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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
22/39

二十一 禍時

 同じ頃、揺羅ゆらの住まう高倉邸の東北ひがしきたの対では、基冬もとふゆの娘であるちい姫が小さな手で文字を辿っていた。


「おやしきのうめのきに、ほととぎす、が、やってきました……なにがおかしいか、ひめには、おわかりですか?」


 そこまでをたどたどしく読むと、ちい姫は大きく息をついて顔を上げた。


「ほととぎす?」


 そう言いながら、傍らの揺羅を見上げる。その好奇心に満ちた瞳を見て、揺羅は思わず笑みを浮かべた。

 毎日は会うことのできぬ娘に宛てて、手習いの練習にと父である基冬から日々届けられるその文は、遣いの者に託されることもあれば、高倉の邸を訪れた基冬自身が直接届けてくれる時もある。今日のように夕刻になってから文が届く時は、恐らく基冬がこちらに来ている。ちい姫もそのことを分かっているから、このあとに会えるであろう父になんとか答えを伝えたくて、また一生懸命に文字を読むのだ。


「おかしいのは……」


 父からの謎かけに、ちい姫はそう独り言ちながら可愛らしく首を傾げた。


「ほととぎす?」


 窺うような声に揺羅は小さく笑う。


「梅は春に咲くわね。春にやって来る鳥は?」

「うぐいす……そうだ、梅の木にほととぎすがやって来るのがおかしいの!」


 嬉しそうにそう答えるちい姫に、揺羅は頷いて見せた。


「梅が枝に をりたがえたるほととぎす 声のあやめも誰か分くべき*───夏の郭公ほととぎすが春の木に止まって、何をしていたのかしら?」

「きっと、ほととぎすも本当は梅が好きだったのよ」


 思わぬ答えに揺羅の目が丸くなる。それから、思わずぷっと吹き出した。


「そうね、ちい姫さまのように梅が好きなのね」

「わたしのように?」


 ぽつりとそう繰り返したきり、ちい姫は口を閉ざした。揺羅は笑みを収め、幼い横顔が翳るのを切なく見る。今もなお、生まれ育った白梅邸が恋しいのに違いなかった。

 しんと落ちた沈黙に、その時遠く郭公ほととぎすの啼き声がかすかに響いた。


「……ほら」


 声をひそめて揺羅は囁いた。


「聞こえた? 郭公の啼き声が。かれ時になって、山から下りてきたのね」

「ほととぎす……」


 そう呟くや、ちい姫は半蔀はじとみにかけ寄って耳を澄ます仕草をした。

 きょ、きょきょきょきょ、不思議な調子で啼き続ける鳥の声が、どこか物悲しく夕刻を告げていた。


「うぐいすとは声が違う」

「ええ、そうね。ちい姫はどちらがお好き?」


 揺羅が尋ねると、しばらくその啼き声を聞いていたちい姫は、うぐいす、と答えた。


「だって、ほととぎすの声はなんだか淋しい」


 淋しい、という言葉に揺羅は、思わずまじまじと目の前にいる小さな姫君を見た。ちい姫は、自分の言葉など気にも留めぬように、一生懸命に半蔀の向こうを覗き込んでいる。

 郭公の啼き声は淋しい───確かにそうだ。

 幼いちい姫がなにげなく語る言葉は、時にとても鋭く的を射ている。こういう立場に生まれ落ちた姫はやはり、その身に只びととは違う感覚を持ち合わせているのでもあろうか。

 揺羅はどこか感慨深い面持で、夕風に揺れる振り分け髪が幼い頬を撫でているのを眺めた。

 小さなその身に定められた使命をどれほど理解しているのかは分からぬけれど、持って生まれた才は磨かれ、玉となり、やがては人の上に立つ者と成っていくのだろう。そうしてちい姫が年頃になった時、内裏うちに入るに相応しい立派な姫君となる姿が目に浮かぶようだった。

 揺羅はわずかに瞳を細め、しばしかなしい心地でその横顔を見ていたが、やがて物思いを振り切るようにわざと明るく声をかけた。


「さあさ、淋しがりやの小さな姫君さま。そろそろ東の対に戻る刻では? 宰相さまもお待ちにございましょう」


 半蔀のへりに凭れかかってぼんやりと外を眺めていたちい姫は、それを聞いてくるりと振り返った。そうして、ませた調子で揺羅に言い返す。


「淋しがりやは、揺羅さまの方でしょ?」


 その言葉に虚を突かれ、揺羅は思わず目を見開いた。淋しい?


「そんなこと……」


 笑いを滲ませ、否定しようとした揺羅にちい姫が駆け寄った。


「でもね、大丈夫。わたしがずっと揺羅さまのおそばにいるから」


 優しい小さな手が、揺羅の手を取る。咄嗟に言葉を返すことができなかった。

 ちい姫のあたたかさが繋がれた手から流れ込んできて、心が震える。

 出会った時には、冷え切ったちい姫の手を引いてこの対屋に迎え入れたというのに、今は揺羅の方が慰められているようだ。そう考えて、いいえ違う、とすぐに思い直した。

 あの、初めて出会った時でさえ、確かに揺羅はちい姫のいとけなさに慰められていた。ちい姫といる間は、日々の辛さも淋しさも、夫の仕打ちさえも忘れていられた。いつも慰められ、そうしていつの間にか、この小さな姫君は揺羅にとってなくてはならない存在になっていたのだ。

 手放したくない、このぬくもりを───揺羅は、どこか泣きたいような気持ちでちい姫に微笑みかけた。


「ありがとう、ございます。ちい姫さま」


 揺羅がちい姫の手をぎゅっと握り返すと、またどこかできょ、きょきょきょ、と郭公の声がした。緩やかに翳っていく陽が、ときを知らせる。


「……ほら、もうお帰りなさいと郭公も啼いているわ」


 握られた手をそっとはずし、揺羅はその背を優しく押した。

 乳母めのとである小宰相こさいしょうが、泊瀬はつせとともにすでに帰り支度を始めている。

 小宰相はてきぱきと手際よく文机の上を片づけ、手習いの紙をまとめていたが、ふとその手を止めて、まあ、と小さく感嘆の声をあげた。


「姫さま、まこと日に日にお上手になられ、この小宰相、本当に誇らしゅうございます」


 それを聞いた泊瀬が手習いを覗き込み、大いに同意して頷いた。


「ちい姫君さまの上達の早さには、こちらの御方さまも驚いておいでです」


 小宰相はしかし、その泊瀬の言葉など聞こえてはおらぬように、ちい姫を見つめてどこかうわずった声で続ける。


「これならじき、主上おかみにも御文を差し上げられますね。主上もきっとお待ちのはずですから」


 その瞬間ちい姫の足が止まり、小さな手がまた、ぎゅっと揺羅の袖を掴んだ。

 揺羅もそのことに気づいて、わずかに眉を寄せる。

 幼い姫が口にした、ずっと揺羅のそばにいる、というのはつまり、ずっと一緒にいたい、ずっとここにいたい、という気持ちの裏返しに違いない。小宰相もちい姫の言葉は聞いていたはずだ。その直後に帝の話をするなど、あまりにも幼心を追い詰めるやり方ではないか。

 ちい姫がいずれ東宮の妃になるということは半ば決まったことであろうに、いったい何を焦っているのだろう、この忠実な女房は。避けることのできぬ運命さだめの重さが、この小さな心にはどれほどのものであるか、そんなことすら分からぬのか。

 揺羅の心に言い表しがたい苛立ちが湧き起こり、ちい姫のためにも言わねばならぬような気がした。


「あの、乳母の君。差し出がましいかもしれませぬが」


 揺羅が小宰相に声をかけるのは、初めてのことかもしれない。小宰相ははっと頭を下げた。


「泊瀬も申したとおり、わたくしもちい姫君さまの上達のめざましさには驚いております。されど、姫君さまは未だ四歳……まだまだいとけなく、つたないところも目立ちます。今しばらくは、のびのびと学ばせて差し上げたいのです。主上に御文を奉ることは、もうしばらく待ってはいただけませぬか」


 揺羅は、できるだけ小宰相の反感を買わぬように言葉を選んだつもりだ。それでも、片づけの手を止め、感情を見せぬ瞳を伏せる小宰相の全身からは、一切を受け付けぬ拒絶の意思が伝わってくる。

 しばし沈黙を貫いていた小宰相はやがて、畏れながら、と口を開いた。


「主上はきっと、そのような拙さすらも愛おしゅうお思いでございましょう。なぜなら」


 そこまで言った小宰相は、静かに顔を上げ、しかと揺羅を見据えた。


「ちい姫さまは亡き萩の宮さまの唯一の姫君。主上にとっては、誰よりも大切に思うていらした妹宮の忘れ形見にございます。一日も早うお会いしたいと思うておられるに違いありませぬ」


 まるで挑むような小宰相の視線と言い切る言葉の強さに、揺羅は戸惑う。


「わたくしは、畏れ多くも萩の宮さまの乳姉妹ちしまいとして幼い頃からお側近くにお仕えし、幼少の頃の主上とも近しく関わって参りました。主上と萩の宮さまは、それは仲のいい兄妹であらせられました。ちい姫君さまは、幼い頃の萩の宮さまによう似ておいでです。主上もどれほど懐かしゅう思し召されることか。ですから早う、会わせて差し上げたいのです」


 小宰相はそう言うとふわりと瞳をゆるめ、口元に笑みさえ浮かべた。その視線は、揺羅を通り越してどこか遠くを見ているかのようだ。

 萩の宮の乳姉妹であり、幼い頃には帝も共に過ごした───揺羅が今初めて耳にしたこの事実こそが、小宰相の矜持なのだ。

 主上に会わせて差し上げたい、などと軽々しく言える女房は、恐らくこの者以外にはおらぬだろう。その立場から見れば、たとえ揺羅が権門の姫であったとしても、小宰相の真のあるじとは比べものにはならぬ。だから、いつもどこか見下したような態度を取るのに違いない。

 揺羅はようやく腑に落ちたような、それでいてどこか計り知れぬ恐ろしさを覚えた。

 気づけば、ちい姫の手がうちきの袖口をまさぐって、揺羅の手を握りしめている。小宰相の思惑がどうであれ、これ以上ちい姫に聞かせるのは忍びない。ちい姫の小さくあたたかな手をぎゅっと握り返し、揺羅はきっぱりと言った。


「乳母の君のお気持ちはよう分かりました。このことはまた、日を改めてお話しいたしましょう」


 はっと、まるで夢から醒めたかのような表情で揺羅の方を向いた小宰相は、黙って頭を下げた。

 さすがの小宰相も、きっと揺羅の言ったことは理解してくれたのだろう。揺羅は幾分安堵して、思い直したように小さな背をぽんぽんと叩くとちい姫に目線を合わせた。


「さあ、お父君も今か今かとお待ちにございましょう。先ほどの問いが解けたことを、早くお話しせねば」


 どこか怯えにも似た表情を浮かべていたちい姫は、郭公ほととぎすのことを思い出したのか、花が咲いたような笑顔を浮かべた。


「揺羅さま、わたしね、お父さまにもっともっと御文を書きたいの。和歌うたも」

「和歌も? では、もっともっと学ばねばなりませんね」


 そう言ってちい姫に微笑みかけ、何気なく視線を小宰相の方に向ける。そうしてその瞬間、揺羅の微笑みが水をかけられた火のように消えた。

 そこにあったのは、いったいどれほどの憎しみを持っているのかというほどの、敵意に満ちたまなざし。今まで幾度となく感じてきた小宰相の負の感情は間違いなく、他でもない揺羅自身に向けられているのだと認めざるを得ないほどの。

 小宰相にとって取るに足らぬ左大臣家の姫でしかないはずの揺羅に、なぜそこまでの敵意を? 揺羅には皆目見当もつかない。心の臓が嫌な風に弾む。


「ちい姫君さま、こちらへ……」


 小宰相の毒気に当てられて、その場に座り込み動けなくなってしまった揺羅の代わりに、雰囲気を察して助け船を出してくれたのは泊瀬だ。ちい姫の手を取り、小宰相の方へといざなった。


「また明日、お待ちいたしておりますね、ちい姫さま」


 泊瀬が言い、ありがとう、と答えたちい姫が小宰相に肩を抱かれるようにして妻戸へ向かう。その情景を、揺羅はただ見送ることしかできなかった。



     *****



 ぱたん、と妻戸が閉まり、がらんと寂しくなった東北ひがしきたの対屋で、揺羅は文机の下に一枚取り残されたちい姫の手習いを見つけ、なんとかにじり寄ってそれを拾った。

 人の悪意をぶつけられるのは、相手が誰であれ本当に辛い。

 しかも、小宰相のように親しく関わったことすらない人物から目のかたきのような態度を取られることは、ひどく気分を滅入らせる。

 揺羅は手習いを文机に置き、傍の脇息きょうそくを引き寄せて凭れかかると、ひたいに手を遣って深い息をついた。

 ちい姫が慕ってくれる気持ちは嬉しい。だけど、そのことによって小宰相にきつく当たられるとするならば、揺羅はもう、二人にどう対処すべきなのか分からなくなってしまう。

 ちい姫の父である宰相や右大臣の北の方からの依頼でもある以上、教えることを辞めるなどと簡単には言いたくない。だが、仮にもちい姫の乳母として信頼されている人物を悪しざまに言えようはずもないから、相談することもできぬ───

 ふと、何か気配を感じたような気がした。泊瀬が戻ってきたかと顔を上げ、あたりを窺うが妻戸は静まり返ったままだ。気づけば陽も沈み、対屋の中は半蔀からぼんやりと滲む釣灯籠の灯りのほかは薄闇に満ちていた。揺羅はわずかに眉を寄せてぎゅっと目を瞑り、深い息をついた。

 ようやく手に入れた人のぬくもり。ようやく感じられた生きる手応え。そして、そこに影を差す小宰相の存在。

 なぜ、たった一人の女房のことでこんなにも心が掻き乱されねばならぬのだろう、馬鹿げている。そんなことを悶々と考えている時だった。

 またかすかな音がして、人の気配が背後をかすめた。はっと振り返った揺羅の耳に、薄闇から皮肉めいた声が届く。


「我が北の方はお疲れと見える」


 春恒はるつねの声だった。

 ちい姫が出て行ったと反対側の妻戸のところに、いったいいつからそこにいたのか、夫の姿が見えた。

 帰邸したと聞き、我を忘れたように西の対に駆けつけたあの日以来顔を合わせていなかったが、春恒はもうすっかり平常の姿を取り戻しているように見えた。

 殿、と呟いて迎え入れれば、ぎし、と板を踏んで近づいてきた夫の影が揺羅にかかる。その瞬間、揺羅の心はどれほど気丈さを保とうとしても怯え、震えた。

 枯れ果てた藤の花房、そこに潜む見知らぬ女人の影。病床にあってなお、妻を怒鳴りつけた夫。

 あの日の記憶が甦り、春恒の纏う伽羅きゃら*の薫りが言いようのない嫌悪感を呼び醒ます。揺羅はきゅっとくちびるを噛みしめて頭を下げた。


「……ご快復なされましたようで、何よりにございます。参内もご無事に済まされたのだとか」


 揺羅のすぐ横に腰を下ろした春恒は、揺羅の言葉にふん、と鼻を鳴らす。


「それは嫌味か?」


 吐き捨てるように言われて揺羅は意味が分からず、かっと頭に血がのぼるのを感じた。


「どういう意味でございましょう?」

「おや、兄上から聞いておらぬか? 右大臣家の厄介者が、今日また主上の不興を買ったとな」


 先ほどまで揺羅が使っていた脇息に凭れかかる夫を見ながら、揺羅はつとめて冷静を装い、喉元まで出かかったそんなことは知らぬという言葉を呑み込んだ。

 春恒がまた、どのような不興を買ったのかは知らぬが、否応なく揺羅の心を突き刺してくる言葉の棘はどれほど自衛しても痛みをもたらす。春恒が帰京した日、どこか人となりが変わったように感じたのも、やはり気のせいでしかなかったのだと思わざるを得ない。


「存じませぬ。いったい、わたくしが宰相さまから何を伺っていると?」


 こわばった声でそう返しながら、揺羅は東の対屋に繋がる妻戸の方をちらと窺った。

 このような時に限って、泊瀬がなかなか戻ってこない。揺羅は祈るような心地で、泊瀬早う戻ってきて、と心に呟く。


「宰相さま、ね」


 春恒は、揺羅の視線の先を追いながら薄く笑って言った。


「いつの間にか、兄上とずいぶん親しく(・・・)なったようだな」


 揺羅の感情を逆なでするような言葉を連ねながら春恒は、ゆるりと動かした視線で何かを捉えたようだった。


「ああなるほど、こうやって娘を使い、兄上に取り入ったか」


 春恒はそう言いながら、文机ふづくえの上に残されたちい姫の手習いの紙に手を伸ばす。

 そのことに気づいた瞬間、揺羅は何を思うよりも先に声を上げていた。


「それには触れないでくださいまし……!」


 はた、と春恒の手が止まる。

 揺羅自身も、己が口調に驚いて口を噤む。それでも、春恒に触れられるのはどうしても嫌だったのだ。


「ほう……」


 春恒はどこか愉快そうに眉を上げた。揺羅のそのような声も態度も、きっと初めて聞いたものだったに違いない。

 特にちい姫の手習いに興味のあったわけでもない春恒はそれ以上触れようとはせず、今度は揺羅に向き直って顔を覗き込む。


「北の方は、どこか人が変わったかのようだ」

「……」

「もうすっかり、宰相側の人間ということか。いったい、何を吹き込まれた?」


 春恒の視線をかわしながら、揺羅は感情を押し殺して絞り出すように言った。


「何をおっしゃっておいでか、分かり兼ねます」

「先ほどから、しきりに東の対の方を気にしているではないか。もしや、兄上が忍んで来られるのではあるまいな」


 冗談か本気かも分からぬあまりな物言いに、揺羅は驚きを通り越し、呆れ果てて夫を見た。このひとは何も分かっていない。


「……わたくしは、殿の妻です。それ以上のことは、お答えする価値もございませぬ」


 怒りを抑え込んだ揺羅の声、これまでとは違う幼い(・・)妻の対応の変化に、春恒も気がついたらしい。

 改めて揺羅をまじまじと見た春恒は、ざわりと衣擦れを鳴らしながら薄色*の指貫を纏った片膝の上に腕を置き、唐突にこんなことを言い出した。


「そういえば、もうじき亡くなられた藤壺女御の命日だとか」

「……え?」


 不意を突かれて揺羅は口ごもる。


「女御とそなたは、仲のよい姉妹だったのか?」

「それは……歳が離れておりましたゆえ、あまり関わった記憶もございませぬ」


 話の飛躍に戸惑いつつそう答えるも、夫の真意が読めない。

 揺羅に問うた本人も、その答えに大して興味もなさそうなそぶりで袖についていた埃を払っている。また、伽羅の薫りが強く漂った。


「明日は御前に伺候せねばならぬゆえ、そなたから伝えたいことなどあれば聞いておくが」


 しゅっ、しゅっ、と衣の音を立てながらこちらを見ようともせぬ夫に、揺羅はますます眉間の皺を深くした。


「わたくしから主上に、でございますか? そんな、畏れ多い……」

「寵姫であられた藤壺女御を、主上は今もお忘れではないらしいと聞く。所縁ゆかりあるそなたとなら、通じ合うところもあるだろうと思うてな」


 それを聞いて、ああ、そういうこと、と揺羅は胸のうちで呟いた。

 明日、参内して主上の許に伺候せねばならぬゆえ、何か手土産にでもなるような話を持って行きたいのだろう。このような時だけ、都合のよいこと。


「主上が女御さまをお忘れでないことを、わたくしどもは大変有り難く、申し訳なく思っております。それ以上のことは何も」


 揺羅は、そう言いながら深く頭を下げた。

 なぜか今日は、今上きんじょうの話ばかりを聞く。そう考えて、また小宰相の不愉快な態度を思い出してしまい、揺羅が追いやるように首を振った時だった。

 かたんと妻戸が鳴り、灯りのない対屋にようやく泊瀬が戻ってきた。揺羅はわずかに救われたような気持ちでそちらを見遣る。


「姫さま、遅うなりまして申し訳ございませぬ。灯りもいただきに参っておりましたゆえ、時間がかかってしまいました。……姫さま?」

「ここにいるわ」


 揺羅が薄闇の中から答えると、泊瀬は幾分砕けた口調で続けた。


「まあ、そんな暗いところで……すぐに火を点けますね。実は、東の対に来ておられる宰相さまが、姫さまに御文を、と申されまし───」

「泊瀬!」


 揺羅は思わず声をあげて泊瀬の言葉を遮った。

 揺羅には何のやましく思うところもない。これまで、文を貰ったこともない。

 それでも今、春恒に基冬の文などという話を聞かれれば、誤解はふくらみ余計こじれるに違いないと思ったのだ。だけど、咄嗟に制止した揺羅の態度がなおさら春恒の邪推を招くだろうことには、その瞬間は思い至らなかった。

  

「殿がおいでです」


揺羅は静かに伝えた。


「あ! まあ……あまりに暗くてよく見えず、大変ご無礼をいたしました。どうかお許しくださいませ」


 泊瀬は紙燭しそくを手にしたまま、額を擦りつけんばかりにひれ伏す。

 それを見ながら春恒は、文? と呟き、かすかに嗤った。


「兄上からの文、ね。なるほど」


 春恒はそれきり何を言うことなく、ただ、淀んだ対屋の空気にくつくつと笑い声を響かせた。揺羅は思わず胸を押さえてきつく目を閉じる。

 先ほどの小宰相といい、春恒といい、腹の底で何を考えているのか読めぬ二人がよからぬことを連れてくる予感に揺羅の心はざらつく。

 禍時まがとき*は、逢魔が時。きょ、きょきょきょきょ、と孤独に啼く郭公の声が、不気味にすら聞こえてくる。まるで底知れぬ闇の底から響いてくるようかのようだ。

 決して望まぬ状況に否が応でも巻き込まれてしまうのではないかという漠然とした不安が、この時揺羅の心に芽生えた。

梅が枝に をりたがえたるほととぎす 声のあやめも誰か分くべき

『新古今和歌集』巻第十六 雑歌上 三条院女蔵人左近の歌。

「季節を間違えて梅の枝に降り立ったほととぎすの鳴き声を、鶯のそれとは違うといったい誰が分かるのでしょう」という意。


伽羅

香木の一種。沈香じんこうと呼ばれる香木のうち、特に質の良いものを伽羅と呼びました。


薄色

淡い紫色のこと。紫はすべての色の上にある色であるため、濃き、薄き、とだけでその色を表しました。


禍時

昼から夜になり、空が深い藍へと沈んでいく夕刻の頃のこと。黄昏(誰そ彼)時。逢魔が時とも言われ、魔物や妖など禍々しいものが跋扈し、災いが起こる時刻と恐れられていました。

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