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指輪物語(1)

 実家から大学傍のアパートに帰ってきた頃、貴美はご機嫌だった。帰省していた実家でちょっとしたイベントが起きたからだ。

 そのイベントは十二月三十一日から三日後、一月三日に起きた。

 十二月三十一日、世間一般的には大晦日と呼ばれる日だが、タカミーズの二人ににはまるで違う意味を持つ日だ。

 吉田貴美の誕生日、それが二人にとって、また彼らの家族にとっての十二月三十一日だ。

 予定日よりも三日も遅れ、挙げ句の果てには除夜の鐘最初の一発目がなる時間になって、ようやく彼女は生れてきた。おかげさまでこの年の年末年始はおせち料理やお雑煮はもちろん、大掃除すらこの家ではなかった。

「生れるときから人騒がせ。大きくなっても人騒がせ。あんたは人を振り回すために生れてきたような娘だね」

 貴美が何かやるたび、彼女の母はそう言って苦笑いを浮かべたものだ。

 ともあれ、このあたりを誕生日にする子供は生れながらにして他の子供にはない重い十字架を背負うことになる。クリスマスと誕生日、もしくはお正月と誕生日が合同でやって来るという十字架だ。吉田家でも引っ越しをする前年まではそうだった。クリスマスのプレゼントはあれども、誕生日はお年玉と合同。貴美もそれが普通だと思っていた。

「それはおとしだま……おたんじょうびは?」

 直樹くん(当時四歳)の何気ないこの一言を聞くまでは。

 六月に誕生日を迎える直樹は、誕生日にはゲームを貰い、クリスマスにはサンタさんがやって来て、元旦にはきっちりとお年玉を頂く。それに対して自分は……と素朴な疑問を思い浮かべたとき、彼女は元旦早々、リビングでおとそ代わりの日本酒片手にくつろぐ両親の元へと怒鳴り込んだ。

「なおは両方もらってる!! たかみちゃんも!!!」

 大音量の絶叫と共に吉田家は修羅場と化した。

「よそはよそ、うちはうち!」

 そんなありがちな言葉も投げつけられたが、とうてい収まる物ではない。収まる物ではないが、親としても引けない物があった。ローンは厳しいし、バブル崩壊直後の色々と危うい時代だし……だから、家族会議は紛糾し、平行線をたどった。

 そして、いくら話し合っても無駄である。そう理解してしまった彼女は家出をする事にした。

 お隣に住む高見直樹の部屋へ。

 お気に入りの人形とタオルケット、それに大量のおやつを抱えた彼女は有無を言わせず、直樹の部屋を占領した。しかも、直樹を人質に取って。当人は直樹が自発的に一緒にいてくれたと言い張っているのだが、直樹は首根っこを捕まれて連行されたと言っている。

 そして、高見家、吉田家、両家両親は実際には百パーセント人質だと認識していた。

 なんといっても、貴美の両親を折らせた最大の決め言葉は貴美が言った万の言葉ではなく、直樹のたった一つの言葉だったのだから。

 それは――

「おしっこ……もれちゃう……」

 ――であった。

 それでも部屋から出さなかったあたり、貴美は幼稚園児ながらに悪魔だった……と、直樹は語っている。

 そう言うわけで、貴美はクリスマスにはクリスマスで何かを貰い、大晦日には誕生日で何かを貰い、翌日の元旦にもきっちりお年玉を貰う、物欲にまみれた冬休みを幼稚園児の頃から過ごしている。今年の戦利品はワンピースとダウンジャケットが一着ずつと諭吉さん一人、他にも親戚からぽろぽろと貰っているのだから、彼女の懐はほっかほか。これだけでも貴美を上機嫌にさせるに十分なイベントだ。

 しかし、今年はその上にもう一つ、大きめのイベントがあった。

 未だ新年気分抜けやらぬ三日。いつも一緒にいるタカミーズだが、一月三日は別々に過ごすのが毎年の恒例になっていた。直樹が貴美の誕生日プレゼントを買いに行くからだ。直樹は昔からなんだかんだと言って無駄遣いをしてしまう。そんな彼が年末、と言うか月末に金を持っているはずもなく、中学生の頃から貴美の誕生日プレゼントを年明けに貰ったお年玉で買うことにしていた。その買い物に行くのが毎年一月三日。

 今年も貴美は三日の日中を部屋でゴロゴロ過ごし、直樹が買い物から帰ってくるのを待っていた。

 正直の所、貴美は直樹の誕生日プレゼントというものに全く期待していなかった。なぜなら、彼が今現在ド貧民街道驀進中なのを彼女が一番理解しているからだ。

 まず、直樹は清水の舞台から飛び降りるつもりで愛車のマフラーを交換した。ら、その直後にスピード違反で二回も捕まった。反則金を取られた上に、ジャスト免停でその講習費用まで取られた。更に間の悪いことに来月にはその愛車の任意保険が切れ、更新に二桁万円のお金が必要。ついでに帰省するのにも金が必要だった。はっきり言って、家賃と食費を折半しその折半している食費も自炊プラスアルトの残り物で極端に安いという状況でなければとっくに破綻している……いや、幸いにも免停中で愛車に入れるガソリン代が不要だと言う状況が首の皮一枚で破綻を免れさせている、そんなところだ。

 逆さに振っても鼻血も出ない男が用意するプレゼント、それに物質的な期待を持てるほど貴美は乙女チックな女ではない。良いところちょっとした小物かケーキくらいだろう。それをネタにして軽く虐めたら許してやるか……

 そんなことを考えながら、貴美は日長一日ベッドの上でゴロゴロと時間を潰していた。

 入学前に持っていたゲームやマンガなんかはアパートの方に持って行き、持って行ききれなかったものは全て処分した。時間を潰す玩具は直樹だけ。ベッドの上から天井をぼんやりと眺める時間は、いつもよりも遅く流れる。

「プレゼントなんてどーでも良いから早く帰ってこーい」

 そして、一階のキッチンから美味しそうな匂いが漂い始める頃になって、ようやくその時間は終わりを迎えた。

 階下で家族に挨拶する直樹の声、一分もかからずトントンと小刻みに階段を上る音が聞こえた。それが途切れればすぐに、数回のノック。どうぞと言う言葉ではなく、全く別の怒鳴り声で彼女は彼氏を迎え入れた。

「遅い!! 私が今日一日、どれだけ暇だったか判ってん?!」

「一応、誕生日プレゼントを選んでいたわけでして……今日は徒歩だし」

 苦笑いを浮かべて入ってくる青年、今日一日、見たかった顔としたかった会話がようやくかなう瞬間。期待できないプレゼントよりもこっちの方が貴美には嬉しかった。

「どーせ、リアルにつまらない物なんだから、大して選ばんでも良いんよ。後半は自業自得」

「……底抜けに大人げない発言……」

「外見が大人げないなおに言われたくないね。はい、見せて」

 寝転がっていたベッドから体を起こして、右手を差し出す。

 その右手の上にぶつくさとなにやら文句を言いながら、直樹が小さな小箱を置いた。

 多分、そんなことを言うんならあげないとかその辺の言葉を言っているのだろう。聞こえないふり。

「ありがとう、開けて良い?」

 軽い気持ちで封を切る。貴美が趣向を凝らした奇妙な、半ばイヤミじみたプレゼントをするのに対し、直樹はいつも良く言えば妥当な、悪く言えばひねりのないプレゼントを貴美にくれる。もうちょっとひねったものを出せば面白いのにな、と思うが、こう言うところで妙に誠実なのが直樹の良いところなのだろうと思う。もしかしたら、思いつかないのかも知れない。どちらにしても、直樹らしい一面だ。

 そんなことを思いながら開けた箱には、外箱同様小さな小箱。それも開けてみると、出てきたのは指輪だった。多分シルバー、女子大学生が着けていて不自然と言うほどではないが、ド貧民彼氏が買ってくるには甚だしく高価な逸品だ。貴美はその箱をパタンと閉め、居住いを正して一言言わずには居られなかった。

「……どこで盗んだ?」

「流石にカチンと来ますよ?」

「なおにこんなの買うお金あるわけないじゃん! 盗んだ?! それとも、歌舞伎町二丁目でいかがわしいバイトでもしたっ!?」

「バイト、アルトの奴……こっちに帰る直前に貰ったんですよ」

 ちょっと不機嫌そうに言う台詞を聞き、貴美はようやく納得することが出来た。クリスマスに直樹が喫茶アルトで働いた分の給料がこれに化けたのだ。このお金のことを貴美は綺麗さっぱり忘れ去っていた。自分がクリスマスに働いた分は来月の給料といっしょに貰う予定だから。

「三島さんが吉田さんの誕生日プレゼントにでも当ててくださいって……少しだけ多めに」

 少しだけ照れたような口調の言葉を聞きながら、貴美はもう一度贈り物の宝石箱を開いてみた。

 そこから出てきた指輪はやっぱりシルバー、あまり凝ったデザインではなく内側に小さく「2007 Birthday」と言う刻印されている所だけがやけに目に付いた。

「へぇ……センス良い……けど、一応、去年分の誕生日プレゼントだよね? これ」

「えっ? あぁぁ!! うっ……どうしよう?」

 その刻印を二人で眺めて苦笑い。しかも指輪のサイズなんて言う物を知らない直樹は「サイズは?」と聞かれて「僕のと同じくらい」と答えたそうだ。手の大きさがあまり変わらないのだから、太さもあまり変わらないだろう。そんないい加減な予想が当たるはずもなく、せっかく貰った指輪は貴美が着けると始終ぐらぐらするようなありさまだった。

「サイズは違うし、年は間違ってるし、カッコつかないね。なお」

「替えてきます……」

「良いよ、なおらしい」

 指輪を着けた右手を伸ばしてみれば、西の窓から差し込む夕日が赤くその指輪を飾り立てる。まるで大粒のルビーのように。そんな幻想的な光景を見ているうちに、思いついた言葉が不意に口を突いた。

「あっ、そうだ。左の薬指に付けようか?」

「良いですよ、別に……」

 ちょっとだけ意気消沈した口調の言葉、それは彼女にとって思いがけない言葉だった。固まった貴美を置き忘れ、直樹は言葉を続ける。

「あっ、卒業したらちゃんとしたのを買いますから……それまで――」

 それを最後まで聞くよりも先に、貴美は恋人の小さな頭を力一杯抱きしめていた。

「うん、それまで大事にする」

 そんな言葉を消えそうな声で呟きながら……


 と、こんなイベント付きで思いも掛けず指輪なんぞを貰ったわけだから、貴美が浮かれるのも無理からぬ話だ。出来る事なら、みんなに見せびらかしてしまい所なのだが、そこはそれ、「弄るのは大好きだが弄られるのは大嫌い」という吉田貴美。彼女がそれを教えたのは、彼女のバイト先の上司であり、またこの指輪を貰えるきっかけを作ってくれた三島美月と和明の二人だけだった。

「へぇ……良いですね。私なんて、指輪なんか一つも持ってませんよ?」

「なんよ、ぬいぐるみや人形ばっかりじゃなくて、アクセサリの一つでも買ったら?」

「うっ……買ったことはあるんですよ? ちゃんと……」

「ああ、仕事するときは外してるとか?」

「いいえ……着けてたら、そこに……」

 美月の指が示すのはキッチンの大きな業務用シンク……の中にある排水口。

「全部そこに吸い込まれていったんですぅ! 水商売に指輪は禁物なんですよ! 知ってましたか?!」

「水仕事、水商売に指輪は禁物って……ギリギリな発言」

「吉田さんも外してください! あの排水口は指輪が大好物なんです! この指輪も飲まれてしまいます!」

 貴美の適切な突っ込みに耳を貸しもせず、やけに真剣な表情で彼女は貴美の手を握りしめた。その目には涙まで浮かんでいるあたり、よっぽど、高いリングを落としてしまったのだろうと、貴美は予想した。

「清華さんの婚約指輪もあの排水口に飲まれましたからね。本当に外しておいた方が良いですよ」

 暇そうにパイプを咥えていた和明までもがそう言出せば、貴美も流石に不安になってくる……まあ、三島家母娘は色々な面でそっくりだから、単に二人とも同レベルにドジなだけなのかも知れない。どちらにしてもサイズの合っていない指輪で水仕事をやる気になどなれるはずもなく、貴美は二人の忠告に素直にしたがった。

 外した指輪を丁寧にハンカチで包む。小さく折ったそれを事務所に置いてあるバッグの所に持って行くべきか、それともポケットにねじ込んで仕事を始めるべきか? 貴美の逡巡の時は一瞬しか与えられることがなかった。

 から~ん

 いつもの乾いたドアベルの音が一つ鳴ると、貴美は半分無意識のうちにそれをポケットへとねじ込んだ。そして、顔と人格を営業モードに切り替えていつもの言葉を吐く。

「いらっしゃいませ。ようこそ喫茶アルトへ。ただいま席へご案内します」

 いつも通りの慣れた対応。後に彼女は美月に押し付けて、バッグの所へ行けば良かった……と、語ることになる。

 なぜなら――

「ない!! 指輪、ない!!!」

 仕事が終わり、ポケットに手を突っ込んだとき、そこには指輪を包んでいたはずのハンカチが一枚、入っているだけだったから。

 もちろん始まる大騒ぎ、その騒ぎの隅っこで喫茶アルトに住む妖精アルトちゃんは頭を抱えていた。

「私は悪くないわ……私の所為じゃないもの」

 彼女がこう呟くとき、大抵、彼女が悪かったりする。


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