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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
30/39

二十九 惑乱

 その時、小さな悲鳴にも似た叫びをあげて胸に飛びこんできた弟の妻をその背に庇った基冬もとふゆは、同時に脳裏に甦ってきた今は亡き妻の記憶に攫われた。


 ───嫌! 行かないで。どうして……なぜ?


 思わず足許をふらつかせた基冬は、喘ぐような息を洩らす。

 何が正しかった? 何を間違った?

 宮はまこと、心を開いておられなかったのか? わたしはあのひとのために、何ができただろう?



     *****



 是親これちかから受け取った匣を抱え、かれ時の庭から東の対に戻っていた基冬は、ちょうど半蔀はじとみを閉じていた母の腹心である女房を見かけて、その背に声をかけた。


安芸あき

「……若君?」


 最後の蔀が閉じてさらに薄暗くなった対屋のうちで思いもよらぬ声を聞いた安芸は、目を眇めて振り返った。


「お疲れでございましょうに、まだ白梅邸(あちら)にお戻りではなかったのですか?」


 御方さまもちい姫君も、もうおしずまりでございますよ、とひそめた声で囁く。

 母の寝所となっている御帳台をちらと見遣ったあと、基冬は黙って妻戸から壺の見える簀子すのこに出た。あとからそっとついてきた安芸が静かに妻戸を閉めると、基冬は釣燈籠の淡い光の下で抱えていた匣の蓋を開けて見せた。


「これと同等の品を急ぎ縫ってはくれぬか? 他に頼める者もおらぬゆえ」


 匣の中を覗き込んだ安芸は何を思ったか、どことなく弾んだ声をあげる。


「ま、まあまあ、若君……! 女君のきぬを用意せよなど」


 基冬は、母の腹心である古参の女房を窺うようにじっと見た。


「ようやくお心も少しばかり明るうおなり遊ばしたのですね。お任せくださいませ、お色や柄にご希望はございますか? 良いものをご用意───」

「違う、勘違いをするでない。そういう意味ではないのだ、ただ金目のものをと送るまでのこと。できるだけ同じ色目、同じ質のものを作ってくれればそれでよい」


 基冬がそう言った途端、まあ……と吐息のように零した安芸の顔は目に見えて曇った。


「そういうことでございましたら、左大将の姫君のために御方さまの作らせた衣が、もはや使うあてもなく塗籠にたんとございますよ。その中に同じようなお品もあるかと。明日にでも一度ご覧になられませ」


 落胆に声音まで一段低く、よそよそしくなった安芸に、基冬は構うことなく頷いた。


「これは預けるゆえ、似たものをいくつか見繕っておいてほしい」

「……承知いたしました」


 そう言いながら、淡い灯に浮かび上がるすべらかな藤色の衣にそっと触れた安芸は、無言で基冬の目を見返す。


「これは……どちらからのお品で?」

「恐らく、元は飛香舎ひぎょうしゃ*あたりのものであったと思う」


 ふう、と息をついて安芸は頷いた。


「左様でございましょうね。このようなお品……滅多にお目にかかれぬものでございますもの」


 安芸はそう言うと、蓋を閉じた匣をしっかとその胸に受け取った。


「さあ、これに見合うものがございますかどうか」


 安芸が思案げにそうこぼした時、基冬は安芸の背後に何らかの気配を感じてわずかに視線を揺らした。

 春恒はるつねだった。

 ふらふらとおぼつかぬ足取りで東北ひがしきたに向かうどこか尋常ではない弟の姿を、基冬は目の端に捉える。


「……どのような形でも構わぬゆえ、頼む」


 気もそぞろに安芸にそれだけを伝えると、安芸の承知いたしましたという言葉も待たずに、基冬は東北ひがしきたの対屋に消えた春恒の後を追った。

 春恒に気づいてもおらぬ安芸は、眉をひそめて基冬を見送る。


「……若君がこれからのことをどう考えておいでなのか、それが何より心配でございますよ」


 安芸は匣を抱え、基冬の遠ざかる背に独り言ちた。




 東北ひがしきたもまた、すでに蔀戸はすべて下ろされ、余所者を受けつけぬ頑なな気配を纏っていた。

 その瞬間まで、東北に向けて疑いなく歩を進めていた基冬は、たった今春恒が入っていった妻戸の前ではたを足を止めた。

 いったい、何をしている? 妻が住まう対屋を夫である春恒がおとなう、ただそれだけのことを見咎め、あまつさえ後を追ったりするとは……わたしは余所者に過ぎぬのに。

 深く息を吸い、その目を閉じる。

 冷静さを取り戻し、基冬は考えた。

 己には関わりのないことだ。たとえ、どれほど弟の様子がおかしかったのだとしても。先ほどのふらついた足取りも恐らく、単に酔っているに過ぎぬのだろう。

 心のざわめきを抑えこみ、ゆっくりと目を開く。どこかで郭公ほととぎすがなだめるように鳴いていた。

 胸のうちに溜まった緊張を追いやるように息を整え、くるりと踵を返す。そのままその場から離れるつもりだった。その時、妻に絡む弟の声がわずかに洩れ聞こえてさえこなければ。


「……そなたは人質のようなものだ、要は。左大臣家を守るため、我が右大臣家に差し出された、人質」


 基冬の足が止まり、ぴくりと視線が揺れる。

 人質?

 その場に居続けるべきかと躊躇いつつ、どうしてもそこを離れることができなくなった。妻を相手に、いったい何を話しているのか?


「わたしのような夫を持って、不幸極まりないとでも思っているのだろう?」


 春恒の言葉が続く。自虐的なふりで、その実、相手を確実に蝕んでいく言葉の毒が次々と吐き出されている。

 何を愚かな。ずっと、こうやって言葉で苛んできたのか。左大臣家からやって来た、歳の離れた北の方を。

 基冬は我知らず、きつく眉を寄せた。

 どうやら、もはや仲が悪いというような次元の問題ではないらしい。

 知らなかった、何も。知ろうとしなかった、誰も。弟の行いがこれほどのものだったとは。

 絶望的な心地がして、基冬は思わずその掌で口を覆った。

 たったひとつの言葉でさえ、人の心にどれほど鋭い刃となり得るかを知る基冬にとって、それは許容し難いことだ。湧き上がってきたやるせない怒りは盗み聞きの後ろめたさに勝り、足は一向に動こうとしなかった。

 ちい姫の師として接してきたこの対屋の主人あるじが見せる、どこまでも控えめで必要以上には語らぬその態度が実は本来のものではなく、春恒に長年与えられてきた恐怖によるものだったのだとしたら?

 基冬はふと、あることを思い出してのろりと瞼を上げた。


 ───なんと愛らしい姫が来てくれたことか、これで春恒の心も少しは明るさを取り戻してくれましょうぞ。


 かつて、左大臣家の姫がこの邸にやって来た時、母は確かにそのようなことを言っていた。愛らしい姫、快活な姫、と。

 いったい、春恒はどこまでくらい影を北の方の心に落としたのか。基冬がそんなことを考え、また小さな息をついた時だった。


「このまま囚われ、ここに朽ち果てる運命さだめの───」

「わたくしは、このまま朽ち果てるつもりなどございませぬ」


 春恒の馬鹿げた言葉を遮り、静かに、しかし毅然と反論する声を聞いた。基冬は、わずかな驚きとともに思わず妻戸を振り返る。

 失踪していた春恒が高倉に戻った日、西の対で目にした倒れ伏す弟の妻の姿はあまりにも頼りなく、しかしそれとは裏腹に、任せた幼い娘のたったひと月とは思えぬ成長ぶりには、いつも驚かされるばかりだった。高倉ここでの六年間は決して容易い日々ではなかっただろうに、いったい独りでどのような時を過ごしてこられたのかと、最近、幾度となくそのようなことを考えたりもしていたほどに。


「では、どうされるおつもりか? 左大臣家に戻るとでも? 無理であろう?」


 春恒の嘲るような声がする。


「そなたに何ができる?」


 娘の師でもある女人に対して弟がぶつけている言葉のひとつひとつに、基冬はもはや抑えようのない苛立ちと怒りが渦巻くのを感じていた。


「そなたは人質ゆえ、どう扱おうがこちらの自由。そうではないか?」


 衣が擦れる不穏なざわめきが対屋のうちから聞こえてきて、基冬は思わず妻戸に手をかける。


「おやめください。殿、どうか……嫌! 離して!」


 それまでの懇願とは違った悲鳴のような声が聞こえた瞬間、基冬は何かを考えるより先に対屋のうちに入ろうとした。

 だがしかし、それと同時に、脳裏にはもうひとつの声が響く。


 ───嫌! 行かないで……!


 基冬は息を呑み、ぎくりと足を止めた。

 宮? 思わず心のうちでそう呼びかけ、そこにいるはずもない高貴なひとを捜して振り返った。

 あたりはすっかり暗くなり、遠く聞こえる郭公ほととぎすの声のほかは、壺の端をかすめるように流れる遣水やりみずが、ここでの出来ごとになど関心はないとでも言いたげに涼しげな音を聞かせるのみ。

 あのひとはもうおらぬ。幻だ。基冬は小さく首を振り、ぎゅっと目を瞑る。


「そなたはどちらがお望みか? このままここで朽ち果てるか、それとも帝の───」


 帝、と口にした弟の声に引き戻された。

 さっき、確かに言っていた。新たな尚侍ないしのかみ()()()はすぐそばに、と。

 やはり、このまま捨て置いてはおけぬ。基冬はくちびるを引き結び、そっと妻戸を開けた。

 外と変わらぬ暗さの対屋に小さな灯がひとつ、心許なげに揺れるその傍で、春恒とその妻が対峙しているのがぼんやりと浮かび上がる。

 春恒に片方の手首を掴まれたまま、腰を抱かれるように引き寄せられたこの対屋の主人あるじが、なんとかその腕から逃れようと身をよじりながら夫を押し戻そうとしているところだった。だが、春恒はまるで幼子の戯れでも見ているかのように、小馬鹿にしたような薄い笑いを浮かべるばかりだ。


「わたくしはもう、殿の……」


 揺羅ゆらが絞り出すように何かを言おうとしたその時、基冬もまた、考えるより先に声をあげていた。


「春恒!」


 はっ、と先に基冬を見たのは揺羅だった。

 その瞬間、暗がりでも視線が合ったのが分かった。いつだったか、邪気のないちい姫のおこないで御簾が煽られて図らずも互いの姿を見てしまった、あの時よりもなおはっきりとその姿を見た気がした。

 揺羅に続いてのろりと春恒が兄を見るより早く、夫の手を振りほどいてその胸を押し戻し、助けを求めるように揺羅が基冬の許へと駆け寄ってくる。基冬もまた、何を考えるよりも先に揺羅を受け止め背に庇った。

 後ろ手にその身体を押しとどめると、揺羅が震える息を零して、縋るように基冬の直衣を小さく掴むのを感じた。

 その瞬間、また萩の宮の声がする。


 ───嫌! 行かないで。どうして……なぜ?


 基冬はわずかにふらつき、それからごくりと喉元にあるかたまりのような何かを呑み込んだ。

 今、目の前で起こっている現実と己の脳裏に甦る過去とが交じり合い、基冬を混乱が襲う。

 なぜ? なぜとは?

 宮は、何を求めておられたのだろう。わたしはどうして、そのことを分かっていない?


「……兄上のご登場か。やはりな」


 直に聞こえた春恒の声で辛うじて幻を払い除けると、基冬は絞り出すように言った。


「そなた、酔うておるのか?」


 訝しげに目を細めた春恒がこちらに一歩踏み出すと、背中にいる揺羅の手がびくりと震え、なお強く基冬の衣を掴んだ。

 背に感じる気配にまた意識が攫われる。 

 誰よりも気位の高いひとがしがみつくように己に取り縋ってきた、あの時。涙を零し、うわ言のようになぜ、なぜ、と呟きながら触れてきた指の、その冷たさ。

 くらり、と頭が揺れる。浅い息を吐く。今は過去に引きずられている時ではない。


「酔うていますよ、今日は疲れましたのでね」


 投げやりにそう言いながら兄の背後を窺うそぶりを見せた春恒を、基冬は真正面から見据えた。


「二人に何があったかは知らぬが、かような狼藉は到底見逃せぬ。酔うているからとて許されるものではなかろう」

「狼藉?」


 そう繰り返して鼻で笑った春恒は、どこか焦点の合わぬ目で暗がりを見回した。


「狼藉とは何のことやら。兄上、ここは私の()の対屋ですよ? 兄上こそ、ここで何をしておられる?」

「……」


 痛いところを突かれて一瞬口ごもった基冬に、春恒はまたくくっと笑った。


「ああ……畏れ多くも帝の御名が出て、慌てて入ってこられたわけか。盗み聞きはよくないですね」

「……」

「ねえ兄上、さっきも申したではないですか。帝にお仕えするこの身であれば、妻を───」

「黙れ!」


 基冬は思わず語気を強めた。


「それ以上申せば、この兄が許さぬ」

「なぜですか? 今や、誰よりもふさわしい者でありましょうに」


 基冬は、そっと背後の様子を窺った。

 片方の手で今もなお基冬の衣を握りしめたまま、反対の袖で顔を覆いうつむいている。

 この聡明な女人は今、夫の吐く言葉の意味を正しく理解しただろう。妻を手駒として利用するという浅ましい話を聞かされ、どんな思いだろうか。

 春恒の言葉のどこまでが本心でどこまでが詭弁なのか、もはや基冬には分からなかった。ただ、亡き女御の妹姫を身代わりのように帝に差し出すことを左大臣が避けたかったのは明らかで、そのことを理解する気のない春恒が婚姻相手だったことは不幸だというしかない。

 ますます酔いが回ってきたのか、ふらついた春恒がまた一人でくくくと笑っている。基冬は弟に呆れたような視線を向けつつ、ため息をついた。


「……とにかく、そなたは西へ戻れ」


 基冬の言葉に春恒は足を止め、じっと兄を見た。


「なぜです? ここは───」

「戻るのだ!」


 兄が滅多に聞かせぬ怒声に、春恒も鼻白んだような顔をして口を噤んだ。


「 ……戻りなさい。明日もまた、早うから参内せねばならぬのだろう?」


 最後は噛んで含めるように説きふせられ、春恒はどこか焦点の定まらぬ視線を彷徨わせる。


「春恒」


 瞼の下がったぼんやりした目で基冬の背後を覗き込むようなそぶりを見せた春恒に、基冬は促すようにもう一度呼びかける。

 春恒は、まじまじと兄を見ながら尋ねた。


「兄上は、この()が帝の許に上がることに何か不都合が?」


 なおもどこか呂律のまわらぬ調子で、しかし、はっきりと問うてきたその言葉に、揺羅がかすかに身じろぐのを感じた。

 春恒は本気だ。本気で、北の方を帝に差し出してもいいと考えている。


「答える価値もない。いい加減にせよ」


 そう言い放った基冬は、時に冷酷なと揶揄されることさえある眼差しを弟に向けた。

 春恒は大きくひとつ、息をついた。そしてそれ以上はもう何も言わず、わずかに酒の匂いを残しながら、基冬と揺羅の傍を掠めるようにふらつく足取りで妻戸から出て行った。

 春恒の気配が透渡殿すきわたどのから遠ざかるや、すぐさま、姫さま……! と駆け寄ってきたのは、この対屋の主人の女房である泊瀬はつせだ。

 騒ぎに気づき、言い争いの途中から息をひそめ様子を窺っていたらしい泊瀬は、すぐに参れず申し訳ございませぬ、と涙声で謝りながら二人の前でひれ伏した。それと同時に緊張の糸が切れたのか、揺羅の身体がふわりと傾ぐ。

 背を向けたままだった基冬は、己の衣を握りしめていた揺羅の手からふっと力が抜けたことに気づいて咄嗟にその身体を抱きとめた。また、泊瀬の悲鳴が飛んだ。

 思いがけず基冬の腕にしがみつくような形になった揺羅から、あ……、と吐息のような声が零れる。慌てて袖で顔を覆う揺羅を目の端に捉えながら、しかしその瞬間、基冬が見たのはやはり目の前の出来ごとではなく、あの日の記憶だ。

 腕の中に揺羅の確かな存在を感じながら、心は亡き妻の面影に囚われた。

 心を律することもままならず、己のうちにある混乱を吐き出そうとするかのように一度、はっ、と息をついた基冬は、突き放すように揺羅の身体を手放し、視線を逸らす。


「中将の言うとおりだ。不躾なことをしました、どうかお許しを」


 よそよそしく背を向けてそう言った基冬に、泊瀬の手に支えられた揺羅が首を振った。


「いいえ! ……いいえ、宰相さまがいらしてくださらなければ、どうなっておりましたことか……」


 消え入るような声で伝えられた感謝の意は、しかし、もう基冬の耳には入らなかった。

 ただ、萩の宮の気配だけに取り囲まれているかのような心地がして、こわばった表情で小さく一礼した基冬は、揺羅の方を見ることもせぬまま足早に対屋を立ち去る。まるで、ここにいると息ができぬとでもいうように。

 いきなりその場に独り取り残された揺羅が送る心許ない視線も、今の基冬には届かぬままだった。

飛香舎

内裏にある後宮 七殿五舎のうちのひとつで、庭に藤が植えられていることから藤壺とも呼ばれます。格の高い殿舎のひとつ。

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