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陽(2)

 二条陽がある日、学内周辺で食べた物。

 朝大学に着いた時、カロリーメイトブロックと缶ジュースを購入。授業が始まる前に速攻で食べる。

 昼食は、まず購買部に行っておにぎりを三つとペットボトルのお茶。それを一分で食べ終え、喫茶アルトへ。喫茶アルトではその日のランチメニューアサリとアスパラのパスタとサラダ、ガーリックトーストセット(コーヒー付き)と、サンドイッチの盛り合わせ、デザートにパフェを追加。

 授業が終わったら演劇部の練習が始まるまでに喫茶アルトで「生クリームとたっぷり果実のスペシャルワッフル(コーヒー付き)」を食べて練習に備え、練習が終わった後には学食でラーメン。

『この日は控えめ』

「うそつけっ!」

 メモ帳を掲げる陽に良夜渾身の突っ込み、それはそれを見ていた全員の気持ちを代弁する物だ。良夜とてそんなに小食な方ではない。むしろどちらかと言えばよく食べる方だ。その良夜だってこの日のランチメニューを食べたがそれだけでお腹が一杯になった。リーズナブルで美味しくて量が多めというのが喫茶アルトの売りなのだから。

『ナイスツッコミ でも事実』

 唖然とする一同を前に再び陽のペンがメモ帳の上を走る。そのメモを要約するとこういう事だった。

 陽が両親から貰っているお金は月に五万円。それは携帯電話の料金から大学に通うための定期代、各種身の回り品に、大学での追試料金、そして昼食代、全部ひっくるめての金額でそれ以上は泣いても叫んでもびた一文くれない。そして、陽が朝に家を出てから夕方家に帰るまでの食費が大体一日で三千円弱。エンゲル係数百六十パーセント。どう計算しても足りない。足りない分をパチンコとか競馬とかのギャンブルで稼ぐというのが陽の日常だった。ちなみに三万は稼がないと計算が合わないそうだ。

『家は金持ちなのに、あたしは貧乏』

 メモ帳十ページを使った説明を終え、陽はほぉと溜息を一つこぼした。その説明にカウンターでくつろぐ五人はおろか、パイプを磨いていた和明の手までもが止まる。閑散とした喫茶アルトの中で動いているのは、カタカタと踊るポットの蓋とメモ帳の上に落書きをしている陽のペンだけだ。

「ああ……働けば? バイトとか」

 数瞬の沈黙の後、良夜はそう提案した。しかし、陽の答えは『忙しい』のメモ書きだ。演劇部の練習の他にも茶道に華道に装道(そうどう)まで陽はやっている。だから、とてもではないがアルバイトをする時間はない。ないから仕方なく空いてる時間を見つけてパチンコと競馬で食費を稼いでいるのだという。

「なんか……目茶苦茶よね」

 肩口で呆れるアルトに良夜も軽くうなずく。陽本人が居なければ、もっと力強く万感の思いを込めて頷いていたところだろう。

『今日もこれから練習 貧乏暇なし』

 そう書き記して陽は立ち上がった。ひらひらと後ろ手に手を振り、喫茶アルトを後にする。お代の代わりに『ごちそうさま』のメモ書きだけを残して。それをなんか力一杯疲れ切った思いで見送る喫茶アルト関係者ご一同。

 ところで……

「装道って着付けの事よね……着物の」

 ふと気づいたかのようにアルトが呟いた。

「あれ、男でしょ? 周り全部女の中で着替えたりしてるのかしら?」

 不思議そうに呟いた言葉を良夜に通訳して貰ったところで、もはやそう言う事は細かな話にしか思えない五人だった。


 良夜をはじめとした五人はこの話はこれで終わったものだと思っていた。各種ギャンブルの元手すら使い切った陽がどうなったか? と言う事に興味がないと言えば嘘になるが、陽がアルトに顔を出さないのではそれを知る事も出来ない。結局、貴美が美月に「最近ひなちゃん見ないね」という話をする程度で終わっていた。

 が……

 あの日曜日から一週間ほどが過ぎた木曜日の授業終了後、良夜はタカミーズと共に国道を喫茶アルトへと向かって歩いていた。日に日に暖かくなる陽気とまぶしくなる山の緑。どちらも散歩がてら十分ほど歩くには絶好のコンディションだ。

「……だから、私は言ってやったんよ、なおには彼女のダイエットに付き合う優しさはないん!? ってね」

「ダイエットが嫌なら、甘味フルコースなんて止めて下さい。大体、太ったとかやせたとか、僕には判りませんし」

 春の暖かな日差しの中、貴美が拳を握って力説すると、直樹は疲れ果てた口調と表情をみせる。話題は先日までやっていた貴美のダイエットについてだった。久しぶりに甘味フルコースをやったら二キロも太った。そのダイエットの所為で直樹の食事まで野菜中心の食事になったという話だ。

「まあ……吉田さんがご飯作ってんだから、直樹に文句を言う資格――」

「浅間くん」

 言葉を続けようとした良夜の肩を誰かの手がポンと叩く。響く声は地の底から響き渡ってくるような低い声。聞き覚えはあまりないのに、一度聞いたら忘れられない声だった。反射的に振り返ればそこには、黒髪のぽっちゃり美人と赤毛の青年のツーショットが立っていた。

「こっ、こんにちは……先日はお姉様がご迷惑――うひゃっ!?」

 女性の方の言葉を遮ったのは、青年の指先だった。その指先は彼女の脇腹をつまみ上げ、フニョフニョと柔らかくそこをマッサージする。そのマッサージに悶絶する女性は間違いなく河東綾音だ。

「今は男の格好」

「わっ、わかり! 判りました! 陽さんっ!!」

 三人はこのカップルが誰だかよーく知っている。よーく知っているし、「陽」と呼びかけられてもいる。なのに、ほとんどブラックに近いダークブルーの紳士スーツに身を包んだ赤毛の青年が彼であるとは一瞬理解できなかった。

「……ひっ、ひな……ちゃん?」

「Yes」

 恐る恐る尋ねる貴美に陽が大きくうなずく。

 うなずかれてもまだ三人はそれが陽だとは思えない。いや、知識としては陽なのだと判っている。しかし、感情がそれを納得させない。

 今日の陽は、何もかもがいつもと大きく違っていた。普段ならば編み上げている髪を下ろしてオールバック。余った髪は美月がやるようにうなじの辺りで一つに縛られている。上品な薄化粧をほどく顔も今日はすっぴんで印象が大きく違うし、服もスカートではなく今日はスラックスをピッと着こなしていた。何より春先になっても巻いていたショールを外した喉には――

 ――大きなのど仏が存在していた。

「あれ……隠すためのショールか……」

 確かにあののど仏があったのでは、どんなに化粧をしても女物を着ても、男以外には見えないだろう。それを隠すための必要不可欠な小道具があのショール。それを外しているおかげで、今日の陽はどこからどう見てもごく普通の、どちらかと言えば美形の男だった。

 本物の男だったんだなぁ……と、妙なところで良夜は納得したりする。

「ひなちゃん……どうしたの? その格好……」

 最初に立ち直った貴美が三人を代表して聞けば、逆に陽の方が「何か変?」と聞き返した。男が男の格好をしているのだし、特に似合っていないと言う事もないのだから、変ではない。変ではないのだが、やっぱり変な感じという物を良夜達三人は感じていた。

「変、男の格好してる」

 直樹も良夜も同様に感じていたが言えなかった一言を、貴美は平然と言い切る。ある意味、羨ましい性格だ。もっとも、自分が言った事じゃないのに何故か「後でよーく言って聞かせますから」と何度も頭を下げている直樹にとっては、迷惑なだけかも知れない。

 カラン

 ともかく立ち話もなんだし、何より陽が「お腹空いた。ご飯」とうるさく言い出したため、三人は喫茶アルトのドアベルを鳴らした。ここで普段なら即座に貴美が人格が通常人格から営業人格に切り替わる瞬間。しかし、今日だけは……

「ダメ……バイトしないでひなちゃんの話を聞きたい」

 未練たっぷりに、店内と男装姿の陽とを貴美は見比べる。授業終了後のひとときを喫茶店で過ごすという優雅な学生達が、段々と集まり行くこの時間帯。ランチタイムほどの活況はないが、貴美がさぼれるほどに暇でもない。そんなフロアを見るうち、彼女の表情に苦渋の色が浮かび上がってくる。

 で。

「カウンターに座らされてる訳ね?」

 どこからともなくトンできたアルトがトンと良夜の頭に着地を決める。

 いつもの席は貴美が働き出せば会話をうかがい知る事は出来ない。だから、貴美もちょくちょく覗きに来られるカウンター席が良夜達の居場所になった。いつもの席とは違う席に何となく落ち着かない……

「……良夜、隅っこが落ち着くなんてゴキブリみたいね?」

 真ん中が凄く落ち着く。

「良いんですか? 僕らと一緒で」

「みんなで食べた方が美味しい」

 陽と綾音は貴美のわがままに付き合わされる形になった。そのことに直樹が再び申し訳なさそうな顔をすると、陽はにこっと優しい笑顔を見せる。いつもはお嬢様っぽいなと思われる笑みも風体と髪型が違うせいか、どことなく男らしく感じるから不思議な物だ。

「それで、どうして今日は男の人の格好なんですか?」

 誰もが聞きたがっているが聞けない質問を言ったのは手にはリンゴと包丁、皮を剥きながらニコニコと笑っている三島美月だった。

「って、いつの間に来たんですか!?」

「それはもう、二条さんが男の人の格好しているというのでは、キッチンになんか居られませんよ」

「……で、そのリンゴと包丁は?」

「それはもう仕事中ですから!」

 薄い胸をエッヘンと反らし、視線は男装姿の陽を凝視。その間も手は別の意志でも宿っているかのように、しゅるしゅるとリンゴの皮を剥いてゆく。剥かれたリンゴは八等分にされて、塩水を張ったボールの中へ。そのボールもいつの間にかカウンターの上に鎮座していた物だ。驚くほどに手際が良い。

「キッチンで働いて下さい……危ないですから」

「りっ良夜さん、私を仲間はずれにするんですか!? 酷いです……」

「ハイハイ、チーフの仕事場はこっちですよ。お邪魔しました~」

 目を潤ませ包丁片手に良夜へと詰め寄る美月、彼女の髪を背後から伸びた手がガッシとわしづかみ。それは、やっぱりいつの間にやらやってきた貴美の手だった。彼女は美月の髪を掴んだまま、ずるずると引きずるようにしてキッチンへと連行していく。取り残されるのは塩水の中に浮かぶ八等分のリンゴさん。

「食べて良い?」

 聞いた時にはすでに三つが陽の胃袋に収まっていた。すさまじい早業に良夜どころかアルトすらも二の句が継げない。

 こんな感じで始まったカウンターでのお茶会だが、それはそれは店内の注目を浴びる物だった。『演劇部の女形』が男装しているというのは、それだけのプライオリティがある。盗み見るような者、逆に堂々と見ている者、テーブル席からカウンター席に移動して本格的に眺め始める者……やり方は様々だったが、今、喫茶アルトにいる客達、全員の耳目が陽に集中していた。その衆人環視の中、陽はパクパクと八等分されたリンゴを食べ続けていた。

 そして、ボールの中に塩水だけで満たされた時、陽はようやく口を開いた。ようやくと言っても、一分足らずの時間しか必要なかったのだが……

「今朝、バイト。女装はダメ」

 陽の口調は筆談時と同じように最小限の単語だけで構成され、聞く者に少々つっけんどんな印象を与えた。それでも嫌悪感という者を与えないのは、その妙に人懐っこい笑みの所為だろう。

「へぇ、バイトってしてないって言ってたよな? 前に」

「種銭がない時だけ。忙しいから」

「授業はわたくしが代返しました」

 はふぅと大きな溜息と共に綾音が陽の言葉に言葉を続けた。要するに授業そっちのけでアルバイトをしてたから、今日は女装じゃないのだ、と言う事だ。授業をさぼったのに大学まで出てきているのは、これから演劇部の練習があるから。

「授業よりも演劇」

 不真面目極まりない言葉に、またもや良夜と直樹は苦笑いで沈黙した。その沈黙を新たな疑問が打ち破る。

「何のアルバイトですか?」

 破ったのは包丁片手にカウンターの中にいた美月だ。今度はリンゴじゃなくてキウイフルーツ。リンゴよりも柔らかいキウイを優しく握り、万能包丁で皮を剥いて輪切り。その間、全く手元を見てないのに、彼女は自分の指を切るどころか、きっちり正確な五ミリの輪切りキウイを量産している。

「ハイハイ、収容所送りの反逆チーフが通りますよ」

「ふぇ~吉田さんはオーボーですぅ、独裁者です、人類の敵ですぅ~~~」

 そして、またもや美月は貴美に髪の毛を掴まれ、キッチンへずるずると引きずられ強制連行されていった。そしてやっぱり取り残されたキウイは陽の胃袋に収まる。

「それで、本当に何をしてるんですか? バイト」

 連行された美月の代わりに、彼女が置いていった質問を直樹が繰り返す。その言葉に返された言葉は非常にシンプルな物だった。

「ゲイバー」

 …………

 誰もが脳内百科事典でその言葉を検索するために、きっちり十秒の時間を必要とした。その十秒は沈黙に変換され、喫茶アルトフロアを支配していった。

 そして、やおら検索を終えた人間が一斉に声を上げた。

 上げられた言葉は二種類だった。

「えぇぇぇぇぇ!!!!!????」

「やっぱり!!!!!」

 驚愕と納得の声。どちらにしても大声である事に代わりはない。ちなみに直樹は前者で良夜は後者。

 叫び声が一段落付けば、行きたいだの、どこの店? だとか、知り合い価格はあるのかと、雑多な声で店内は珍しく騒然と化す。

 その声に促されるように、陽はゆっくりと立ち上がり、背を向けていたフロアへと向き直った。そして、芝居がかった仕草で、右手を挙げて店内の客達に手を振る。歓声に微笑む姿はカーテンコールを受ける俳優のよう。

 彼が立ち上がると数秒でフロアに静寂が緊張感を伴って帰ってきた。しかし、彼はさらに観客に待ち時間を与える。誰も陽の言葉を待つ瞬間、その瞬間が重なり合い三十秒という形にまで成長していった。

「ウソ。コンビニ」

 その言葉に店内の客は全員転けた。


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