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海と空で(9)

 ど~ん、心地よい花火の音が早朝の空にこだまする。良夜達がここに来て五日、数回の夕立があった以外は快晴以外の言葉を持たなかった空に白煙と轟音、そして、音に驚いた海鳥たちが舞い上がり何処かへと消えていく。

 この旅行期間中、毎朝一番に起きていたのはアルトだった。単に喫茶アルトで暮らしているときと同じ時間に起きていたら、他の連中は誰一人起きてない、それだけの話。

「うるさい……」

 茶碗の中で小さく丸まっていた体を起こすと、大きく背伸びを一つ。素っ裸の体を大きく伸ばすと、頭の中によどんでいた眠気がすーっと抜けていくのを感じた。

 日焼け止めクリームが功を奏してくれたのか、全体的に日焼けは少なめ。羽と羽の間、濡れなかったところが奇妙に日焼けしているのは残念だが、それと停滞と言うほどではない。

 ど~ん、二発目の花火の音。なんで朝から花火なのだろう……寝ぼけた頭でぼんやりと考えてみる。

「そう言えば……夏祭りがあるって言ってたわね」

 寝ぼけた声で呟く言葉は、めざとい貴美が調べてきた情報。

 小さな島内全てに響き渡る花火は、夏祭りが予定通りに行われるお知らせ。夜店と花火大会があるくらいの、芸能人が来るわけでも、テレビ局の中継があるわけでもない、こぢんまりとした夏祭り。花火も夜店も、前に見える人に連れて行って貰って以来十年ぶり。夜店も花火も大好きな彼女としては、お知らせの花火だけで気分が高揚していく。

「綿菓子……食べなきゃ……」

 寝ぼけた口調で独り言を呟き、茶碗にもう一度倒れ込んだ。どうせ、まだしばらく誰も起きては来ない。もう少しだけのんびりしよう……

「でも、明日には帰っちゃうのね」

 帰る日を明日に決めたのは、その帰宅前日の夜に夏祭りがあるという情報があったからだ。名残惜しいような、喫茶アルトが懐かしいような、少しだけ複雑な心境。

 その心境が迷いとなり、彼女の羽をそこに留める。

 茶碗の中に腹ばいになったまま、リビングからキッチンへと視線を向けた。明日は一週間で溜めたゴミやら埃やらの片付けをして、昼前には出立、今日が実質最後の一日だ。

 羽と両足をパタパタと動かし、アルトはゆっくりと瞳を閉じ、ひんやりとした白磁に押し付けられた胸に意識を集中させる。

 思い出されるのはここ数日間の話。スイカ割りでは貴美が何故か釘バットを持参していたこと、調子に乗ってみんなで一つずつ割ったら、大量のたたきつぶされたスイカが出来てしまったこと。都合四つ分のスイカは、近くで遊んでいた家族連れに振る舞った。会話には参加できなかったが、大人数で騒ぎながら食べたスイカは格別の味だった。良夜が納豆を食べられないと言うことも知った。毎朝、回りの三人が食べているだけで良夜はげんなり、挙げ句の果てに美月は笑顔で「体に良いですし、美味しいんですよ」と食べさせようとする始末。しばらくはその話でからかえるだろう。夜中にトイレに起きた直樹と素っ裸でご対面というハプニングもあった、直樹は気がついてなかったけど。もちろん、貴美の背中にバカと書いた騒ぎは一番の思い出だ。

 楽しい時間は思い出と寂しさだけを置きみやげにし、あっという間に過ぎ去ってゆく。

 瞳を閉じたまま、彼女はこの何日かの間にあった出来事を一つ一つ、噛みしめるように思い出を心の奥に整理していった。そうしているうちに、自然と唇は動き始める、静かな曲調を奏ながら……

 奏でられる曲は恋人との逢瀬が終わった朝を歌うジャズバラード、アルトお気に入りの一曲だ。

 四分に満たない時間もあっという間に終わりを告げ、それすらも思い出と呼ばれる物に早変わり。

『今日で終わり……今日は何があるのかしら……』

 アルトは心の中でつぶやき、ゆっくりと瞳を開いた。

 ら、そこにこちらをぼさーっと見ている良夜の間抜け面があった。

「何見てるの!? このロリコン!!」

 彼女の手にストローが肉に食い込む感触が響いた。


 昼の内、良夜達はダラダラと過ごした。例の『バカ』を気にして貴美が海に出掛けたがらないという理由もあったが、一番の理由は遊びすぎた疲れが全員の体に重くのしかかっているからだ。直樹は貴美の膝を枕に熟睡しているし、その枕も直樹の頭を抱え込むように夢の中。美月は美月で、雑誌を広げたままテーブルで船をこいている。

 別荘の中はやる気のない空気にみたされていた。

「だれてるわね……」

 そうアルトに呆れられた良夜も、ソファーに寝転がってワイドショーの番。眠たそうな顔で、やれ芸能人が結婚しただの、別れただの、とりとめもない話題を見て過ごしていた。

「もう! みんな、若さがないわよ! それでも十代なの!?」

「……あの人、二十一」

 小声で囁いた良夜が指さした先には、ファッション情報誌の上に涎を垂らしている二十一歳が居た。

「……精神年齢は確実に十代よ」

 こんな感じで昼間の時間をだらけきって過ごした五人は、少し早めの夕食を取って、祭りの会場となっている公園へと繰り出した。ちょっとした山の上にある広めの公園、そこの中心にはちょっとしたステージが組まれ、カラオケ大会やミスコンが繰り広げられていた。

 回りを歩く女性、その大部分は浴衣姿だ。しかし、良夜達の中で浴衣を着ているのは、その艶姿を良夜にしか見て貰えないアルトただ一人。他の二人、貴美と美月は着付けができないと言う事で今回は持参していない。そもそも、貴美の浴衣は未だ実家に眠っている。

 アルトの着ている藍色の地に白い朝顔が描かれた浴衣は、大昔、和明の妻だった女性が自身の浴衣の端切れから作ってくれた物。数多くの服の中でも彼女が一番大事にしている一着を、アルトはこの時のために用意していた。

『金髪に藍色の浴衣というのも似合うわね』

『太ってる真雪には似合わないわね、浴衣』

『あら、今はボインって言うのよ。アルト』

 もう何十年も前にしたやりとりを、アルトは良夜の頭の上で思い出していた。相手は喫茶アルト初代フロアチーフにして、和明の妻、真雪。彼女は夫同様、アルトを見ることの出来る数少ない人、だった。人並み以上に胸があるところも、茶色がかったショートヘアーと瞳も孫の美月には余り似ていない彼女は、事ある毎にアルトを店の外へと引っ張り出してくれた。春に良夜を連れて見に行った桜の古木も、彼女が教えてくれたところ。

 この浴衣をくれたときも揃いの浴衣を着た彼女は、アルトを頭に乗せて隣町のお祭りに連れだした。

『ほら、綿菓子食べましょ。それともリンゴ飴?』

 回りの目も憚らず、彼女は頭の上に座るアルトに二つの食べ物を差し出して見せた。

『さっき、たこ焼き食べたからお腹一杯よ!』

『じゃぁ、私が全部食べるわ』

『……食べるわよ、私も』

 余りにもあっさりと引っ込める真雪に、アルトが顔色を変えた。すると彼女はにっこりと微笑んだ。ああ、そう言えば、こういう時の笑みは美月に似ているかも知れない。

『おじさん、これ、何? こっちのは? 当りくじ入ってるの?』

 人の波の中で泳ぎながら、真雪は目に入る屋台、全てに首を突っ込んではテキ屋のおじさん達と楽しげな会話を交わしていた。

『知り合い?』

 余りにも楽しげで、物怖じせず話しかける姿に、アルトは思わずそう聞いてしまうほどだった。

『客商売同士、気が合うのね。きっと』

 彼女はそう言って、また、別のテキ屋と話しては、新しい戦利品を購入した。何軒も回るうちに、手には多くの食べ物達、その全てをアルトに食べさせたり、自分で食べたり。

『良いのかしら……和明、一人にお店任せて……』

 二人が屋台を見て回っているその時も、喫茶アルトはまだ営業中。当時は他にバイトも居なかったから、働いているのは和明一人。少し多めに客が来れば店が回らなくなる。

 真雪の頭の上で、アルトは真雪から貰った綿菓子を食べながら呟いた。

『良いの良いの、たまには女同士のお出かけもしなきゃ』

 そんなアルトの心配をよそに、真雪はリンゴ飴をかじりながらうそぶいた。

『……たまじゃないと思うわ』

 綿菓子をほおばり、アルトは小さく嘆息した。

『あれ、そうかしら? 良いじゃない、どうせ夏休みでお店暇なんだから』

『……それもそうだけど……一人で大丈夫なのかしら?』

 二人の頭上には、今の街中では考えられないほどの星空。もう少しだけ暗ければ、天の川まで見られたかも知れない。こんな星空と賑やかなお祭りの喧噪を見ていると、まあいいか、と言う気になってくるから不思議なものだ。

 その星空に一発の花火が舞い上がる。天高く舞い上がった花火は、大輪の花を咲かせ、流星のように尾を引きながら消えてゆく。それを真雪が見上げ、真雪の額の上からアルトは見上げた。

『今は今しかないんだから、楽しまないと損よ』

 夜空に一瞬だけ咲く華を見上げ、真雪はアルトにそんな言葉を言った。花火の轟音と人々の歓声の中で聞いたその言葉は、何十年と経った今でも、アルトは良く覚えていた。

 

「アルト! まな板妖精!」

 美月どころか彼女の親すら生まれていなかった時代からアルトは、良夜の声で引き戻された。

「……あっ、良夜……」

 現在位置が判らず、アルトはキョロキョロと回りを見渡した。お尻の下にあるのは茶色がかったショートヘアーではなく、真っ黒い髪。しかも、回りは真っ白いタイルに和式の便器、トイレに連れ込まれたのか、と思うとアルトは小さな目眩を覚えた。淑女を連れてくるような場所じゃない。

「お前、寝てたのか?」

 アルトの思いも知らず、良夜はヒョイと彼女の体をつまみ上げ、彼自身の目の前に運んだ。その顔がほんの少しだけ心配そうに見えたのは多分気のせい。そう言うことにしておく。

「……ごめん、昔のこと……思い出してたら、いつの間にか寝てたみたい……」

「たっくぅ、えらい静かだから、どうしたのかと思ったぞ」

 そう言うと、良夜はポイと彼女の体を宙に投げ捨てた。トイレの壁を一度蹴り、小さくトンボを切って良夜の頭に着地、と、少し派手なアクションに浴衣の裾が乱れた。

「久しぶりに浴衣なんて着たから……かしらね。真雪のこと、思い出してたわ」

 乱れた浴衣を直し、『誰?』と聞く良夜に彼女のことを少しだけ、和明の嫁で故人だと言うことだけを教えた。

「それより、他の三人は?」

 もう一度見渡しも、三人の姿はどこにも見えない。見えるのは冷たいタイルと便器だけ。色気のないこと甚だしい。

「便所って言って置いてきたよ、それと花火の場所取り」

「……良夜、私と話があるとき、いつもその言い訳ばっかりね。便秘か下痢だと思われるわよ、他の言い訳考えないと」

「頭悪くて悪かったな。ほら、綿菓子。食う食うって言ってただろう?」

 ビニール袋に包まれたままの綿菓子が、アルトの目の前に差し出された。

「……ここ、トイレよ?」

 アルトの言葉に良夜は周囲をきょろきょろと見渡した。

 それに合わせるかのようにアルトも辺りを見渡す。

 清潔そうな真っ白いタイルに、水洗式の便器も汚れていない。祭りの会場と言うこともあって、あらかじめ掃除がなされたのかも知れない。

 だから、奴が次に言う言葉は解っていた。

「……別に汚くないぞ」

「汚いわよ、十分!」

 ぷいっ! とそっぽを向くついでに数本の髪を引き抜いておく。イテッ! と小さな悲鳴が聞こえたが、デリカシーのない男には丁度良い。

「誰もここで食えって言ってないのに……」

 ブツブツと言いながら、良夜はアルトを頭に乗せ、トイレを出た。そこはあの日と同じ、屋台の並ぶ祭り会場。どっぷりと日も暮れ、空には満天の星空。

 あの時と……さっきまで思い出していた時と同じロケーションがここにもあった。

「……懐かしい……」

 不意に零れた言葉は、自分でも驚くような物だった。

「えっ、なんだ?」

 美月達の元へと急いでいた足が止まり、彼の視線がアルトの居る自分の頭へと向けられた。

「ううん、なんでも……ほら、外に出たんだから、綿菓子! それと、さっき、不穏当な発言を聞いたような気がするんだけど?」

 なんだと聞かれても、自分だってなんで懐かしく感じたのかわかりはしない。お祭りの場だと言っても、立ち並ぶ屋台はよく見れば全くの別もんだし、空はもっと澄んでいたような気がする。強いて言うなら……祭りという空気が似ていたのかも知れない。

「気のせいだよ。ほら……好きなだけ食って良いぞ」

 髪を引っ張りアルトが催促をすると、良夜は袋の中から真っ白いフワフワの綿菓子をアルトの前に差し出した。それをストローで切り取り、そのストローの先端に突き刺す。綿菓子は棒に刺さってなきゃ、と言ってこうする方法を教えてくれたのも、真雪だった。彼女は祭りに来ると、綿菓子を食べなければ気が済まない女性だった。その所為で、と言うわけでもないが、アルト自身も綿菓子を食べないとお祭りに来た気分にならない。

 再び、良夜が歩き始めると大勢の人の中で、美月達三人が大きく手を振っているのが見えた。

「りょーやん、遅い! もう、一発目あがんよ?!」

「良夜君、早く早く!」

 タカミーズの二人が大きな声で良夜の名前を呼んだ。その隣では美月が微笑みながら、彼女の左肩を右手でポンポンと小さく叩いていた。

「良夜、私、美月の方に行くわね」

 返事も聞かず、良夜の肩からアルトは大きく羽ばたき、もう一度、美月の顔を見た。真っ黒く長い髪、貧相な胸、やっぱり真雪には似ていない。でも、笑顔はやっぱりどこか似ている。

 アルトは美月の肩に止まり、彼女の長い黒髪を軽く引っ張った。

 美月の視線がアルトの顔を捕らえる。そして、見えていないはずなのに見えているかのような笑み。

『真雪、私は今でも今しかな今を思いっきり楽しんでるわよ。逝っちゃった貴女の分もね』

 一発目の花火が宙に舞い上がり、星空に一瞬の新たな星を生み出していく。それを見上げアルトは心の中で、もうこの星空の下、どこにも居ない親友へと語りかけた。


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