二十七 愚計
東の対と東北の対とを繋ぐ透渡殿近くで声をかけた時、是親が柄にもなくびくりと肩を震わせたのを基冬は見逃さなかった。
「……殿? なぜこのようなところに?」
「蛍の様子を見に来ていたのだ。まだ少し早かったようだが」
光の飛び交う気配もないあたりを見まわしながらそう言うと、基冬は是親が抱えるものに視線を向けて尋ねた。
「それは?」
是親もつられて手にした匣を見る。
「東北の御方さまに託されたもので」
「託された?」
主人の訝しげな声に、是親も観念したように基冬に向き直った。
「先ほどお話しした行き倒れの女が東北の御方さまに所縁の者だったようで、これを届けるよう頼まれたのです」
基冬はそれには答えず、わずかに歪めた目で匣を見つめていたが、やがて静かな声で問うた。
「中を確かめても?」
「……なぜ、わたしなどにお尋ねを?」
是親はそう言うと、少し先にある階の、灯の下に匣を置いた。庭にいた基冬は是親について砂利を踏みしめ、置かれた匣に寄る。対屋の陰で暗く沈んでいた基冬の陰萌黄*の直衣が、釣灯籠の火に照らされて鈍く輝いた。
匣に手を伸ばし、そっと開ける。瞬間、ふわりと立ちのぼった薫りに基冬の眉がきつく寄った。
「これを、東北で?」
「はい」
きちんと畳まれた薄色*の衣の、指先に触れるどこまでもなめらかな手触りが基冬の直感を確信に変える。
これは───この薫りは主上のものだ。なぜ、このようなものが東北にある?
「これを……まこと、東北で?」
同じ言葉を繰り返し、珍しく動揺を隠さぬ主人の横顔を、是親は黙って見つめた。
黙り込む基冬の頭の中は今、目まぐるしく動いていることだろう。この主人に隠しごとや嘘など通用せぬことを、是親は理解している。
やがて、基冬は静かに匣を閉じた。そうして、その匣に視線を置いたまま言った。
「気がかりな点があるゆえ、少しわたしが預かってもよいか?」
「なぜ、わたしに異を唱えることができましょうか」
是親は静かにそう言うと頭を下げ、手許に残された菓子の包みだけを持ってその場を離れようとした。
「……待て。もうひとつ、おまえがこのような頼まれごとをしたのはこれが初めてか?」
基冬の厳しい声に、是親はただ、は、と一言頷く。しばし続きの言葉を待っていた是親は、これ以上尋ねることはないという気配を察したのだろう、今こそとその場を立ち去った。
足音がやがて聞こえなくなると、基冬は深い息をひとつ吐き出した。
その行き倒れの女とは恐らく、以前、春恒の失踪時に東北の女房に聞かされた、件の女なのであろう。春恒が婚儀の夜に手を出したという妻の乳母の姉娘───左近といったか。何ゆえかは知らぬが、ある時を境に右大臣家から姿を消していたはずだ。その者にこの衣を遣わすと。この、恐らくは帝の御許にあったはずの品を。
ということはつまり、春恒の妻が今もその女の面倒を見ているということなのか。
基冬は瞬時にそこまで考えて、我知らず唸った。手にしていた蝙蝠を口許に遣り、ひそめた眉の下で鋭い瞳を幾度も瞬かせる。
なぜ、帝のものであった衣が東北にある? 左大臣が届けた?
基冬はしばらくじっと考え込んでいた。だが、どうも腑に落ちぬ。あの思慮深い大臣が、よりにもよって帝からの品を春恒の妻に? まさか。
───面倒なことになるやもしれぬ。
基冬はよぎる不安を振り切るように、おもむろに衣の入った匣を抱えると歩き出した。
久々に足を踏み入れた春恒の居室である西の対屋は、がらんとしていた。未だ帰ってきておらぬらしい。
妻戸から入った基冬は、廂にかけられた御簾を掲げ、うちに入った。踏んだ床がぎしりと鳴り、しんと静まり返った対屋の空虚さをよけいに感じさせる。
基冬はそっと匣を置くと、対屋のうちをぐるりと見まわした。
ほのかに漂う香も調度の配置も、かつてとなんら変わったところはない。
いきなりの失踪から突然の帰還まで、弟の辿った道のりは大方目星がついたが、いまいち分からぬのは当地で何をしていたのか、だ。病を得て帰るに帰れなかったという弟の説明を、言葉通りに受け取っていいものか。一志という鄙の地で、都の暮らししか知らぬ春恒がいったい何をして過ごしていたのか。
その時、かたんと基冬がいるところとは反対側の妻戸が開いて、女房が二人、屈託なく喋りながら対屋に入ってきた。
「───だから、それが左近の君だったんじゃないかって」
「まさか。今さらどんな顔で右大臣家の前に出てくると言うのですか?」
若い声の女房が、なんらかの情報を得ているらしい声の低い女房に尋ねるのを聞いて、基冬は御帳台の陰に身を潜めた。
「こっそり身を隠していたそうよ。だけど東北の御方が気づかれて……」
若い方の女房が、ええ、と息を呑む気配がした。
「まあ……御方さまにとっては幼い頃からご一緒だった人ですから、お気づきになられたのでしょう」
「一目見ただけではそれとは分からぬくらい、落ちぶれた姿だったそうだけれどね」
どこか嘲るような、勝ち誇ったようなその言葉に続き、ふたりでくすくすと笑い合う声が薄暗い対屋に響いた。
「本当にいい気味ですね。いきなり東北からやって来て、あれだけのご恩をいただいておきながら、またいきなり邸を出るだなんて勝手が過ぎますもの」
「それがね……」
低い声の女房が何やら耳打ちしたのか、若い女房が息を呑む気配がした。
どうやら、今日の祭に付き従った東北の女房の誰かが軽口を吹聴しているようだ。基冬は思わずこめかみに手を遣った。基冬にとって、女房の噂話ほど忌み嫌うものはない。
若い女房が、二階棚のそばの大殿油に火を点けようとしていた。春恒の帰宅の知らせが入ったのだろう。基冬はゆっくりと御帳台の陰から歩み出て、静かに声をかける。
「そなたたち───」
まさか、誰かがいるとも思っていなかったであろうその女房は、基冬の声を聞くなり飛び上がるように驚き、振り向きざまに袿の袖で二階棚の上に置かれていた文箱を払い落とした。ぱん、と静けさを破る音が響き渡る。
「さ、宰相さま……」
ひれ伏す女房が持つ紙燭の灯りに、文箱から散らばったものが暗く浮かび上がる。
「そのように驚かずとも……早う、その落ちたものを拾いなさい」
言われて初めて落としたものが文箱だと気づいたらしい女房は、真っ青になって基冬に頼んだ。
「宰相さま、これは中将さまがとても大切にされているもの。このことは中将さまには内密に……どうか」
基冬は、しゃがみ込んで散らばったものを見た。枯れた花のようだ。これが大切にしているものというのか?
「相模、いいから早う片づけを」
隣に伏す声の低い女房が促し、若い女房が震える手で文箱を拾う。
「宰相さま、わたしからもお願いいたします。どうかこのことは───」
基冬は思わず、ふ、と鼻で笑った。
「案ずるには及ばず」
そう言って立ち上がった基冬を見上げる女房たちの表情が一瞬和らぐ。
基冬はそんな二人を冷ややかに見下ろして言った。
「そなたたちには今を限りに暇を出すゆえ、片づけが終われば荷を纏めるがよい」
「宰相さま!」
「そなたらは、この邸で最もしてはならぬことをした。普段より重々申し伝えてあるはずだが、忘れたか」
「それは……」
「分からぬか? 噂話の類い、人についてあれこれ詮索することはこの邸では許されておらぬ」
問答無用、早う出て行けとばかりに蝙蝠で合図されて、ものも言えぬ若い女房は泣きながら文箱を元の位置に戻すと、もう一人の女房に引きずられるように出て行った。
それと入れ替わるように対屋に入ってきたのは春恒だ。泣きながら立ち去る女房をしばし見送ったあと、解せぬという顔で御簾をくぐり、兄の存在に気づいた。
「───兄上」
「ご苦労であったな。疲れたであろう」
まるで何ごともなかったかのようにそう言うと、用意された茵に静かに腰を下ろす。
「何があったのですか? ここはわたしの対屋なのですが」
「邸の掟を破っていたゆえ、暇を申し渡したまで」
兄の言葉に一瞬鼻白んだような顔をした春恒は、しかしそれ以上追求しようともせず、女房の衛門に促されて手にしていた太刀を手渡した。
基冬はその真新しい太刀に視線を向けた。
元々春恒が受け継いだはずの兵部卿宮家の太刀はどうしたか。そう尋ねようとして、別の女房が主人と基冬の横に置かれた脇息にそれぞれそっと白湯を置いたため、機を逃して口を噤む。
春恒は袍を脱ぐと、小袖の上にゆるりと今様色*の直衣を纏い、気怠げに茵についた。基冬は決して身につけぬその派手な色が、春恒の美貌に映えていた。
基冬はわずかに眉を上げ、息をついて白湯を口に含む。ごくりと飲み下してふと視線を上げれば、じっと見つめる春恒の視線とぶつかった。
「……なぜ、こちらに?」
春恒が尋ねるのに答えず、基冬は人払いを、とだけ伝える。
春恒はわずかに眉を寄せて兄を見返したが、やがてぞんざいにその手を振り、控える女房たちを退がらせた。
妻戸から衣の擦れる音が遠ざかると、基冬は一度袖を払い、胸元から蝙蝠を出した。
「どうであった? 今日のその後の主上のご様子など」
基冬が尋ねるも、春恒は答えずに一度深く息を吐き出す。
「さすがに疲れております、急ぎでないならば、日を改めてはいただけませぬか」
「いや」
基冬は小さくそう答え、弟を見据えてなおも問うた。
「もはやこれ以上のご不興を買うわけにはいかぬのは、そなたとて分かっておろう? 右大臣家としてもだ」
「……宮中での儀式も滞りなく終わり、主上は別段変わったこともなく、いつも通りのご様子であられたかと。わたしに厳しい目を向けておられるのも、今に始まったことでもなく」
投げやりにそう答えて自虐的に鼻で笑った春恒は、ああ、と何ごとかを思い出したかのように顔を上げた。
「このような日というのに、肌身離さず女物の衵扇をお持ちであられた。あれは……」
そう言いながら、春恒は脇息に両腕を載せ、身を乗り出すように兄に向き合った。
「亡き藤壺女御のものでしょうか? 今もまだ亡き妻に恋々としておられるなど、女々しいことだ」
春恒を見る基冬の冷静な目と、それを見返す春恒の不遜な目がぶつかる。
基冬は、くちびるを引き結んだままじっと弟を見つめた。窺うような春恒の視線は、まるで兄を挑発しているかのようだった。
「何か、おかしなことを言いましたか? ……そうだ」
春恒は思い出したかのように声を上げた。
「宮中には今、尚侍がおられぬせいか、女たちの手際が悪く、蔵人たちも何かと手間取っているようでした」
その言葉に基冬の眉がぴくりと震えた。出口がないような、絶望的な気分に襲われる。
「……そなたが原因でもあろうに」
絞り出すように言った基冬の言葉に、春恒は悪びれる様子もなく、くっと笑った。
「そう、軽率でしたね。それゆえ今、わたしが責任を負うべきかと考えているところなのですよ」
黙って聞いていた基冬のわずかに伏せた目が、傍に置かれた匣に向かう。
まさか。
感じていた嫌な予感は確信となって、基冬の胸のうちで大きく膨らむ。
「……どういうことだ?」
「改めて、こちらから尚侍になる娘をあげてはいかがかと」
「左大将の大君は心弱くおなりだと聞いた。いったい今さら、どこの誰を連れてくるというのか」
「いるではないですか、適任者がすぐそばに」
なんでもないことのようにそう言って、春恒もまた白湯を含む。
ばかな、と呟く兄を、春恒は不遜に見返した。
「……おや、兄上は今、誰のことだとお思いで?」
薄い笑いを浮かべる弟に、さすがの基冬もかっと頭に血が上るのを止められなかった。かつて東北で聞かされた、春恒が婚儀の夜に妻にした仕打ちと、この西の対から抱えて運んだ彼女の軽さが脳裏をよぎる。
「春恒!」
思わず傍らに置いた匣を蝙蝠で叩いた。その匣に気づいた春恒もまた、珍しく激した兄に怯みもせず負けじと言い募る。
「兄上、やはりあの者と繋がっておいでなのだな。そうでなければなぜそれを───」
どこか勝ち誇ったようにそこまで言った瞬間、春恒は余計なことまで口走ってしまったことに気づき、はっと口を噤んだ。基冬もまた、目を見開き春恒を凝視する。
「よもやとは思うていたが、この匣を持ち込んだはやはりそなたか」
「……」
「そなたが仲立ちしたのだな?」
呆れ果ててそう問うた基冬は目を瞑り、喉元に引っかかる不快な感情を吐き出そうとするかのように尋ねた。
「───帝の意がどこにあると?」
大きく吐き出し、基冬はゆっくりと目を開く。春恒は淡々と答えた。
「最愛の女御の妹をお望みなのでしょう」
「薄々そう感じていながら、これを受け取り届けたというのか?」
「帝のお望みとあらば、なんでも致す覚悟ですよ。未だ中宮位も空いたままの今、左大臣どのも望んでおられるやもしれぬ。これこそ一挙両得というものではないですか」
淡々と言葉を吐きつつ、春恒は軽薄に笑った。基冬は、脇息に預けた腕でこめかみを押さえる。
「愚かなことを……それを望まれぬがゆえの、そなたとの婚姻であった。そなたとて知らぬわけではあるまい」
「あの者が十であったあの時は。だが、もう十六だ。左大臣どのもお考えを改められたのではないか」
春恒は、どこまでも躊躇せずに言い放つ。感情を抑えた基冬の声がかすれる。
「……そなたが妻であるぞ」
「妻? 心を通わせたこともない、契りを結んだこともない、あれが妻?」
はっ、と勘に触る声をあげて、春恒は言い募った。
「兄上はご存じか、なぜあの者がこの高倉に来ることとなったのか。おかしいとは思いませぬか、なぜわたしが妻問いせず、あの者がこの高倉の邸に入ったのか」
基冬は、春恒が今や白々しい笑いをかなぐり捨て、心を剥き出しに吐露しているのをただ黙って聞いていた。
「すべては父上と母上の計略でしょう、わたしを追い詰めるための。手に負えぬ息子に意に染まぬ婚姻を受け入れさせるためには、この邸に受け入れて逃げられぬようにせねばならなかった。あのような女にわたしが通うわけはないですからね。そうして父上は、ご自分のせいで娘を持つことが叶わなかったその責をわたしに負わせたいだけではないですか。子が生まれることなど、これから先もないというのに。幼い姫の清い心がわたしの気持ちを溶かす? 何を綺麗ごとを。笑わせてくれますね、母上はまだ、夢でも見ておいでなのでしょう。わたしが望んだわけではない。わたしが……」
そこまで一気に吐き出して、春恒はばん! と脇息を拳で叩いた。
「わたしが望んだものなど、ここには……!」
春恒はそのまま言葉を呑み込み、対屋のうちにしん、と静けさが落ちる。基冬はその静けさの中で微動だにせず、弟のわずかに歪んだ顔を見つめた。
泣いている───ふとそう思った。もちろん涙が見えたわけではない。それでも、基冬はそう感じたのだ。
春恒も苦しんでいるのであろう、春恒なりには。その愚かな言動に共感できる点はないけれども。
「そなたが望むものとは何だ?」
基冬は静かに尋ねた。
ふん、と鼻を鳴らした春恒は無意識に視線を泳がせ、やがて二階棚の方を見た。つられて基冬もそちらを見る。先ほど女房が落とした文箱のあたりだ。
春恒が大切にしているものだと言っていた。あれが? あの、枯れた花が?
「……伊勢で何があった?」
基冬は、ずっと心にくすぶっている疑問を問いかけたがもちろん返事はなかった。小さく吐息をつく。
「どうであれ、六年前、そなたは確かに左大臣家との婚姻を受け入れた。どうであったとしても。主上も許された婚姻だ。その意味を忘れるな」
「……」
「春恒。そなたはどこまでやれば気が済むのだ?」
「……」
「早う目を醒ませ」
わずかにうつむいていた春恒が、いきなりぱんぱん! と蝙蝠で床を打った。
「衛門! 兄上がお戻りだそうだ」
妻戸のすぐ向こうで様子を窺っていたのだろう、女房の衛門がやって来て、基冬の横で深々と頭を下げる。
もはや決して視線を合わそうとはせぬ弟を、基冬は情けなさと苛立ちとやるせなさの混ざった目で見つめた。
陰萌黄
抹茶色にも似た、くすんだ萌黄色のこと。
薄色
薄い紫のこと。(再掲)
今様色
表が紅梅、裏が濃紅梅の色目。今様とは、今流行りの、という意味があります。(再掲)