十五 因果
いつの間にか、高倉邸の花の色は桜から山吹へと移り変わっていた。邸に住まう人々の憂鬱とは裏腹に、心地よい風がふわりと御簾を揺らしている。
東の対へと繋がる透渡殿でふと足を止め、基冬は己が邸と同じ黄色の花を見た。
急遽、母に呼ばれてこの邸を訪うたが、駆け出して迎えるちい姫の姿はない。恐らくは東北の方にいるのであろう。そちらを見遣ってなんとはなしに寂しさを覚え、基冬は小さく吐息をついた。
思い直して広廂*を曲がれば、途端に花を照らす昼下がりの日ざしは遮られる。母の住まう対屋の、少し翳った廂の冷えた板に腰を下ろすと、一見穏やかな春の光景に基冬の纏う鈍の色が重く沈む。お呼びでございますか、という基冬の声に、母が脇息を打つ神経質な音が重なった。
「急な呼び立てにもかかわらず、よう参られた」
「いえ」
「その後、春恒の消息は?」
御簾のうちから問われ、基冬はわずかに頭を下げる。
「方々手を尽くしてはおりますが、未だ───」
「そなたが手こずるとは、珍しいこと」
母らしい辛辣な言葉にゆっくりと顔を上げた基冬は、胸のうちにある思いを抑え込むように一度大きく息をした。
「面目ございませぬ」
絞り出すようにそれだけを言えば、北の方はああ、と声をあげて大仰にため息をついた。
「そんな取り繕ったような話をしたいのではないわ。ちい姫もおりませぬゆえ、基冬、こちらに」
その言葉の終わらぬうちに、ばさりと前に垂れていた御簾が掲げられた。基冬はちらりとあたりを見回し、それから静かに対屋のうちへと滑り込む。しゅると衣が鳴った。
御簾を静かに戻した女房は心得たように妻戸から出て行った。人払いされた対屋のうちには長らく変わらぬ母好みの香が燻り、北の方は落ち着いた色目の山吹*の袿の袖を払って基冬に向き直る。
「……お疲れのようね」
我が子の顔をまじまじと見て、北の方は呟いた。
「まあ、それも仕方ありませぬ。殿も主上の手前、難儀しておられるご様子」
たん、と脇息を叩く母の前で、基冬は無言のまま頭を下げる。
春恒の失踪からすでに半月。
都近辺、右大臣家の別荘がある北山あたりなどはとうに捜した。知り得る限りの女たちの許へも従者を送ったが、一様に知らぬと言うばかりだった。これ以上捜索の手を広げれば、春恒の失踪を広く知られてしまう。内裏には父右大臣とともに手を回し、要らぬ噂が立たぬよう目を光らせているが、それもそろそろ限界だ。主上もはっきりとは口になさらぬものの、左近衛中将の不在を訝しんでおられるのは間違いない。万が一、卯月にある賀茂祭*で勅使を務めるべき者が都におらぬという事態となれば、きっと帝も黙ってはおられぬ。
基冬は、視線を落としたまま抑えた声で答えた。
「祭も近く、このままでは、ことは春恒一人の問題にとどまらぬようになります。父上も、万策尽きたと弱音を吐かれるほど」
「ほんに。一刻も早う、解決の糸口を見つけ出さねば」
物憂いため息をつきながら頷く北の方の前で、基冬は小さく唸った。
解決の糸口。
父右大臣は微塵も疑っていないようだが、基冬は叔父である彰良の関与を確信している。当の彰良はしかし、その後も物忌を口実に邸に引きこもり、だんまりを決め込んだままだ。力づくで踏み込むわけにもいかぬ。さてどうしたものか───
「彰良が」
唐突に、たった今脳裏にあった叔父の名を言われ、基冬は驚いて顔を上げた。
母にも叔父の関与の疑いを伝えた覚えはない。なぜ今ここで叔父上の名を? とわずかに眉を寄せる基冬を、北の方はもの問いたげな視線でじっと見つめ返してくる。
訝しげに歪めた瞳を幾度か瞬かせた基冬が言葉を発するより前に、北の方はそ、と一通の文を差し出した。
「……これは?」
一瞬躊躇い、それから、必要以上に小さく折り畳まれた、古ぼけた桜色のその文に手を伸ばす。
「昨夜、届けられたものです。わたくしの許へ」
「昨夜?」
「殿もまだご存じではない」
そっと文を開けば、まだ真新しい、だが力ない墨蹟が目に飛び込んできた。叔父の手蹟ではない、女手だ。二度三度と断片のような文字を追い、それでもそこに書かれた内容を理解できず、基冬は窺うように母を見た。
「読んでご覧なさい、声に出して」
北の方は静かに頷きながらそう言った。基冬はまるで童のように、小さく声に出してそれを読む。
「はるぎみ、文を遣わし給う。疾く疾く。姉ぎみさま参る……?」
基冬の声は、疑問の底に沈んで消えた。
脳裏に次から次へと疑問が浮かぶ。母を姉と呼ぶべき女といって思い浮かぶのは春恒の実の母だが、昨年すでに世を去っている。はるぎみとは誰のことであろうか、まさか春恒のことではあるまい。
「腑に落ちぬ、という顔ね」
どこかからかうようにも聞こえる調子で、北の方が言った。
「いえ……ええ、そう、ですね。これはいったい───」
そこまで言って、基冬は一人の存在に思い至る。
「もしや、伊勢の?」
北の方の瞳がちらりと揺れ、それからわずかに口角を上げて笑った。
「さすが宰相」
「いえ、まさか……どういうことか解せませぬ。伊勢の御方は確か、もうかなり前に」
「ええ、そうね」
北の方はそう相槌を打つなり、どこか遠い目で御簾の向こうを見遣った。基冬はますますわけが分からなくなって、言葉もなく母の横顔を見つめる。
基冬の母は、前の兵部卿宮の娘だ。昨年身罷った同腹の妹と、異腹の弟である彰良がいる。そしてもう一人、彰良と母を同じくする姫がいた、と基冬はいつか聞いたことがあった。だが、一度として会ったことはなく誰もその女の話をせぬので、それがまことかどうかすら定かではない。
不意に、母の視線が基冬に戻された。
「そなたも噂は聞いたことがあるでしょう? あの、宮家の名を貶めた醜聞を」
「それは……」
基冬は動揺を隠し切れずに口ごもった。
彰良とその妹である三の姫には、以前からまことしやかに囁かれる妙な噂があった。同腹の兄妹でありながら、兄が妹に恋々としていた、と。それゆえに妹姫は悩み苦しみ、父宮によって伊勢に遠ざけられ、やがてはかの地で命を落とした、と。
だが、そもそも叔母の存在すらはっきりと知らされてはおらぬ基冬にとって、その噂は真剣に取り合う価値すらないものと、今まで心にとめたこともなかったのだ。
「今まで、あの者たちのことは口にせぬようにしてきたけれど……噂はおおむね真実」
「まさか」
「本当よ。鬼ともなる覚悟で三の姫───実の妹に恋をしたの、あの彰良が。それを知った時の父君のお怒りは、それは恐ろしいものだった」
北の方はやるせない吐息を零す。
「三の姫は頑なに拒んだにもかかわらず、父君の命で遠く伊勢へと追いやられてしまったの。母が違ったとはいえ、幼い頃ともに過ごしたこともあった二人……止めることができなかったことをずっと悔やんできた」
「そうして、その御方はかの地で?」
基冬の言葉に、北の方は静かに視線を上げて息子を見返した。
「───いいえ。今もまだ、伊勢に」
「今も、生きておいでだと?」
次々と明らかになる真実に思考が追いつかず、基冬は混乱した頭で次の言葉を探す。斎王は、御位が移れば帰京する決まりだったはずだ。
「御代は変わったはず。なぜ都に戻らず、今もまだ伊勢に?」
「父君は、今上の御代になって斎王が代わられても、彰良のいる都に戻ることをお許しにならなかった。だからそのまま、今も間違いなく斎宮に仕えておられるわ、藤命婦と呼ばれて。囚われていると言った方がふさわしいかもしれぬ」
基冬は、我知らず口元を掌で覆った。
にわかには信じがたい話だ。その生死すら知らなかった叔母の存在が、今ここにきて右大臣家を揺るがしてくるなど。
「では、この文は」
「藤命婦は半年ほど前に体調を崩して、もはや都に戻ることはできぬようになってしまわれた。父君も亡き今、あの者が頼れるのはわたくしくらいなのでしょう。わずかばかりだけれど、密かに面倒を見て差し上げていたの。時折文の遣り取りもしていた」
「では、病ゆえにこのような?」
基冬が言えば、北の方は大きく頷いた。
「ええ、きっと。それほど弱々しい手蹟で書いて寄越したのは初めてなの。しかも何が言いたいのか、よく分からぬ文。わたくしも昨夜は一晩中、考え続けたわ」
そう言うと、北の方は脇息を傍に押しやり、ざわりと衣擦れの音をさせて基冬に寄った。
「よろしい? かつて、わたくしたちが白梅邸に住もうていた頃、彰良は東の対屋にいたの」
よく考えてみろと覗き込む視線と、噛んで含めるような言葉。
東とはすなわち、春。はる───はるぎみ。
「……叔父上が伊勢に文を送ったと?」
基冬はくらりと頭が揺れた気がした。
そう考えれば、すべてがひとつに繋がる。その文を届けたのは、恐らく春恒だ。
そもそも、春恒にとって叔父の彰良はどこか相通じるものがあるのか、時折行き来しているのは知っていた。こたびは恐らく、彰良が都合よく春恒を利用したのだろう。そうでなければ、噂を裏づけるような恥知らずな遣いを、いったい他の誰に頼めるというのか。
「春恒はいなくなる前日、確かに彰良を訪うていたわ」
「存じております。こうなったのは、わたしのせいでもあるということでしよう」
基冬はそう言ったきり、眉を寄せてぎゅっと目を瞑る。
朝政のあと、突然姿を現した叔父は確かに、任せろ、と言った。
あの時、基冬は疲れ果てていた。春恒が引き起こす、内裏をも揺るがしかねぬ出来ごとの数々に。だから、あの叔父の言葉にすら心が揺らいでしまったのだ。己が力だけで解決を試みていれば、かようなことにはならなかったものを。
基冬の呟きに、北の方は力なく首を横に振った。
「すべて、そなたには関わり知らぬこと。自分を責める必要はない」
北の方は慰めるようにそう言って、するりと基冬の袖を撫でた。そうして、三の姫からの文を基冬の手から取り戻し、元のように小さく折り畳む。
「ただ、あの彰良が、今なおそのように邪な心を持ち続けているとは、さすがにわたくしも思うてはおりませなんだ。三の姫にとって、彰良のことはすでに遠い過去の悪夢でしかないはず。だから早う、一刻も早う助けて欲しいと、そういうことでしょう、可哀想に。彰良の文に何が書かれていたかは分からぬけれど、春恒はそれを持って伊勢へと向かった」
そこで一旦言葉を切った北の方は、不意に東北の方角へと視線を向けた。
「ちい姫は、今も東北に行っています。かようなことになりお辛いであろうに、ほんにようしてくださっている」
基冬に戻された北の方の視線に切実さが宿る。母の視線が基冬を追い詰める。逃げ場はない。
「東北にいる方のためにも……。それに、確証の得られぬうちは殿にはとても知らせられぬ。そなたしかおらぬのです。動いてくれますか、基冬」
*****
夕刻、ちい姫に会うこともないまま白梅邸に戻った基冬は、設えられていた茵に崩れ落ちるように座り込むと、脇息を引き寄せ頭を抱えた。
また、新たな問題だ。かつて、兵部卿宮家がひた隠しに隠してきたのだろう醜聞が、下手をすれば公けになってしまう。己の家族にまつわる問題で右大臣家の足を引っ張るなど、あの母には何よりも耐えられぬことであろう。
とにかく、早く春恒を探さねばならぬ。少なくとも、世間の目を逸らすためにも伊勢から離さねば。
「是親」
基冬は山吹の花が揺れる庭に目を向け、全幅の信頼を寄せる従者の是親を呼んだ。
基冬に代わり、春恒に関わる女たちを訪ねてまわったのも、北山や嵯峨、葛野などの所縁の地を捜しまわってくれたのも、基冬の乳兄弟であるこの男だ。
そもそも、母北の方が右大臣家の中で、基冬と春恒の出生の秘密を抱えながらも正気を保ち気丈でいられたのは、是親の母である乳母の若狭の支えが大きかった。その息子である是親もまた、母の気質を受け継いで主に絶対的な忠義を尽くしてくれている。伊勢などという遠い地にまで送ることは忍びない気もするが、今、基冬が都を離れることはできぬ以上、この男以外に頼める者もいなかった。
「ここに」
すぐに抑えた声がして、階の下に是親がひざまずく。基冬が無言で手招きするのを見て、静かに簀子まで昇ってきた。
「近う」
もう一声かけねば、是親は決して基冬の側近くにまで寄ることをしない。どれほどの長い時を共に過ごそうとも節度を保ち、絶対的な主従関係を守ろうとする。それはもしかしたら、乳母である母の教えでもあったのかもしれない。だからこそ、この母子は右大臣家でも絶大な信頼を得てきたのだ。
ようやく、ひそめた声が届くほどの距離にまで寄ってきた是親に、基冬はふ、と小さく笑った。
「おまえは本当に、影の如く生きているのだな」
「そのようなつもりもございませぬ」
即答されて、またも苦笑する。
「……まあよい。頼みがある。明朝、夜が明けぬうちに都を発ち、伊勢へ向かってほしい」
「伊勢へ」
「そうだ。勢多から頓宮*の地を辿り、斎宮まで。何日で向かえる?」
「月が暗い時期ゆえ、二、三日いただければ」
ふん、と基冬は鼻を鳴らし、しばし考え込んだ。
「では、卯月の頭までには戻って来られるな?」
「は」
「なんとしても春恒を見つけ出さねばならぬ」
是親は黙って頭を下げた。
本当に口数の少ない男だ、と基冬は是親を見た。多くは語らぬが、しかし、長い年月を共に過ごしてきて、互いに腹のうちまで読めるほどには理解し合えていると基冬は思っている。
かつて、是親はこんな男ではなかった。もう少しは闊達であったし、笑顔を見せることだってあった。是親が変わったのは萩の宮が降嫁して以降、小宰相───当時の周防がちい姫の乳母として存在感を強めるようになった頃からだ。何があったかと問うたことはないが、以来是親はいつも一歩身を引き、ひっそりと影に隠れるようになった。
決して多くを語らず、ただ、抜かりなく基冬にまつわる物ごとを見ている。主人たる基冬の身に不利が起ころうものならいつでもその身を呈して守る覚悟で、すべてを見ている。それほどの献身を痛いほどに感じているからこそ、基冬もまた、絶対にこの男を守っていかねばならぬと思っている。
「くれぐれも気をつけてくれ。春恒を見つけることが第一ではあるが、おまえも必ず、無事戻ってくるように」
気遣わしげな視線に気づいたのかどうか、は、と短く頭を下げた是親は、静かに基冬の前を辞した。
*****
その翌日、まだ夜も明けやらぬ彼は誰時に、基冬の命を受けた是親が春恒捜索のため極秘裏に都を発ったことを、揺羅はまだ知らない。
広廂
対屋の南面には、通常の廂の外側にもう一段低い廂の間を設けてあり、これを広廂と呼びました。簀子まで用いるとかなり広い空間となり、この場所で管弦や宴が催されました。
山吹の色目
表が朽葉、裏が黄の色目。
賀茂祭
下鴨神社の祭神 玉依姫命が上賀茂神社の祭神 賀茂別雷命を生んだといわれている、卯月の中(二回目)の酉の日におこなわれる上賀茂神社と下鴨神社の祭礼。帝の勅使を近衛中将が務めます。
頓宮
斎王が都から伊勢の斎宮へと下向する際に立ち寄った仮の宮のこと。