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冬が来た(1)

 喫茶アルトに住む妖精アルトちゃん、寝るときの彼女はいつも素っ裸だ。それに取り立てて大きな理由があるわけでもなく、単に「何となく落ち着く」という理由から素っ裸になって寝ている。

 春から夏、秋にかけては問題はない。が、しかし、時まさに十二月、冬到来。当たり前だが、寒い。それも喫茶アルトのだだっ広いフロアに一人で寝ているんだから、それは他の人間よりも一足先にその寒さが身にしみてくる。

 ここで普通の人ならば、素直に寝間着の一つも着ようものだが、アルトは普通の人ではなかった。

 妖精だし。

「寒いわね……」

 戸棚に積まれたタオルの隙間から、モソモソと白い裸体が這い出してくる。そして、そのタオルを一枚、クルンっと体に巻き付け、薄暗いフロアの中へ。ハンドタオルは手のひらサイズの妖精さんには少々重たい上に七割以上寝ぼけ眼、ヨタヨタと宙を舞う姿はお世辞にも精彩とは言えない。

 辿り着きましたるは、フロアとキッチンの間を仕切る壁、そこに貼り付けられたエアコンのスイッチ。

 ぽちっ!

 小さな手のひら一杯でエアコンのスイッチをON。ゴーゴーと唸りを上げ、天井に埋め込まれたエアコンから温風が吹き出す。その温風に美しい金髪とタオルをなびかせ、アルトはしょぼつく目をこすった。

「……寝ましょ……」

 来たときと同じようにアルトの体はフラフラしながら、フロアの片隅に作り付けられた戸棚へと帰っていった。

 話は変わるが、喫茶アルトにはトイレがフロアに一つしかない。建物自体が古く、また、住民イコール従業員という公式が成り立つ三島家では居住スペースにトイレを作る必要があまりなかった。だから、その時、そこに彼女が居たことは極めて不幸な偶然ではあったが、同時に必然でもあった。

 アルトがエアコンのスイッチを入れた瞬間は彼女はフロアにあるトイレから眠たそうに目を擦りながら出てきた瞬間だった。

「ふにぃ……わっ!?」

 妖精がプリントされたパジャマの上に若草色のカーデガンを羽織った美月の頭上で、モータが低いうなり声を上げ始める。そして、吹き出す温風。寝ぼけ頭の天然ボケ娘は腰を抜かさんばかりに驚いた。と言うか、体がテーブルにぶつからなければ、そのまま、床に尻餅でもついてしまっていただろう。

 どっしりとしたテーブルに両手を突き、訳も解らず周りをキョロキョロと見渡す。しかし、目に付くのは無人のフロアとやっぱり唸りを上げているエアコンだけ。

「……なっなに?」

 大きな黒目がちな眼をぱちくりぱちくり。彼女はそのままの姿でたっぷり十五分ほど固まり続けた。

「くっしゅん!」

 そして、大きなくしゃみを一つ、彼女はようやく事態を把握した。

「アルトですねっ!?」

 営業終了後の喫茶アルトフロアに美月の怒声が響き渡った。


 それから一週間ほどの時間が過ぎたある日、ちょうど良夜のバイトが休みの夜、良夜は営業終了後の喫茶アルトに呼び出されていた。

 窓際隅っこいつもの席、向かい合わせに座った美月が、眉をひそめて言った。

「毎晩、エアコン、全開だったらしいんですよぉ。夏も冬も」

 和明によると、十数年前、喫茶アルトにエアコンが入った日からずっと、アルトは夏は冷房、冬は暖房を全開にして寝ているらしい。和明はかまわないと言ってはいるのだが、一応、経理を預かる身としては毎晩毎晩エアコン全開で寝られたのではたまらない。たまらないので、あれから一週間、美月はアルトが肩の上に止まるたび、止めてくれるようにお願いし続けていた。

 ――わけだが。

「ついに今日は一度もそばに寄ってこなかったんです……」

「ガキだな……あいつは」

 しょんぼりと俯く美月を見ながら、良夜は小さく呟いた。

 この一週間というもの、美月は「止めてくださいね。暖房、入れないでくださいね」って感じの話しかアルト相手にしなかった。それにいちいち髪を二回引っ張るって言うのも、良夜が考えても面倒な話だ。だから、アルトは昨日のお昼過ぎくらいから美月の傍に近寄らなくなった。それは今日、良夜が昼を食べに来たときも同様。美月がテーブルのそばに来ると、アルトは何処かに消える。そして、美月が居なくなると、コーヒーを飲みに戻ってくるという行為を繰り返していた。姿が見えないんだからわざわざ隠れなくても良いだろうにと良夜も思うが、おそらく彼女なりの様式美という奴なのだろう。

「てっきり、腹でも下したのかと思ってた……」

 昼間のことを思い出しながら呟いた言葉、それを聞きとがめた美月はバーンと力一杯テーブルを叩いて断言した。

「アルトはおトイレなんてしません!」

 華奢なカップが軽く跳ね、その水面に小さな波紋を一つ浮かび上げる。そこから立ち上がった美月へと視線を動かせば、彼女の目に涙が浮かんでいた。

「泣く程のことでもないと思いますが……」

「いえ、手が痛かったんですぅ……」

『アホだな、この人』の気持ちをたっぷりと込め、立ち上がったままの美月をジトォッと見つめる。美月もその良夜の気持ちに気がついたのか、コホンと軽く小さな咳払いをして席に座り直した。顔を真っ赤にしながら、手をぶらぶらと振っているところが、美月らしくて少しほほえましい。

「ともかくですね。一度、ゆっくりアルトとお話をしなければと思いまして、良夜さんに来ていただいたのです」

 気恥ずかしさを誤魔化すように美月は自分で煎れたコーヒーのカップに手を伸ばした。良夜もそれに習い、自分用にあてがわれたコーヒーに口をつける。そして、その視線をぐるっと他に人の居ないフロアへと巡らせた。

「しかし……ここで毎晩寝てるんですよね? それも一人で……確かに暖房の一つもなかったら寒いよな」

 フロアに残る灯火は良夜達が使っている窓際隅の席一つだけ、これすらも良夜が帰り、美月が自室に戻れば消えてしまう。今夜はそれでも蒼い月の光のおかげでいつもよりかは明るいが、それすらない夜や月の沈んだ後はどこまでも寂しい雰囲気しかないだろう。そう考えると、夏の熱帯夜はともかく、冬の暖房くらいは許してやっても良いのではないか……良夜は少しだけそう思った。

「ですから、私の部屋でいっしょに寝てくれたら良いんですよ!」

 グイッと胸の前で握った両の拳は彼女の強い意志を感じさせる。そして、それが良夜に一つの予想を与えた。

「……いっしょに寝たいんですよね? アルトと」

「はっ! そっそんなことはありませんっ! 時代はエコなんです! 省エネです! 経費削減です!」

 あたふたと顔の前で大げさに手を振る美月を見つめ、嘘のつけない人だなと良夜は思った。

「それでアルトはどこに居るんですか?」

「今夜は姿が見えませんね……あっ、コーヒー、お代わり貰えます? ブルーマウンテン」

 クイッと温くなったコーヒーを一息に飲み干す。空になったカップがソーサに辿り着くよりも早く、姿の見えなかった妖精が文字通り飛んできた。

「きっ汚いわよ!? 良夜ッ!」

 との言葉と共に……判りやすいったらありゃしない女だ。


「嫌よ」

 取り付く島もないとはまさにこういう態度を言うのだろう。彼女は、美月が入れたブルーマウンテンをたっぷりと飲んだ途端、はっきりとした口調でそう言いきった。少しはその言葉を伝える人間の身にもなって欲しいものだ。

「どっどうしてですか? ちゃんと暖房も入れますし、それに夏になったらエアコンもつけますよ? ここで寝るよりずーっと快適だと思うんだけど……」

「絶対に月に一度は閉じ込められるもの……週に一度と言いたいところだけど、月に一度にしておいてあげるわ」

 コーヒーカップの縁に腰を下ろし、アルトはツンッとそっぽを向いて答えた。そして、良夜によって美月にその言葉が伝えられると、彼女はうっと絶句した。

「今日だって、髪をくくらずに出てきたし、この間はパジャマのままで出てきたわよね? 車の中に閉じ込められたときは、流石に死を覚悟したわよ」

 ポンポンと告げられる言葉を良夜が通訳するたびに、美月はあうっ! うわっ! とうなり声を上げて身もだえる。

「寝ぼけてるときの美月は本当に酷いんだから……根もボケ、まさに根ボケね」

 根ボケのフレーズが何故か良夜のツボにはまった。良夜が軽く吹き出しながらアルトの言葉を翻訳すれば、それに美月が顔を真っ赤にする。

「良夜さん! 一体、どちらの味方なんですかっ!?」

「可愛い妖精アルトちゃん」

「可愛い妖精アルトちゃん……あっ! 違います!」

 シレッとした顔で言うアルトの言葉を、良夜は反射的に翻訳してしまった。すると、美月はうわぁ~んとテーブルに突っ伏して泣き始めた。

「いや、アルトがそう言っただけですから! 泣くこと無いじゃないですか……」

「ううう……じゃぁ、私の味方してくれますか?」

 ギュッと美月の荒れた手が良夜の手を包み込み、彼の顔を涙目で斜め下からじーっと見上げる。これでNoと答えられる男がいるだろうか? いるとすれば、それは既に男ではないと良夜は言い切れる。

 ただし、それはうなじにストローを押し付けている妖精が居ない場合に限定して欲しい。

「良夜、貴方は私が美月の部屋に閉じ込められて、一日、ひもじく過ごしても良い、そう言うのね?」

 背後からドスの利いた声が響き渡る。先ほどまでコーヒーカップに腰掛けていた妖精は、いつの間にやら良夜の背後に舞い上がり、彼のうなじにストローを押し付けていた。

 前門の虎後門の狼って奴だ。いや、珍しくもててると思えば、少しはこの状況も楽しめるかも――

「良夜、ここは命に関わるわよ?」

 クイクイと彼女のストローに力がこもり、ドスの利いた声が更にさっきを帯び始める。

 はい、無理です。そんなことは夢想だにできません。

「判った、アルト。美月さんの部屋が嫌なら、店長の部屋で寝ろよ。人形用のベッドでも買ってきてやるから」

 美月には悪いがアルトの言うことももっともだ。良夜自身、あの旅行から帰ってきた翌日、八月の炎天下の車中で干からびかけていたアルトを見たこともある。かと言って、この広いフロアをアルト一人のために暖房ガンガンというのも勿体ない。この辺が妥協案だ。

「ええぇ~~~!?」

 その妥協案に素っ頓狂な不満の声を上げたのは美月だった。その声に良夜の頭が落ち、がちんと大きな音を立ててテーブルに激突した。額も痛いがその奥も痛い。

「美月さん! 時代はエコで省エネで経費削減なんでしょう!?」

「うう……それはお題目と言いましょうか……建前と申しますか……」

 良夜の手を弄くりまわしながら、美月はもにょもにょと言い訳を続けた。さっきまで涙目で良夜の顔を見上げていた視線を合わせようともしない。そうだろうと確信はしていたが、はっきりと言われると思いっきり力が抜ける。

「半分で妥協しておいてください」

「もはや、半分ではなく、七割はそっちが目的だったりするわけでして……アウアウ……せっかく、いっしょに寝られると思ったのに……」

 とは言え、美月も一応は喫茶アルトの会計を預かる身だ。このまま、ダラダラと電気代を無駄遣いされるくらいならば、祖父の部屋で寝てくれた方が助かる。ぶつくさと口の中で色々と文句を言いつつも、最終的には不承不承良夜の妥協案を受け入れた。

「いやよ」

 しかし、アルトはその妥協案を一言の元に蹴っ飛ばした。

「だって、和明、仕事終わったら煙草、吸うもの。臭いのよ」

「店長の部屋はた――ぎゃっ!?」

 たばこ臭いから嫌、と続けようとした言葉の代わりに良夜の口から、踏んづけられたカエルのような悲鳴が飛び出した。

 ザクッ! と彼のうなじにあるとのストローが深々と突き刺さったのだ。小さな体の割りにアルトの力は強い……こう言うときだけ。

「その話は秘密なの。教えちゃ駄目」

 ストローを刺したまま、アルトが懇切丁寧に教えてくれる。いや、マジでここは死ぬ……痛いとか痛くないとかって言うレベルの話じゃない。

「た?」

 その苦しみに全く気付いてない様子の美月。彼女は言葉の途切れた良夜の顔を不思議そうに見上げた。

「た……たったったっ体臭が……する、そう……です」

「誰もそんなこと言ってないわよ!」

 怒鳴り声と共にもう一発、彼の首筋にストローが突き刺さる。もうどないせいって言ってんだ……この腐れ妖精。

「いわゆる加齢臭と言う奴でしょうか? お祖父さんもお年ですからねぇ……」

 どう聞いても誤魔化し切れていない言葉にあっさりと誤魔化される美月。激痛で気を遠くしながら、良夜はやっぱり根ボケな人だなと良夜は思った。


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