二 梅香
東の空がようよう薄紅に染まり出した頃、泊瀬は半蔀を上げて、澄んだ冷気を揺羅の住まう対屋に招き入れた。
「姫さま、ほら、ご覧遊ばせな。白梅も開いてきましたでしょう?」
そう呼びかけられて、揺羅も端近まで寄って御簾越しに外を眺める。さわりと衣が鳴った。
ここ高倉邸は、紅梅の美しさで知られている。春恒の祖父であった前の大臣が紅梅を好み、邸中に植えさせたのが始まりだそうだ。
ところが、東北の対に面した庭の一角にたった一本だけ白梅がある。恐らくは、紅梅を植えた時に間違えて植えられたものらしい。
揺羅はこの、ひとりぼっちの白梅が好きだった。あでやかな紅梅の中に咲く楚々とした白い梅。揺羅の育った左大臣家にも、白梅が植えられていた。
遅咲きの白梅の膨らんだ蕾が、すでに咲き始めた紅梅の中で揺羅の思い出をくすぐる。
「……泊瀬」
揺羅が、薄闇の庭に目を遣ったまま呼びかけた。
「はい、なんでございましょう?」
「幼い頃、ほら……雪がたくさん積もって、外で遊んだことがあったわね。覚えてる?」
「はい、覚えております。大将さまも他の童たちも、みな一緒でございましたね」
まだ振り分け髮*だった頃のこと、梅の季節に大雪が降り積もったことがあって、揺羅の兄や左大臣家の女童たちと雪山を作って遊んだ。御簾も上げた廂*のうちで揺羅の父母や姉がにこやかに見守っていた。弾けるような子どもたちの笑い声と、白く輝く邸の光景が泊瀬の脳裏にも浮かぶ。
揺羅は夢見るように続けた。
「そう。まだ女御さまも入内なさる前で……あの時も白梅が咲いていた」
「ええ」
「お父さまが降りて来られて、梅に積もった雪を落としてわたくしたちにかけたわ」
「そうでございましたね」
「お母さまにお花を差し上げようと梅を折ってしまって、可哀想だとひどく叱られたのよ」
「……」
泊瀬は、胸が詰まって言葉を返すことができなくなった。
叱られた記憶ですら優しく愛おしい───揺羅の声はそう言っていた。幸せな輝きに満ちた思い出なのは、揺羅も泊瀬も同じに違いない。
なぜ、あれほど光に溢れていたはずの姫さまの運命が、このような暗闇に冷たく閉じ込められるものとなってしまったのだろう? なぜ、なぜ、と答えのない問いが泊瀬の心を乱し続ける。
本当なら、ここでこのように揺羅の後ろに控えるのは泊瀬ともうひとり、泊瀬の姉がいたはずだった。身体を壊し、揺羅の婚儀の際に乳母としてついて来ることができなかった母の代わりの、揺羅と泊瀬より六歳年上の、姉。
───姉さまが側にいてくだされば、ここでの暮らしももう少しは心強かったでしょうに。
今にも儚く消えてしまいそうな揺羅の背を見ながら、泊瀬は今まで幾千度となく繰り返してきた恨み言を心に呟く。
揺羅が十でこの邸に来た時、同い年の泊瀬はまだ胡蝶という名の世間を知らぬ女童でしかなく、あの夜に何が起こったのかも理解できなかった。でも、今なら分かる。揺羅と左近衛少将の婚儀のその夜、泊瀬の姉に当の少将の手がついたのだということを。
その時の姉の取り乱しようだけは、今でもはっきりと覚えている。もはや姫さまに顔向けできぬと局に引き籠って泣き咽ぶ姉の姿に、幼い泊瀬はなすすべもなく立ち竦むしかなかった。
その後、召人*の左近として、春恒の暮らす西の対へと文字どおり「召し出されて」行った姉の姿と、あれほど無邪気で明るかった揺羅が心を閉ざしていくさまを目の当たりにして、ただ泊瀬を奮い立たせたのは、姫君を守るのは己しかおらぬという思いと、やり場のない怒り、そして、大切な姉が大切な主人である揺羅を図らずも傷つけてしまったことへの贖罪の気持ち。
なぜ、なぜ───いつもその思いが泊瀬の心の奥底でくすぶっている。なぜ、殿はあのようなことを? なぜ?
そこまで考え、泊瀬は頭を振った。分かっているのだ、今さら言っても詮なきこと、と。
黙り込んだまま御簾の向こうを見ている揺羅の細い肩とその裾に広がる豊かな髪を、泊瀬は思わしげに見遣る。
左大臣家の姫君、今は左近衛中将の北の方でもある揺羅が端近に庭を眺めるなど許されることではないけれど、それが慰めとなるならと考えると泊瀬は咎めることもできなかった。
「いい香り……」
吐息のように揺羅がそう、呟く。
「左近の君にも見せてあげたい」
「……姫さま」
「息災にしているのかしら? 同じ邸のうちにいるというに、泊瀬もほとんど会うことは叶わぬのでしょう?」
「それは……」
「白梅がもう少し開いたら、おまえが届けてあげて」
こんな揺羅の優しい気遣いを感じるたび、泊瀬の心はえぐられそうになる。姫さまの日々をこんな風にしてしまったのは姉のせいでもあるのに、と。
抑え切れなくなった涙を見せぬように泊瀬は、火桶の炭を取って参ります、と揺羅に背を向けた。妻戸から出る時にそっと窺い見た揺羅は、未だ微動だにせず白梅を見つめたままだった。
*****
ふわりと梅の香漂う東の対屋に、たん、という乾いた音が響いた。それから、もう幾度めか分からぬ吐息が几帳の向こう側から届く。
挨拶を述べたきり黙り込んだままの春恒は、その音が聞こえるたびに視線を苛立たしげに揺らした。
高倉邸の東の対には、基冬と春恒の母である右大臣の北の方が住まっている。父は前の兵部卿宮、母もまた宮筋というこの母はしかし、その育ちに反して非常に冷静な判断力と行動力とをあわせ持つ、とても頭のよい女性だ。
几帳から、落ち着いた色合いの紫の薄様*の袖が溢れ見えている。兄に言われて渋々母の許を訪ねたものの、その居心地の悪さといったらどうであろう。何ごとかを考える時の癖で、北の方は凭れかかった脇息を指で叩くのだが、その音はまるで、春恒を無言のうちに責めているかのようだ。
春恒は母が苦手だった。何をしようとも動じず、ただ深いまなざしで己を見ているこの母が。
また、たん、と音がして、それから春恒、と息子を呼ぶ静かな声がした。春恒はのろりとその顔を上げる。
「……噂はまことなのですね?」
「噂?」
春恒はそ知らぬふりで聞き返した。すぐさま母の声が返ってくる。
「今さら知らぬふりなど……もう都中の者が知っているでしょう、光中将に子が生まれたとね。あなたが昨夜遅くにどこぞへと出かけていったのも、そのことが理由なのでしょう?」
「……」
「わたくしと同じ頃に、基冬にも同じ話が伝えられたのだとか。これはもう、わざと話をまわしているとしか思えませぬな。少納言の君といいましたか、ほんに質の悪いこと」
そこでふと黙り込んだ北の方は、また脇息を指で打った。
「で? あなたはその、我が子でもない姫君をこちらに引き取るおつもり?」
その言葉を聞いて、春恒はきつく目を瞑った。この母を欺くなど到底無理な話───分かってはいたが。
「なぜ……」
「当然でしょう? 月が合いませぬもの。あの頃、あなたは喪に服して邸に籠っていた」
そう言って北の方は深い息をついた。
「はやいものね。もうじき一年になる」
春恒はその言葉には答えず、低い声で言った。
「あの者の子を引き取ることは考えておりませぬ」
しばしの沈黙ののち、ざわりという衣擦れの音がして几帳の陰から北の方がにじり出てきた。そして、じっと春恒を見る。春恒の何よりも苦手とする、何もかもを見透かしたようなその瞳で。
北の方は言い含めるように静かに言った。
「あなたがそうと決めたなら、わたくしには何も言うことはないわ。ただこうなった以上、生まれた子が不自由せぬよう心を配ってやるのも、あの者と縁を結んだあなたの務め。お分かりね?」
「……承知いたしております」
春恒の言葉に頷いた北の方は、それから、と続けた。
「東北のご様子は?」
「別段、いつもと変わったところは」
春恒が躊躇うことなくそう答えた瞬間、母の眉間の皺が深くなったように見えた。それに気づきながらも、春恒は続ける。
「子を育てたことはないゆえ預かることはできぬと、そう申しておりました」
じっとこちらを見る母の瞳にいたたまれなくなって、春恒はそっと視線を外した。それでもなお己に向けられる視線を断ち切るように、春恒は静かに一礼する。
「参内いたしますゆえ、わたしはこれで」
もの問いたげな母の視線にも気づかぬふりで、春恒は逃げるようにその場を離れた。
***
春恒が出て行った妻戸から視線を逸らし、それから大きく息をついた北の方は、幾度かまばたきを繰り返すと再び脇息を引き寄せた。
なんということ。そう、胸のうちでだけ呟き、脇息に置いた手を額に遣る。
力なく目を閉じると、何ごとにおいても冷静に動じることなくやり過ごしてきた北の方が、かつて、ただ一度だけ取り乱した日のことがまざまざと脳裏に甦ってきた。長男の基冬がまだおなかにいたあの日、美しい妹が方違えでこの高倉邸の北の対にやって来ていた冬の夜。
普段なら気づくはずもない深更の秘めやかな気配が北の方の耳に届いたのは、腹の子が知らせたのでもあったろうか。
そう。
右大臣家の二男である春恒は北の方の子ではない。昨年の春に世を去った北の方の妹こそが、春恒の実の母だ。
酒の勢いもあった、北の方の初めての懐妊に恐れをいだいた───言い訳はいくらでもあったが、たとえどんな理由があったにせよ、正妻の妹をという夫の過ちは決して許されることではなかったはずだ。
許せぬ、と言うことができれば簡単だった。けれど、腹の子を思えば夫を責めることはできなかったし、幼い頃からともに育った妹姫を、姉としてどうしても恨むことができなかった。
北の方の生んだ子とたった四月違いの男子を生んだ妹姫は、耐え切れずに髪を下ろした。一方、姉姫である北の方は一年ののちに、表向きには己が腹を痛めた子として、妹姫の子を密かに高倉邸に迎え入れた。
北の方はどこまでも気丈に振る舞った。たとえ、夫が二度とは逢えぬ美しい妹姫への恋慕を忘れられずにいようとも、我が子に冬と諱づけた夫が妹姫の子に春という諱を与えようとも、北の方は異を唱えることもなく淡々と受け止め、二人の息子を分け隔てなく育て上げた。ただし、どうしてもあの日を思い出す北の対屋には住みとうないと、その住まいを東の対屋に移した北の方と右大臣との間には、それきり子が生まれることはなかったのだけれど。
ところが、春恒がこの事実を知ったのは父からでも母からでもなく、口さがない女房の噂話によってだった。十三で行うこととなった初冠*の少し前のことだ。もしも北の方がその人生において後悔することがあるとするなら、己が口から真実を告げることも叶わず徒らに春恒を傷つけた、そのことだけだろう。
元服を済ませたのちに話そうと思っていた。口軽く真実を洩らしてしまった女房は、すぐさま邸から追い出した。
それでも、その日を境に春恒の人生は変わってしまった。父を蔑むことと、母にも兄にも、まわりのすべての人々に対して心を閉ざすことでしか己を守ることができなかった春恒の姿を見るたび、北の方は後悔に打ちのめされた。
だからこそ、さまざまな出来ごとが重なって左大臣家の末姫を迎えることが決まった時、北の方はかすかな光を見出した思いだったのだ。限りない親の愛を受けて育った姫の心映えが、春恒の心を癒すのではという一縷の期待に縋りついたのだ。
なのに、結果はどうであったか───
「安芸」
北の方は、後ろに控える女房を静かに呼んだ。
「今は何刻?」
「卯の刻*にございます」
「東北の対に参ります。先触れを」
「畏まりました」
一礼して立とうとした安芸に、ああそれから、と北の方は声をかける。
「基冬の持ってきた白梅もこれへ」
「承知いたしました」
床を擦る裳裾の音が遠ざかると、北の方は脇息に身を凭せかけ、うちにある言い尽くせぬ思いを吐き出すかのように深い息をつくと、再びその目を閉じた。
振り分け髪
伸びてきた髪を左右に振り分けて、肩の下あたりで切りそろえた八歳くらいまでの童時の男女の髪型。
廂
寝殿造の建物は、真ん中の母屋と呼ばれる居室を囲むように廂の間があり、そのまわりを簀子と呼ばれる縁が囲っていました。簀子と廂の間を隔てる蔀戸が外と内の境目で、昼間には蔀を開けて代わりに御簾を下げました。廂は通常、室内として扱われましたが、母屋との境に御簾をさげることにより、もうひとつの隔てを作ることも可能でした。
召人
貴人の邸に仕える女房でありながら、主人の妻妾としての役割も果たす女人のこと。
主人の愛人であることは公然の秘密となっており、北の方でも認めざるを得ない存在でした。ただし、子どもができても邸内で育てることはできず、子を手放すか邸を出て行くか、の選択が迫られる程度の立場でもありました。
紫の薄様
濃紫〜白へと移り変わる襲の色目。
薄様とは、ある色を上は濃く、徐々に薄く白へとつなげていく色目を意味します。
(上より下へ淡くて三。しろき二。白きひとへ。───『満佐須計装束抄』より)
初冠
男子の成人の儀式。元服と同じ。
卯の刻
おおよそ、現在の午前六時の前後一時間。