十六 山吹
卯月の庭に、静かに雨が降る。
御簾を開け放してもなお薄暗い対屋で、揺羅は書に手を置いたまま、雨にけぶる庭をぼんやりと眺めていた。
春恒が姿を消して以降も、揺羅の日々は一見なんの変化もないように過ぎていく。朝、目覚めて身仕舞いを済ませ、一心に書を読む。ほぼ毎日ちい姫の訪いを受け、ともに過ごし、宵がくれば褥につく。その繰り返しだ。
揺羅に馴染まぬ邸の女房たちが、なんと薄情なと陰で囁いているのも知っている。泣きわめいて過ごせばよかったのだろうか。
どこか現実感を伴わぬままの春恒の失踪───夫に対し、その不在を嘆き悲しむほどの想いを持っていたわけではない。夫の失踪という現実に正気を失うほど強い情を抱いていたわけでもない。
だから、揺羅はただ淡々と日々を送る。
それでも、誰にも明かさぬ胸のうちには、恐ろしく大きくて実体の見えない不安のかたまりのようなものがあって、それが絶えず揺羅を責め苛み続けていた。
何ゆえ夫という存在が出奔したのか、まったく見当もつかぬ情けなさ。その生死すら分からぬ恐怖と、そのことによる極度の緊張。そんな中でふと、今は夫に怯える必要もないことに気づいて、ほ、と安堵する、そんな己の浅ましさへの嫌悪。自身ではどうしようもない心の浮き沈みもまた、揺羅の心を弱らせていく。
不意になぜか、捲れ上がった御簾の向こうに一瞬だけ見た基冬の揺らぎない視線を思い出した。
あの日、夫の失踪を伝えにきた基冬からはそれきり何の音沙汰もない。独りになれば、捨て置かれたような東北の対屋の気配に押し潰されてしまいそうだ。
基冬には自身でも手を尽くすと言ってみたものの、実際は女の身にできることなどほとんどない。泊瀬は、父である左大臣に相談することを勧めてくるが、届けられる父からの文に春恒の不在を問う言葉は一切なく、何も知らぬのであろう父にどうして相談などできようか。恐らくは右大臣家が裏で手を回し、春恒の失踪を隠しているのだと考えれば、不用意に尋ねてこれ以上迷惑をかけることなどできぬ。
結局、今の揺羅にできることはただ、うちにある弱い心を人に見せぬようにすることだけ。春恒が失踪したのは弥生の望月の頃だったから、もうすでに半月、そんな風に過ごしている。
人払いをした対屋で、揺羅は物憂げな視線を手許に落とした。
何を口にする気にもなれず、また指が細くなった気がする。当然眠りも浅く、このままではいずれ立ち上がることすら覚束なくなりそうだ。
唯一の救いは、毎日ちい姫が東北を訪れ、優しい時をもたらしてくれること。
一緒に絵巻を見たり、庭で花を摘むのを眺めたり、幼子と過ごしている間だけは、わずかに憂きことも忘れていられるような気がする。
「姫さま」
泊瀬が静かに戻って来て、揺羅に声をかけた。
「じき、ちい姫君が参られるそうですわ」
「そう」
小さく頷いてから、ふと泊瀬を振り返った。
「その後、左近や榊からは?」
泊瀬は几帳を動かす手をはたと止めた。一瞬の間を置いて揺羅を見ると、力なく首を振る。
「そう……」
同じ頃、同じように行方が分からなくなった春恒とともにいるのか、それとも。
しばらく黙り込んでいた揺羅は、思い直したように書を閉じると泊瀬に頼んだ。
「……ね、女御さまの古今集を出してくださる? 雨で湿気てしまってもいけないから」
泊瀬は何も問わず、畏まりました、と塗籠に消えた。再び一人になるや否や、もう幾度ついたか分からないため息がまた落ちた。
いったい、今、何が起こっているのだろう。
右大臣家に来て六年、決して幸せではなかった。それでも、捨て置かれる孤独の中にはある意味穏やかな日々もあったのだと、こんなことになって初めて気づいた。今はただ、これほどにも心がざわめき、息をつくことすら苦しい。
視線を御簾の外を向ければ、今を盛りと咲く山吹が、樺色の若葉を纏う桜から落ちる雨だれに打たれ、その身を震わせていた。どこか痛々しい様とは裏腹に、鮮やかな黄色が際立っている。
姉女御の遺品である歌集には、今上の筆によるとても美しい山吹の花が描かれている。描いた人の姪であるちい姫にあの絵を見せれば、きっと喜んでくれるに違いない。そんなことを考えて、揺羅は無理に淡い笑みを口許に浮かべた。なんでもいいから何かしていないと、心も折れてしまいそうだった。
やがて、いつものように東の対と繋がる透渡殿の方から軽やかな足音が聞こえてくる。
揺羅が泊瀬に手渡された古今集を傍の書の上に載せると同時に、小さな姫君が姿を見せた。そして、その後ろには乳母の小宰相も。
揺羅はちい姫を微笑み迎えながら、ちらとその背後にいる小宰相を見た。小さな主人と同じく鈍色を身につけて御簾を潜るその表情に、明るさは微塵もない。これこそが、揺羅の心を重くするもうひとつの原因だ。
「ご機嫌よろしゅう、ちい姫さま」
「揺羅さま御機嫌よう! ほら見て、白い山吹」
小さな手には、雨粒を纏った白山吹が二枝、揺れていた。
「ま、珍しいこと……」
「お祖母さまのところに咲いているの。お父さまのお邸では黄色のお花しかなかったのに」
「そうね、わたくしも初めて見たわ」
紅梅といい、白山吹といい、珍しい花を集めることに熱心だった前の大臣の趣味でもあろう。
「あのね、お祖母さまが、揺羅さまにっておっしゃったの」
ちい姫が満面の笑みで無邪気に続け、揺羅はその言葉にわずかな驚きを見せる。
「お義母さまが?」
「秘密の場所に咲いているの。お祖母さまとわたしで選んだのよ」
「秘密の場所?」
揺羅が問い返せば、ちい姫は屈託ない笑い声をあげた。
「そう、お祖母さまとわたしだけの秘密の場所」
よく見れば、頬に揺れるちい姫の髪が少し濡れている。雨の中、東の御方とちい姫が自ずから花を選んでくれたと聞けばありがたさが身に沁みて、その髪に手を伸ばした。
「濡れてしまったわ、お風邪を召しては大変ですのに」
そう言いながらちい姫の髪を袖で拭こうとした時、背後から冷めた声で小宰相が口を挟んだ。
「わたくしどもが、と幾度も申し上げたのですが」
思わず揺羅がそちらを向くと、小宰相は視線を避けるように軽く頭を下げた。
「駄目、周防には教えない。だって、秘密なんですもの」
つんとすまして言うちい姫のささやかな言葉の棘に、乳母が返事することはなかった。
「揺羅さまにはいつか、教えて差し上げます」
耳元にそう囁かれた揺羅は少し困ったように首を傾げ、ちい姫の濡れた髪を袖口で拭った。
「ちい姫さま、周防ではなく小宰相と。お父君もそうおっしゃっておられたではありませぬか」
「……」
ぷうと膨らんだ頬にそっと触れ、揺羅は微笑んでちい姫の顔を覗き込む。
「雨の中、わたくしのために選んでくださってありがとう。東の対のお義母さまにもお礼を申し上げねばなりませぬ。あとで文を書きますゆえ、ちい姫さまが届けてくださるかしら? このお花も生けてあげなくてはね……泊瀬」
あえて明るい声でそう言いながら泊瀬を振り返れば、睨むように小宰相を見ていた泊瀬がはっと我に返り、花器を取りに立った。揺羅もまた、かたい表情のまま瞳を伏せる小宰相をちらと見て、ひそりと吐息を零す。
揺羅が初めてちい姫に会った日も、対屋に走り込んできたこの乳母は一言の礼すら言わなかった。あの時覚えた違和感は、ちい姫を通して関わるようになってもなお消えぬままだ。
小宰相が揺羅に見せる瞳はどこまでも冷淡だ。視線すら合わそうとはせぬその態度はなぜなのだろう。仮にも東北の対屋のあるじである揺羅のことなど、まるで相手にもしていないかのような不遜さを感じさせる。
どこか釈然としない気持ちのまま、揺羅は思い直したように歌集を手にした。
「ちい姫さま、ご覧になって。ここに……ね、山吹の絵が」
ちい姫は、顔を輝かせて揺羅の傍にすり寄る。もう幾度か見せているこの歌集が、ちい姫は気に入っているようだった。
春歌の巻の、山吹の歌が並ぶその余白に、一枝の山吹がまた美事な様子に描かれている。匂うような山吹の黄色の花々が、今にも風に揺れ始めそうだ。
「きれい! これも主上が描かれたもの?」
「そうよ」
───ご寵愛だったお姉さまのために。
見もせぬ二人の情景が、ふと揺羅の脳裏に浮かぶ。
画材を並べ優しい筆運びで山吹を描かれる帝と、その様子を幸せそうに微笑みながら見守る姉女御。描き上がった絵を自慢げに見せる主上と、寄り添うように覗き込むお姉さま。
あのように不幸な出来ごとさえなければ、姉女御さえ存命であれば、その仲睦まじい時は今も変わらず続いていただろう。歌集にはもっとたくさんの絵が描かれ、彩り鮮やかなものとなっていただろう。
そして、揺羅の人生もまた、きっと違うかたちのものになっていたはずだった。揺羅が右大臣家に来ることもなく、ひょっとしたら春恒が失踪することだって───
「揺羅さま」
不意に、小さな手に袖を優しく引かれて、揺羅ははっと物思いから目覚めた。気づけばすぐにこうやって果てしのない物思いに陥ってしまう。
「このお花は、お父さまのお邸にも咲いているの」
先ほども聞いたそんな言葉を、ちい姫は繰り返す。揺羅は訝しげに眉を寄せ、隣に寄り添う幼子を見た。
「そうね、このお庭にも咲いているわ。春雨に にほへる色もあかなくに かさへなつかし 山吹の花*───ほら、あそこに」
絵の横に書かれた歌を指で辿り読んで聞かせ、歌と同じように雨に濡れる山吹を指しても、ちい姫は小さくうつむくばかり。どこかちぐはぐに心がすれ違っているような気まずさを、揺羅は微笑みで追い払おうとした。
「どうかした? ちい姫さま」
「お父さまのお邸に……」
消え入るような声でそう言って、ちい姫はぱちぱちと瞬きしている。
「お父君のお邸に咲いているのね」
優しくそう言葉を繋いで揺羅が背を撫でてやると、やがてちい姫はぽつりと呟いた。
「お父さまが、いらしてくださらない」
その唐突な呟きに、揺羅は思わず手を止めた。
「え?」
「お父さま、わたしのことなど忘れてしまったのかな」
じわりとちい姫の瞳に涙が浮かぶ。
ちい姫の父である前に政を担う宰相であり、右大臣家の嫡男であり、そして、失踪した春恒の兄でもある基冬。恐らくは昼も夜も奔走し、娘に見える時間すら今は作れずにいるのだろう。
揺羅はきゅっとくちびるを噛みしめた。
一瞬でも、基冬がその後一度として春恒のことを知らせてくれぬことを恨めしく思った己に呆れる。ちい姫が先ほどから白梅邸に咲く山吹のことばかり話していたのは、寂しいからだ。毎夜、父に慈しみ抱かれる夢を見ていた揺羅と同じだ。
そして、その寂しさの一因を作ってしまったのは揺羅でもあるのに、今の今までそのことに気づいてあげられなかったなんて。
「……文を」
少し思案していた揺羅は、そう口にした。
「お父君はお忙しくてあられるのでしょう。ちい姫さまから御文を届けましょう。ね、きっとお喜びになるわ」
ちい姫は、涙に濡れた瞳で驚いたように揺羅を見上げた。
「文?」
「ええ、そう。ちい姫さまが、お父君に宛てて」
「でも……」
字を書けないの、とちい姫はまたうつむいた。
「ならば、教えて差し上げます。そうすれば、いつでもお父君に御文を書けますもの」
「本当?」
ちい姫はちらと乳母の方を窺った。
わずかに眉を寄せて二人のやりとりを聞いていた小宰相の視線が揺れる。異を唱えられるだろうと身構えた揺羅の耳に、思わぬ言葉が聞こえた。
「ぜひ、そうなさいませ」
意外な言葉だった。ちい姫と揺羅の関わりを嫌がっているのだとばかり、思っていたから。
虚を突かれたように一瞬黙り込んだ揺羅は、すぐに硯箱を持ってくるよう泊瀬に命じる。料紙の入った匣を取り寄せ、どの紙にいたしましょうか、と見せれば、ちい姫は明るい山吹の色目の紙を選んだ。
「さあ、なんと書きましょう?」
「お父さま、姫に会いにいらしてください、って」
「お身体お大事に、とも書いておきましょうね」
用意の整った文台の前で、初めて筆を持つちい姫の小さな手を上から握り、紙の上にひとつひとつ文字を綴る。一文字書くたびに揺羅を振り返るちい姫の笑顔が愛おしい。
やがて書き上がったたどたどしい文字の並ぶ文は、それでも幼い心を伝えるに充分なものだった。
「これをこうして折りたたんで……さっきの白山吹を、お父君にお届けしても?」
「お父さま、驚くかな」
「もちろん、お喜びくださるわ」
生けられたうちのひと枝を選んで、そこに結びつける。
まるで恋文のようだ、とふと考え、恋文など書いたこともない揺羅は思わず苦笑した。
文の結わえつけられた白山吹の枝を持って、ちい姫は嬉しそうに対屋の中を歩き回っている。それを目の端に捉えつつ、揺羅は手早く東の対に住まう義母に文をしたためた。
「お父さまにお渡しするのよ。どうすればいい?」
ちい姫が小宰相に尋ねている。
「この小宰相がお届けいたしましょう。必ずや」
そんな小宰相の声を聞いて、料紙を手にしたままちらりとそちらへ視線を馳せた揺羅は、その仕草の優しさを見て密かに目を見開いた。ちい姫の乱れた襟元を直しながら、微笑みさえも浮かべている。揺羅に対するのとはあまりにも違うその態度。
「宰相さまも、さぞかしお喜びにございましょう」
揺羅にあんなにも不躾な態度を取る小宰相だが、あるじであるちい姫には誠心誠意尽くしている様子が窺える。
本来、冷淡な人柄ではないのかもしれない。そんなことを考えながらふ、と視線を逸らし、思い直して文に向かった時だった。
慌ただしい足音が渡殿の方から近づいてきたかと思うと、どこか切迫した声で何ごとかを囁くのが聞こえてきた。泊瀬が様子を窺いに立ち、そうしてまた、すぐに揺羅の許へと戻ってきた。
書き上げた文をたたみ、文箱へと収めていた揺羅は、耳元で囁かれた泊瀬の言葉に文箱の蓋を取り落す。
たった今、殿がお戻り遊ばされました───泊瀬はそう言ったのだ。
春雨に にほへる色もあかなくに かさへなつかし 山吹の花
『古今和歌集』巻二 春歌下 より、読み人知らずの歌。
「春の雨に濡れた美しい色も見飽きることがないというのに、その香りまでも慕わしく感じられる山吹の花よ」という意。