二十四 山雀
ぎぎ、と鈍い音がして眩い朝の光が細くさし込み、ゆるく羽織った萌黄の袿の上を淡く輝く光がすべる。
揺羅は目を細め、開け放たれたばかりの半蔀から外を見上げた。爽やかな朝の気配が吹きこみ、煌めく青い空の向こう、どこかで拙くおぼつかぬ鳥の鳴き声がする。
「気持ちのいい日になりましたね。しばらくこのままにいたしましょうか?」
泊瀬はそう言って御簾は下げぬままで手にした撞木*を置くと、茵につく揺羅のところに戻ってきた。曖昧に微笑んだ揺羅は、衣を淡く照らす光を指で辿った。
「お手水を」
そう声をかけられて、差し出された角盥に視線を戻し、澄んだ水に手を差し入れた。
いつも何かしら季節の花を浮かべてくれる泊瀬だが、今を盛りと咲く藤花を避け、清楚な壼菫の花が水の中で咲いている。そのひやりとした心地よさが、ほんの少しだけ揺羅の動揺した心を落ち着かせてくれる気がした。
手拭を手渡した泊瀬は、揺羅の後ろにまわってその髪をふわりとまとめる。
「姫さま、お気に病むのはもうやめましょう」
泊瀬は泔坏*の水に櫛を浸しながら何気なくそう言うと、揺羅の艶やかな髪を梳き始めた。
「今上さまは、左大臣家に所縁の姫さまに姉女御さまの形見を分けてくださった。ただそれだけのことでございましょう? そこまでお悩みになる必要はないのでは?」
励ますように一気にそこまでを言って、泊瀬は揺羅の様子を窺うように口を噤んだ。揺羅もまた何も答えず、ただ、そっと置かれた匣に視線を向ける。
明け方、揺羅が二階棚の横に見つけたその匣は、昨夜、雨晒しで妻戸の外に置かれていたのを、泊瀬が何とは分からぬままに運びこんだものだったらしい。
夫が参内したその日に置かれていた、極上の練絹の藤襲の一揃いが入れられた匣。しかも、添えられていたのは帝の手蹟による文。とすればそれは当然、帝から届けられたものということになろう。
あまりにも唐突な贈り物に、揺羅の胸のうちに戸惑いを通り越して不快な胸のざわめきが湧き起こる。その贈り物の仲立ちをしたのが誰かは、火を見るより明らかだ。
「何も言わずに置いていくだなんて」
揺羅は独り言ちるように呟いた。
「あのお方らしいこと」
不思議なほど、哀しさはない。
ただ、あの失踪からの帰還後、以前にも増して足の遠のいた夫のおこないに対する情けなさと苛立ちだけが揺羅の心に溢れる。そして、そんな自分も嫌だった。
「藤のゆかりのやどをたずねよ、だそうよ」
諦めたようにぽつりとそう呟けば、泊瀬は髪を梳く手を止めて首を傾げた。
「藤のゆかりの……?」
「主上がそう書かれていた」
「まあ」
鏡越しにも、泊瀬の顔色がさっと変わったのが分かった。
「御文も入っていたのですか? 姫さま、それは」
泊瀬が手にした櫛をも放り出しそうな勢いで動揺したのを見て、揺羅はなだめるように続けた。
「女御さまの命日も近い。きっとお淋しいのでしょうね。想い出がたくさんおありでしょうから……まさか、本気でわたくしに会いに来いと望んでおられるわけではないでしょう」
そもそもわたくしがどうやって内裏になど、と揺羅が言えば、泊瀬は少し安心したように息をついて、また思い出したように髪を梳かし始めた。
「そうでございますよね、姉君さまは今上さまのご寵愛深かった女御さまでございますもの。今もお忘れでないのも致し方なきこと……何かお慰めするすべがあればよろしいのですが」
同情のこもった泊瀬の言葉に揺羅は小さく唸り、わずかにうつむいた。
そう。揺羅は帝にとって、畏れ多くも義理の妹という立場にある。だから、亡き女御の思い出をともに偲ぶということは別段おかしなことではない。
ただ、と揺羅はどうしても解せぬ疑問を心のうちにだけ呟いた。
ならばなぜ、姉女御の実家でもある左大臣家の父にこの衣を託さなかったのか。なぜ、揺羅の夫である春恒にわざわざ遣いをさせたのか。そこに隠された帝の意図は───
「そういえば姫さま」
泊瀬にそう声をかけられて、揺羅ははっと我に返った。
「なに?」
「先ほどお届けした宰相さまへの御文は、例の蛍の宴のことでございましょうか?」
まだ夜も明けぬ頃に目を覚ましてしまった揺羅は、基冬から届いていた文に返事を書いて泊瀬に託したのだった。
「色々考えたけれど、お義母さまのせっかくのお気持ちだからお受けすることにしたの」
「そう、でございますか」
姉が世を去ったあの日、二匹の蛍に手を伸ばして嗚咽を零す父の姿を揺羅とともに見ていた泊瀬である。蛍が何を意味するのか理解しているはずだ。
「大丈夫よ、お父さまもそのくらいでお心弱くなられるはずはない」
揺羅は泊瀬の心配を打ち消すように、敢えて明るくそう言った。
姉女御の死から今年で七年になる。その間に過ぎ去ったいくつもの季節を、父もまた過ごしてきたのだ。蛍というだけで心が折れてしまうほど、姉の死が今も父の心を責め苛んでいるはずはなかった。
だが、父と会えることは嬉しい反面、怖い。あれほど可愛がってくれた父の目に、今の己の姿はどのように映るのだろう。
揺羅はぼんやりと鏡に映る顔を見た。
そこにいるのはもう、父とともに暮らしていた幼い揺羅ではない。すっかりおとなびて、けれども傷つき、疲れ果てた気配を纏う娘。記憶に残る同じ年頃の姉の姿は、いつももっと輝いて見えたというのに。
十の時に右大臣家に移り、それ以来父と話すことはおろか見えたことすらない。途切れることなく遣り取りしてきた文は他愛もない内容ばかりだった。
いったい、父は揺羅の状況をどこまで把握しているのだろう? 辛いこと、苦しいことを何ひとつ伝えていない揺羅だけれど、あの父が何も気づいていないとは到底思えぬ。それでも、一度たりとも揺羅を訪ねてこない父が何を思い、何を考えているのか、揺羅は聞いたことがない。
なぜ、あんなにも幼い時分に春恒の妻とならねばならなかったのか。いったい父はなんの目的があって揺羅を右大臣家へと遣ったのか。または……何から揺羅を隠し、守ろうとしたのか。
小さく息をついて、揺羅は鏡の中の自分から目をそらした。
これまで、幾度も幾度も考えてきたことだ。なぜ、己は右大臣家にいるのだろう、と。
右大臣家出身の妃がいない現状、左大臣家の血が流れる未だ幼い東宮の地位を脅かす皇子が生まれる可能性は低く、東宮を守るためという論拠は弱い。
揺羅が春恒との間に子を為すことで、いずれ東宮に入内する姫を確保する狙いは両家ともにあっただろう。だがしかし、あの父がそのことを一番の目的と幼い揺羅を手放したとはどうしても考えられぬ。
一方で、右大臣は揺羅と春恒との間に御子は望めぬと見切りをつけたようだ。その代わりに、一族でもある左大将の姫を尚侍として帝の御許に上げようと目論んでいたのだが、その話もまた、他でもない春恒が潰してしまっている。
結局のところ、なかなかことがうまく運ばぬ原因を作っているのはすべて春恒だと言っても過言ではない。尚侍の一件では表立って咎められた様子はないものの、過日の失踪騒ぎも含め、夫が帝の不興を大いに買っているだろうことは想像に難くない。
そのような夫が帝の文を携えて帰り、妻に届ける。その行為の意味が、揺羅の想像どおりではないとどうして言えようか。
寵姫を喪った帝の心の孤独につけこみ、歪んだ忠誠の証としてその妹を充てがうことを、ほんのわずかでも考えているとしたら? 春恒にとって、一度たりとも心通わせたことのない妻である揺羅を差し出すことなど、きっと何の痛みも伴わぬものに違いない。
そうしてまた、当の帝自身はどのような思惑があって形見を春恒に託したのか───
考えれば考えるほど悪い予感が心のうちで頭をもたげるてくるのを、揺羅は自身でとどめることができなかった。
もう童ではない。己の道がどこに向かっているのか、知る権利はあるはずだ。だからきっと今こそ父と話さねばならぬ。
父を招いた宴があるというのも、その機を与えられたことに感謝するべきなのだ、きっと。会うのは怖いなどと言ってはいられない。
「……明日は髪を洗う日でございますよ。このまま、よいお天気だとよろしいのですけれど」
沈み込んだ思考の向こう側から、泊瀬の声が聞こえた。
「姫さま?」
返事をしない揺羅を鏡の中から覗く泊瀬の視線に捕まり、小さく首を振ってかすかに微笑んで見せた。
「こんなに空気が澄んでいるもの、明日もきっと良いお天気よ」
そう。
澄んだ空気が明るい一日を運んでくるように、今ある問題を解決すれば揺羅の人生は闇から抜け出せるかもしれない。
そんなことを考えた時だった。
「───もし、東北の御方さま」
東の対屋に繋がる壺に面した簀子のあたりから声がして、揺羅と泊瀬は同時にそちらを見た。
泊瀬は声のする方へ裳裾を翻して向かい、揺羅は黙って鏡の中に視線を戻すと、頬にかかった下がり端を直す。
東の対の女房の、何やら伝えているひそめた声がわずかに聞こえた。もう一度そちらを振り返り、ふと衣の入った匣が目に入って手を止めた。
そこにあったのはこの上なく美しい袿の一揃いであり、さまざまな絵の描かれた和歌集と同じく、姉に対する帝の想いをこれ以上ないほど伝えてくるものだ。
そんな姉の身代わりになどなれるわけがないし、何より帝自身が望むはずもない。馬鹿げている。
「承知いたしました」
そう言って戻ってきた泊瀬は、今これからちい姫が来ること、そしてまた、ちい姫の父である宰相と祖母である東の御方も一緒だと伝えた。
「姫さま、早うお召し替えを。花橘*の衣でよろしゅうございますか?」
揺羅があまり藤を好まぬことを、泊瀬は知っている。
揺羅は大きく息を吐き出し、庭の方に目を遣りながら言った。
「とにかく、あの匣を隠してしまって」
*****
「ゆ、ら、さ、ま」
そんな風に声がして御簾の向こうからちい姫が可愛らしい顔を覗かせたのは、揺羅が身支度をすっかり終えた辰の刻*の頃のことだった。
その声を聞いた瞬間、揺羅の心を曇らせていた先ほどまでの鬱々とした物思いは、稚い笑顔の向こうに立ち消えた。
「ちい姫さま、ご機嫌よろしゅう。お待ちいたしておりましたよ」
揺羅はそう言いながら、愛らしい姫君に手をさしのべる。
寂しげな鈍の袙を纏ったちい姫は、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべて小走りに揺羅の方へとやって来た。
「あら、お一人でいらしたの? 小宰相は?」
やわらかな両の手を取って見上げるように揺羅が問えば、ちい姫は知らない、とそっぽを向いた。
「やっぱり小宰相は意地悪」
「まあ、なぜにございますか?」
「あのね……」
ちい姫が揺羅の耳元に内緒話を伝えようとする声を、妻戸から入ってきたほかの人々のざわめきが掻き消した。
揺羅は東の御方の姿を認めて茵を移り、内緒話を伝えそびれたちい姫は揺羅のすぐ隣に座る。東の御方の後ろに、小宰相も控えた。
「お義母さま、ご機嫌よろしゅう。わざわざおいでいただくなど、心苦しく」
「何をおっしゃるの、こちらの用事で参ったのですよ。お邪魔ではなかったかしら?」
にこやかに笑いながら、右大臣の北の方は鷹揚に茵についた。
「滅相もございませぬ」
「いつも姫がお世話になっています。おかげさまで、姫の成長はめざましいばかり。ねえ、宰相?」
東の御方はそう言いながら、御簾の向こうにいるちい姫の父に視線を向けた。揺羅も思わずそちらを見たが、もちろん几帳に阻まれてその姿までは見えなかった。
「……娘は成長著しく、笑顔も増えました。どうか、ありがたく、忝く思っているとお伝えいただきたい」
しばらくの間のあとに、そんな生真面目な言葉だけが聞こえてきた。
揺羅も直接言葉を返すのは憚られて、代わりに東の御方に向かって小さく礼をして見せる。
「わたくしも同じように思っておりますよ。まだまだ幼い子ですけれど、時にこちらが驚くようなことを申すのです。ほら……ちい姫、なんだったかしら? 」
「なあに? お祖母さま」
「誰か言ふ……」
祖母がそこまで言いかけると、ちい姫はすらすらとその詩を口にした。
「誰か言ふ 春の色の東より到ると 露暖かにして南枝に花始めて開く*」
揺羅が教えたその詩を拙い口調ながらちい姫が暗唱するのを聞いて、東の御方は言った。
「これを覚えてきた日にね、戻ってきて言うのですよ。ここは東の御殿だから花でいっぱいにしましょう、と。なんといじらしゅう、愛しいこと」
そう言って孫娘を見つめる祖母の言葉に、ちい姫はくすぐったそうに揺羅の袖に顔をうずめた。
「あなたがどうやってお育ちになったか、分かる気がします。左の大臣のお目にかかれるのが楽しみですよ」
しみじみとそう言われて、揺羅もまた、ちい姫と同じようにわずかにうつむいた。
気恥ずかしさを隠すようにちい姫の背を撫でて、その愛らしい顔を覗き込む。すると、ちい姫は瞳をくるりと動かし、突然その身を起こして声をあげた。
「ねえ揺羅さま、もうじきお祭があるのですって。お祖母さまが、揺羅さまもご一緒に観に行きましょう、って」
「お祭……賀茂祭*?」
揺羅はそう言いながら、東の御方を見た。
「ええそう。中将が今年また、近衛使を仰せつかったのはご存じ?」
「……」
揺羅は咄嗟に言葉を返すことができなかった。もちろん、そのようなことは夫から聞いてもいないし、今まで一度たりとも観に行ったことはない。
そんな揺羅の心のうちを知ってか知らずか、東の御方は続けた。
「中将が使を務めるのも今年が最後となるやもしれませぬゆえ、ね、ご一緒いたしませぬか?」
揺羅はなおも言葉に詰まり、東の御方は静かに言い添えた。
「もちろん、あなたがお嫌でなければ」
「嫌だなどと、そんな───」
「揺羅さま、ではご一緒できるのね! お父さま、お父さま!」
ちい姫はぴょんと立ち上がって簀子にいる父の方に話しかけ、後ろに控える小宰相がひそめた声で、姫君さま、と諌めるのが聞こえた。
「お父さまがつき添ってくださるから大丈夫よ」
嬉しそうにそう言うちい姫に、揺羅はなんと答えていいか分からず、ただ淡く微笑み返した。
揺羅の意思は二の次で話が進んでしまっていたようだけれど、この邸から出るのは数年前に石山詣をして以来だから、少しは気晴らしになるかもしれない。
「……ありがとうございます、わたくしまで」
「何を言うの、あなたは中将の……」
中将の、とその先は言わぬまま、東の御方は言葉を呑み込み、孫娘に視線を移した。
「楽しみが増えましたね、ちい姫」
今にも御簾を捲り上げて簀子に出ようとしていたちい姫は、ふと足を止めて揺羅を振り返る。
「あのね、揺羅さまにもうひとつお願いがあるの」
「お願い?」
揺羅が問い返すのと、どこか気まずそうに東の御方が咳払いをするのは同時だった。
「待ってね」
ちい姫はそう言い置いて、控えていた女房が持ち上げた御簾から簀子に出て行った。何ごとかと振り向けば、東の御方はどこか困ったように眉を下げて扇で口許を覆う。
「それこそ、わたくしどもが今日こちらに参った理由なのですよ」
その言葉も終わらぬうちに、ちい姫が小さな籠を大事そうに抱えて戻ってきた。それを見ながら東の御方は言った。
「この子のたっての願いです、ひとつ、頼まれてはくれませぬか?」
揺羅の前にそっと置かれたその小籠には、小さな鳥が一羽。
「これは……」
「お母さまとはぐれてしまったみたいの。だから揺羅さま、わたしたちで育てたいの」
ちい姫が、切実な瞳を揺羅に向ける。
「この子を、でございますか?」
揺羅は、目の前にいる雛鳥をまじまじと見つめ、戸惑いを隠せぬ声で言った。
その小さな鳥は、恐怖のせいで動くこともできないのだろう、わずかに羽を膨らませてじっとうずくまっている。
籠を覗き込んでいた揺羅の視界に、ちい姫のふくりとした頬とまっすぐな瞳が割り込んできた。
「揺羅さまは、なんの鳥かお分かりになる?」
ひそめた声にめいっぱいの好奇心を滲ませてそう聞いたちい姫は、揺羅と御簾の外にいる父とを見比べている。
薄灰色の身体にまだやわらかな産毛を纏い、腹は朽葉のような色をしているこの鳥は、かつて、ちい姫くらいの年頃に父に抱かれて見上げた木の上で見た鳥に似ている。
「これは……山雀でございましょうか?」
揺羅が多少自信なさげに答えると、ちい姫は大仰に驚いた顔をして見せ、それから父に向かって声をあげた。
「お父さま、揺羅さまも山雀だ、って!」
喜ぶ娘の声に父から返ってきたのは、これ、そのように大きな声を出すでない、という言葉だったのだが、そんなことは意に介さず、ちい姫は嬉しそうに揺羅に尋ねた。
「ね、この子を育てたいの。揺羅さま、お手伝いくださる?」
鳥を小籠に入れて飼うことができるのは知っているが、もちろん経験などない。しかも、自由に大空を飛ぶことを許されている鳥を、そのような狭いところに閉じ込めてしまうことに揺羅は賛成できなかった。
「揺羅さま……?」
考えこむ揺羅に、ちい姫が不安げな声で呼びかける。
「───ちい姫さまは、なぜこの鳥の面倒を見たいと思われたのですか?」
揺羅はちい姫の目をしっかりと見返し、そう尋ねた。
幼子の気まぐれな好奇心で、小さな命を玩ぶことはできぬ。この鳥は本来、外の世界にいるべき命だ。
「なぜって……」
ちい姫は揺羅の前にすとんと座り、言葉に詰まって考え込んだ。
揺羅は待つ。幼いなりに、ちい姫が何を思っているのか知りたいから。
東の御方が、わずかに身じろぎする気配がした。
「この子にはお母さまがいないから」
ちい姫がその言葉を言った瞬間、その場の気配が一瞬止まった気がした。誰もが口を噤み、ただ視線だけを動かして様子を窺っているような、妙な雰囲気が生まれた。
揺羅もまた胸をつかれ、何かを思うより先に身体が動いた。ちい姫をぎゅっと抱きしめる。幼子の匂いがどこか懐かしい思いを呼び覚ます。
母がいない淋しさ。それは、誰よりもこの幼い姫が抱える孤独の哀しみだ。
「……この子が大人になって自分の力で生きていけるようになるまで、とお約束してくださるなら」
山吹色のやわらかな衣の中で、ちい姫がこくこくと頷いた。そのまましがみついてきたその頭の髪を、揺羅は優しく撫でる。
そんな二人の様子を見守っていた東の御方は、扇の陰で密かに息をつくと、ふと思い出したようにちい姫の乳母を窺い見た。そして、そこにどこか棘のある冷ややかな視線があるのを確認して、もう一度、先ほどとは違う吐息をつく。
「さあさ、ではその子をどのように育てるか、考えねばなりませぬ。姫はお母さまになったのでしょう?」
祖母の言葉に、ちい姫は顔を上げて揺羅に言った。
「お父さまも助けてくださるって。是親に頼んでくださるって」
「是親どの?」
「お父さまの従者の、ものすごく大きな人」
ま! とそれを聞いた東の御方が思わず笑い声をあげ、ちい姫は揺羅の腕の中から再び父親の方へ駆け出していった。
「姫の言うとおり、是親が何かしら気を配ってくれることと思います。ごめんなさいね、姫のわがままにつき合わせることになって」
東の御方から申し訳なさそうに言われて、揺羅は首を振った。
「いいえ。わたくしも、ちい姫さまのお優しさに心打たれましたゆえ」
そう言いながら、揺羅は几帳のとばりの隙間からちい姫を追った。
御簾の向こう側、明るい日ざしを背に、いつかのように父宰相に抱き上げられている姫を見つけ、愛おしさに胸が疼く。
ちち、とその時初めて、籠の中の山雀が鳴いた。
撞木
蔀戸を開閉するための、T字型の棒。
泔坏
整髪の時に、米の研ぎ汁を入れる器のこと。この時代、米の研ぎ汁に浸した櫛で髪を梳かしていました。
花橘の襲
山吹色から青(今の緑)の濃淡、白または青を重ねた襲。
(山吹濃き薄き二。白き一。青き濃き薄き。白単。青単。───『満佐須計装束抄』より)
辰の刻
現在の午前九時頃の前後二時間。
誰言春色従東到 露暖南枝花始開
『和漢朗詠集 巻上 春』より菅三品(菅原文時・道真の孫)の詩。
五嶺蒼蒼雲往來
但憐大庾萬株梅
誰言春色従東到
露暖南枝花始開
「五嶺は蒼々として雲が現れては消え行くばかり。ただ大庾の嶺だけは万株もの梅が素晴らしい。誰が言ったのだったか、春の気配は東から訪れると。露も陽の光に暖められて、南の枝から花が咲き始めた」という意。
賀茂祭
下鴨神社の祭神 玉依姫命が上賀茂神社の祭神 賀茂別雷命を生んだといわれている、卯月の中(二回目)の酉の日におこなわれる上賀茂神社と下鴨神社の祭礼。帝の勅使を近衛中将が務めます。(再掲)