十八 破綻
春の雨は止むことを知らぬかのように降り続いている。
常より早くにやってきた誰そ彼時*、ますます暗く沈んだ東北の対屋で、基冬はじっと目を瞑って雨の音を聞いていた。時折混じる雫のしたたる気配は、どこでしているのだろう。
心落ち着かせようとすればするほど胸のうちがざわめく。
いったい、春恒と北の方の間に何があった? なぜ、春恒は姿を消していた? 叔父が何も答えようとせぬのは何ゆえか?
考えても答えの出ぬことくらい、分かっている。抑えようとしても次々に浮かんでくる疑問を振り払うべく深い息を吐き出せば、次に脳裏に現れたは亡き妻の面影。
白梅邸に迎えた夜、元服して以来久方ぶりに目にした萩の宮は、その涼やかな目元が同母兄宮であられる今上とよく似ていた。いや目元だけではない、そのくちびるも、細く筋の通った鼻も、漂わせる雰囲気までもがあまりにも似通っていた───基冬がお仕えするべき、気高いその君に。
幼馴染でありながら今さらどう接すればよいかも分からぬ年上の宮を、それでも蔑ろにしたことは決してない。春恒が北の方にするような冷酷さを見せたことなど、一度もなかった。心を開いてくださらなかったのは宮のほうだ……言い訳がましく心にそう呟いたのは、気を失った春恒の妻の姿にどこか後ろめたい気がしたせいか。
その時、生ぬるく淀んだ空気がわずかに動き、基冬の脳裏に浮かぶ幻がかき消える。
東北の女房である泊瀬は衣擦れの音とともに戻ってきて、静かに妻戸を閉めた。ゆっくりと目を開けば、大殿油に灯す火が不安げにぼんやりと揺れていた。
泊瀬はこわばった面持ちのまま、御帳台からわずかに伝わる規則正しい息遣いに耳を傾け、ようやく、ほ、と息をつく。そうして静かに御帳台の帳を下ろすと、御座に座る基冬の前で深々と手をついた。
「こたびはまこと、なんと礼を申し上げればよいか」
そう切り出した泊瀬の言葉を、基冬はいつかのように手を上げて制した。そして、なおも深く頭を下げる泊瀬に視線を置き、静かに尋ねた。
「いつからだ?」
いったいいつから、この対屋の主人はあのような状態なのか。
泊瀬はだけど、口を閉ざして顔を伏せたままだ。心なしか、小刻みに震えているようにも見える。
東の対屋の方から早々に格子を下ろす音が遠く聞こえてきた。それと同時に、酷いことをお聞きくださいますな、と呟く嘆息のような声がした。
「このお邸に参って、その日のことでございます。三日夜*も過ぎぬうちから、北の方さまのお苦しみは始まりました」
そう言って顔を上げた泊瀬は、切ない視線を基冬ではなく御帳台の方に向けた。
基冬の胸の中に崩れ落ちた揺羅は今、その御帳台のうちで静かに眠っている。ようやく安堵したかのような表情を浮かべ倒れかかってきた弟の妻の顔を、基冬はその時初めて目にした。未だ歳若いその女の眠る様子は穏やかで、どこかあどけなくすら見えた。
「この邸に来たのは確か六年ほど前……」
「はい、姫さまが十の時でございます」
「十、であられたか」
呟きとともに、基冬の眉間がわずかに寄る。
左大臣家の末姫が弟の許へとやって来たのはずいぶんと若い時分であった、ということは理解していたつもりだったが、まさか裳着も済ませたかどうか、というほどの幼さであったとは。
基冬の娘であるちい姫が今、四歳。あと五、六年経てばあのちい姫が誰かの妻となれるのか、と考えれば、その婚儀がいかに絵空ごとのようなものであったかが分かる。
そしてまた、なぜ春恒がこの妻の存在を認めずないがしろにしてきたのかも。
愛らしい姫が来てくれたと喜び、その明るさが春恒の救いになればと望んでいた母の思いもまた、春恒にとっては受け入れがたいものでしかなかったに違いない。真実を知ってしまったあの時を境に、春恒が永遠に失ってしまった幸せな幼き日々の輝きを、まざまざとその身に纏ったままこの邸にやって来た稚い妻の存在など、春恒にとって救いになるどころか、ただ苛立たせるものでしかなかったのだろう。
我知らず、深い吐息が落ちる。
互いに不幸でしかない関係、しかもそれは恐らく、当人同士の責任ではない───なぜ、このような間違いが起きた?
「なぜ」
思わず零れた基冬の呟きに、泊瀬は初めてその顔を上げた。窺うような視線が基冬に向けられる。
春恒の妻の父である左大臣は、人格者と誰からも一目置かれる人物だ。時として敵対する家と見られがちな右大臣家の基冬の目にも、左大臣の政治手腕は尊敬に値するものと映っていた。そのような人物がなぜ、かようにも無理のある婚姻を娘に許したのか。
「……いや」
基冬はしかし、心のうちに浮かんだ考えを口にすることなく呑み込んだ。それは、今目の前にいる左大臣家からやって来た泊瀬にとっても、気分のいい話とはならぬだろうから。
「この邸に来た、その日のことと申したか?」
「はい」
「いったい、何があった?」
当然の問いを口にした瞬間、ぎくりと泊瀬の肩が揺れた。
「それは……」
言葉を濁そうとする泊瀬に、基冬の厳しい視線が逃げ道を断つ。
しばらくじっと床を見つめていた泊瀬は、やがて観念したように基冬に向き直った。
「西の対にいた、左近という女房をご存じでございましょうか?」
基冬の目が何かを思い出そうとしているかのように眇められた。
「春恒の側近くにいた女房か? 確か、春恒がいなくなる少し前、邸から姿を消したと」
「はい。あの者は元々、この東北におりました」
「それがなぜ、西の対に?」
泊瀬の視線がわずかに翳る。
「……お察しくださいませ」
ぽつりと落ちた一言で、基冬は悟る。側近くに召し使う女として、春恒が連れて行ったのだろうということを。
自身でも驚くほどの嫌悪感を覚えつつ、基冬は努めて冷静に問うた。
「して、その女房が何か」
「あれは、わたしの姉でございます」
まるで呻くように泊瀬は言った。
「わたしは、揺羅姫さまの乳母子でございます。中将さまとのお話が決まりました時、乳母であった母が身体を壊しておりましたゆえ、まだ年端もいかぬ姫さまを心配して、姉を代わりに参らせることにしたのでございます」
思い出すように語る声が、かすかな震えを帯びる。
「ですが、こちらに参りましたその夜、衾覆*を終えられたそのすぐ後で、宿直をしておりました姉を中将さまが……」
そこまでを言った泊瀬は、もうこれ以上はとばかり、口元を覆って突っ伏した。
基冬は、咄嗟に言葉を返すことができなかった。予想の範疇を超える話に冷静を装うことも忘れ、基冬は呆れたような視線を泊瀬の方に向けた。
「馬鹿な……あり得ぬ」
吐き捨てるような言葉が、虚しく対屋の闇に消え、雨音が覆いかぶさる。
泊瀬は否も諾も言わず口を閉ざしたままだ。基冬はあり得ぬと口では言いつつも、これはきっと真実なのであろうと心のどこかではっきりと理解していた。
「……その時、こちらの御方は?」
そう問えば、泊瀬は今や堪えきれずに泣き咽びながら幾度も首を振る。
「決して申されませぬ、何も。わたしもまた、その時はまだ何も知らぬ十の女童でしかございませんでした。ただ、恐らく姫さまは一部始終をご覧遊ばしたのだと」
それを聞いた瞬間、基冬はもはや絶望的な心地で目を瞑るしかなかった。
わずか十歳の幼い姫、左大臣家で大切に育てられていたはずの末姫が、婚儀の夜に目にしたであろう光景。それが、幼い心にどれほどの傷を残すかは、幼い姫の父親となった今だからこそ分かる。
決してあってはならぬことだ。右大臣家としても、人としても。
基冬はくちびるを噛み、いつの間にか胸元から出していた扇を強く握りしめる。
知らなかった。春恒がそこまでの非道な裏切りをしていたことを。基冬だけではない、右大臣家の者は誰一人として知らなかったのだ。しかも、左大臣家からは何の沙汰もない。ということは、春恒の妻だけではない、それを知るまわりの人々も皆、一様に口を閉ざし続けてきたということであろう。
「……なんと申せばよいのか、言葉も見つからぬ」
泊瀬は、は、と返事とも嘆息とも取れる声を洩らす。
「許せ、と言える立場にもない」
基冬が絞り出すようにそう言うと、泊瀬は弾かれたように顔を上げた。
「宰相さまのせいではございませぬ。されど……されど、なぜこのようなことになってしまったのかと、それだけが口惜しく。姫さまはそれでも、なんとか打ち解けることはできぬかと健気に努力しておいででした。たとえそれがどれほど虚しい努力であろうとも」
基冬は軽く額を押さえ、大きく息をついた。
この対屋のあるじの先ほどの脅えようも、元はと言えばそこに端を発しているのだろう。
二人のことを詮索するつもりはない、それは今も変わらぬ。しかし、ここまでのことを知った以上、春恒に問いたださねばならぬのは致し方あるまい。
またひとつ、基冬を煩わせることが増えた。
「相分かった」
基冬は無意識に握りしめていた扇を胸元に戻し、静かに立ち上がろうとした。
「こちらの御方をよく見て差し上げよ。何かあれば、すぐに薬師を呼ぶように」
そう言い置いて立ち去ろうとした基冬を泊瀬は、宰相さま、と慌てた様子で呼び止めた。
「恐れながら、お願いがございます」
基冬は小さく首を傾げ、探るように泊瀬を見ながら再び茵に腰を下ろす。
「何か」
「はい、あの……ちい姫さまのことにございます」
「ちい姫の?」
基冬は、そう問い返しながら静かに袖を払った。
そのままふと、灯の近くに置かれた文机に視線を遣り、拙い字で手習いしてある紙を見つける。それを手に取り、これは? と泊瀬に尋ねた。
「先ほど、ちい姫さまがおいで遊ばされていた時、揺羅姫さまとご一緒になされた手習いでございます」
「手習い? まだ、字は教えておらぬはず」
「はい、ちい姫さまが望まれましたゆえ、今日初めて揺羅さまが」
基冬は幾度か瞬きをしたのち、そこにある数枚の紙を繰って見てみた。
おとうさま、とも読める字のそばに、やわらかだが芯の強そうな手蹟が添えられている。なかなか美事なこの手蹟は、この対屋のあるじのものであろうか。
春恒が失踪してからこちら、高倉の邸に来ることはあっても、ちい姫とは見えていなかった。寂しい思いをさせたのであろう───そんな反省ともにそれらの紙から顔を上げると、まっすぐに基冬を見つめる泊瀬の切実な瞳とぶつかった。
「お願いにございます、ちい姫さまがこれからもこちらに参られることを、お許しくださいますよう。揺羅姫さまは今、ちい姫君のことだけを心の支えにも思い、過ごしておいでです。どうか、どうか、今はちい姫さままでも失ってしまうようなことがないよう……それだけを、なにとぞお願い申し上げます」
まるで拝むように、泊瀬は言った。
基冬は押し黙ったまま、もう一度春恒の妻のものであろう墨跡を見た。それから、白山吹の一枝が飾られた文机の上にある書に視線を移す。開いたままになった古今集、そしてその下には和漢朗詠集も見えた。
「こちらの御方は漢詩を読まれるのか?」
「無為に時をやり過ごすより他ない姫さまにとって、書は何より大切なものにございますゆえ」
無為に時をやり過ごす───基冬は胸のうちで泊瀬の言葉を繰り返す。
妻として存在を認められず、夫にも相手にされぬ無為の日々。それは、この高倉の邸に囚われてでもいるような心境なのだろうか。
思案げに揺羅の眠る御帳台へと視線を向けた基冬は、手にした紙を文机に戻すと静かに、だがきっぱりと言った。
「こちらに考えがある、ちい姫のことは心配せずともよい」
それだけを言い置いて、泊瀬が今の言葉の真意を確かめるより先に、基冬は静かに対屋を後にした。
東北の対を出て、何かに追われるように立ち止まることなく母が待つ東の対へと向かっていた基冬は、簀子にかかる雨に濡れた階を見てふと足を止めた。
胸のうちに溜まった不快な感情を、詰めていた息ともに吐き出す。
なんてことだ。
このことが知られれば、右大臣家が左大臣家を侮っていると言われても言い訳のしようがない。母上も、ここまで深刻な状況だとは思っておられぬだろう。
やり場のない苛立ちを握り潰すように袖口を握りしめ、雨だれの規則正しく落ちるさまを見た。先ほど聞いた音はこれだったかもしれない。
春恒とその妻。こうなる以外、どうしようもなかったのだろうか。
───努力? 兄上はまこと、努力でなんとかなると思うておいでか?
かつて、春恒が言い放った言葉を思い出す。
───姫さまはそれでも、なんとか打ち解けることはできぬかと健気に努力しておいででした。たとえそれがどれほど虚しい努力であろうとも。
決して相容れぬ二人なのだろう。こうなることすら、定めであったと言えるほどに。
「……萩の宮」
基冬は思わず妻の名を呼んだ。
白梅邸の寝殿の階につけられた牛車と、そこから現れた高貴な女の幻が雨降る闇に浮かび上がる。
心に重くのしかかる二歳年上の存在を、それでもなんとか受け入れねばと悩み苦しんだ十四の時以来、基冬もまた、どれほど打ち解けようと努力したことか。
そう……わたしは努力をした、春恒とは違って。
なのに、と基冬は眉を寄せ、きゅっとくちびるを引き結ぶ。
なのに、結果はどうであったか。凍えるほどに冷たい関係しか築けなかったのは春恒と同じではないか。それは本当に、打ち解けてはくださらなかった宮のせいなのか?
基冬はそう思い至るや、頭を鈍く殴られたかのような心地で空を見上げる。
わたしは、どれほど宮に思いをかけたのだろう? 今、弟の妻が置かれた状況を思い遣るほどにも、宮の立場を慮ったことはあったか?
宮とわたしもまた、相容れぬ二人であったのか?
不意に、基冬の両腕の中に、先ほど抱いた春恒の妻の重みが甦った。
まるでそこにあるかのようにまざまざと感じるその女の気配は、十一年前に感じた重みとはまったく違う、戸惑うほどの儚さ。
六年前、十の時にこの邸へ来たと言っていた。ならば今は十六、奇しくも萩の宮が降嫁してきた時と同じ歳───
基冬は両の手をかたく握りしめたまま、亡き妻に対して己が犯したやもしれぬ過ちに、呆然とその場に立ち尽くすしかなかった。
*****
「……ここは?」
日もとっぷりと暮れた頃、揺羅はようやく目を覚ました。
「お気づきでいらっしゃいますか? よかった……姫さま」
その目にみるみる涙を浮かべて己を覗き込む泊瀬の姿に、どこか現実を把握できぬまま揺羅は身体を起こす。
「ここは」
「東北の、姫さまのお褥でございますよ。ご気分はいかがでございますか?」
眉を寄せて御帳台のうちを見回した揺羅は、大丈夫、と呟いてほっと息をつくと同時に、あることに思い当たった。
「わたくしは、西の対にいたはず」
そう、殿が戻って来られたという知らせに、西の対へと向かったのだ。
殿の休まれている御帳台のうちでご無事を確認して、そして……そう、あの奇妙な葉の包まれた懐紙を見つけて───
揺羅は思わず両の手で口許を覆って目を瞑った。
恐ろしかった。
あの瞬間、夫にあったのはただ、剥き出しの憎悪にも似た感情。
ほんの一瞬でも、夫が心許してくれたのかと思った己が愚かだった。二人を繋ぐ絆は、完全に断たれてしまった。
いいえ、違う。
「……そんなもの、初めからなかったのに」
「揺羅さま?」
訝しげに顔を覗き込む泊瀬に、揺羅はもう一度、いいえと首を振った。
「早く殿から離れねばと、そう思ったまでは覚えている。それから、どのように東北まで戻ったの?」
「それは……宰相さまが」
「宰相さま!?」
揺羅は思わず、胸元を押さえる。袿も身につけたまま横になっていたことに、今更ながら気づいた。
「恐れながら、宰相さまが姫さまをこちらまでお運びくださったのです」
「……」
「他にすべはございませんでした、姫さま」
揺羅は絶望的な心地で思わず目を閉じた。
かつて、御簾が煽られてほんの一瞬目が合ったこともあった。あの時ですら動揺したというのに、こたびははっきりと姿を見られてしまったのか。
「恥ずかしい」
「宰相さまはお気遣いくださいました。どうか、姫さまもお気に病まれませぬよう」
揺羅は目を閉じたまま、息をついた。
「そうね」
とても気に病んでいないとは言えぬ風情で目を瞑ったまま頷いた揺羅は、こめかみに手を遣りながら思い出したように呟いた。
「ちい姫さまにも申し訳ないことをしてしまったわ。お詫びせねば」
「きっと大丈夫でございますよ。御文も持って行かれたご様子ですし」
泊瀬は慰めるようにそう言うと、気詰まりな沈黙ののち、どこか言葉を探すように尋ねた。
「姫さま、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
「なに?」
「いったい、御帳台の中で何があったのですか? わたしが気づいた時にはもう、姫さまはお倒れになっておられた。生きた心地もしませんでした」
泊瀬が言い終わると同時に、揺羅はゆっくりと瞳を開く。
そのまま、目の前にある何かをじっと見つめているかのように、しばらく微動だにしなかった。
やがて、揺羅のくちびるから吐息のようにあえかな声が零れ落ちる。
「気づいたの。もう、あのお方と共に在ることはできぬと……わたくし、目が醒めたのよ」
誰そ彼時
「黄昏」という言葉は、この「誰そ彼」からきており、「あなたは誰?」と問うほどに薄暗い夕暮れの時を指します。
対になる言葉「かはたれどき」は、同じく「彼は誰」からきており、薄暗い夜明けの時を指します。
三日夜
この時代、男性が女性の許に三夜続けて通えば、正式に婚姻が成立したとみなされました。逆に、男性が女性に魅力を感じなかったり、その他諸々の事情などで、一夜限りで通いが途絶えれば、その関係はそれきりとなってしまうことも多々あったようです。
三日めの夜に食す三日夜餅、披露宴にあたる露顕など、婚姻にまつわる儀式、しきたりは、その他さまざまにありました。
衾覆
天皇や貴族の婚儀における儀式のひとつ。
婚姻を結ぶ男女がひとつの褥に横になり、付き添いを務める主に女君の父母などが二人に衾を掛けることで、二人の共寝を見届け婚姻の成立を確認する意味合いを持ちます。(再掲)