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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
21/39

二十 郭公

「お呼びにございましょうか?」


 清涼殿の御座おまし*に伺候した基冬もとふゆは、ゆるりと脇息に寄りかかる帝の前で頭を下げた。退出しようと牛車くるまに乗り込むばかりのところであった時にお召しである旨伝えられて、何ごとかと急ぎ清涼殿に戻ったのだ。

 基冬が現れたことも意に介さず物憂げな視線をあらぬ方向に向けたままの帝は、しばしの沈黙ののちにぽつりと言った。


飛香舎ひぎょうしゃの藤は、今が盛りであろうな」


 その瞬間、基冬の眉がかすかに曇る。


「……は」


 僅かな落胆とともに、基冬は口を噤んだ。今は亡き寵姫の思い出に浸る帝につき合わされるのは、これが初めてではない。今の基冬に求められるはただ、黙ってその言葉に耳を傾けることのみ。


「最期に会うたは、藤の花が盛りの頃であった。夕べには包まれるほどの香りに満ちて、月の光が───」


 そこまで言ってふいに言葉を切った帝は、我に返ったかのように基冬の方を向いた。


「久々に中将が出仕したそうだな」

「はい」

「こちらに顔も見せぬ」


 不満げにそう呟いた帝は、それでもどこか面白そうに脇息に身を乗り出すと、基冬の伏せた顔をもの問いたげに覗き込んだ。


「申し訳ございませぬ。自身の不摂生ゆえに長く務めをおろそかにし、深く恥じ入って合わせる顔もないのでございましょう」


 淡々と真面目くさって答える基冬に、帝はふん、と鼻を鳴らす。


「そなたらしゅうもない言葉を」

「……」

中将あれが深く恥じ入ると?」


 帝の刺すような言葉にも、基冬は微動だにせず黙って床を見つめ続けるしかない。すでに帝の不興を買っている弟のことでは、基冬は何かを言える立場にもないからだ。


「時を同じくして、大納言も出仕した。なんぞあるのではないか?」


 基冬は動揺するそぶりも見せず、ただもう一段深く頭を下げる。

 今日の帝はあまり機嫌がよくないようだ。今の一言からも分かるように鋭い洞察力を持つ聡明な人物だが、歳も近い基冬には心を許しているからこそ、時にこういう姿を見せる。どうやら帝は、春恒はるつねが半月あまりも出仕しなかった理由が表向き病となっていることを、微塵も信じてはいないようだった。


「まあよい。そなたに聞いたからとて、口を割ることもないだろう」


 そう言うと、帝は手にした衵扇あこめおうぎを広げ、憂いに満ちた視線を落とした。それは藤壺女御の形見だ。


「もうじき、藤壺の世を去った時期がくる。あれから何年になるかな……七年か。今も辛うてならぬ。今のそなたなら、分かってくれよう?」


 ()()()()()()

 基冬は胸のうちでその言葉を繰り返した。

 基冬の北の方であった萩の宮は、今上きんじょうのひとつ違いの同母妹宮いもうとみやだった。童殿上わらわてんじょう*していた頃からこの兄妹とは近しく関わってきた基冬がその妹宮を妻に賜ることとなったのは、好むと好まざるとにかかわらず当然の流れでもあった。

 義兄弟という繋がりゆえの気安さに、奇しくも同じ形で妻と子を亡くしたという経験までも加わって、孤独な立場である帝が基冬により一層の共感と同調を求めてきているのも分かっている。


「わたしは……わたしも、未だ立ち直れてはおりませぬ」

「当たり前だ。宮が世を去ったは大晦おおつごもりの日であったか。まだ半年も経っておらぬのだから」


 帝の言葉に、基冬は奥歯を噛みしめて視線を落とした。よもぎ*の直衣の袖口をぎゅっと握りしめる。

 立ち直れておらぬのは妻とまだ見ぬ子を喪ったからだけではない、己が心にある、亡き妻に対する罪悪感とどこか冷ややかな感情とに自責の念を止められぬからだ。

 だが、それを妻の兄でもある帝に言えるはずもない。


「お心遣い、いたみ入ります」

「一の姫はいくつになった」

「四歳に」


 それを聞いた帝は、ふう、と深い息を吐いて脇息に肘をついた。口元に拳を当てて何ごとかを考える。


「東宮は十一だ、近々元服であろう。そうなると添い臥し*の姫を選ばねばならぬ」

「は」

「……まだ幼すぎるな、さすがに」


 また、帝の言葉がちくりと基冬を刺した。今日はどこまでも虫の居どころが悪い。


「いずれにせよ、今年のうちには喪も明けぬ。これもまた定めであろうか」


 四歳というよわいもそうだが、母宮の死という穢れを纏ったままの入内は到底許されるものではない。

 しばらく何ごとかを考え込んでいた帝は、ふいにまた尋ねてきた。


「中将にも子はできぬか」


 その言葉を聞いた瞬間、なぜか基冬の心は必要以上にどきりと弾んだ。

 以前、帝の尚侍ないしのかみに仕えていた少納言という女に春恒はるつねの子ができたという噂は、すでに帝の耳にも入っている。少納言は元々素行の悪い女で、帝のお気に入りであった尚侍が内裏を去る一因ともなった人物であり、帝にとっての春恒の心象はこの件で一段と悪くなったのだった。

 しかし、少納言の生んだ子が実は春恒の子ではないことまでは、帝もご存じではない。子はできぬかという問いの真意は、左大臣家の姫である北の方に子はできぬのかという意味であろう。


「……残念ながら」


 しばしの間を置いて基冬が言うと、帝は吐き出すように呟いた。


「まあ、邸にいつかぬ夫ではな。中将の北の方は藤壺の妹姫であろう?」

「は」


 話が嫌な流れになりつつある。

 慎重に口を閉ざした基冬をじっと見つめていた帝は、凭れかかっていた脇息からわずかに身を起こすと尋ねた。


「何歳になる?」


 基冬は、帝が持つ扇に置いていた視線をゆっくりと上げた。


「……中将が北の方のことでございましょうか?」

「そうだ」

「十六、と聞き及んでおります」


 それを聞いた帝はあからさまに眉をひそめた。


「なんと、まだ若い。藤壺が東宮を生んだと同じ歳ではないか」


 そう言った帝の声音に明らかな好奇心が滲むのを、基冬は聞き逃さなかった。


「どのような女人だ? 中将にもないがしろにされているならば、高倉(右大臣家)では立場がなかろう」

「そのようなことはございませぬ。母とも親しくしておるようでございますし、今も───」


 そこまで言いかけて、基冬は口を噤んだ。恐らくは、亡き寵姫の面影を重ねて見ようとしている帝に余計なことを口走って、これ以上興味を煽ってはならぬ。


「今も?」


 しかし、帝はなおも聞き出そうとその身を乗り出した。基冬は言葉を探す。


「───時には我が娘とともに、書など読みながら過ごしてくださることもあるとか」

「ふ……ん」


 わずかに唸って、そのまま帝はまた黙り込んだ。

 それが帝の求める答えでないことは明白だ。だが、素知らぬふりでだんまりを決め込む。

 時折遠くから女房たちのざわめきが届くだけのしんと静まり返った清涼殿で、基冬は再び視線を落として帝の言葉を待った。

 磨かれた床に、春の光がやわらかく映っている。心地よい風はかすかに花の香りを孕み、今この場に流れるどこか沈鬱な空気とは対照的だ。

 基冬が、それとは知れぬように吐息をついたその刹那、帝はやにわに立ち上がった。

 基冬はその気配を察し、また深々と頭を下げた。


「……登華殿とうかでん*がうるそうてな。決まってこの時期になると騒ぎ立てる」


 さも面倒そうに言う帝の言葉に視線を上げれば、その険しい瞳が目配せをしていた。基冬の背後、東孫廂ひがしまごひさしあたりに、いつの間にやら女房がひそりとひれ伏している。

 登華殿女御は、かつて帝が元服した折に添い臥しを務めた宮家の姫で、帝にとって最古参の妃でもある。元から二人の間には冷ややかな空気が流れていたが、藤壺女御が入内し寵愛を一身に集めるようになると、やがて女御はあからさまな妬心を見せるようになった。それは帝の心をますます遠ざける結果ともなり、残念ながら子にも恵まれぬまま、すでに三十を越えている。


「藤壺を忘れられぬのは、わたし一人ではないらしい」


 嫌味とも聞こえる言葉を呟いて基冬の横を通り過ぎた帝は、ふと足を止めて基冬を見下ろした。


「明日には顔を見せよ、と中将に伝えろ。もう時間はない、必ずだ、とな」


 帝は基冬の返答も聞かず、その足音に苛立ちを滲ませて昼の御座をあとにした。遠ざかっていく足音を伏したまま聞いていた基冬は、やがてのろりと顔を上げる。

 何ひとつはっきりとは言われておらぬにもかかわらず、帝の御心は明らかだった。

 右大臣家としての忠誠を見せよ、愚かな行為によって帝の立場をも蔑ろにした中将の改心を明らかにし、東宮の地位の安寧のため右大臣家の姫を捧げることを忘れるな、と帝は仰せなのだ。

 言葉の裏にある真意を探り合うばかりの日々、張り詰めた緊張すら基冬にとってはもう日常である。とはいえ、母を亡くし淋しい思いばかりさせている我が娘までも、やがてはこの緊張感の中へと遣らねばならぬのは父として忍びない気持ちだ。

 逃れられぬ運命さだめの前に深い吐息をひとつ、ついた。

 そこにはないはずのどこまでも甘ったるい藤の香りが、なぜか纏わりついてくるような気がしてならなかった。



     *****



 ばたん、と蔀戸しとみどの閉じる音が西の対の空気を震わせた。

 脇息に身を投げかけ、黙り込む対屋たいのや主人あるじに若い女房がおずおずと声をかける。


「殿、他に何か───」

「よい、退がれ」


 にべもない返事に、慌てふためいてその場を去る女房の衣擦れが、妻戸の閉まる音とともに消えた。

 夏の気配とともに強くなってきた夕刻の日ざしですら 、春恒はるつねを苛立たせる。

 今日、帰京して初めて参内した。

 遠巻きにこちらを窺うばかりの内裏の女房たちも、笏の陰であることないこと囁く殿上人たちも、何も以前と変わってはいなかった。そして、そんな何もかもが春恒を追いつめる。

 こんなはずではなかった。

 都に戻ってきたのは、目的ができたからだ。

 だが、どうだろう。いざ戻って来てみれば、やはり何ひとつとて思い通りにはいかぬではないか。

 握りしめた拳で脇息を叩くと、春恒はひたいに落ちた髪をかき上げた。翳りと憂いに満ちたそのかんばせがどれほど人を魅了しようとも、それは何の役にも立たぬと思い知った男は、しかしその他のすべを何も知らなかった。

 格子を下ろし、すべてを遮断した薄暗い対屋のうちで、わずかに灯る切燈台の火を頼りに傍の枯れ果てた藤の花を見る。

 叔父である大納言の意図がどこにあったかはともかく、一旦都を離れた春恒に一条の光明のような救いが与えられたのは確かだった。

 初めて、心の底から得たいと願ったもの。どれほどの女たちと関わろうとも、一度も感じたことのなかった想い───

 触れるたび壊れていく藤の花房に指を伸ばす。下から現れたのは、微睡んだように閉じたまま二度とは目を覚まさぬ干からびた葉。


合歓ねむ……」


 呟いて、目を閉じる。

 まばゆい光や花と草と土の匂いを孕んだ風、郭公ほととぎすの鳴き声。ここでは決して得られぬものが、春恒を遠い彼の地へといざなう。

 呻くような声を洩らし、脇息に崩れ落ちるように頭を抱えたその刹那、妻戸がほとほとと鳴った。

 記憶を呼び覚ます音にはっと息を呑む。

 合歓? と心のうちで呟いてそちらを見遣れば、開いた妻戸から姿を見せたのは兄の基冬だった。

 当たり前だ、ここに合歓がいるわけはない───思わず口元に浮かんだ嗤いを隠そうともせず、春恒はのけ反るようにその場に寝転がった。


「……中将?」


 暗がりに目が慣れぬのか、基冬は様子を窺うように春恒を呼ばう。


「中将? いるのか?」

「ここにおりますよ、兄上」


 春恒が起き上がろうともせず投げやりに応えると、やがてざわりとすぐ側に腰を下ろす兄の気配がした。

 基冬のいでたちは冠直衣のままだ。参内からの帰りに直接、この高倉邸に立ち寄ったのだろう。


「さっそく、小言を言いに参られたか」


 吐き出すような春恒の呟きに、基冬は鼻を鳴らした。


「小言で済むなら、わたしもここまで気が重くはないだろうな」


 女房もおらず兄弟二人きりの対屋で、基冬が珍しく姿勢を崩してぽつりと言葉を落とす。


「中将」

「……」


 呼びかけても応えぬ弟に、基冬は小さなため息をついた。


「春恒、何が不満だ?」


 語りかけるような兄の声に、春恒は寝転んだままゆっくりと顔だけ兄の方に向ける。


「不満?」

「そう。父上でもなくわたしでもなく、叔父上に救いを求めた、そのわけが知りたい」


 兄の言葉に春恒はのそりと起き上がり、さも面倒そうに呟いた。


「救いなど」

「伊勢に行って、何か答えは得られたか? そなたの心を苛む枷から逃れるすべを見つけたか?」


 訥々と問いかける基冬の言葉は、対屋に満ちる淀んだ薄闇に吸い込まれていく。

 じっと兄の言葉に耳を傾けている様子だった春恒は、やがてくっと嗤いを零した。


「さすが兄上。叔父上は、兄上には一度も会うておらぬと申されたが、すべてお見通しだ」

「春恒」


 小さく首を振って苛立ちを滲ませ弟を呼んだ兄に、春恒は続けた。


「兄上はいったい、どこまでご存じで?」

「母上は伊勢の御方───叔母上と長らく文を交わしておられた。わたしが何かをしたわけではない」


 それを聞いた春恒の視線が揺れる。


「叔父上とのことも、何も知らなかった。母上から伺うまでは」

「……そして?」


 そう先を促した春恒の声が掠れた。いったい、どこまで知っているというのか、あの母上・・は。


「残念なことに、伊勢の御方はつい先日身罷られた、と知らせが」


 春恒は言葉もなくその目を見開いた。


「身罷られた……叔母上が? いつのことだ? 二日前、叔父上はまだご存じではなかったぞ?」

「当然であろうな。叔父上に知られることを伊勢の御方は決して望んではおられなかった」


 春恒は絶句して、その狼狽えた視線を傍の枯れた藤の花に向けた。その様子をじっと見ていた基冬は、同じようにその枯れた花を見ながら言った。


「そなた、叔父上の文を届けに伊勢にまで走ったのだな」

「……」

「それがどういう意味を持つか、分かっていたのか?」

「……薄々は」


 若き日、血の繋がった実の妹に恋をした兄の、年を経てなお打ち消せぬ恋慕の情を伝える文遣い。そして、そこで春恒を待っていた思わぬ出逢い───春恒は、くちびるをひき結んで目を瞑った。

 今はまだ、何も言えぬ。


「叔母上に会うことはなかった。斎宮さいくうにすら行ってはおらぬ」

「ではなぜ、戻るまで半月もかかった?」

「言うたではないか、病を得て臥せっていたと」

「その間、どこにいたのだ? ……いや」


 基冬は何ごとかに思い当たったかのように、その視線を枯れた藤花に置いたまま一旦黙った。


「……伊勢の御方に叔父上の文は間違いなく届いていた」


 基冬の追及に、春恒は絞り出すように訊ねる。


「なぜ分かる」

「それは」


 基冬は、ゆっくりとその視線を春恒に戻した。


「そなたが伊勢にいるのでは、と気づくきっかけとなった文が、伊勢の御方からの最後の文であったから」


 ───はるぎみ、文を遣わし給う。く疾く。姉ぎみさままゐる。


「はっきりと書かれていた、叔父上が文を寄越した、と。そなたでないならいったい誰が文を届けた?」


 そう兄に問われ、春恒は密かにくちびるを噛む。

 今はまだ、言えぬ。


「世話になった屋敷の……主人あるじが届けてくれた」

「屋敷? どこの」

一志いちしだ。斎宮まであと少しのところだったが、病だったのだ、致し方あるまい」

「そこで半月ほどを過ごした、と」


 探るような基冬の視線から逃れるように目を逸らし、春恒はそうだ、と頷いた。


「そこで早馬を見た。その翌朝、一志を発った」


 基冬は、まるで真実を見つけ出そうとするかのように春恒の顔をじっと見つめる。その視線の前に、春恒はそれだけだ、と吐き捨てるように言った。


「そうか」


 基冬はもう一度、ちらりと傍らの藤花に目を遣ったが、それ以上何かを聞き出そうとはしなかった。

 いつの間にか陽は沈み、蔀戸の隙から見えていた西日の明るさも消えている。

 不意に、郭公ほととぎすの鳴き声が遠くからかすかに聞こえた。思わずそちらに気を取られた春恒の耳に、基冬の声が驚くほど近く聞こえた。


主上おかみからのことづてだ。明日には顔を見せよ、もう時間はない、必ずだ、との仰せ」


 春恒は眉を寄せ、窺うような視線を兄に向ける。


「なぜ主上が? わたしは兄上とは違うとまだお分かりになられぬか」


 投げやりな態度を見せる春恒に、基冬はゆっくりと諭すように言った。


「本気ではあるまい。分かっているのであろう?」

「……」

「そなたも、右大臣家の人間だからだ」


 基冬は、噛んで含めるように言葉を連ねる。


「主上が我が一族に求めておられることは言うまでもないであろう。そなたが病ゆえ参内できなんだなどと、主上はまったく信じておられぬ。勘のいい方だ、叔父上に理由があったのではと、すでに疑うておられる。これ以上主上を蔑ろにするような態度を見せて、いいことなど何もない。いつまで甘え続ければ気が済む?」


 そこまで言って、基冬はふ、と口を閉ざした。遠くでまた、きょきょきょ、と郭公の鳴き声がする。それは基冬の耳にも入ったのであろう、妻戸の向こう側に耳を澄ますような様子を見せたあと、ぽつりと言った。


「……もうひとつ。主上が、そなたの北の方のことをお尋ねであった」

「なに?」

「藤壺女御さまの所縁ゆかりの方ゆえ」


 察せよ、と基冬に視線で伝えられ、春恒もまたその瞳を訝しげに歪めた。

 今は亡き女御の妹である妻を、帝が……?


「ああ、なるほど」


 しばらく考え込んでいた春恒は、合点がいったと言わんばかりに幾度か頷いた。

 寵姫を喪って以降、どの妃からも御子が生まれぬことは周知の事実だ。大方、ありもせぬ女御の幻想をあの陰気な妻に重ねて見ているとでもいうのだろう。

 面白い。春恒は胸のうちにそう呟いた。


「北の方に子ができぬことを案じておいでであった。御前では余計なことは口にするな、よいな? 累が左大臣家にまで及ぶことは避けねばならぬ」


 基冬の念押しの前にも春恒は否諾いなせも言わず、ただ何かを考え込むようなそぶりを見せるばかりだ。基冬は険しい瞳でしばらく弟を見ていたが、やがて深い息をひとつつくと静かに立ち上がり、それ以上は何も言わぬまま春恒に背を向けた。

 妻戸が静かに開き、そしてまた閉じられる。

 兄の立ち去る気配の向こうからは、やはり郭公ほととぎすの声が聞こえていた。

昼の御座

清涼殿における、天皇の昼の座所。


童殿上

公卿など特に高位貴族の子息が、元服する前に宮中に上がることを許され、作法などを身につけること。


蓬の色目

表が薄萌黄、裏が濃萌黄の色目。


添い臥し

東宮や皇子が元服した夜、公卿や宮家の姫が添い寝すること。その姫が、そのまま妃となることもよくありました。


登華殿

内裏にある後宮 七殿五舎のうちのひとつ。



───『郭公』は、「かっこう」ではなく「ほととぎす」と読みます。

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