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たぎつ瀬の  作者: 夕月 櫻
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一 暁闇

たぎつ瀬の なかにも淀はありてふを など我が恋の 淵瀬ともなき ─ 読人知らず ─

(古今和歌集 巻十一 恋歌一)

 いつか、目醒める時がくるのだろうか。

 それともこのまま───



     *****



 春まだ浅く夜も明けやらぬ刻、揺羅ゆらは暗闇の中で目を覚ました。

 寝返りを打ってふすまを肩まで引き上げると、御帳台みちょうだい*のとばりの向こうにぼんやりと透ける幽かな灯を見つめ、息をつめて耳を澄ます。そして、何ひとつ物音も聞こえぬ静寂しじまに安堵すると、初めてほっと息を零した。

 この邸に来て早や六年、独り暁を迎えることにもすっかり慣れた。目覚めとともに心が竦むことにも。じきに泊瀬はつせが起こしに来るだろう。そしてまた新しい、無為の一日が始まるのだ。

 揺羅はもう一度息をつくと、再びゆっくりと瞼を閉ざす。

 空虚な心を慰めてくれるのは、懐かしい父母の許で過ごした日々を辿る、この夜明け前のひと時だけ。

 底知れぬ闇に灯った優しい光の中から、懐かしい声が聞こえてくる。

 わたしのちい姫、そなたはなんと可愛らしい声で笑うのだ。そう言って抱き上げてくださる、あたたかで優しいぬくもり。朗らかでやわらかな笑い声。

 あれはお父さまとお母さま、そして乳母めのとさかき

 ちい姫が笑うと楽器も衣も、花までもが揺れて音を響かせるようだ。のう、そうは思わぬか。そうだ、姫のこと、揺羅と呼ぼうぞ。

 揺羅、ゆら。愛しい、わたしのちい姫……




「───北の方さま、お目覚めなさいませ」


 密やかな声に呼び戻され瞼を開くと、あたたかく愛おしい光景は忽然と消え去り、揺羅のまわりにはただ、暗く冷えびえとした対屋たいのやの空気だけが満ちていた。寒い、と思わず呟く。


「北の方さま……姫さま」


 少し困ったような声で呼びかけるその女房は、揺羅と一緒に育ってきた乳姉妹ちしまいの泊瀬だ。この寒々しい高倉邸で、揺羅が心許せるただ一人の人でもある。

 泊瀬に支えられて身を起こすと、ふわりと芳香が漂ってきた。


「梅……?」

「ええ姫さま、昨日まで固かった蕾も一気に綻び始めましたよ。春でございますもの」


 明るくそう言いながら、泊瀬は白梅の一枝が浮かぶ角盥つのだらいを揺羅に差し出した。

 闇に沈む主人の気持ちを少しでも光ある方へと願い、泊瀬はいつも朗らかに振る舞うのだ。その実、心のうちに癒えぬ苦しみを抱いていることも、揺羅は知っている。


「そう。夜が明けたら見てみるわ」


 泊瀬の心に応えるように淡く微笑みながら、角盥に手を浸す。ほのかに温かく、幽かな湯気を立てる水を掬おうとした時、囁くように告げられた。


「つい今しがた、殿がお戻り遊ばされました」


 手水ちょうずを使う手がしばし止まる。瞳だけちらりと動かし、揺羅は問うた。


「───そう。どちらから」

「恐らくは、油小路あぶらこうじあたりの……」


 それを聞いた揺羅は再び瞳を伏せ、手を深く浸した。


「お出かけになられたことも、知らなかった」

「昨夜は、殊更遅うお出ましになられましたゆえ」


 揺羅は返事もせず、黒い塗の角盥に浮き上がる青白く細い手をしばらく見つめたあと、呟くように言った。


「……ならばそのまま、参内なさればよろしいのに。わざわざお戻りになるなど、おかしなこと」


 そうして水から引き上げた己が手から滑り落ちる水滴を、暗い瞳で見つめた。ぽとんと水がはねる。


「姫さま、間もなく殿もこちらに参られましょう。それまでに早うお仕度を」


 泊瀬に急かされ、揺羅は布を受け取り小さく息をついた。

 小袖の上に濃袴こきはかま*をつけて青*の単を着たあと、綿の入った雪の下*に手を通す。泊瀬に髪を櫛梳くしけずってもらってしばらくすると、遠くに渡殿を踏む足音が聞こえてきた。それはあっという間に近づいてきたかと思うと、まったく無遠慮な調子で妻戸が開かれた。


「───殿」


 座を譲り手をついて迎える。殿と呼ばれたその男───左近衛中将 春恒はるつねはそんな揺羅を見て、いつもとは少し違う、明らかに動揺した様子で一瞬足を止めた。


「……今、戻った」


 取り繕うようにそう言うと、春恒は白い冬直衣*の袖を翻してしとねに腰を下ろし、荒っぽく脇息きょうそくを引き寄せた。そのまま一度、大きく息を吐き出すと肘をつき、心底疲れたように額に手を遣る。

 そんな夫の様子を、揺羅は一言も発することなく、手をついたまま上目遣いで見つめていた。嫌な沈黙が流れるのもいつものことだ。

 揺羅にとっては歳の離れた姉である左大臣家一の姫、今上きんじょうのご寵愛深かった藤壺女御ふじつぼのにょうご身罷みまかられたことに端を発した、左大臣家の幼い末姫と右大臣家の二男の婚儀。

 まるでひいな遊びのようだと揶揄されても、母北の方が無謀だといくら反対しようとも、まつりごとの上でそうせねばならぬ理由が左大臣である父にはあったのだろう。十八歳の、当時は少将であった春恒の許へとやって来た六年前の春、揺羅はまだとおになったばかりだった。

 都に名高い、光中将ひかるのちゅうじょう───それが揺羅の夫だ。元服し出仕を始めたばかりの頃に賀茂祭かものまつりの勅使につき従った、その初々しくも晴れやかで美々しい姿からそう呼ばれるようになったと聞いている。

 筋の通った鼻に涼やかな切れ長の目、くちびるに微かな笑みを浮かべれば、女と見まごうばかりの冷たい美しさがある。かの物語の光の君もかくやと女たちはこぞって噂し、その目にとまる日を待っているとかいないとか。

 男女の情など何も知らぬ幼い揺羅はただ、そのような夫を持つことは誉れ高きこと、そう言い含められてこの一条高倉の右大臣家に来た。

 そして六年の月日が経った今、揺羅はこれ以上ない冷ややかさで美しい夫を見る。その視線に気づいたのか、春恒は肘をついたままふと揺羅に目を向けた。視線がぶつかった瞬間、揺羅はついと目を逸らす。

 泊瀬が蔀戸しとみどを開けて場の空気を変えようとしたものの、すぐに制止された。


「よい、このままで」


 春恒は座り直しながら苛立たしげに言い、仕方なくこうべを垂れて揺羅の背後に戻った泊瀬の衣擦れが、大殿油おおとなぶら*ひとつ灯っただけの薄暗い空間に嫌に大きく響いた。

 いつものことだ。揺羅の夫はいつだって、こんな風に張りつめた空気を、揺羅の住まう東北ひがしきたたいにもたらす。


「───子が生まれた」


出し抜けに告げられた春恒のその言葉は、けれど、この冷ややかな対屋をこれ以上凍てつかせることができたのかと思うほどの衝撃だった。

 すぐには呑み込めぬ言葉の意味をようやく理解した時、さすがの揺羅も思わず顔を上げ、夫の美しい顔を凝視した。春恒の目はしかし、揺羅など見てはいない。


「……は」


 歎息とも嗤いとも取れる声が揺羅のくちびるから洩れる。


「姫だ。……安心するがいい、ここに引き取るようなことはせぬ。そのようなことをすれば、父上も母上も大騒ぎされるであろうしな」


 揺羅はしばらく微動だにしなかった。それから、夫を責めるでもなく、ただ淡々と言った。


「ご配慮ありがとう存じます。子を生み育てたこともないわたくしには、御子を預かるなど、重い務めにございますゆえ」


 今度は、春恒の方が鼻白んだように揺羅を見る。そして、その形よいくちびるを歪め、ふん、と鼻を鳴らした。


「申し遅れました、まことにおめでとう存じます。して、母君となられた御方は、ご息災でいらっしゃいますか?」


 まるで他人事のようにそう続ける妻の様子を苦々しげに見遣った春恒は、唐突に立ち上がる。


「女は息災だ。案ずるに及ばぬ」


 吐き捨てるようにそう言うと、参内すると言い残し、揺羅の許から立ち去った。

 妻戸の閉まる音とともに大殿油の火がゆらりと揺れて、その一瞬だけ、揺羅の横にある几帳きちょうの影が恐ろしげに大きく膨らんだ。


「姫さま……」


 夫が出て行った後も動こうとはせぬ揺羅の背に、泊瀬が震える声で呼びかける。


「───また」


 泊瀬の声に呼び戻されたように小さく呟いた揺羅は、ふふふ、と今度こそ嗤った。


「本当に……どうしようもない方」

「姫さま」

「まだ、苦しめ足りぬと仰るか」


 誰に言うでもなくそう呟いた揺羅は、しばらく逡巡したような様子を見せたあと、いいえ、と首を振った。


「───違う。わたくしはもう、あの方から何をされても苦しいなどと感じないのよ」


 夫への期待など、とうに捨てた。元より愛情もない。このままひっそりと、この邸の暗闇の中で生きていくのだと思い定めている。

 なのになぜ、こんなにも心がざわつくのだろう。この、苛立ちにも似たやるせなさは何なのだろうか。

 力の抜けたように闇を見つめる主人の横顔を、泊瀬はただ、涙の向こうに見守るしかなかった。

 目醒めたいと心の奥底で暴れる、抑えきれぬ思いがあることを、誰も……揺羅自身ですら、まだ気づいてはいない。



     *****



 揺羅の住まう東北の対から出た春恒は、母のいる東の対に続く透渡殿すきわたどののあたりで足を止め、一度大きく息をついた。

 東北の対(あそこ)にいると息が詰まる。己より八歳も年下の揺羅と心を通わせたことなど一度もない。

 左大臣の末姫である揺羅がこの高倉邸に来た日、妻となるその姫を見た時の動揺を春恒はきっと一生忘れないだろう。

 辛うじて裳着もぎ*も済ませたばかりであろうと思わせるいとけない姫の、ひとめで一身に愛を受けて育ったと分かる、その無邪気な明るさ───何よりもその幼さ。

 充てがわれた正妻とはもとより打ち解ける気もなかったが、その眩しいほどの天真爛漫な輝きは春恒を苛立たせるに充分だった。

 衾覆ふすまおおい*の終わった新枕の床で、ろくに言葉も交わさぬまま、まだほんの子どもでしかない澄んだ瞳の揺羅を組み敷き、夜着の肩を剥いた。真っ白な、骨の浮く細い細い肩と、まだ膨らむことすら知らぬ胸を見て、その肌も露わにしたまま御帳台の中に捨て置き立ち去った。

 その時の揺羅が何を思い、春恒に対してどう感じたかは、もはや知る由もない。

 春恒は苛立ちを抑えきれぬまま、揺羅について左大臣家からやって来たばかりの新参の女房を抱いた。春恒と揺羅、二人の関係は始まりもせぬうちに終焉を迎えたと言ってもよかった。


「───春恒」


 声をかけられ我に返る。

 東の対の妻戸から、兄の基冬もとふゆが姿を見せた。鈍色にびいろの衣を着ているのは、昨年の大晦おおつごもり*に北の方を亡くしているからだ。

 基冬は、静かに妻戸を閉めると穏やかな足取りで春恒の許へやって来て、じっと物問いたげな瞳で弟を見た。


「兄上、ずいぶんと早くからこちらにおいでで」

「参内の前に立ち寄っただけだ」


 そこで基冬はふと口を噤む。


「なにか?」

「いや……」


 片頬に釣灯籠の灯を受けた基冬はしばらく口ごもったあと、手にした蝙蝠かわほりを胸元にしまいながら言った。


「聞いたよ。姫が生まれたそうだな」


 基冬の静かな声に真意を図りかねた春恒は、己よりわずかに背の高い兄にちらりと視線を向け、皮肉げに呟く。


「……なんとお耳の早い」


 すると基冬は、意外だという様子で軽く笑った。


「まさか。わたしのように噂に疎い者にも聞こえてくるような浅はかな契りを、そなたが結んだがゆえではないか。母上でさえご存じだ」


 その言葉に、春恒はぴくりと肩を揺らした。


「……どういう意味だ?」

尚侍ないしのかみの局にいた、なかなかに遣り手と知られた女房であった……なんという名であったかな。さすが、光中将に取りいるとは上手くやったものだと世間で言われているのを、そなた、知らぬわけでもあるまい。大方、女童めのわらわにでも吹聴させているのであろう。今頃はもう、都中の人々が知っているぞ」

「……」


 春恒はそれには答えず、彼は誰(かはたれ)どきの光に浮かんだ咲き初めの紅梅に目を遣った。


「……別に、隠しだてするつもりもなければ、真面目一辺倒の兄上にお分かりいただこうとも思っておりませぬ」

「何を、子どもじみたことを……。まあ、そなたがどのような浮名を流そうと一向に構わぬが、母上はひどく案じておられるご様子。特に、北の方のことをな」


 兄の言葉に、春恒は軽く俯いてしばらくじっと勾欄こうらんあたりを見つめ、それから堪え切れぬようにくつくつと喉の奥で笑った。


「ご心配には及びませんよ。今、話してきたところです。残念ながら、わたしたちに子が生まれることはないでしょうが、特にそれを気にしている様子もない」


 一瞬、基冬がちらりと視線を揺らし、それからすっと春恒に背を向けた。


「……とにかく、御子のことでは色々と思うところもおありのようだから、母上にはきちんと話しておきなさい」


 そのまま、視線も向けずに立ち去る兄の背を、春恒は睨みつけるように無言で見送った。

御帳台

二畳分の畳の四隅に柱を立て、天井部分に明かり障子を載せて四方に帳を垂らした、平安時代の天蓋つき寝台、のようなもの。昼間には帳を上げ几帳を置いて、貴人のプライベートスペースとしました。


濃袴

濃色とは紫のこと。袴というと緋袴を連想しますが、特に若い女性は濃色の袴を身につけることも多かったようです。

若年と成年、未婚と既婚などによって身につける袴の色の違いを言われますが、実際にはそこまで厳密な決まりごとはなかったのではないかと思われます。


今の緑色のこと。現代でも信号の緑を「青」と言いますね。


雪の下の襲

白〜紅梅〜薄紅梅の襲、単は青(今の緑)。

雪の降り積もった紅梅の木を表しました。

(白き二。紅梅匂ひて三。あおきひとえ。───『満佐須計装束抄』より)


冬直衣

冬の直衣は表地が白、裏が二藍の綾織物で仕立てられており、僅かに二藍が透ける、紫を帯びた白の衣でした。ちなみに、夏の直衣は二藍の単仕立でした。

二藍は若い頃には赤味の強いもの、歳を重ねるごとに青味の強いものへと使う色目を変えたので、年齢や好みによって、それぞれに若干色合いが違ったと思われます。


大殿油

宮中や貴族の邸で使った、油の灯火。


裳着

普通はだいたい十二歳〜十四歳の吉日を選んで行われた、女子の成人の儀式。この日初めて唐衣と裳を身につけ、髪上げ(奈良時代からの名残で、髪の一部を高く結い上げる)をして、これよりは婚姻を結んでもよいとされました。


衾覆

天皇や貴族の婚儀における儀式のひとつ。

婚姻を結ぶ男女がひとつの褥に横になり、付き添いを務める主に女君の父母などが二人に衾を掛けることで、二人の共寝を見届け婚姻の成立を確認する意味合いを持ちます。


大晦

おおみそかのこと。




───新しい物語をお届けいたします。

「たぎつ瀬」とは、水がわき返るように激しく流れている瀬、という意で、転じて、ほとばしるように激しい恋心をいだくことを指すようになりました。

ままならぬ想いとともに平安の世を生きる人々の姿を描いていきたいと思います。

前作『暁月夜に咲く花は』の「男」の、都での日々もまた。

決して明るい物語ではありませんが、じんわりとお楽しみいただければ幸いです。

どうぞよろしくお付き合いくださいませ。

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