二十五 端緒
しゅる、しゅっ、と衣の擦れる端正な音だけが薄暗い西の対屋に響く。
女房たちが手際よく夫に袍を着つけていくのを、揺羅は身じろぎもせず、ただ見守っていた。
未だ外には曙の光もさしておらず、時折いくつか灯された大殿油の燃える匂いが、立ち働く女房の動きに乗って揺羅のところまで漂ってくる。
夫が住まう西の対にまで来たのは、この高倉邸に入って以来二度目だ。一度目はあの、夫が突然の出奔から帰還した日のこと。こちらの心配をよそに、夫はほかの女の面影を胸に抱いて戻ってきたのだった。不覚にも意識を失い、あまつさえ義兄である宰相に抱えられて東北の対に戻ったあの口惜しさが、いつまで経っても揺羅の心を苛み続けている。
そんな記憶に足を向けることさえ躊躇う西の対にそれでも今日いるのは、夫が勅使を務める最後の機会である日に立ち会うため。どれほど泊瀬が止めても、それだけは妻の務めと揺羅が判断したからだ。決して歓迎されているわけではないことは痛いほど感じている。
艶やかな漆黒の袍に袖を通し、冠を被された春恒は、恭しく差し出された太刀を腰に佩いた。
何とご立派な、と女房たちの声がさざめき広がる中、揺羅はふと訝しげに眉をひそめる。
確か、夫が邸に戻ってきたあの時、太刀がないと女房の衛門が言ってはいなかったか? では、この太刀は新しく用意されたものだろうか?
そこまで考えて、それすらもどうでもよいこととすぐに興味を失った。
「……さま、北の方さま」
ひそめた声でそう呼ばわれていることに気づき、はっと視線を上げれば、すぐ目の前に立ちはだかった春恒が見下ろしていた。
慌てて顔を伏せ、まことにおめでとう存じます、と形ばかりの言祝ぎを口にする。
「そなたも観に参るのか?」
「はい、お義母さまにお誘いいただきましたゆえ」
揺羅の返事を聞くと、春恒はふんと鼻を鳴らした。
「都中の者どもが光中将を嗤いに来る。そのような場に居合わせたいとは、母上もなんと物好きな」
相も変わらず刺々しい言葉を投げつけられ、揺羅は返事のしようもなく、顔を伏せたまま眉を寄せる。
「……いや」
ふと思い直したように、春恒は呟いた。
「それこそがそなたの望みか? な、そうであろう?」
揺羅は答えなかった。ただ、不意にこみ上げてきた不快感を押し隠し、どうぞお気をつけ遊ばしてと口にしただけだった。白々とした空気がその場を覆う。
この六年もの間、夫の心ない言動にずっと傷つき怯えてきたことが嘘のように、今日の揺羅は春恒に恐ろしさを感じなかった。逆に、そのような態度を取られれば取られるほど、揺羅の心は冷静さを取り戻していく。
気づいたのだ。これまでの酷い態度も先日の帝との一件も、己は曲がりなりにも春恒の正妻であるのに、と考えるから話がおかしくなるのだ、と。すべては揺羅自身の心の問題だったのやもしれぬ、と。
夫は、実は己を憎んでいるのではないのかもしれない。否、憎むほどにも名ばかりの妻に関心を持ってはいないのではないか───そう気づいたのはやはり、あの帝からの贈り物がきっかけだ。
いったい何ゆえかは分からぬが、春恒のうちにある御し難く根深い、鬱屈した思いが鋭い棘を生み出し、何より夫自身を刺し苛んでいるのではないか。そしてその痛みを、誰よりも力を持たぬ揺羅を標的として吐き出すことで、自身を守っているだけなのではないか。もし、春恒にとって揺羅なぞどうでもいい存在なのであれば、そのような相手にどれほど酷い態度を取られたとて思い悩むことすら無駄であろう。
その考えが間違っておらぬのなら、春恒もまた哀れだと揺羅は思う。しかし同時に、もはや同情さえも寄せることができぬほどに心は夫から離れてしまっていることにも、揺羅は気づいてしまった。恐れをいだくことさえも愚かしい。
春恒はそれきり、揺羅になにも言おうとはせぬままにくるりと踵を返した。女房や、妻戸の外にひっそりと控えていた従者の俊行が慌ててあとに続く。
出立のざわめきは遠ざかり、揺羅はぽつんとひとり、残された。
静かに顔を上げ、胸の奥に沈んでいる澱のような息を深く吐き出すと、わずかに灯に照らされた対屋のうちを見回す。
ふいに、あの日のことを思い出した。
初めてこの邸に来た日のこと。初めて春恒に会った日のこと。
初めて、夫に裏切られた日のこと。
闇に満ちる衣擦れの音。初めて聞く男と女の息遣い。
あの日から、どれほど苦しんできたことだろう。幼心に、初めて会った夫を一目見て美しいと思ったことをすら、すっかり忘れるほどに。
だが、そういえばいつからか、悪夢にうなされることも、暁闇に目覚めて恐怖の中で朝を待つこともなくなっていた。
揺羅は、もう一度息を吐き出した。そっと立ち上がると、くるりと対屋の中を見回した。
ここに居場所ができることは決してない。そして、それを望むことももう二度とないだろう。
静かに西の対屋を出た。明け初めた朝に、鳥の囀りが響いていた。
*****
卯月のようやく空が明るくなった時分だというのに、邸のうちは出かける準備で慌ただしい気配に満ちていた。
東北の対屋に戻ろうとしている揺羅に、時折すれ違う女房が驚いて視線を向ける。中将の北の方がつき従う者さえも連れずに邸のうちを出歩くことなど、これまでまずなかったからだ。
揺羅はそんな女房の横をさっさと通り抜け、ふと、東の対へと渡る透渡殿の手前で足を止めた。
風に乗って、ちい姫の声が届く。
それはちい姫が住む東の対ではなく、揺羅の住まいである東北の対の方から聞こえてきた。揺羅の口許にほのかな笑みが浮かぶ。
ちい姫は確かに、揺羅の日々を変えた。
揺羅を慕うちい姫の存在だけではなく、夫の母のすべてを瞬時に察してしまう深い瞳も、夫の兄の静かな落ち着きと心配りも、そして、ちい姫の乳母の敵意あるまなざしさえも。
泊瀬だけを味方に孤独に閉じ籠っていた六年もの日々とは比べものにならぬ数ヶ月が過ぎて、十の頃のまま止まっていた揺羅の刻が再び動き始めた。世界が色を取り戻し、凍てつくような寒さは過去のものとなりつつある。囚われていた狭い世界から解き放たれ、これほどまでに世は明るいのだと気づいた。
揺羅は一度大きく息をすると、止めていた足を再びちい姫が待つ対屋に向かわせる。刻々と明るくなっていく空は、まるで揺羅の心のうちを表しているかのようにも思えた。
せわしなくざわめく東の対を通り過ぎ、やがて東北の対屋が見えてくると、揺羅はどこかで張りつめていた心が安堵に緩むのを感じる。六年暮らし続けても愛着を覚えることができなかった対屋の風情を、今初めて、こここそが己の居場所だと感じていることに気づく。
東北の広廂では、ちい姫と宰相の従者である是親が座り込み、なにやら顔を突き合わせていた。是親がいるということは、ちい姫の父もまたこの邸に来ているということだろう。高倉の人々の祭見物に付き添ってくれるつもりなのかもしれない。
揺羅が預かっている山雀の餌を求める鳴き声が響く中、ふたりの姿を眼の端に捉えつつ妻戸からそっとうちに身を滑りこませれば、小さな椀を手にした泊瀬がちょうど反対側からやって来たところだった。
「まあ揺羅さま、お戻りでございますか?」
「ええ」
「殿のご様子はいかがでございましたか? 揺羅さまもご無事で───」
「無事だなんて、大げさね」
上目遣いに窺う泊瀬に揺羅は小さく笑うと、椀の中を覗き込んだ。
「これは?」
「小丸の水でございます。ちょうど今、是親どのが虫の子を……」
そこまで言いかけて、泊瀬はうっ、と袖口で口を覆った。小丸というのはちい姫が山雀につけた名だ。
「……是親どのがおられて助かりました。わたしにはとてもとても」
泊瀬が心底嫌そうに言うのを笑って聞きながら、揺羅は御簾の向こう側を見遣った。先日より鈍の衣を脱いで、今日は可愛らしい薄紅梅の袙を身につけているちい姫は、なにやら楽しそうに是親のすることを覗き込んでいる。
「ちい姫さまはいつ?」
「四半刻ほど前に、是親どのと小丸を見においで遊ばしました」
それを聞いて、揺羅は泊瀬を振り返った。
「小宰相は?」
泊瀬はちらと視線を動かし、それから小さく首を振る。
「今日は来ておりませぬ。祭にも行かれぬのだとか」
どこか投げやりにそう言うと、泊瀬は御簾をわずかに持ち上げて広廂に出て行った。
揺羅は静かに端近に寄ると、御簾のうちからそっと皆がいるあたりを眺める。雛鳥は、小さな羽を必死にばたつかせながら是親の与える餌を一心に食べていた。
小宰相にはきっと、何もかもが気に入らぬのだろう。ちい姫が揺羅の許に来ることも、右大臣の北の方がちい姫に鈍を着せる必要はもうないと言ったことも、山雀の面倒を見ることになったことも。
ちい姫の母君に乳姉妹として永らく仕えていた者であるならば、その心情は理解できぬこともない。幼い頃から共にいた主人を悼む気持ちは、半年やそこらで消えるものではないはずだ。姉女御の時、そうであったように。
ただ、なぜあれほどまでに敵意を見せてくるのか、そのことだけがどうにも解せぬ。初めて会った日からそうだった。揺羅のなにが小宰相の苛立ちに触れているだろうか。
そのようなことを考えていると、泊瀬が揺羅の戻りを伝えたのだろう、ちい姫が輝くような笑顔で揺羅のいるあたりを振り返った。
揺羅は小宰相のことを頭から追い払うと、皆がいる御簾の際で腰を下ろす。
「揺羅さま!」
可愛らしい声で呼んでくるちい姫に、揺羅はご機嫌よろしゅう、と声をかけた。
「小丸は大きゅうなりましたか?」
「今、是親が餌をやってくれてるの。お水はわたし」
鳴き声をあげながら勢いよく口を開ける雛鳥の口に、是親が小さな枝を使って手際よく餌を入れてやっている。
しばらくその様子を見ていた揺羅は、感心したように呟いた。
「……お上手ね」
その声が御簾の向こうにも届いたのだろう、是親がそっと頭を下げた。
「揺羅さま、あのね」
ちい姫が手を口元に添えて、御簾越しに囁く。
「さっき、是親が秘密を教えてくれたの。お父さまも昔、雛鳥を育てたことがあるのですって」
「まあ」
「お祖母さまはご存じないの。お父さまがまだ子どもだった頃ですって。叔父さまと是親、俊行も一緒に」
微笑ましく聞いていた揺羅の口許から一瞬、笑みが消えた。揺羅は思わず視線を上げて是親を見たが、泊瀬となにやら言葉を交わしていてちい姫の言葉は聞こえていないようだった。揺羅は小さく息をつき、ちい姫に言葉を返す。
「……だから宰相さまは、あの子を育てることをお許しくださったのね」
「羽が生え揃ってきたの。きっともうじき飛べるようになって、そして」
ちい姫は揺羅の話など聞いておらぬ風だったが、そこまで言うと、ふ、と言葉を止めた。
「そして?」
薄々その先の言葉を知りつつも、揺羅は優しく問い返す。
「……すぐに、わたしより先におとなになって、飛んでいって、しまう」
揺羅は愛おしさで胸がいっぱいになって、いらっしゃい、と御簾を掲げてちい姫を中に引き入れた。そして、今にも涙が零れそうな幼子の両の手を取り、その顔を覗き込みながら微笑む。
「ちい姫君は立派なお母さまね。だから、もし飛んでいってしまったとしても、きっとまたお母さまが恋しくて戻ってきてくれるでしょう」
揺羅の言葉に、本当? と首を傾げたちい姫は、泊瀬に呼ばれるのを聞いて目に浮かんだ涙を拭うと、また御簾を出て行った。
泊瀬に手を取られて椀の中の水に布を浸し、その滴を雛鳥に与えるちい姫を揺羅はぼんやりと眺める。
春恒にだって幼く邪気のない頃もあったのだと、そんな当たり前のことに少しだけ驚いた。いったい、何があってあのように心を閉ざしてしまったのだろう。
水を飲んだと手を叩いて喜ぶちい姫の姿が眩しくて、揺羅は目を細めた。
この小さな姫君にはもう、つらさや悲しみのない日々を送らせてあげたい。母君を亡くした寂しさを束の間でも忘れさせて差し上げられるのなら、なんでもしよう。
必死に羽ばたく雛鳥の姿に歓声をあげる三人の姿に己の幼い頃の光景が重なる。懐かしさに胸が詰まり、無性に父に会いたくなった。
「ちい姫君さま、宰相さま、東の御方さまがお待ちでございましょう? そろそろお戻りを」
そんな泊瀬の声がして、揺羅は我に帰った。
「揺羅さまとご一緒に行けないの?」
ちい姫が、御簾のうちを振り返って尋ねる。
「皆で一緒に乗ることはできないわ。わたくしも、ちい姫さまのあとからご一緒しますから。ね?」
揺羅は諭すようにそう言うと、御簾の間から小さな包みをちい姫に差し出した。
「なあに?」
「粉熟*よ。昨夜、泊瀬が作ってくれたの。お父さま、お祖母さまにも」
ちい姫は受け取った粉熟を見つめ、それから小さく頷いてありがとう、と笑った。
「さ、皆さまお待ちよ」
「小丸は…」
そう言いながら振り返ったところに、是親が籠に入った小丸を連れてきた。ちい姫はその小籠を受け取ると、泊瀬に託し、是親に手を取られて東の対へと戻っていった。
初夏の日ざしが煌めいて、ちい姫のやわらかな髪が輝いていた。その姿が見えなくなるまで見送っていた揺羅の耳に泊瀬の、そろそろ姫さまもご準備を、という声が聞こえた。
***
出衣*の美しく設えられた牛車が立ち並ぶ一条大路は、喧騒に満ちていた。
その活気溢れる様子は、この六年もの間、高倉の邸に籠もるばかりだった揺羅にはただただ眩しく、そしてどこか不思議な感覚だ。
思いのほか近く、外から声が牛車のうちにまで聞こえてくる。ほら、これが光中将の……という不躾な声を、祭の一行がやって来る前からもう幾度聞いただろう。
見物に押し寄せる人々のお目当てのひとつが光中将を見ることなのだから致し方ないとはいえ、その己の立場を否が応でも思い出されて、高揚した気分も少しばかりしぼんでしまいそうだ。
揺羅たちが着いてしばらくすると、行列を先導する歩兵そして騎馬兵が現れた。揺羅が祭を見に来たのは春恒の妻になる前が最後だから、まるで初めて見る者のように興味深く眺めていると、同乗する泊瀬が細く物見を開けて御簾越しに外の様子を窺いながら、誰かとひと声ふた声言葉を交わした。
そっと戸を閉めた泊瀬に、揺羅が尋ねる。
「誰と話したの?」
泊瀬は、自分たちのためにも用意しておいた粉熟を懐紙の上に出しながら答えた。
「是親どのでございますよ。宰相さまが、こちらの牛車の方につくよう、ご指示をなされたらしく」
揺羅は色とりどりの粉熟を見ながら、小さく微笑んだ。
「いつもお気遣いくださって有難いこと」
同じ兄弟であるのに……と、ふとよからぬ考えが浮かび、揺羅は小さく頭を振って追い払った。
差し出された菓子をひとつ手に取って、揺羅は御簾の向こうに目を向ける。たくさんの美しい馬たちが通り過ぎると、華やかな行列を見守る人々が口々に声をあげた。
「姫さま、ほら……殿が」
夫が、帝の遣いを仰せつかった勅使として揺羅たちの見守る前を通り過ぎていく。その表情までは見えぬが、多くの人々の視線を奪うだけの魅力はきっとあるのだろう。まわりの観衆から伝わるどよめきに、揺羅は改めてそのことに気づかされる。
揺羅はだけど、そんな夫の姿をまるで他人ごとのように見送った。泊瀬も黙り込んだまま、何も言おうとはしなかった。
春恒もまた、こちらにも、そして隣にいるだろう右大臣の一行にもちらと目を向けることさえせず、その姿はすぐに後ろ姿となり、やがて見えなくなった。
揺羅は手にした粉熟を口にする。昔、乳母の榊が作ってくれたと同じ味だ。懐かしい、ほのかな甘みが心に沁みた。少し、涙が出そうになった。
そんな揺羅の様子を見ていた泊瀬が、労わるように声をかける。
「姫さま、お疲れでございましょう? ひと足先に戻りましょう。ね?」
泊瀬は揺羅の返事を待つことなく、また物見を開けて外にいる是親に声をかけた。
まだ、祭の行列は続いている。揺羅はどこか申し訳ない心地になりつつも、まだ心から楽しむ余裕のない自分自身の感情を持て余し、その場にいたいとも思えず黙り込むしかなかった。
しばらくすると、車がわずかに揺れて牛の呑気な鳴き声が聞こえてきた。牛飼童の声が弾む。揺羅はほ、と息をついた。
人波をかき分けるようにしてゆるゆると動き出した車は、かなりな時間をかけてようやく一条大路から抜けたようだった。高倉の邸まではそれほどかからない道のりのはずだが、今はなかなか前に進めぬようだ。いつにも増してのろのろと進む牛車の中で、揺羅がそっと目を閉じた時だった。
「おや、あんた大丈夫かい?」
女の大きな声が外から聞こえてきた。
わずかに眉を寄せて目を開いた揺羅と泊瀬は、思わず顔を見合わせる。牛車を進ませるのも難儀するほどに祭見物の人々でごった返した小路でのこと、誰かが転んだか何かだろうか。
その時、また同じ女の声がした。
「なんだって腹に子がいるってのに一人でこんな人込みに出てきたんだよ、危ないじゃないか。連れはいないのかい?」
無遠慮な女の、いくら祭が見たいからってそんな身体で……という言葉を聞いて揺羅は、ほんの少しだけ物見を開けた。
眩しい光に一度思わず目を瞑る。それから、少しずつ慣れてくる明るさにそっとあたりを窺った。なにかできることはないかと思ったのだ。
揺羅たちの乗る牛車のすぐ側、道の端の方でその女は、体調を崩してしゃがみ込む若い女に声をかけているようだった。
何人かが、若い女の背などさすりながらその顔を覗き込んでいる。若い女は連れもおらず一人きりで、確かに身ごもっているようだった。
「泊瀬、何かできないかしら」
揺羅は視線を若い女に置いたまま、泊瀬にそう尋ねた。
「水でも渡せない? 赤子がいるのに、あのままでは───」
そこまで言って、揺羅は言葉を呑み込んだ。
若い女がその青ざめた顔を上げたのを見たのだ。
間違いない。その女は左近の君───夫の子を宿しているはずの、泊瀬の姉だった。
粉熟
米、小麦、豆、胡麻などを挽いて餅にし、甘葛と合わせて竹筒に詰めたのち、押し出して切った唐菓子。
出衣
牛車の前後にかけられた御簾の下から零れ出させた、女性の衣のこと。この衣の襲の色目によって、乗っている貴人の趣味や財力を表しました。