三 薄明
「姫さま、北の方さまがおいで遊ばすそうです」
泊瀬の声に、揺羅は手にした筆を置いて顔を上げた。切燈台*の灯を片頬に受けて、睫毛の影が長く伸びる。
気が向けば左大臣家に宛てて文を書くのも、この高倉邸に来てからずっと続けている習慣だ。鶯の声を聞きました、蛍が飛びました、初雪でしたね、と、そのような他愛もない日々の出来ごとを綴り届けさせる。父や母からも同じような文が返って来る、たったそれだけの遣り取りが邸に来てからのこの六年、ただの一度も父母に会えていない揺羅の心の支えともなっていた。
時には、内裏で春恒に会ったというようなことが書かれてくることもある。揺羅はそんな時、殿からも伺っておりますとささやかな嘘を書く。
二人の間には会話らしい会話すらないことを、揺羅は父母に伝えていない。そんなことをすれば、あの揺羅大事の父がどんなことを言い出すか分かったものではないから。それでは、揺羅がこの邸に来た意味がなくなってしまう。耐え忍んできた六年の年月もまた。
母好みの継ぎ紙を文箱に収めて静かに蓋をすると、それを片づける泊瀬の背をぼんやりと目で追いながら、揺羅は思い出していた。
初めてこの邸にやって来た日、十の揺羅を見た女房たちの間から漣のように広がった、その幼さに対する驚きと、あれが光少将の北の方かという妬心の混ざった静かな嘲笑。それがどのような意味かまでは分からずとも、悪意か善意かくらいは幼い揺羅にも判断はついた。
左大臣家で聞かされていたのとは違う敵意溢れたその雰囲気に、すでに揺羅は里心がついて情けないほどに足が震えたのを覚えている。
あまりにも残酷で、だけどそのことすら分からなかった初夜が過ぎて、なおざりな後朝*の文も陽が高くなってからようやく受け取ったあの時、動揺した東北の対屋を訪うてくれた北の方の穏やかな態度に、揺羅は母の気配を感じてようやく平静を取り戻したものだ。
何も言わず何を言われることもなく、それはただ儀礼的な対面の時に過ぎなかったけれど、それでも、この女は信じるに足る人物だと幼心にも思わせてくれる何かがあった。
以来、互いに顔を合わす機会は月に一度もないものの、揺羅は決してこの北の方が嫌いではない。ただ、春恒との関係がうまくいかず、子を望むことなど夢のまた夢という今の状況では申し訳のなさばかりが先に立ってしまい、六年が経った今も北の方との関係がうまく築けていないことが、揺羅をますます情けない気分にさせるのだ。
「……姫さま」
北の方さま参られました、と泊瀬が囁く。
静かな衣擦れの音がして、やがてその姿が見える前に梅花のかぐわしい香りが届いた。
伏して迎えた揺羅の前の茵にゆったりと腰を下ろした北の方は白梅を置くと、揺羅の顔を覗き込むように尋ねる。
「……ご機嫌はいかが?」
やわらかな声に、揺羅は視線を落としたまま答えた。
「ありがとう存じます、特に変わりなく」
余計な心配はかけたくないと考えれば自ずと言葉も堅苦しくなる。そんな揺羅をじっと思わしげに見つめていた北の方もまた、しばしの時を置いてふう、とため息を零した。
いつだって重苦しく、どこか陰鬱な雰囲気を湛えているこの東北の対を心地よく感じる者はおらぬだろう。いたたまれぬ気持ちにもなって顔を上げられぬ揺羅の耳に、ざわりと衣擦れが聞こえた。
「これを貴女にと思って」
そう言って北の方は置かれた白梅を、そ、と前に押した。
東北にある遅咲きとは違って、もうすでに七分ほど花の開いたその白梅から漂う香りに、揺羅もわずかに視線を上げる。
「……ありがとう存じます。美しゅうございますこと」
「基冬が持ってきたのです。たくさんあったので、貴女にも」
「宰相*さまが?」
思わぬ名を聞いて、揺羅は素直に驚いた。夫の兄とは、身内としては一度として顔を合わせたことがない。少々冷たい人物ではあるがその明晰な頭脳を認められている参議、と噂を聞いたことがあるくらいだ。近いようでどこまでも遠いその人のことを聞いて思わず顔を上げた揺羅に、北の方は頷いて見せた。
「ええ、そう。宰相の住まう邸……わたくしが育った邸なのですけれど、それは美事な白梅の古木がたくさんあって、ちょうど今の時期に咲くのです。白梅邸とも呼ばれているのよ。ここは、前の大臣が珍しさから集められた紅梅ばかりでしょう? たまには白梅もよろしいのでは?」
揺羅は小さく微笑んでまた視線を落とし、ふと考えた。
お義母さまはご存じなのであろうか、この東北の対に咲く白梅のことを。まるでわたくしのように孤独な、あの梅を。
「そう言えば」
口を噤んだ揺羅に、北の方は思い出したように言う。
「この東北の対にはね、かつて基冬が住もうていたのですよ」
「……そうなのですか?」
「ええ、貴女がこちらに来られるよりずっと前に、白梅邸の方に移ってしまったのですけれどね」
揺羅は思わず、対屋のうちを見回した。
ここにかつてその宰相が住まっていたのだと思うと、どこか不思議な心地がした。今は若い北の方らしい趣のあるこの対屋も、以前は違う雰囲気だったのだろうか。
そんなことを思っていると、不意に北の方から窺うような視線で尋ねられた。
「春恒からなんぞ聞きましたか?」
現実に引き戻された揺羅の視線がわずかに揺れた。やはりこのことであったかと、突然の訪いの意味を知る。
しばし考え、言葉を選びながら答えた。
「……はい、姫君が生まれたのだとか」
「それから?」
「殿は、こちらに引き取ることはせぬと」
「それから?」
北の方の問いに揺羅は、これ以上何を知りたいというのか、と北の方を見る。
心の中まで覗かれているかのような、そんな視線をまっすぐに受ければ息苦しさを覚え、逃げるように目を逸らした揺羅の耳に北の方の吐息が聞こえる。やはり何も知らぬのか、と、北の方はどこか憐れみにも似た気持ちで己を見ているのだろう。そう考えればますます心が竦んで、揺羅はもう何も言うことができなくなった。
突然夫の子の存在を知らされた揺羅の姿にかつての己を重ね見る、北の方の複雑な心がそこにあることなど、揺羅には伝わらぬままだ。
「……いえ、貴女が気にすることではないわ。所詮は取るに足らぬ者の生んだ御子」
北の方は、聞きようによっては冷酷とも思える言葉を、まるで己に言い聞かすかのように呟いた。それは裏を返せば、妹の生んだ春恒は北の方にとって取るに足らぬ者が生んだ子ではなかった、ということでもある。だけど、それも揺羅には知り得ぬこと。
取るに足らぬ者の生んだ子、というその言葉は、揺羅の心にも揺さぶりをかけた。
ならばなおさら、正妻であるわたくしが育てるべきではないか? たとえそれがどういう母を持っていようとも、春恒の子である限り、その子の将来には揺羅にも責任があるだろう。
「そうも参りませぬ、いずれはわたくしがこちらに……」
そう言いかけて、だけど揺羅は一瞬躊躇った。子を生み育てたこともない己に本当に育てることなどできるのか、そう春恒に言った言葉もまた本心。
逡巡する揺羅の様子をじっと窺っていた北の方は、茵を下りて揺羅ににじり寄った。
「……貴女のお気持ちも、今、何をお考えなのかも分かるつもりよ」
真心を込めてそう言うと、北の方はそっと揺羅の袖に手を添え、じっとその瞳を見つめた。
「よろしくて? これは、貴女が抱えるべき問題ではないの。ですから、今は忘れておしまいなさい」
揺羅は眉をひそめて問い返す。
「忘れる?」
「そう、忘れるの。貴女がこのことで思い悩む必要はまったくない」
「でも……」
なおも言い募る揺羅に、北の方はゆっくりとした瞬きとともに一度大きく頷いて、それ以上続きを言わせようとしなかった。
戸惑ったように首を傾げた揺羅も、なだめるような北の方の瞳の前に釈然とはせぬ気持ちを隠し、弱々しく微笑む。
「……承知いたしました」
北の方の意図もはっきりとは解せぬままそう答えた揺羅の袖を、北の方はもう一度ふわりと撫で、それから、控える泊瀬を呼んで白梅を生けるように指図した。そうして改めて背を伸ばし、ところで、と揺羅に向き直る。
「一度、邸に左大臣をお招きしようと思うの。いかがかしら?」
「父を?」
思いもかけぬ提案に、揺羅は目をみはった。
「ええ。喪が明ければちょうど蛍の時季でしょう? 貴女も、こちらに来てから一度もお父さまにお目にかかっておられぬのでしょうし」
一条にある高倉邸は都でも北にあるせいか、夏になると蛍が美しく飛び交う。揺羅の住まう東北の対にも、遣水を辿って光が舞うのだ。自然を好む父が見れば、さぞかし喜ぶことだろう。
喪、というのは、義兄である基冬の北の方であった先帝の女五の宮、萩の宮と呼ばれていた方のことであろうか。昨年の大晦にお産で世を去ったということを、揺羅も噂で聞いていた。
「お心遣い、大変ありがたく、嬉しゅうございます。宰相さまにもどうか、心からのお悔やみをお伝えくださいませ」
北の方はまた、じっと揺羅を見た。それからかすかに笑って、そうね、と呟いた。
幼くして息子の妻として邸にやって来た姫君と、その姫君を守ってやりたいと思いながらもそのすべを見つけられぬ夫の母。どうしても越えられぬ隔ての前で空回りするばかりだ。
しんと落ちた沈黙に、互いに思いやっていながらもどこか噛み合わぬ二人の心が揺れた。
*****
春とはいえ、吹き抜ける風はどこまでも冷たい。
内裏を退出する牛車の中に腰を落とすと、基冬はその手で顔を覆い、深々と息を吐き出した。
弟のしでかした「醜聞」は瞬く間に広がり、すでに主上の耳にすら入っているだろうことは想像に難くない。
今日の一日、笏の陰や御簾の後ろで、密やかに、時に聞こえよがしに囁かれた弟と油小路の女の話は、どれもこれも聞くに堪えぬものばかり。他人の詮索にばかり時を費やす愚か者たちの間でますます膨らんでいく噂は、もはや基冬の手にも負えなかった。そのようなことにばかりかまけているからいつまで経っても出世も望めぬのだ、と心のうちで噂話を広めて喜ぶ者たちに毒づきながらも、基冬は頭を抱える。
どうしたものか。
かつて、内裏勤めの頃には少納言と呼ばれていたあの女の魂胆は見え透いている。
誰の子とも分からぬ娘を右大臣家の娘として春恒に引き取らせ、あわよくば己も右大臣家に取り入ろうというところだろう。せっかく手に入れた尚侍の局での女房の職もくだらぬ理由で失ったと聞く。
なぜ、よりにもよってあのような女に───基冬は、また吐息をついた。
春恒の心が抱える闇を、兄として理解はしているつもりだ。
幼い頃には、歳の近い仲のいい兄弟として過ごした。それがあのようなことになってからは、二人の間に見えぬ隔たりが生まれてしまった。すべてのことが裏目に出て、より深い闇へと沈み込むその姿に幾度となく手を差し伸べ、そのたびにその手を払いのけられても、弟を見捨てようと思ったことは一度もない。
ただ、と基冬は思う。
今のままでは駄目だ。いずれは何もかもが立ち行かなくなるだろう。いつか足許を掬われる。
いつになれば気づくのか、と基冬はそのことが歯がゆくてならない。ままならぬ人生など、このような家に生まれれば当たり前ではないか。
生まれながらに与えられる恵まれた暮らし、望まぬとも得られる位、帝の側近くに召される栄誉───そのような、宮仕えする者ならきっと誰もが欲しがるものと引き換えに、基冬は心の自由とは無縁に生きてきた。右大臣家の嫡男としてまわりから寄せられる期待を背負い、努力も惜しまず、そして、帝の命により二歳年上の女五の宮の降嫁が決まったのは、元服した十四の時。
そんなものだ。
いくら北の方と不仲だとしても、あちらこちらの女に手当たり次第通うような日々など───そこまで考え基冬はぎゅっと眉根を寄せた。わたしなら、決してそんな愚かな真似はせぬ。
ぐらりと牛車が揺れて、右に曲がった。この角を曲がれば、住まう邸はもうじきだ。基冬は背を伸ばし、鈍色の衣の胸元を整える。
妻の喪に服して早や一月が経った。萩の宮と呼ばれた気高い女。十年をともに過ごした、年上の妻。
軋みを立てて牛車が止まる。搨*の置かれる音やざわめきが起こり、やがてばさりと御簾が上げられると、冬の淡い光とともにふわりと梅の香が漂ってきた。
かの女はおらずとも、春の花は今年も変わらず穏やかに咲いている。邸のうちから、何やら騒がしいざわめきが近づいてきた。これも、いつも変わらぬことだ。
「お父さま? ……お父さま!」
基冬と同じ鈍色の衵*を身につけた小さな姫が、車宿にまで転がるように走り出てくる。そうして基冬を見つけるや、その瞳を輝かせて階を上がり切る前の基冬の胸に飛び込んだ。
やわらかな髪が頬で揺れるその小さな娘を抱き上げ、黒々とした瞳を覗き込んで基冬は尋ねる。
「ちい姫、乳母の言うことを聞いていたか?」
こくこくと幾度も頷く娘の目元に宿る亡き宮の面影を感じながら、基冬はそうか、と呟いて母屋へと向かった。
腕に抱いた娘のぬくもりは日々、重く確かなものとなる。
この子を遺したあの女は、もうおらぬ───白梅香る透渡殿を越えながら、基冬はどこまでも高く澄んだ空を見た。
切燈台
大殿油のうち、背の低いものを切燈台とも呼びます。
後朝
男女がともに過ごした後の朝のこと。それぞれが身につけていた衣を交換して身につけ、名残を惜しんだところから、「きぬぎぬ」と言われます。
宰相
参議を唐名では宰相といいます。
搨
牛車に乗り降りする時の、四つ脚の踏み台。
衵
裳着を行う前の女の子が上着として着る衣のこと。袿より裾を短く仕立ててあります。