す。
「……このような場を設けてくださり、感謝いたしております。久々にお義母さまの箏の琴を聴くこともできて、嬉しゅうございました」
揺羅がそう話を逸らすと、北の方はそれ以上尋ねることもせずに小さく微笑んだ。
「宮さまのことがありましたからね、楽器を出すことも憚られて触ってもいなかったの。恥ずかしいわ」
「とんでもございませぬ、まこと素晴らしゅうございました。わたくしは楽器は苦手で」
「あら、そうなの? いえ……あなたならばそのようなことはないでしょう。ぜひまた聴かせてちょうだい」
北の方がそっと揺羅の顔を覗き込んだその時、細い笛の音がざわめきを縫うように鳴り始め、北の方は何かに気づいたような表情でそちらを見遣りながら揺羅の袖を引いた。
「ほら、もうすぐ始まりますよ」
遣水の流れるあたりを目くばせし、北の方がひそめた声で囁く。
「あなたから、大臣と蛍のお話を伺ったでしょう? ほら、女御さまの記憶……」
姉が亡くなった日、女御と御子の魂かと蛍を追っていた父の姿。
「それを思い出してしまうようなことはすべきではないと、宰相とも相談をして。是親がずいぶんと苦労してくれたようですよ」
凛とした笛の音が響く中、ふふ、と北の方は口元を袖で覆いながら笑って言った。
誰の音なのか、どこから聴こえてくるのかも分からぬ冴え渡った最後の高音が、まるで龍が夜闇に吸い込まれていくかのように立ち昇り消えたその瞬間、庭や壺を照らしていた篝火もまた、すべてがふっと消えた。
驚く人々のざわめきが闇に吸い込まれると、やがて満ちた沈黙の奥からかすかな夏虫の音が湧き出し、その音に誘われるように線を引く蛍の光がひとつ、ふたつ……いったいどのような仕掛けなのか、どこからともなく数えきれぬほどの蛍火が東の対の広廂に現れて、あたり一面を一瞬で幽玄の世界へと変えた。
驚きとも感嘆とも取れるため息があちこちからあがる。
揺羅もまた、北の方にそっと背を押され、御簾の際まで寄ると薄く隙間を開けてその光景を見、そして言葉を失った。
なんという美しさだろうか。
光の飛び交うさまを半ば茫然と見つめていた揺羅の目から、思いもよらず涙が溢れ出る。
これが、右大臣の北の方と宰相の用意した宴の趣向であったとは。
姉女御の死の直後、たった二匹の蛍を追いかけ、絶望の中で悔いていた父左大臣への慰めに、その記憶をあたたかなものへと塗り替える蛍の光景を作ってくれたのだ。二つの魂は決して孤独ではないのだと左大臣や揺羅に伝えるための、血のかよった心遣いだ。
思わず息を呑んで両の手で口元を覆った揺羅の頬を、また涙が伝い落ちた。もう孤独ではないのだ───もしかすると、わたくしもまた。
あたたかな光の乱舞が涙で滲む。だから、揺羅はまったく気づいていなかった。
勾欄のそばでひとり座っていた夫の許に、慌てふためいた様子の従者の俊行がやって来て何ごとかを囁き、弾かれたように立ち上がった主人を宴のさなか、挨拶もないまま西の対へと連れ戻っていったことを。
白撫子の襲
白〜紅〜青(今の緑)の濃淡〜白の襲。
(白撫子。表皆白くて、裏蘇芳・紅・紅梅・青き濃き薄き。白き、紅単、心ごころなり───『満佐須計装束抄』より)