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The Day After(1)

「どうせ私は――の――です!!」

 逆立つ黒髪、小刻みに痙攣する口元とこめかみ。彼女、三島美月二十一歳は烈火の如くにキレていた。仮に彼女に向かって『ド貧乳!』と言ってしまったときだってこんな風には怒らないだろう、と思えるくらいにキレていた。キレている相手は浅間良夜十九歳。

「だっ、誰もそんなこと言ってないでしょ!」

「言ってなくても思ってるんです! それくらい根ボケでも判ります!!」

「言ってもないし、思ってもないって言ってるでしょ!?」

「思ってないなんて言ってないじゃないですか!?」

 キレた美月の一言に良夜もキレる。キレた者同士の口論は不毛な雰囲気をかもし出しつつ終わりの見える様子は一切ない。

 ここは喫茶アルトのフロアど真ん中、時間はランチタイム真っ最中。当然周りには多くの客達が居る。その中でぶちキレまくりの男女が大喧嘩の真っ最中、誰もが食事の手を止め成り行きを見守っていた。

「まっ……良夜も悪いし、美月も悪いし……どっちもどっちなんだけど」

 それをカウンターに足を投げ出して見守る妖精が呟く。その呟きは成り行きを見守っている連中、全員が共通して持っている気持ちを代弁する物だった。


 二月十四日……その日、大学周辺では冬だというのに雪ではなく、雨が降っていた。暖かい雨は暖冬を行き過ごし、まるで春雨のようだ。良夜は雨が三回降ると、そのうち二回は喫茶アルトにランチを食べに行かない。特に出掛けしなに降ってなかった日などはその傾向が高い。

「あちゃ……雨か……仕方ない、購買のパンか学食にするか……」

 グレイの空と静かに降りしきる雨を見上げ、良夜は落胆の声を上げた。今朝の降水確率は五十パーセント、昼からは二十、その予報から良夜は降らない方に掛けた。要するに傘を持ってきてないって事だ。

「行かんの?」

 隣でバッグの中から折りたたみの傘を出していた貴美が良夜に声を掛けた。ただの客である良夜と違い、バイトウェイトレスの貴美とその貴美に強制連行される直樹はそうも行かない。雨が降ろうが雪になろうが無関係だ。しかし、彼女らとて雨の中トコトコ歩いてアルトに行くのは面倒くさいのだろう、その顔は今日の空と同じで曇りから雨模様。

「ああ、面倒くさい」

 早速頭の中で昼飯の算段をし始めた良夜は、言葉の通り面倒くさそうに答えを返した。

「ふぅん……まっ、良いけどさ。んじゃ、また、昼からね」

 なにかを考えるようなそぶりを見せると、貴美は恋人の手を引き、一つ傘の下良夜に背を向けた。雨に霞むキャンパスの中、消えていく二人の背中に彼も背中を向けると、良夜は一瞬前の貴美のなんとも言えない表情に小首をかしげた。なにかを言うべきか言わざるべきか、そんなことを迷うような雰囲気だと良夜は感じた。

「まっ……いっか……」

 それを考えたのは僅か数瞬の間だけ。彼はそれだけを呟くと、購買部へと急いだ。アルトに行かない分、お昼休みの時間は少し長めだ。図書館で試験勉強でもするか……良夜の意識は既に他の事へと向き始めていた。

 その日一日、雨は上がることもなく、そして良夜が喫茶アルトへと向かうこともなく過ぎ去った。割と普通に一日、なんにもないいつも通りの一日だった。

 浅間良夜にとっては……

 開けて十五日。昨日の雨が嘘のような晴天。良夜は二日ぶりに喫茶アルトへと続く道をタカミーズと共に歩いていた。

「あっ、りょーやん……美月さんの機嫌がすっごく悪いと思うけど、りょーやんの自業自得だから、覚悟しときなよ」

 思い出したかのように……というか、実際に言い忘れていたのだろう。貴美はアルトの店舗が見え始めたところで、ふとそんなことを言いだした。

 もちろん、良夜に美月の機嫌を損ねるような心当たりなどない。足を止めて数秒間を思考に当てるも答えは出ず、良夜はキョトンとした顔で貴美に答えを求めた。

「……何で?」

「良夜君、昨日、アルトに行かなかったでしょ? 三島さん……チョコレート用意して待ってたらしいんですよ……」

 答えたのは貴美ではなく、その貴美に手を握られていた直樹の方だった。良夜が悩んでいた時間、彼もそれを言うべきかを悩んでいたらしく、実際に言うその瞬間でもその顔には迷いの色が残っていた。

「そー言うこと。まっ、着いたらすぐに判ることだしさ」

「……吉田さん、もしかして、美月さんが用意してるの……」

「うん、知ってた。私も同じチョコケーキ、ひさかに注文したから」

 良夜がおずおずと尋ねれば、二人の男とは正反対に貴美の顔には迷いの色どころかいつも通りににやけた笑みで、あっさりと告白した。しかも、その良夜のために用意していたケーキは美月と貴美の二人で食っちまったと言うのだ。それを言った時の笑みは、普段と変わらないようにも見えるのだが、獲物を罠に掛けた策士のようにも見える。

「言えよ! そう言うこと!」

「まさか一日姿を見せないとは思ってなかった……と言えば嘘になるけど、そう言うこと、他の女に教えて貰うもんでもないっしょ?」

 貴美は血相を変える良夜を冷たくあしらい「のんびりしてる暇はないと思うんよ、私」と言葉を続けた。

「ああ……クソッ!」

 その呟きは誰に向けて発せられた物なのか、良夜自身にもよく判りはしない。ともかくさっさと行かなければドツボにはまる、その予感だけを彼ははっきりと理解していた。

「先行く!」

「いってらー」

 駆け出す良夜の背中には貴美の脳天気な声と手を振る姿だけが与えられた。

「吉田さん……こうなることが判ってて黙ってたでしょ?」

 遠くなる背中に左手を振り続ける恋人の顔を、直樹は少し困ったような表情で見上げた。彼はこの話を昨夜から知っていたが、それをこの彼女に口止めされていたからだ。

「まぁね、義理なんだか本命なんだか判らないチョコレート貰ってそれで終わりってのもアレっしょ?」

 振っていた手を下ろし、貴美は顔をなにも言わぬ喫茶アルトの店舗から、困り続けたままの恋人へと下ろした。ほんの少しだけ、いつもよりも引き締まった顔で。

「あれ……ですか?」

「そっ、つまんないって事」

 二月とは思えない陽気の中、取り残されたカップルは自らも喫茶アルトへの道を歩み始めた。


 良夜が喫茶アルトのドアベルを鳴らしたとき、美月はフロアで客の注文を受けていた。その瞬間の彼女は極普通だった。いつも通りの彼女の接客態度――お愛想ではない本心からの笑みを浮かべながらの接客態度に見えた。

 が、しかし。

 彼女の「いらっしゃいませ」との言葉は七割方で凍り付き、半開きになった瞳が良夜の瞳を睨み付ける。まるで帰れと言わんばかりの対応だ。胸やスタイルと言った彼女の地雷を踏みつけたとき、笑顔で『帰れ』と言ってしまう美月がそう言う態度を示す事が、良夜にとっては余計に恐かった。

 そして、良夜は事ここにいたって、ようやく自分がなんというべきかを解っていないと言うことに気がついた。

 詫びる、なにに対して?

 誤魔化す、息を切らして店に飛び込んだのに?

「えっと……あの……」

 どうしようどうしよう……彼の頭の中でそれだけがリフレインし続ける。し続けたところで答えなど出るはずもない。出ない答えを考えながら、良夜は一組のカップルが占領するテーブルの向こう側で自身をジッと睨み付けている美月から視線を外した。

 外した先には見知らぬ女性客のカップからコーヒーをかすめ取っているアルトの姿……があったのだが、彼女は良夜と視線があった途端、プイッとそっぽを向いた。

「お客さん、用事がないんなら、とっと席に着いてくれませんか? 邪魔ですから」

 抑揚のない冷たい言葉とお客さんという呼び方はキレた美月の癖、それは何度も聞いたことがあるが、今日のは一番きついように感じる。

 なにを言うべきかは判らないが、なにかを言わなくてはならない。それだけは良夜にも判っていた。しかし、いくら良夜の中の辞書を引いても見つからない。そもそも、書いてないのだから見つかるはずがない。良夜は逸らした視線を戻すことも出来ず、美月の首から下や知ってたり知らなかったりする客達へとフラフラさせ続けるだけ。美月の方にも動きはない。注文の続きを聞く事もせず、そこから離れることもしない。ただ、不機嫌丸出しの細めた眼で良夜を直視し続けていた。また、注文を言っていたカップルも二人の空気に飲まれ続きを言うことはない。

 普段から静かな雰囲気を持っている喫茶アルトのフロアではあったが、今日のはいつのもまして静かな空気だ。もちろん、そこに穏やかさなんてものなど一片もないのだが……

 針一本落としても判るような空気、それを長く感じたか、短く感じたか、それは人それぞれの立場によって違うだろう。ただ、冷徹な時計の針だけがきっちり五分の経過を人知れず教えていた。

 からん……

 誰もがそのドアベルの音を普段よりも大きく感じた。

「ちーっす、美月さん。タイムカード押したら代わるよ、キッチン行って」

 入ってきたのは喫茶アルトもう一人のウェイトレス、吉田貴美ただ一人。いつもと同じヘラヘラとした笑みを浮かべた彼女は、いつも通りの軽い対応で美月に声を掛けると、良夜の顔を睨み付けたままの美月の横を通り過ぎようとした。

「あっ……はい、お願い――」

 美月が良夜から視線を切り、背を向けようとした瞬間だった。俯き加減だった良夜の顔が跳ね上がった。そして、もっとも安直ではあるが、唯一考えついた言葉を吐く。

「美月さん、ごめん!」

「べっつに謝って貰う事なんてないです! ひさかのチョコレートケーキ、美味しかったですよぉ? 良夜さんが来なかったおかげで私も食べられました!! どうもありがとうございました!!」

 バン! 注文伝票を挟んだ小さなバインダーがテーブルの上に叩きつけられ、テーブルに置かれていたグラスを跳ね上げさせる。そのグラスは着地を失敗すると、誰にも迷惑を掛けず、一人で投身自殺をはかり、成功させた。

 パン!

 破裂するような音を立てて砕け散るグラス。しかし誰も、和明すらそれに動くことはしない。きらきらと光るガラスの破片は誰からも顧みられることなく、フロアの期間限定インテリアになった。

「ほら、昨日は雨が降ってたから……」

「ええ、そうですとも、そうですとも。雨が降ってたから来なかっただけなんですよね! せーっかく、私がチョコレートケーキを頼んでたのに、来なかったんですよね! たかが、雨が降ってるくらいで!!」

 カウンターに手を突いたまま、キレまくる美月。良夜はここに更に彼女の怒りに油を注ぐ一言を行った。

「いっ一応……毎日は来れないって……いつも言って――」

「私は言って貰ってません!!」

 言い訳を美月に蹴っ飛ばされると、良夜はあれ? と内心、首をひねった。そう言えば、その台詞を言ってるのは……二つ三つ向こうの席で自分のあごに向けて指を指している妖精さん……彼女だけだった。

 あちゃぁ……と思う。しかし、そんなことをわざわざ言う必要はあるのだろうか? とも思う。授業や仕事じゃないんだから、毎日出席する義務なんてないし、バイトや授業の兼ね合いでそれは無理だ。

「でっでも……無理なの、判ってると……」

「根ボケですから、判りません!!」

 もう一度、バン! と美月はバインダーを無人のテーブルに叩きつけた。そこに座っていたカップルは、既に貴美の手により近くのテーブルに待避済みだったりするのだが、当事者達は気付いていない。

「アルトには言ってる癖に……」

 ボソッと呟いた言葉は避難している他の客や貴美には聞こえなかったが、良夜にははっきりと聞こえる物だった。

 そして彼女は大きく息を吸い込む。一番言いたかった一言を言うために。

「どうせ、私はアルトのオマケです!!」

 その言葉を言った美月自身がその言葉で激高し、それを聞いた良夜の頭にも血が上った。しかし、どうしてこの一言に良夜がキレてしまったのか……良夜自身、この時は判らなかった。


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