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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
29/39

二十八 記憶

「……殿、今日はさぞかしお疲れでございましょう、おしとねを───」

「うるさい、独りにしてくれ」


 兄が出て行った西の対で春恒はるつねが吐き捨てるようにそう言うと、女房の衛門えもんは慌てた様子でひれ伏すように頭を下げ、そそくさと立ち上がった。その背にまた主人あるじの声が飛ぶ。


「酒を持ってこい」

「……はい、すぐに」


 戸の閉まる音とともに、対屋のうちの空気が淀む。春恒は脇息に腕を任せ、微動だにせず暗闇の一点を見つめた。

 疲れた。長い一日であった。

 祭への供奉は、身体だけでなく心も疲弊させる。明日もまた還立かえりだち*がある、そう考えるだけで疲れは膨れあがる心地がする。

 煌びやかな勤めの裏でどれほどに心を砕き尽くしたとてなお、帝の意には沿っておらぬと身をもって感じる精神的な重圧は、果たして己が望む生き方なのだろうか。右大臣家という出自ゆえに求められる立場に、心は追い詰められるばかりだ。

 衛門が酒の入った瓶子へいしと酒器を持ってきて、目を瞑ったままの春恒の前に置く。主人のたちを知る衛門は、酒を注ぐこともなくそっと姿を消した。

 春恒はのろのろとまぶたを開くと、ちらりと置かれた酒に視線を投げた。それから烏帽子を脱ぎ、脇息に片肘をついて頭を抱える。籠もった気配が春恒に覆い被さってくる。

 握りしめられた手がやがて、ばん! と大きな音を立てて振り下ろされた。

 美しい顔が歪む。抑えきれぬ感情に、肩で息をする。

 荒々しく酒を注ぐと一気にあおった。一杯、二杯……やがて手にした酒器を放り投げるように置いて、春恒は大きく息を吐き出す。

 二ヶ所ほど開けられたままの半蔀はじとみから時折風が吹き抜けて灯された火が揺れる。ゆらりと膨らんだ己の影が御帳台のとばりに映るのを見た。


 ───ここだけの話よ。


 帳の陰で女房の話を聞いてしまった、あれはちょうど祭の頃であった。


 ───西()のまことの母君はね……。


 耳に届くかというほどのひそめた声であったのに、これほどまで脳裏に焼きついているのは何ゆえか。

 わたしは()()の子ではない。そう考えるたび、心に昏い影がさす。

 ふふ、と思わず嗤いが洩れる。頭を抱える手に、ほつれて落ちた髪がかかる。

 忘れてしまえればどれほどいいだろう。あの忌まわしい記憶を。否……ただ忘れ去るだけではない、この身を消し去ることができれば、どれほど───




「兄上!」


 初夏の昼下がり、基冬もとふゆが宮中から戻ってきた気配を耳聡く聞きつけ、春恒───その頃はまだ、西の君と呼ばれていた───は東北の対屋へと向かった。兄が、祖父であるさきの兵部卿宮の邸であった白梅邸に移るより前のことだ。

 是親これちかが脱いだうえのきぬこうぶりを受け取り、女房が柳*の狩衣を着せかけていた。

 弟に気づいた基冬が袖に手を通しながら、もう来たのかと振り返る。


「今日は池に船を出す約束ですよ、兄上」


 分かってるよと言いながら、基冬は是親に目配せをした。

 昨日のうちにもう用意してあると明るく答えた従者の是親は、春から夏に移り変わったばかりというのに、すでに日に焼けていた。

 己の従者である俊行としゆきと比べて、なんと頼もしいことだろう。後ろでもじもじしている俊行をちらと見て考え、だが、そんなことはすぐに忘れてはしゃいだ声をあげながら兄の袖を引く。


「早く行きましょう」


 元服げんぷく前の未だわらわ姿の弟の無邪気な声に、年齢よりも落ち着いている基冬が小さく笑った。


「朝からずっと、書も読んでいたのですよ」


 寡黙な兄であったが、決して冷淡ではなかった。褒めてほしいとねだる弟の頭を撫でながら、基冬は女房に問うていた。

 あの御方はいかがしておられる? と。

 恐らくは、降嫁した今上の妹宮のことだろうと思った。お会いしたことはなかったが。

 四人が目指した明るい日ざし煌めく池のほとりには、是親が用意したという船がすでに置かれており、基冬と是親に俊行も加わって皆でそれを池に運んだ。水の上に押し出すと涼しげな水音が弾けた。

 その時、あ、と基冬が何かを思い出したように顔を上げた。そなたにと御帳台の中に隠して置いた菓子を忘れたと言った。


「どこに? わたしが取ってきます!」


 俊行もその場に残し、ひとり、兄の対屋に戻った。そこになんらかの兄の意が働いていたとは、今でも考えてはいない。

 しんと静かな東北の対屋に、ぎしりと嫌に大きく床が鳴ったのを覚えている。

 そっと御帳台に陰に身を滑り込ませた時、ひそめた女房の声を聞いた。


「ここだけの話よ。西の君のまことの母君はね……北の方さまの妹君なのよ」


 息を呑んだもうひとりの女房の気配に、頬をぞわりと撫でられたようだった。

 まことの母君───とは、いったいどういうことなのか。


「……まさか」

「あなたはまだ、この邸にはいなかったから知らぬのも当然だけれど。北の方さまが若君を身籠っておいでだった頃のことよ。方違かたたがえに来られた妹姫を、殿が」

「嘘でしょう?」

「誰がこのようなことで嘘なぞ言うものですか。それはお美しい姫君だったの。殿が惑わされたのも仕方ないと言えるほど」

「それで?」

「姫君は身二つになられてすぐに髪を下ろされ、どこぞの寺に入られた。その後のことは知らないわ」

「それが……そのお子が、西の君ということ?」

「そう。頃合いを見計らって、この邸に引き取られたのよ。その前の数ヶ月は、北の方さまも身籠られたとかで対屋に籠もりがちになり、ごく近しい女房しか近づけなかった。そうしてやがて、二人目のお子をお生みになったけれど……皆、言っていたわ。月が合わぬと」


 女房たちの話の半分以上は、もはや耳には入らなかった。

 ただ、目の前が真っ白になって、兄の言う菓子を探すこともできぬままその場に立ち尽くすしかなかった。

 ばん! とけたたましい音がして妻戸が開き、兄の怒鳴り声を聞いたのを覚えている。必死の形相で己を探し、御帳台の帳をかき分けた兄の顔を、今も思い出すことができる。だが、それからしばらくのことはもう、何も覚えていない。

 それきり、父にも()にも、基冬にすら会うことを避け、対屋に引き籠もり誰も寄せつけようとしなかった。そんな時に、実の母に会わせてやろうと言ってきたのが、叔父である彰良あきよしだった。

 初夏とは思えぬ日ざしのない日で、恐ろしげな暗い雲が空に垂れ込めていた。牛車くるまに揺られ、都のはずれ、嵯峨にも近い竹林に囲まれた寺まで連れて行かれた。

 ひとり通された小さな局で一刻ほども待ったが、誰も現れぬ。痺れを切らして局を抜け出し、人の気配を探した。本堂の裏手にまわると、小さな庫裏くりから言い争う声が聞こえてきた。

 年老いた女の声が、何やら必死に説得しているようだった。


「……会わぬ。会いとうない。あの男との子など、顔も見とうない!」


 半ば悲鳴のようにそう言う、涙まじりの声を聞いた。

 大人になり切らぬ心を完膚なきまでに打ちのめす衝撃を、己でも驚くほど冷静に受け止めた。

 ああ、きっとこれがまことの母上の声。あの男との子、とはわたしのこと───そうか、会いたくないとおっしゃるか。そうであろう。わたしだって、あの父には二度と会いたいと思えぬのだから。

 蜘蛛の糸のような、儚くもろい一縷の望みも断ち切られて、心が冷えた。

 湿気った風が竹林を揺らし、やがてぱらぱらと落ちてきた雨に濡れるに任せ、誰にも会わずそのまま寺を後にした。

 結局、永遠とわの別れがくるまで実の母とは一度も会わぬままだった。

 元服とともに正五位下、少将の職を賜ったが、妻を娶ることは頑として拒んだ。誰も信じられぬ、誰も要らぬ。ただ、刹那に生きるのみ。その相手に事欠くことはない。

 だから、様々な要因が重なって左大臣家の幼い姫を迎えねばならぬと決まった時、まわりの思惑をよそに心はますます冷え込んだ。

 それを決めた父も、そこに愚かな期待を寄せる()も、そしてそれに異を唱えなかった兄も、決してまことの己を理解しようとはせぬのだ。ただ、絶望しかなかった。

 どこまでも幼い姫を迎えたあの日、衾覆ふすまおおいの終わった床でなぶるように扱った妻は、薄く涙を浮かべた瞳をそらせてただ一言、お父さま、と呟いた。その一言は、すべてにおいて相容れぬと悟るに十分だった。

 なぜ、よりにもよってこのような者を選んだ? 己とは真逆の、これほどまでに幸福の気配纏う者を。己が心の醜さをまざまざと見せつけてくる、天真爛漫で幼い娘を───




 春恒はまた、酒を荒っぽくあおった。

 二本目の瓶子もすでに空になっていた。

 とうに日は落ち、どこからか郭公ほととぎすの声が聞こえてくる。そのうら寂しい鳴き声は、ほんの二月ふたつきほど前に過ごしていた遥か一志いちしの日々をも思い起こさせる。合歓ねむの花はもう、咲いただろうか? 合歓は息災か?

 春恒はまた、その両の手で頭を抱えた。沈み込んだ対屋の気配にそぐわぬ華やかな今様いまよう色のきぬが、ざわりと音を鳴らす。

 なぜ、このようなことになった? なぜ、これほどまでに思い通りにならぬ人生を送らねばならぬ?

 しばし思いつめたような表情で闇を見つめていた春恒は、やがて烏帽子を被るとふらりと立ち上がり、そのままおぼつかぬ足取りで簀子すのこに出た。



     *****



 とばりの向こう側で灯が揺れている。

 揺羅ゆらは衾を引き上げ、もう幾度めか分からぬ寝返りを打った。身体は重く疲れているというのに、褥に入って半刻が経ってなお、眠りは訪れてくれぬ。

 疲れの理由は祭見物だけではない。

 帰り道に目にした、身重の水無瀬みなせの姿が脳裏に焼きついていた。みすぼらしい衣、おどおどとした態度、そして、どこか誇らしげにふくらんだ腹。

 仕える者を守ってやれなかった後悔と己の不甲斐なさへの嫌悪は、水無瀬が夫の召人めしうどになって以来ずっと揺羅の心を苛んできた感情だ。それが、水無瀬の懐妊を知って以降はそこに嫉妬とも羨望ともまた違う、己でも理解し難いもうひとつの負の感情が加わって、揺羅の身体の芯のあたりでますます居心地悪く暴れようとしている。

 揺羅は幾度か喘ぐような息を繰り返し、ぎゅっと目を瞑り、やがて眠ることを諦めてその身を起こした。

 都合よく利用されたのだと考えれば哀しい。見捨ててしまえれば楽かもしれぬ。だが、水無瀬とさかきにはかつての恩もある。見捨ててしまえばきっと、後で後悔するだろう。

 揺羅の思考は結局いつも堂々巡りとなり、何が正しい答えなのか見つからないままだ。それでも、帝から届けられたあの姉女御のきぬを二人に届けさせることは、間違ってはいないだろう。

 深い吐息をつく。ふと、百合の香りが漂った気がした。ちい姫が父宰相とともに摘んでくれたという笹百合が、夜の気配にその香をふわりと運んでくれていた。

 揺羅がほ、ともう一度息をついたその時、無遠慮な物音が東北ひがしきたの対屋に響いた。揺羅は思わず息を呑み、音の方を振り返りながら小袖の胸元を押さえる。近づいてくる人の気配に、耳をそばだてた。


「……我が北の方はもう、おやすみか?」


 聞こえてきたのは、春恒の声だった。

 いつもと違う声音、いつもと違う物言い。酔っているのだと気づく。

 揺羅は慌ててうちきに袖を通し、頬にかかった下がりを整える。


「このような時分に、何の御用でございましょう?」


 揺羅が強ばった声で外に問えば、春恒はふんと鼻を鳴らした。


「夫が妻を訪ねたというのに、何の御用かとは」


 そう言うと、何がおかしいのかくつくつと笑っている。

 揺羅は幾度も訝しげに瞬きを繰り返し、それから観念して御帳台を出た。

 切燈台のかすかな灯りの中、白いひとえと下袴を身につけた春恒が、鮮やかな今様色の直衣をゆるく纏っただけの姿でそこにいる。

 目許は赤く、その瞳はどこか虚ろで、酒に酔っているのは間違いないようだった。


「いったい───」


 そう言いかけた揺羅の言葉を春恒が居丈高に遮る。


「北の方はご存じか、なぜそなたがこの高倉に来ることになったのか?」

「え?」


 突然の思いもよらぬ話に揺羅は戸惑い、言葉を探した。


「なぜ、とは……」


 揺羅がそう呟くと、春恒はまた何がおかしいのか、くくっと笑った。


「のう、おかしいとは思わぬか、なぜわたしが妻問いせず、そなたがこの邸に参ることになった?」


 揺羅は言葉に詰まった。揺羅自身、はっきりとその理由を父に聞いたことはない。

 確かに、本来であれば婚姻が整っても揺羅は左大臣家に住み続けるはずだった。なのになぜ、右大臣家に移ったのか。


「左大臣家を守るために父親に利用されたのだな。可哀想に……そなたは人質のようなものだ、要は。左大臣家を守るため、我が右大臣家に差し出された、人質」

「それは……どういう意味でございましょう?」


 揺羅は、自分でも驚くほどに声がかすれていることに気づく。

 まただ。春恒の失踪以降は久しくなかった、夫の鬱憤のはけ口にされようとしている。


「わたしのような夫を持って、不幸極まりないとでも思っているのだろう?」


 何の脈略もない話に、何を言っておられるのかと揺羅の瞳が歪む。

 夫の酔った姿を見るのも初めてだった。どう対処すべきかすら、分からない。


「右大臣家の厄介者に充てがわれた、何も知らぬ哀れな姫」


 春恒は馬鹿にするような言葉を次々と吐き出しながら、ゆっくりとその手を伸ばしてきた。

 揺羅はかつていつもそうであったように、身体を強ばらせて立ち竦む。今朝、もう惑わされぬと強い気持ちで夫を見送ったはずなのに、やはり心は怯えて悲鳴をあげる。

 揺羅の頬に春恒の指が触れた。ひやりと冷たい指に、揺羅の身体がわずかに揺れた。

 夫の指先が揺羅の頬を撫でる。揺羅は、詰めていた息を吐き出した。


「このまま囚われ、ここに朽ち果てる運命さだめの───」

「わたくしは、このまま朽ち果てるつもりなどございませぬ」


 夫の言葉を遮って、絞り出すようにそう言った。

 袖口を握りしめる手が怒りに震える。もうこれ以上耐える必要などない、と心が叫ぶ。恐ろしくなどない。

 これまで抑え込んできた揺羅の感情が溢れ出ようとしていた。口をついて出てきそうな言葉を必死で呑み込む。

 春恒はそんな揺羅の様子など構わず、ほう、と薄い笑いを浮かべ、頬に触れたまま言葉を続けた。


「では、どうされるおつもりか? 左大臣家に戻るとでも? 無理であろう?」

「……」

「そなたに何ができる?」


 揺羅はくちびるを噛んだ。

 分かっている、自分が無力なのは。それでも。

 いったい何を考えているのか、春恒の手が揺羅の肩に落ち、袖を辿っていく。


「そなたは人質ゆえ、どう扱おうがこちらの自由。そうではないか?」


 そこまで言うと、春恒は素早く揺羅の手首を掴んだ。


「おやめください。殿、どうか……」


 揺羅の声が高くなる。掴まれた手首が痛い。その氷よりも冷たい指がやはり恐ろしい。


「嫌! 離して!」

「そなたはどちらがお望みか? このままここで朽ち果てるか、それとも帝の───」


 強く引き寄せられて、喉の奥の方でひきつったような声にならぬ声が出た。言いようのない嫌悪感が揺羅の全身に広がる。


「わたくしはもう、殿の……」

「春恒!」


 揺羅が身をよじって夫の胸を押し返したと同時に、背後から強い声が飛んだ。

 その声を聞いた春恒の手がほんの一瞬、ゆるむ。

 揺羅はその一瞬を逃さず、掴まれた手を振り払うと無我夢中で夫の身体を押しやり、そして逃げた。その声の許へ───基冬の許へ。

還立の儀

賀茂祭、石清水の臨時祭、春日祭などの勅祭が終わったのち、祭の使いや舞人、楽人たちが宮中へ戻って清涼殿の東庭で神楽を演じ、その後、宴と禄を賜わること。


柳の色目

表が白、裏が薄青(今の薄緑)

淡い緑色に見えたと思います。

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