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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
17/39

十七 帰還

 何を望んでいたのだろう。

 殿が無事に戻って来られることか、それとも、もう二度とは戻って来られぬことか───




 揺羅ゆらは、泊瀬はつせの言葉を聞いた瞬間、何を思うより先に東北ひがしきた対屋たいのやを飛び出していた。

 なぜ、そのようなことをしたのか分からない。ただ、気づけばそうしていた。

 東の対に繋がる渡殿わたどのを越え、寝殿へと続く透渡殿すきわたどのを行き、そうして、そんな場所まで来たことすら初めてと気づいて、はたと足を止める。きぬの入ったはこを手に、こちらを向いて言葉も忘れ立ち尽くす女房を見つけると、揺羅は弾む息の中で命じた。


「西の対へ……」

「は?」

「中将さまの許へ参りたい。案内あないせよ」


 揺羅の気迫に呑まれたように、女房はその場に匣を置いた。

 後ろを追ってきていた泊瀬からそっと衵扇あこめおうぎを手渡され、揺羅はわずかに冷静さを取り戻して扇を翳す。強くなってきた雨音の中、先導する女房のあとを追って揺羅と泊瀬の衣擦れが慌ただしく進んだ。

 たどり着いた西の対屋は、まるで何者も受けつけぬとするかのようにしとみもすべて閉じられ、妻戸の前には春恒はるつねの従者らしき者がただ一人、ひざまずき控えていた。揺羅の気配に気づいたその男は一瞬動揺したが、すぐに誰か理解したのだろう、目を合わせぬようにして頭を下げた。

 妻戸を指し示した女房の前を通り過ぎ、従者をかすめるように妻戸をくぐる。

 春恒の妻となって初めて足を踏み入れる西の対。日も暮れてはおらぬのにどこまでも薄暗く、そこここに点された灯火が慌ただしい気配に揺れている。すっかり春であるにもかかわらず、いくつもの炭櫃すびつが置かれ、暖められていた。

 久しぶりにあるじを迎えた御帳台のまわりに多くの女房がひしめいており、そのうちの一人が揺羅に気づいて小さく息を呑んだ。

 ほとんどの女房と顔を合わせたこともないが、怯むことなく歩を進める。この時の揺羅にいったいどのような力が働いていたのだろう。

 御帳台のうちに入り、そこに間違いなく夫がいるのを見た。

 目を閉じて、しとねに横になる小袖姿の春恒を認めたその瞬間、しかし揺羅の心に湧き上がってきたのは喜びでも安堵でもなく、圧倒的な現実感だけだ。

 あれだけ心配していたというのに。あれだけ不安に苛まれていたというのに。夫の姿を見て思い出したのは、これまでかけられた心無い言葉の数々や冷たい視線のこと。なぜ今、己がここにいるのか、なぜこんなところにまで来てしまったのか───どうすればいいのか、まったく分からなくなってしまった。


「北の方さま」


 足をすくませた揺羅に、泊瀬が呼びかける。

 それを聞いて、春恒を取り囲んだ三人の女房が一斉に揺羅を振り返り、これまで一度とてやって来たことのない正妻の来訪に驚きを隠せぬ様子で手を止めた。


「───殿は……殿のご様子は?」


 揺羅は手にした扇を畳み、泊瀬に手渡しながらようようそれだけを尋ねた。自分でも驚くほど声が震え、思わず喉元に手を遣る。

 なんと答えるべきか、と女房たちが顔を見合わせ、やがてそのうちの年かさの一人が口を開いた。


「長い距離を馬で駆け、ひどく雨に濡れておられましたゆえ、新しい衣に召し替えられたところにございます」


 揺羅はちらりと春恒を見る。目を閉じたまま、こちらを見ることもないのは眠っているのだろうか。


「少し熱を出しておられるご様子なので、薬師くすしの手配をいたしました」


 別の女房がそう言い添える。

 揺羅は口の中で小さく、そう、と呟いた。

 ふと、いつもこのように甲斐甲斐しく世話をされておいでだったのか、と呆れたような気持ちがよぎる。

 恐れることはない、これまでと何も変わらぬ───揺羅はそっと春恒に近づき、枕元に腰を下ろした。

 その美しい鼻梁は失踪前となんら変わることはなく、目立った怪我もないように見える。どこか拍子抜けしたような心地で視線を上げれば、春恒が横たわるその向こう側、脱いだ衣がどれもしとどに濡れて重く打ち捨てられたままになっていた。


「あれを早うなんとかせねば」


 揺羅に言われ、一番年若い女房が慌てて衣を畳み始めると、背後から年かさの女房がひそりと言った。


「恐れながら、いくつか不審なことがございます」

「なに」

「太刀をお持ちでございませなんだ」

「太刀?」

「はい、邸にございませぬゆえ、確かにいて出られたはず……」


 深刻そうな声に、そう、とまた曖昧に呟き、揺羅はしばらく考え込んだ。

 武官である春恒が太刀を佩くのは当然のことであろうが、揺羅はその姿を見たことすらない。だから、太刀がない、ということがどれほどの事態なのかも正直理解できない。

 妻として何ひとつ判断できぬ不甲斐なさに沈んだ視線を夫に戻せば、いつの間に起きていたのだろう、夫と目が合った。驚きのあまり揺羅の心の臓が大きく弾み、咄嗟に瞳を伏せる。

 何を言えばいいのか分からぬのは、春恒も同じなのだろう。互いに黙り込んだまま、衣を畳む音だけが御帳台に響く。


「心配を、かけたのだろうな」


 かなり長い沈黙のあと、ぽつりと先に口を開いたのは春恒の方だった。

 その声は、今まで散々揺羅を責め苛んでいた時とは比べものにならぬほど弱々しい。そして、その言葉もまた、かつて春恒から聞いたことなどない類いのものだ。

 揺羅が戸惑いつつ視線を上げると、春恒はまた疲れ果てたように目を瞑っていた。


「いえ……いいえ、ご無事で何よりにございます」


 そうか細い声で答えたものの、揺羅もまた言葉が続かない。

 春恒の呼吸ははやく、苦しげだ。一人の女房が角盥つのだらいを持ってきて枕元に置くと、手拭たなごいを絞って春恒の額に載せた。


「薬師はまだ?」


 揺羅が問うと、年かさの女房がすぐさま答える。


「もうじきかと」

大臣おとどやお義母さま、宰相さまには」

「すでにお伝えいたしております」

「そう……おまえの名は?」

衛門えもんと申します」


 背後にいる衛門の隙のない返答に口を噤んだ揺羅は、改めて、物珍しいものでも目にしたように夫の顔をまじまじと見つめた。寝顔など、見たこともなかったからだ。

 世に名高い光中将ひかるのちゅうじょう、わたくしの夫。誰よりも美しく、誰よりも冷酷な───先ほどのたった一言に何か新しい変化の兆しを感じるのは、愚かな間違いなのであろうか。

 春恒の眉間がわずかに寄る。苦しそうだ。今、妻として何ができるのだろう。


手拭たなごいを替えて差し上げて。それと、ふすま*をもう一枚」


 はい、と背後に控える女房が御帳台を出て行き、衛門が手拭を絞る。

 揺羅は、目を閉じた春恒の顔にじっと視線を置いたまま、身じろぎもせずに考え続けた。

 どうであれ、このお方はわたくしの夫。もし、もしも、これからの日々を少しでも違ったものとできるのなら。

 濡れた衣を畳み終えた女房が、それらを抱えて立ち上がった。はずみに、何かを包んだ懐紙が落ちたのに気づく。


「……それは?」


 衛門がひそめた声で言った。


「殿の小袖の胸元に入っておりました」


 そちらに手を伸ばして拾い上げた衛門は、そのまま揺羅に手渡した。懐紙を受け取ると、しっとりと冷たく濡れている。破ってしまわないよう注意深く開けば、そこには見たこともない奇妙な葉と、そして萎れた藤の花房があった。咲いていた時には、それは美事であったろう大きな一房に、揺羅はわずかに首を傾げて呟く。


「異なこと……都の藤は未だ蕾ですのに」


 その花房はすでに満開だ。揺羅は幾度か瞬きを繰り返して考える。

 この花はいったいどこから? そもそも花に興味を示すようなお方ではないのに。それに、この葉は……もしや、殿が身を寄せておられた場所に所縁ゆかりのもの?

 そんなことを考えた時、懐紙からそこはかとなく漂う薫りに気づいた。

 決して、何かを予感したわけではなかった。ただ、何気なく顔を寄せ、もう一度薫りを聞いた。とてもやわらかな、荷葉かよう*のような薫り。だけど立ち上がる白檀が強い意志をも感じさせるような───そこまで考えて、頭を鈍く殴られたような衝撃とともに全身から力が抜ける。

 懐紙を持つ指が膝に落ち、かすかに震えた。頭に血がのぼったようになり、周囲の物音の一切が聞こえなくなった。わずかに見開かれた瞳が、横たわる春恒を凝視する。美しい、揺羅の夫を。

 絶望的な嘆息が揺羅のくちびるから零れ落ちた。

 わたくしは、どこまでも愚かだ。ほんの一瞬でも、これからの夫とともにある日々に期待をしてしまっただなんて。

 聞いたことのないその薫りは、紛うことなく女君のもの。都にいて、その不在に心ざわめく日々を過ごしていた揺羅をよそに、春恒は誰か女君とともにいたのだ。

 揺羅は、無意識に視線を落ち着きなく彷徨わせた。

 戻ろう、東北ひがしきたに。やはりここは、わたくしがいるべき場所ではないのだ。恐れることはない、これまでと何も変わらぬのだから。

 混乱した頭で腰を浮かせかけたその瞬間、御帳台の外から先触れの声が遠く聞こえた。


「間もなく、宰相さま参られます」


 その声に導かれるように、春恒がまたゆっくりと目を開く。

 揺羅はぎくりと動きを止め、咄嗟に手にした懐紙を袖のうちに隠そうとした。


「あの……どうか、ゆっくりとお身体をお休めくださいませ。わたくしはこれにて───」


 震える声でそこまでを言った時、春恒が突然飛びかからんばかりの勢いで揺羅の方に身を起こした。


「そなた、何を持っておる!? 見せろ、それは……それに触れるな!」


 春恒は今までの弱々しい様子にそぐわぬ激しい口調でそう言うや、揺羅のうちきの袖を押さえつけ、ひったくるように花の包まれた懐紙を奪い取った。

 揺羅の背後の女房たちが慌てふためいて春恒ににじり寄り、殿、ご無理をなさってはなりませぬ、と口々に言う。ぽつんと一人取り残された揺羅は、芯から湧き上がるような震えを止められない。

 女房に取り囲まれた春恒は熱のこもる息を吐き、揺羅を冷ややかに睨みつけた。揺羅は、春恒の視線に囚われながら引きつった嗚咽を繰り返し、なんども首を横に振る。

 この方は何も変わってはおられぬ。冷酷な光中将は、決して心許してはくれぬ疎遠の夫のまま───

 喉に込み上げてくるものを押さえつけ、今すぐここから、夫の許から去らねばと床に手をつき立ち上がろうとした。揺羅もそこまでは覚えている。

 だけど、そこで揺羅の意識はふつりと途切れた。



     *****



 春恒が戻ったとの知らせに、内裏を辞してまっすぐ高倉の邸にやって来た基冬もとふゆは、西の対を満たす女たちのざわめきと叫びに眉をひそめた。

 妻戸の戸口に控える従者の俊行としゆきに尋ねるも無言で首を振るばかり、基冬は怪訝な表情を浮かべて対屋のうちに入る。

 ひどく動揺した気配が御帳台を取り巻いていた。よもや、帰還した春恒の容態はそこまで悪いのかと、御帳台を覗き込む女房に声をかける。


「いかがした?」


 ふいに声をかけられた女房は動揺を隠そうともせず、ただ袖で口を覆ってひれ伏した。誰もがそんな調子で、埒があかぬと御帳台を覗くと、ひときわ焦りを滲ませる女房の背が見えた。

 褥には半身を起こした小袖姿の春恒がいる。心配したほどのひどいありさまではない。そしてなぜか、褥の傍でうつぶせるように倒れている一人の女。女房は、その女に取り縋っているのだった。


「北の方さま……揺羅さま!」


 ───これはいったい、何ごとか。

 目の前に繰り広げられる光景は、基冬が想像しうる場面とは遠くかけ離れていた。御帳台の巻き上げられたとばりの下で、かけるべき言葉を探して立ち尽くす。


「兄上? いつの間に」


 基冬に気づいた春恒が気だるげな調子で呟くと、その女房は今初めて基冬の来訪に気づいてはっと顔を上げた。


「さ、宰相さま……」


 東北ひがしきたの対屋で見知った顔の女房はそう言うなり、慌てて主人の顔に袖を翳す。基冬は口を一文字に引き結んだまま、険しい視線でその様子と春恒とを見比べた。


「いったい、どういうことだ?」


 それは誰に問うたわけでもない言葉だったが、春恒は答えることを拒むかのように視線を逸らせる。


「こちらは、中将の北の方か?」


 もう一度問いかけると、東北の女房がただこくこくと頷き、うなだれた。

 基冬は再び春恒に視線を戻した。妻が倒れているにも関わらず、春恒は心配するようなそぶりも見せず無関心に衾に潜り込む。


「春恒」


 呼びかけるも、春恒は大仰な吐息をひとつついて、その目を瞑ってしまった。話しかけるな、ということだろうか。

 どうするつもりだ、そう尋ねようとして基冬は言葉を呑み込んだ。きっと、どうするつもりもないのだろう。

 束の間、思案げに視線を落としていた基冬は、何かを断ち切るように顔を上げると、失礼する、と倒れ臥す揺羅の傍に寄った。

 泊瀬は慌てた様子で宰相さま? と小さく叫ぶ。


「そなた……泊瀬と申したか」

「はい」

「このまま放っておくわけにもいくまい」


 静かなその言葉に基冬の意図を察したのだろう、泊瀬はちらと春恒を窺い見た。だが、当の春恒はさしたる興味もなさそうに、相変わらず額に載せた手拭を押さえながら目を閉じている。

 泊瀬が返答に迷っているのを見て、基冬は、西の対の女房に褥を用意できるかと尋ねた。それを聞いた泊瀬は、ついに意を決したように基冬に向き直り、幾分強い調子で懇願する。


「ならば宰相さま、恐れながらここではなく東北ひがしきたへ……どうか」


 忠実な女房は切実な視線を基冬に送り、それから深く頭を下げた。

 西の対(ここ)にはいたくない、そういうことなのだろう。

 基冬はもう一度ちらと春恒を見たのち、よかろう、と答えるや、気を失ったままの揺羅の袿の下に手を差し入れた。そのままゆっくりと抱き上げれば、揺羅の纏った躑躅つつじ*の衣がふわりと揺れて、下がり*が頬からはらはらと零れ落ちた。

 女房たちにざわめきが広がり、それに気づいた春恒も目を眇めて兄を見上げる。

 基冬は皆が注視する中、揺羅を注意深く腕の中に抱きかかえ、そのまま御帳台を出ようとした。だが、そこでふと立ち止まり、呆気にとられたように己を見上げる春恒の方を振り返る。


「後ほど参る。話はその時に聞こう」


 ただそれだけを言って、基冬は春恒の返事を待たずにその場を離れた。




 降りやまぬ雨の音が邸を包む中、基冬は揺羅を抱いたまま足早に進む。余計なことは今は考えまい。すれ違う女房が目を瞠り、頭を下げることも忘れてこちらを振り返ろうとも、基冬は黙々と歩を進めた。

 透渡殿を渡りきったところで、しかし基冬は呆れたような吐息とともに立ち止まった。泊瀬が、揺羅に扇を翳そうと必死になって基冬に纏わりついてくるからだ。必要ないと制し、瞳を閉じたままの揺羅のかんばせが露わにならぬよう抱き直すと、再びまっすぐに前を向いて歩き出す。

 南庭に面した寝殿の簀子すのこを行き、中央のきざはしの横を通り過ぎる。余計なことは考えまい。再びそう心に念じた基冬のうちに、それでもその瞬間、抗いようのない強い感情が押し寄せてくるのを防ぐことはできなかった。

 そう───かつて一度だけ、このように女君を抱いて歩いたことがある。あれは、今上きんじょうの妹宮である萩の宮が降嫁した時のこと。

 霜月の凍えるような宵だった。仄暗い灯だけが浮かび上がる暗闇の中、扇を翳して牛車くるまから現れた宮を腕に抱き上げたあの時。幾重にも重ねられた豪奢な衣の重みが、受け止める宮の存在の重みと相まって、階を昇る基冬の心と身体にずしりとのしかかってきたのを鮮明に覚えている。

 普段はもう思い出すこともないそんな記憶が、きりりとした胸の痛みをもたらす。基冬は大きく息を吐き出した。

 その時と比べ、今この腕に抱くひとの軽さはなんなのだろう。まるで、年端もいかぬわらわを抱いているような、少し力をこめるだけでもすぐに壊れてしまいそうな、そんな脆さを孕んだ軽さに基冬の心は困惑していた。

 しかも、東の対の下ろされた御簾の隙間からは、様子を窺う女房たちの好奇の視線を感じる。その中でもひときわ鋭い視線に気づき、思わずそちらに視線を馳せると、ふいに基冬を呼ばう声がした。


「若君?」


 基冬の行く手に母北の方に仕える女房の安芸あきが立っていた。安芸は今でも基冬のことを若君と呼ぶ。この古参の女房が、揺羅を抱く基冬を見て頓狂な声をあげた。


「これはいったい? 北の方さまも今か今かとお待ちしておりますものを」

「あとでお訪ねいたします、と母上に」


 どこまでも冷静にそう伝えると、基冬はまだ何かを問いたそうな安芸の前を通り過ぎ、御簾のうちから向けられる視線をも振り切って、ようやく東北の対に着いた。

 泊瀬が広廂ひろびさしにかかる御簾を巻き上げると、揺羅を抱いたまま、冠が当たらぬように首を傾げてくぐる。

 かつて己が住まっていた対屋のうちに足を踏み入れるのは、幾とせぶりだろうか。

 今は誰もおらず、ただ、絵巻や菓子、硯箱が少々雑然と置かれたままになっていた。陽の当たらぬ東側の廂にかけられた御簾が、時折湿気った風に吹かれて揺れている。


「帳台でよいか?」

「……はい」


 小走りにずっと後を追ってきていた泊瀬が息の上がった声で答えるのを待ち、揺羅を運び込んだ。そのまま、光の遮られた御帳台のうちで、泊瀬が褥を整えるのをじっと待つ。

 雨の降りしきる音だけが満ちる対屋は、どこまでも静かだ。

 この対屋で基冬は育った。幼い頃は春恒もしょっちゅう顔を見せ、ともに過ごした場所でもある。そこに佇めば、ようやくいつもの自分を取り戻せるような心地がする。

 いつだって感情を露わにしない、常に冷静沈着に物ごとを判断する切れ者、そう言われている己が今、腕の中に縁のない女君を抱いて、いったい何をしようとしているのか。

 春恒とその妻の問題に関わる気はない。春恒の行動はともかく、二人の関係がどうであろうと基冬にできることもないはずだ。なのに、柄にもなく愚かなことをしている。

 閉ざされた御帳台で朧げな腕の中の存在に視線を落とし、それからぎゅっと目を瞑って深く息を吸い込んだ。


「宰相さま」


 やがて、泊瀬に呼ばれてゆっくりと目を開いた基冬は、暗がりに慣れた視界を頼りに揺羅を抱えたまま膝をついた。いくら揺羅が軽いとはいえ、ようやくその身体を下ろせることにほっとする。


「申し訳ありませぬ、衾を取って参ります」


 そう言い置いて泊瀬が御帳台を出ていくのを目の端に捉えながら、基冬は褥の上で揺羅の背を支え、もう一方の手をそっとかぶりに添えて横たえようとした。

 その刹那、揺羅の口許からわずかに呻くような声が洩れた。同時にだらりと力のなかった身体に緊張がみなぎる。そうして、腕の中のひとははっと息を呑むや、基冬が驚く間もなく弾けたようにその身を起こした。

 揺羅はそのまま、基冬の胸のうちに飛び込んできた。それはあまりに突然で、基冬の腕は揺羅の背に回ったまま、頭に添えていた手が宙に浮く。

 基冬が困惑で動きを止めると同時に、揺羅の頬が基冬の二藍*の直衣に触れ、華奢な肩が驚愕に跳ねた。


「……嫌っ!」


 揺羅は何をどう思ったのか、いきなり引きつった声を上げて基冬の胸を強く押した。


「嫌です、嫌……離して、離してください。殿……嫌!」


 今度は取り乱し始めた揺羅に、基冬はますます困惑を深める。

 ちい姫と過ごしている時には、心の安定も持ち得ているように基冬には見えていた。春恒と疎遠であること以上に、なぜ夫をここまで拒絶する?

 御帳台の薄暗さに、未だ相手が春恒ではないと気づいていないのだろう。基冬は回した腕を離し、嫌、嫌と繰り返しながら暴れる揺羅の耳元に諭すように語りかけた。


「落ち着かれよ、わたしは中将ではない」


 その瞬間、揺羅の身体が打たれたようにびくりと揺れて、は、と動揺した息が零れ落ちる。うつむいた揺羅が怯えたような声で尋ねた。


「……宰相、さま?」

「そうだ。ここは東北ひがしきたで、春恒はおらぬ。心配せずともよい」


 基冬が静かにそう伝えると、揺羅は何も答えず、その代わりにもう一度嗚咽のような声を零した。

 落ち着きを取り戻したかと安堵しかけた基冬の見守るその前で、揺羅はまるで花が散りゆくようにゆっくりと傾いていく。

 戻ってきていた泊瀬が、姫さま、と悲愴な涙声で叫ぶ。雨はなおも強く邸を叩いている。

 基冬は、崩れ落ちていこうとする揺羅の身体を支え、その胸にしっかと受け止めた。

荷葉

六種むくさ薫物たきもののうち、夏の薫り。蓮の花の香りを模したもの。


この時代用いられていた、掛け布団の原型。

長方形のほか、袖や襟がついたものもありました。


躑躅の襲

紅から青(今の緑)、白または紅を重ねた襲。

(紅匂いて三。青き濃き薄き二。単白き紅。こゝろこゝろなり。───『満佐須計装束抄』より)


下がり端

女性の長く伸ばした髪のうち、前髪の一部を頬から肩くらいの長さで切りそろえたもの。


二藍

夏の衣に使った紫系の色。

当時、『あい』という言葉には染料という意味もありました。藍で染めた藍色と、くれ(中国)の藍、つまりくれないで染めた赤花色、二つの『藍』を掛け合わせて染め出した色が二藍です。藍の分量を変えることにより、赤紫〜青紫まで色味に幅があり、一般的には若い人ほど赤味の強いものを着たといわれています。

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