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陽(1)

 まぶしい朝日の中、一人の女性が立っていた。少し赤みがかった髪をアップにまとめ、シルクのブラウスにロングスカート、新学期も始まった四月中頃だというのに首にショールを巻いた女性。ほんの少し風変わりと言えるかも知れないが、それ以上に美人と言える女性だった。

 もしここが何処かのバス停だったら。もしあの手に持っている新聞が英字新聞だったら。もしイヤフォンが両耳に刺さっていて、そこから流れる音がクラシックだったら。誰がどう見ても何処かのご令嬢にしか見えなかっただろう。

 だがしかし。

 ここは早朝のパチンコ屋で、手にしているのは競馬新聞で、イヤフォンは片耳にするタイプで、繋がってる先はiPodでもなければウォークマンでもないAMラジオ。そこから流れているのは競馬情報。何より、その人物は女じゃなくて男だ。名を二条陽という。こんな風体だが立派な男である上に、彼女まで居る。良夜達が通う大学の経済学部三年生という肩書きだが、大学では「演劇部の女形」と言った方が通りが良い。

 彼がいる場所、それは明るく光るはずのネオンを暖かな朝日の中で休ませるパチンコ屋の駐車場。彼は貴重な日曜日の朝をパチンコ屋の開店を待つために浪費していた。まあ、おそらく本人に浪費だという意識はないのだろうが。

 大学の周りで娯楽施設と言えば、このパチンコ屋以外にはゲームセンターが一軒あるだけ。クラブはもちろん、カラオケボックスすらないのだからこの辺りのド田舎加減が良く判るものだ。なんと言っても『大きな私大があるのにいつまで経ってもド田舎だ』というのが周辺七不思議に数えられている地域。他は『喫茶アルトの巨乳の方はどうしてあんなチビと付き合ってるのか?』というのと『七不思議が三つしかない』の二つ。色々矛盾しまくり。

 そんなパチンコ屋の駐車場で彼は食い入るような視線を競馬新聞に落としていた。馬券は携帯電話からネットを通じて買うつもり。なお、学生の勝ち馬投票券購入は禁止されてます。真似しないように。

「……(書き書き)」

 僅かに視線が宙を泳ぎ、すぐに新聞紙面にペンを走らせる。そしてまた視線を中に泳がせる。手元と居場所さえ無視すれば深窓の令嬢が恋文をしたためている、と見えなくもない。だが、実際に考えているのは本日のレース展開だ。彼の赤毛頭の奥では数十パターンシミュレーションされている。この中でもっともありそうな物を選び投票する。出来る事ならばパチンコ屋開店までに買う馬券を決めてしまいたいところ。

 そんな彼の思考を遮る無粋な声。

「あれ? 二条先輩! 先輩もパチンコなんてやるンすか?」

 聞き覚えのある声は四月に演劇部に入部したばかりの新入生の声。それに顔を上げれば、二-三回しゃべった――とは言っても陽は筆談――事のある青年がそこにいた。少々チャラけた外見だが演劇に対しての情熱は決して低くはない。陽も目をかけている青年だ。場所が場所でなければ、それなりの歓談を楽しんだ事だろう。

「先輩がパチンコをやるなんて意外ですよね。良く来るんですか? 俺、先輩の無声劇にちょっと感動したんですよ。全然台詞がないのに、あんなに情景豊かに演じられるなんて! ……――」

 等々……青年は陽が顔を上げた事に気をよくしたのか、いくつもいくつも飽きることなく言葉を紡いでいく。しかし、彼は気づいていなかった。整った笑顔のほっぺたがぴくんピクンと痙攣している事を。ついでに競馬新聞を握る手に余計な力がこもり、くしゃくしゃになっていっている事も。

 そして陽はゆっくりと口を開いた。

「うるさい……黙れ……」

 こうして青年は『陽の声を聞いたレアな人』の仲間入りを果たした。しかし、そのことについて彼はあまり語りたがらないという話である。ただ一言だけ。

「魔王の声ってあんな感じだと思う……」

 彼はそう言った。


 こんな事件が起きた半日後。良夜はアルトを頭に乗せて喫茶アルトを後にしていた。向かう先は坂を下ったところにあるスーパー、今週の買い出しが主な目的。

「彼女が出来たのに、生活は今まで通りって言うのが寂しいわね」

 アルトの言葉に同意せざるを得ない部分はある。彼とて、大学入学前は優しい彼女が来て部屋で料理を作ってくれる! 的な明るい一人暮らし生活を夢見ていた物だ。が、出来てみた彼女は喫茶店のオーナーっぽい人。

「食べに来たらいいじゃないですかぁ~」

 美月は常々そう言ってくれる。それは非常にありがたく、つい頬のゆるんでしまう言葉だ。しかし、いくら何でも売り物を食べに行けない。それに、彼のアルバイトが終わる頃には普段の美月は寝てる。そう言うわけで相変わらずの自炊生活&バイト先スーパーの残り物食生活だ。ちょっぴり寂しい。

 まっ、別に料理だけが彼女の存在価値じゃないから……と気を取り直して、スクーターをスーパーへと飛ばす。頭の上から懐に入ったアルトがいつものようにかかとで何かのリズムを取るのが少し心地良い。

 暖かい日差しと心地良い風、春の国道を良夜は気持ちよく走っていた。

 そこに全身を激痛が駆け抜けた! 咄嗟にブレーキを握りしめれば、タイヤが盛大に悲鳴を上げ、リアタイヤが右に左にステップを踏む。ついでに良夜の口からも悲鳴がほとばしった。

「なっ、なんて事しやがる! この蜂!! 殺虫剤持ってくるぞ!?」

 ヘルメットの風防を跳ね上げ、胸元を見る。そこにはポロシャツにストローを引っかけ、それにぶら下がっている妖精の姿があった。彼女の顔だけが上を向き、小馬鹿に仕切った視線が良夜の目を見つめている。そして、彼女は言い放つ。

「危ないわね、ブレーキはもう少しおとなしく使いなさい。振り落とされるかと思ったわ」

 トンと胸を蹴っ飛ばし、その反動でストローを引き抜く。その余勢を借りて再び胸元へ。流れるような所作は優雅というほかないのだが、胸を深々と刺された人間にそんな物を見ている余裕はない。

「てってめぇ……言いたい事はそれだけか?」

 ブルブルと怒りに手が震え、唇がわななく。頭の中はぶっ殺してやるの一言で覆い尽くされていた。

「ううん、まだあるわよ。ありがたがって聞きなさい」

「ほっほぉ……なんだ?」

「あんな所に陽が居るわ」

「えっ?」

 アルトの言葉に良夜は虚を突かれた。催眠術にでもかけられたみたいに彼の視線は、胸元のアルトから彼女の伸ばした腕の先へと動く。そこは対向車線の歩道の向こう側、毎日のように見てはいるが入った事のないパチンコ屋の前だった。そこにいるのは茫然自失に立ちつくす一人の美人、もちろん陽だ。がっくりとうなだれる姿は、遠目でも判るほどに憔悴しきっている事が見て取れる。

「何してるのかしら?」

「知るかよ、ってお前それだけのために刺したのか?」

「ええ、気になるもの」

 こっこいつはぁ……平然と言い放つアルトに彼の怒りは心頭に発する。ゆっくりと胸ポケットからアルトを取り出してギュッとわしづかみ。毎度の事ながら彼女はここまでされても余裕の態度を崩しはしない。嘗めてるのだろう。しかし、今日という今日は許さない。潰す。潰してやる。

「ねえ、良夜、こっちに気づいたわ」

「おぉ、そうか。それは良かったな」

 ゆっくりと力を込めてアルトの小さくて華奢な体を締め上げていく。泣いて詫びろ、腐れ妖精。と思っているのに当の本人は相変わらず平然。それどころか、陽を見たままでこっちを見もしない。

「あら……」

 彼の手の中で彼女は呟いた。ついで――

 ガンッ!

 ヘルメットを揺らす強烈な振動。鉄砲で撃たれたかとでも思うような衝撃に、良夜の首がのけぞる。

「なっ!?」

 うめき声と共に良夜の手はアルトから離れ、ヘルメット越しにも痛む頭へと飛んだ。

「何か投げたわよ……って、大丈夫?」

「遅い! ってか! 何だ?! いったいっ!?」

 軽いパニック。何か堅いものがかなりの速度でヘルメットにぶつけられたって事だけは判ったのだが、それが何かはさっぱり解らない。キョロキョロと辺りを見渡せば、まず見えたのは陽の見事なフォロースルー。左足を振り上げ、右腕を振り下ろしている姿が目に入った。その彼は良夜と視線が合うと、取り繕うようにスカートの裾をなおし、ピースサインを彼に送る。

 続いて気づいたのは、胸ポケットから体を乗り出して、ちょんちょんと良夜の胸を突く妖精の事。

「陽が投げたのよ、それを」

 いつの間にやらポケットへと戻っていたアルトが、良夜の足下を指差す。そこはスクーターのステップ部分であり、そこに転がる小さなゴミくずだった。

「何だよ、いったい!」

 拾い上げてみる。それは紙切れ、多分陽がいつも使っているメモ帳……にくるまれた小石だった。

『浅間くん こんにちは』

 しわくちゃの紙に走り書きの文字。『こんにちは』の後に小さなハートマークが一つ。果たし合いの手紙にしてはやけに可愛らしいが、ある意味挑発するには最適な文面だ。

「何だよ、あの人は!」

 言葉を吐き捨てる。紙切れをくしゃっと握りつぶす。握りつぶした紙切れをポイと捨てる。

「ポイ捨て禁止!」

 んで、ストローで刺される。

 人生ってどこまで理不尽にできあがっているのだろう? 今年度も良夜は哲学の課外授業をたっぷりと受ける羽目になりそうな予感に彼は悲しくなった。

 軽く人生について思索している隙に、陽は片側に車線の国道を渡りきっていた。そして気がついた時には、彼は陽にすがりつかれていた。

 訳がわかりません。

『浅間くん!』

 目の前にはこう書かれたメモ帳。腰にしがみつくのは、華奢な割に筋肉質な体だ。

「なっ!?」

 その香りはシャンプーか? それとももしかしたら香水? 何かは判らないがなんだか良い匂いが良夜の鼻腔をくすぐる。女性らしい爽やかな香、職業柄その手の香を身につけない美月から感じた事のない香に良夜の思考と表情がとろけてゆく。

「ブルマン」

 麻痺する思考を現実へと押し戻す一言。さらっと口止め料を要求する妖精を一瞥、相手は男じゃんか、と今更ながらの言い訳を心の中でやってみる。

「貴美が喜ぶかしら?」

 言い訳が伝わっているようで凄く嬉し……くない。全然、嬉しくない。

「何の用なんですか……いったい」

 強引に体を引きはがされると、彼は良夜にメモ帳の別のページを開いて見せた。新しいページでなければその場で書いたわけでもないページだ。彼は良く使う言葉をあらかじめメモ帳に記しているらしいのだが、これもそう言うページの一つだろう。それにはこんな一言が書いてあった。

『お腹空いた 飢え死にしちゃう ご飯Please!』

 それを見た瞬間、良夜の顎が真っ逆さまに落ちた。


 そう言うわけで帰ってきました喫茶アルト。買い出しがあるとか、面倒くさいとか、色々と言いたい事はある。

『浅間くんに抱きしめられたって言い付けちゃう

 三島さんに』

 こんな事が書かれた紙を見せつけられたのでは、良夜に拒否権などありはしない。僅かばかりでも損失を小さくするため、喫茶アルトへと陽を連れてきた。ここならただ飯の当てがあるからだ。

 カランとドアベルの乾いた音を立てて店内に入ると、日曜昼下がりの喫茶アルトは閑散としていた。カウンターでパイプを磨く和明の他には、丁度入ったところなのかタカミーズがカウンターで美月相手に注文しているくらい。

「あれ? 良夜君、買い出しじゃなかったんですか?」

 不思議そうな顔を見せる直樹に対する返事、それは紡がれることなく良夜のお腹に飲み込まれる事となる。なぜなら、直樹の隣に立っていた貴美がそれより先に口を開いたからだ。

「あっ! りょーやんが浮気してるっ! 彼女の居る喫茶店に連れてくるとは! 修羅場っ!?」

 彼女は入ってきた二人を見つけるやいなや、物凄く嬉しそうな顔を良夜の顔を指差した。

「……アホ、そんなわけないだろう?」

 突き出された指先を手のひらではたき落とし、良夜はカウンターの方へと足を進める。その足を止めるのは良夜の顔から彼の斜め後方へと動く貴美の指先だった。

『奥様と話し合いに来ました』

 メモを掲げる横には自信に満ちた不敵な笑み。良夜は連れてくるんじゃなかったと頭を抱えずにはいられない。

「頭、抱えるのは良いけど……真に受けてる馬鹿がいるわよ」

「あっ……あの……にっ二条さんとお幸せになって下さい!!」

 目から大粒の涙を流しながら脱兎の如くに駆け出す美月とそれを追いかけていく良夜。二人が去った喫茶アルトでは貴美と陽が手をたたき合って自分たちの成果を誇っていたらしい。

「ナイスひなちゃん」

『名優』

 半泣きになってる美月を連れて良夜が帰ってきたのは、それから小一時間が経過したときのことだった。

 閑話休題。

 喫茶アルトのパン耳ラスクと言えば、この辺では知らない者の居ない名物料理だ。メニューには載っていないが、無料で食べさせてくれるとあって、貧乏な学生達には人気だったりする。もっとも、これはサンドイッチを作る時に出る耳や古くなったパンがある時だけ限定品だ。だから、これを当てに無駄遣いをした馬鹿が、その当てが外れてにっちもさっちもいかなくなるって事も良くある話だっりする。

「はい、パン耳ラスクです。あの、あまりくだらない事やってると、ラスク上げませんよ?」

 思いっきり真に受けた美月が少し脹れたほっぺでカウンターにお皿を置く。上にはスティック状のお菓子がてんこ盛り。本当のラスクとは卵白と砂糖を混ぜたクリーム――アイシングという――を塗ってオーブンで焼くのだが、そこは所詮無料品。簡単に油で揚げてパウダーシュガーをまぶしただけのお手軽おやつに改変されている。

 きつね色に揚がったパンの耳からは芳ばしい香りが立ちこめる。それは特に空腹でもない良夜の食欲すらさそう物、朝食以降お昼過ぎまで何も食べてない陽には堪えられない物である事に疑念の余地はない。

『むしゃくしゃしてやった 今は反省している ご飯Please』

 取り上げられそうになるお皿にすがりつき、陽はメモ帳を掲げる。その目にはちょっぴり涙。心底情けない顔は見る物に軽い罪悪感を与える。

「……はい、どうぞ」

 ちょっぴり不機嫌な美月からお皿を渡して貰った途端、陽の顔に大輪の花が咲く。明るくまぶしい笑顔はひまわりを連想される物。彼は心底嬉しそうな顔をしながら、すっと手をパン耳ラスクに手を伸ばした。そして、彼は優雅なお嬢様然とした仕草の三倍再生で食事を始めた。何回か見た事ある陽の芸だが、何度見ても圧倒される。

「それで……二条さん、どうしたんですか?」

 不思議そうな顔で尋ねる直樹に陽はメモ帳の一ページを差し出す。そこには『食事中』の一言。呆れかえる一同を放置したまま、彼の食事は続く、ひたすらに。

「妙なところで礼儀正しいわね」

「食うのが忙しいんだろう……」

 肩に止まったアルトに久しぶりの小声で返事をする。している間に――

「……(ぱちん)」

 山盛りだったラスクは全て消え去り、空っぽになった大皿の前で陽が静かに手を合わせていた。この間、僅か数分。特技の欄に早食いと書く人物だとは知っていたが、これじゃまるでブラックホール。しかも、陽は空っぽのお皿を指差しておかわりまで要求。しかし、今日のパン耳はこれでおしまい。それを聞いた時の陽の顔と言ったら、お預けされている子犬のようであり、それはガナッシュケーキを食べていた貴美が残ったケーキを口に無理矢理押し込んでしまうほどの攻撃力があった。

 そして陽はようやくメモ帳に、一同がずっと抱えていた疑問への回答を書き記した。

『パチンコにやられた 競馬も外した

 両方併せて 五万円

 現在の所持金 三十二円』

「このバカ!!」

 メモ帳を覗き込んでいた五人の声が見事に唱和し、その声は閑散としていた喫茶アルトのフロアを一瞬だけ賑やかな物に変えた。


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