十一 陽春
日増しに明るくなる陽光に、まことの春の訪れを知る。
ひとつ、ふたつ、数えるほどだった桜があたたかな日ざしを浴びて次々に蕾を綻ばせていき、その花々の間をめじろが蜜を吸いながら渡り飛ぶさまを、揺羅はふと手を休め、御簾越しに眺めた。
あの出会いからもう十日、ちい姫は揺羅の許に姿を見せてはいない。それでも、心のどこかで確信めいた気持ちを持っている、近いうちにまた会えると。
いつちい姫が来てもいいように、絵巻物を取り寄せた。今は、塗籠の奥で埃をかぶっていた貝覆*を出してきて、小さな布で磨いている。それは、一向に姿を見せぬ夫の春恒を待つより、よほど心浮き立たせるひと時だ。
「泊瀬」
「はい」
「ほら、めじろが桜に。嬉しい、春がきたのよ」
言われて御簾の向こうに目を遣った泊瀬は、すぐに揺羅へと視線を戻し、驚いたように呟いた。
「姫さまがご自分からそのようなことを申されるなんて」
「そう? 」
わずかに首を傾げてしばらく考え、そうね、と小さく笑って、揺羅はまた手にした貝を拭き始めた。梅重*のかすかに色づく袖から覗く手が、小刻みに動く。
「こんなに穏やかな気持ちになったのも久しぶり……。この邸に来て、初めてかもしれぬ」
拭きあげた貝を、泊瀬に手渡す。それをまた、大切に貝櫃*へと戻している泊瀬の手許を見ながら、揺羅はぽつりと言った。
「ちい姫君を見ていて、ふと思ったの。わたくしも、子を持ってもおかしくない歳になった、と」
「……」
はっと揺羅の方を向いた泊瀬の顔がわずかに歪む。その可能性すら失ってしまった揺羅の呟きは、泊瀬には嘆きとしか受け止められない。しかも、その可能性を奪ったのは、今年の晩秋には身ふたつとなるはずの泊瀬の姉でもあるのだ。
「いやね、そんな顔しないで」
「でも」
「そんなつもりで言ったのではない。わたくしももう十六よ、子を持つお方もたくさんおられるでしょう」
現に、揺羅の姉女御が今上の一の皇子を生んだのも、まさしく十六の時だった。
「わたくしにも、人並みに稚い子を愛おしむ気持ちがあるのだと驚いただけ」
思案に沈む泊瀬をよそに揺羅は楽しげにそう言うと、またひとつ、貝を取り上げた。
「ちい姫君のお可愛らしかったこと。頬も手も、あんなにやわらかいだなんて。なんて愛おしい」
「姫さま」
「また、お会いしたい」
「……」
泊瀬は、どこか言葉を探すように視線を彷徨わせた。
下手に関わればまた、新たな火種を生む気がする。それでも、いつも力ない瞳を震わせていた揺羅が、こんなやわらかな表情で微笑むのを見れば、泊瀬の心もまた揺れる。
「……わたしがそれとのう、東の様子を窺って参りましょうか?」
泊瀬が言うと、揺羅は小さく首を振った。
「いいえ。待つのは慣れているから」
「されど姫さま、もうずっとそのようにお待ちになっていらっしゃる」
「きっともうじき会えるわ。そんな気がするのよ」
泊瀬は切ない瞳で主人を見た。
何も与えられぬままに何かを待つ、何を待っているのかすら分からぬまま───そんな揺羅の姿を六年間も見続けてきた泊瀬にすれば、今またちい姫の訪れを待つ様子は、それがどれほどに楽しげに映ったとしても切ないものだ。
その時、東の対とをつなぐ渡殿の方で、笑い声とも悲鳴ともつかぬ幼子の声があがった。
「……ほら」
揺羅はどこか楽しげにそちらへと視線を向けながら、手にしていた貝を傍に置いた。
時を同じくして、あれよという間に騒々しい足音が近づいてきたかと思うと、壺に面した御簾が勢いよく捲り上がる。
「早く! 早く隠して……早くっ」
ちい姫は、切れる息のはざまにそう叫びながら、東北の対屋に転がり込んできた。
笑っているのか泣いているのか、とにかく妙な声をあげて揺羅たちのいる御座にまで駆け寄ってくると、呆気にとられて固まっている泊瀬の後ろに身を隠す。
「誰にも、言っちゃ駄目、よ。いい? 周防が来ても、いない、って言って!」
はあはあと息をつきながら切れぎれにそう言うと、ちい姫は薄鈍色の衵を着たその身をなおも小さく縮こませた。
「ひ、姫さま」
動くに動けず助けを求めた泊瀬に、揺羅は声をひそめて笑った。
「早う、袖で隠して差し上げて」
「姫さま!」
何を申されるのか、と視線を揺羅に向けた泊瀬は、ここ数年目にしたこともない揺羅の笑顔を見て、仕方なくちい姫を袖のうちに隠す。
ほどなくして、東の対の女房がひそりと東北の対屋にやって来た。喪に服す鈍色を纏ったその女房は、そっと廂に手をつき尋ねた。
「恐れ入ります、もしやこちらに宰相さまの姫君がいらしてはおられぬでしょうか?」
御簾の向こうに伏せた顔は見えなかったが、その衣の色から考えてもあの夜、ちい姫を迎えに来た乳母に違いない。
泊瀬の袖に覆われたちい姫が、くすぐったそうな声を出して身じろいでいる。窺うような視線を送る泊瀬に、揺羅はなだめるような視線を返して首を横に振った。
しばらく逡巡するような様子を見せたあと、泊瀬は渋々口を開く。
「こちらには参られておりませぬ」
その女房は微動だにせぬまま、しばらく返事をしなかった。多分、泊瀬の言葉を微塵も信じていないのだろう。
袖を持ち上げて顔を覗かせるちい姫が、くすくすと抑えきれぬ笑いを零す。それを制して、揺羅は御簾の向こうに言葉をかけた。
「姫君が参られた時には、すぐにお伝えいたしますゆえ」
女房は、は、と短く答えると、より深く頭を下げた。泊瀬に呼ばれて東北の対にやって来たあの夜は、無遠慮に対屋のうちまで入ることもできただろうが、本来ならば、仕える主人も対屋も違う女房ふぜいに中の様子まで窺うことは許されない。ましてや、対屋の主人から直々におらぬと言われれば、それ以上問い詰めるのは難しいことだ。
どこか納得がいかぬ様子を見せながらもその場を立ち去ろうとした女房は、一度足を止めて振り返った。御簾越しに向けられたその視線が、揺羅の心をざわめかせる。ひどく鋭い視線に見えたからだ。
「行った? 周防はもう行ったの?」
くぐもったちい姫の声が聞こえ、揺羅は一点の染みのように心に落とされた、どこか言い表しがたい不快感を打ち消すかのように首を振った。そうして、柱の陰に消えた女房の後ろ姿から視線を戻すと、泊瀬の袖の下からちい姫の顔が覗いた。
揺羅はちい姫に微笑みかける。
「ええ、行ってしまったわ」
またくすぐったそうな笑い声をあげて、ちい姫がごそごそと這い出てくる横で、泊瀬が訝しげに呟いた。
「姫さま、確か……」
なに、と振り向けば、泊瀬は先ほどの女房がいたあたりを見ながら続ける。
「こちらの姫君さまの乳母は、小宰相、という名であったかと」
「あら、そうなの? では、あの女房はいったい……?」
揺羅もまた首を傾げると、ちい姫はどこか得意げな訳知り顔で喋り出した。
「そう、今は小宰相っていうの。だけど、お父さまのお邸にいた時は周防だったの。ずっと周防って呼んできたの、周防は周防でしょ?」
一気にそこまでまくし立て、そうして揺羅の傍にある貝に気づいて目を輝かせた。
「わあ、きれい!」
四歳と聞いていたが、歳の頃に似つかわしくない賢しげな物言いをするかと思えば、貝覆を見て無邪気に歓声をあげる。そのはしゃぎようが、逆にこの幼子の心の不安定さを表しているようだ。
揺羅は小さく微笑んで、でも心のうちで、周防……小宰相、と呟いた。
なぜ、あのように棘のある視線をこちらに向けるのか、そこがどうにも解せぬ。
「あなたとね、ご一緒にできればと思って」
揺羅は気を取り直すようにそう言うと、ざわと衣を鳴らしてちい姫に寄った。
瞳を輝かせるちい姫の横顔が眩しい。父の許にいた頃の揺羅自身もきっと、こんな風にあどけない表情をしていたに違いないと思う。
「貝覆、遊んだことがあって?」
ちい姫が小さく首を横に振ると揺羅は、春のものを、と泊瀬に伝えた。
貝櫃に収められた数え切れぬほどの貝の中から選び出される貝を開けば、うちには桜、桃、山吹、藤、菫、梅や鶯、鴛鴦など、春に因んだ絵が対に描かれている。そのいずれもが非常に美事な出来映えなのは、さすが左大臣家からやって来た姫君の持ちものだからだろう。
ひとつひとつ、目を輝かせて見つめていたちい姫が、あ、と声を零して思わず手を伸ばしたのは、やはり白梅の描かれた貝だ。
揺羅はまた、心が引き絞られるような思いでちい姫を見た。
あの夜、凍え切った身体で暗闇に身をひそめていた幼子の心のうちにあるのが、父母への思慕であろうと生まれ育った邸への里心であろうと、その思いは揺羅にとって手に取るように理解できるものだ。
淋しい。
たったその一言で言い表わせる感情を、なのにどうしても口にすることのできぬやるせなさ。
「君ならで───」
そう呟きながら、対になった貝を次々に開いて丸く並べる。
ちい姫もまた、見よう見まねで手にした白梅の貝をあちらとこちらに分けて置いた。
「───誰にか見せむ梅の花 色をも香をも知る人ぞ知る*」
「君ならで?」
ちい姫にそう問い返されて、揺羅はまた小さく笑った。
「白い梅の花のことを一番よくご存じの姫君、この中から探し出してみて?」
二重の輪に伏せて並べられた二十組四十枚ほどの貝の中から、二枚を選び取る。ちい姫が手に取ったそれは、ひとつは桜、ひとつは鳰*だった。
口をとがらせてため息をつくちい姫の手にある貝を裏返し、揺羅は教えた。
「ほら、模様を見てご覧なさい。この貝とこの貝、模様が違うでしょう?」
「……本当だ」
「では、次はわたくしの番」
揺羅は一枚めに白い梅を引き当て、二枚めは藤の描かれた貝を選んだ。
「ちい姫さま、これが梅の貝。次はちい姫さまの番」
揺羅が見せた貝をしっかりと見つめ、ちい姫はいつの間にか真剣なまなざしで並んでいる貝を見比べる。幾度も間違え、そのたびに揺羅の番をそわそわして待ち、ようやく選んだ貝が二枚とも白梅となった時、ちい姫は飛びつくばかりの勢いで揺羅に抱きついた。
「見つけた!」
そう言いながらしがみついてくる小さな手が、揺羅の胸を打つ。驚きに止まった息の向こう、やわらかな髪越しに、眉尻を下げた泊瀬の顔が見えた。
小さな姫君を抱きしめ返せば、そのあたたかさが心に流れ込んで、幼い頃の優しい記憶が揺羅を攫う。その瞬間、揺羅は冷たい高倉邸ではなく、生まれ育った懐かしい父の邸にいた。
「……また、ここに来てもいい? 揺羅さま」
夢のような光の向こうから聞こえてきたちい姫の問いに、ええ、ええ、と揺羅は声にならぬ声で何度も頷く。
やっと己の生きる意味が見つかったような、そんな気がした。
───だけど、揺羅は何も知らなかった。何ひとつ、知らされてはいなかった。
*****
「また、おらぬと?」
寝殿から東の対屋につながる渡殿で、薄鈍色の直衣姿の基冬はわずかに声を荒げた。
ひれ伏すように頭を下げる女房を見下ろし、何ごとかを言おうと口を開いて、そのまま言葉を呑み込む。
「……目星はついているのか?」
それが、と言葉に詰まったその女房は、恐るおそる顔を上げた。
「大変申し上げにくいことながら、恐らく東北の対におられるのでは、と」
「恐らく?」
娘の乳母である小宰相の歯切れの悪い言葉に、基冬は苛立ちを抑えて尋ね返す。
「東北の御方さまが、おらぬとおっしゃっておられますゆえ。なれど、御簾のうちからはちい姫君のお声が聞こえました。聞き間違えるわけはございませぬ」
「母上はなんと?」
「お伝えはいたしましたが、特になんとも。ただ、幼子のことゆえとだけ……」
それを聞いて基冬は見えもせぬ東北の対屋を見遣り、しばし何ごとかを考えた。それからもう一度、小宰相を見下ろし言った。
「どこにいるのか分かっているのなら、それでよい」
「殿」
「ちい姫のことでは気苦労をかけ、すまぬ」
「もったいない仰せでございます」
深く頭を下げた小宰相に退がっていいと伝え、基冬はそのまま背を向けて、東の対屋には入らずに東北へと向かった。
いつもと変わらぬ、ひっそりとした佇まい。相変わらずどこか寂しげな気配を纏う対屋からその時、弾けるようなちい姫の笑い声が聞こえた気がして、基冬は思わず足を止める。
開け放たれた半蔀の、かけられた御簾の外側からそっと窺えば、ちい姫の話す声が漏れ聞こえてきた。
「───君ならで 誰にか見せむ梅の花……それから?」
「色をも香をも 知る人ぞ知る」
静かな声がちい姫の言葉をつなぐ。恐らく、この対屋の主人───弟中将の正妻である、左大臣の姫の声であろう。
「色をも香をも 知る人ぞ知る。お父さまに聞かせて差し上げるの。ね、もっと教えて」
「次の時に、ね」
「じゃあ明日! 明日、教えて頂戴?」
その言葉になんと返事をしたのか、基冬には聞こえなかった。
傾き始めた陽の中をさわと風が吹き、いずこからか桜の花片が運ばれてきた。新緑に彩られた梅の木には、めじろが止まっている。
もうじき、妻の喪*も明ける。ちい姫のこれからをも真剣に考えていかねばならぬ。そう考えると、基冬は柱に背中を預け、空を仰いで目を閉じた。
右大臣家にようやく生まれた姫、その大きな期待はいずれ間違いなく、ちい姫だけではなく基冬自身をも追い込んでくることだろう。
否応なく立ちはだかる運命の力の前で、己を失わず前に進む覚悟はとうにできているつもりだ。だが、ちい姫は? まだ四歳、されどもう四歳だ。
また、御簾のうちからちい姫の楽しげな笑い声が響いてきて、それにつられたようなひそやかな笑い声も聞こえてきた。
ふと思うところがありゆっくりと目を開けば、明るい陽がより輝かしく視界にあふれていて、思わず目を細める。
心に浮かんだ考えをもう一度辿っていると、そろそろ東の対にという声が聞こえてきた。
梅の木にいためじろもすでにおらず、基冬もまた足音を忍ばせて静かにその場を立ち去ると、そのあとをひらりと桜が一片、流されていった。
貝覆
内側に絵を描いた蛤の貝三百六十個を一揃とした、この時代の遊び。
貝は一対を地貝と出貝に分けて収めてあり、このうち地貝を大きな何重もの輪に伏せて置き、真ん中に出貝をひとつ置きます。蛤貝は、地貝と出貝で同じ模様となるのでそれを観察し、輪に置いた地貝の中から対になる貝を探し出し、見つかれば次の出貝……という神経衰弱のような遊び方が正式なものでした。ですが、いつも大層に360個を並べて遊んだとは考えにくく、様々な遊び方があったのではないかと思われます。
貝櫃
貝覆に使う貝を入れておくための入れ物。細工の凝った豪華なもので、当時の姫君たちの、いわば婚礼道具のひとつでした。
梅重の襲
ごく淡いピンク〜濃いえんじ色のグラデーションの襲。単は濃紫。
(むめがさね。うへ白き紅梅にほいて。くれなゐ一。こき蘇芳。こきひとへ。青きひとへも心心なり。───『満佐須計装束抄』より)
君ならで 誰にか見せむ梅の花 色をも香をも 知る人ぞ知る
『古今和歌集』春巻一 春歌上 紀友則の歌。
「あなたのほかに誰に見せようか、この梅の花を。その色も香りも、分かる人にだけ分かるものなのだから」という意。
鳰
カイツブリのこと。
喪
この時代、妻は九十日間、父母は十三ヶ月と決まっていたようです。