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海と空で(7)

 人は誰しも背中に罪という名の荷物を背負い、長い道を行く旅人である……と、文学的に語ったところで、現実問題として気が強くイジルのは大好きだがイジられるのは大ッ嫌い、と言う難儀な恋人に『バカ』二文字を背負わせた青年とその友達にとって、なんの気休めにもならない。

 良夜は貴美に適当な理由を言うと、直紀をトイレの裏へと引っ張り込んだ。

「いわゆるあれか? 『むしゃくしゃしてやった、今は反省している』」

「概ね……そんな感じだと思います」

 海水浴客でにぎわう海の家、そのすぐ裏にある汚い仮設トイレ。良夜と直樹が連れションと言出すと貴美は無邪気に『一緒のベッド使ってるんだから、こんな所でしなくても……』などと腐女子脳をフル回転させた軽口を叩いてた。どこまで本気なのやら……

「絶対にキレるぞ……吉田さん」

 キレて直樹を折檻するだけならともかく、そのとばっちりが良夜にまで飛んでこないという保証はどこにもない。

「いや……去年、似たようなことをされたことを思い出したら……つい」

「何を?」

「背中に貴美リーブ……カツラじゃないですよ?」

 直樹がトイレの横にしゃがみ込むと、良夜もつられるようにしゃがみ込んだ。直樹の細い指先が砂に刻むのは『TAKAMI LAVE』の文字。英語が不得手な良夜にはその言葉の意味は解らないが、おそらく『TAKAMI LOVE』と書き間違えた……というわけではないと思った。貴美の英語の成績は決して悪くはない。LOVEをLAVEと書き間違える可能性は低い。むしろ、間違えたと見せかけて、ちゃんと意味を持たしている。そして、間違えたと指摘した人間を弄るための釣り餌と見るべき……

 そんな良夜の心の動きを察したのか、直樹は小さなため息をついて、その文字の意味を良夜に教えた。

「貴美が洗い流します、って意味らしいです……」

「……滅茶苦茶意味深だな……」

 この『貴美が洗います』のお言葉は、夏休みがあけて最初の体育の日までばっちり残っていた。高校生の群れにそんな大体発言を背に放り込まれた直樹の苦労はいかばかりのものだったか……

 当時のことを思い出したのか、直樹はガックリと両手を熱い砂の上に押し付け、自らが刻んだ文字をかき消した。

「その仕返しか?」

「そのつもりはないんですけど……出来心?」

 直樹は良夜の顔を見上げて首をひねった。ペタンと地面に正座し、砂を握りしめているさまは、まるで良夜が謝らせているかのよう……正直、ちょっと可愛い……と、思ったら負けなので思わないように努力する。

「……俺に聞くなよ。まあ……まだ、三日も四日もあるんだ。そのうち消えるよ」

「そうですか……消えますかね?」

 まだ、彼の表情は硬い。不安そうな顔で突いていた手を挙げると、握りしめていた砂をぱらぱらとその手の中からこぼす。この砂が全ての元凶。こんな砂がなければ……その思いは直樹も良夜も同じもの。

「ああ、まだ、二日目だぜ? あと四日もいれば、虫取りに忙しい小学生みたいに焼けるって……おっ……お似合いのカップル」

 お互いにしゃがんでいても、良夜の方が少しだけ背が高い。良夜は直樹の目を少しだけ下に見ながら、直樹の小さな頭をクシャクシャとかき混ぜた。

「あの……それは一体どー言う意味ですか? いくら僕でもちょっとはムッとするんですよ?」

 良夜のフォローと冗談に直樹の強ばっていた顔も緩んでいく。そう、まだ二日目も半ばが済んだところ。これからいくらでも日焼けは進行するに違いない。すぐに消える、二人は自らに言い聞かせるよう、心の中で何度もそう呟いた。

 が、甘い。

 良夜が直樹との密談を終わらせ、ビーチパラソルの下へと帰ってくると、シートの上で胡座をかいて座る貴美がその背中をみづきに向けていた。鼻歌交じりに貴美の背中に手をこすりつけている美月、その隣ではアルトも同じように小さな手を貴美の背中にこすりつけていた。……日焼けと言えば、アルトの背中、見事なまだら焼けになっている。きちんと日焼け止めが乗らなかった部分だけが赤く焼け、まるで牛かシマウマ。

「お帰り、早かったね……早いと嫌われんよ?」

「なんの話をしてるんですか!」

 恋人のアホな言葉を大声で否定し、直樹は貴美の隣へと腰を下ろした。そして、ふと視線を動かせば、彼の顔が凍り付く。

 その様子に良夜の視線も直樹と同じ所へ……それは貴美の背中(バカの刻印アリ)の上で動く美月の手、その手が塗っているのはサンオイルではなくサンシェード、日焼け止めだ。

「あっえっ?! うっ……みっ美月さん、それ、日焼け止めクリーム……だよね?」

 基本的には一歩引いた一を立場としている良夜は、完璧に凍り付いた直樹よりも一瞬早く凍り付いた時の中から帰還することが出来た。

 危うく大声を上げようとする口を、強靱な意志の力で押しとどめ、それが日焼け止めクリームの瓶に入ったサンオイルでないことを確認した。

「はい、そうですよ。直樹くんがいらっしゃらなかったので、僭越ながら私が塗らせていただきました」

 ニコニコと笑いながら、美月は荒れた手のひらをバカと染め抜かれた背中にこすりつけていた。その手にはべったりと大量の日焼け止めクリーム。午前中塗れなかったオイルの敵を、日焼け止めクリームで討つ……そんな敵、討たなくても良いのに……

「うん、そだよ。なんか、朝の間だけで良い感じに焼けちゃってさ。これ以上焼くと、乳と脳みそ反比例なバカ女子大生みたくなっちゃうじゃん?」

 健康美をかもし出す小麦色の背に真っ白い「バカ」の刻印を刻み、貴美は「私はそう言うバカ女子大生じゃないんよ」などと上機嫌。バカ二文字を背負って気付いてないバカが他人をバカと言っている、その事実に良夜は吹き出しそうになる。

「なんよ……そりゃ、私はバカだけど、見た目だけは大事にしたいんよ?」

 何とも言えない表情で背中を見つめる良夜を、貴美は僅かばかりに誤解し、良夜の顔を斜め下から見上げた……いや、今の貴女の見た目が一番バカだよ。等と心の中で思っていたりする第三者。

「でもまあ、もうちょっと焼いた方が綺麗なんじゃないのか?」

 立っていた良夜も直樹の隣に腰を下ろし、固まったままの直樹の横顔越しに貴美の目を覗き込んだ。顔も良い感じで小麦色、確かにこれ以上焼けば繁華街をウロウロしてるコギャルっぽく見えるかも知れない。

「うーん、そう? 女に縁遠いりょーやんに言われてもねぇ」

 軽く首をひねって自分の手足や背中の方にまで視線を向ける貴美。その様子に直樹が更に固まり、良夜もヤバッ……と呟いた。まあ、さすがに首が百八十度も回ることはないから、彼女に自分の背中を見ることは出来ない。精々、小麦色に焼けた肩口を見るのがやっと。それでも直樹の寿命は確実に数分、良夜でも数秒は縮まった。

 そんな男二人の思いなど知るよしもなく、その辺りを見渡した貴美は「もっと焼いた方が良いかな?」と恋人に意見を求めた。

「えっ?! あっ、ぼっ僕ですか!? 僕は吉田さんでしたら、どんな見た目でも大好きですから! 好きにしてください!」

 反射的に答える直樹、普段ならば百点満点と言っていい受け答えだろう。

 しかし、この場合、もっと焼けてる方が良いって言えよな、この馬鹿野郎。良夜はあたふたと言葉を返す直樹とその直樹の言葉に顔を朱色に染める貴美を見ながら、心の中で毒を吐いた。

「えっと……うん……あんがと……でも、ほら……ね、遊んでる風には見られたくないから、今年はこれくらいで良いよ……」

 不意打ちめいた大好きの言葉に、貴美はしどろもどろになる。ほほえましい恋人同士の風景も恋人が刻んだ背中のバカ二文字で台無し。

「でも、たった半日で綺麗に焼けましたね。私なんか、いくら焼いても真っ赤になるだけで、全然焼けないんですよ」

 背中全面にクリームを塗りおえた美月が、ウンウンと大きく何度も頷きながらその背中に声を掛けた……が、恋人と二人だけの世界を作っている貴美は聞いちゃいない。

 こりゃ、ばれた時は血の雨が降るな……良い天気なのに。ビーチパラソル越しに見上げる太陽は、紫外線をたっぷりと含み、薄いビニールを透かしてみてても目が痛くなってしまうほど。その隣には巨大な入道雲……あの入道雲が降らせる夕立は血の色をしているに違いない。

「安心しなさい、良夜。なんのために私が日焼け止めを貴美の背中に塗ってたと思うの?」

 絶望的な気持ちに血の雨を楽しみにする不謹慎な心を混ぜ合わせ、良夜が太陽を見上げていると、その目の前にアルトがぴょんと飛び込んできた。

「……遊んでただけだろう?」

 ボソッと小さな声で呟く。自分が言った言葉に照れその上しまったと後悔する直樹も、直樹の言葉に照れまくっている貴美も良夜の声には気がついていない。

「それも否定しないわ」

 ……しろよ。

「美月が塗った日焼け止めをあの二文字の所だけ、日焼け止めじゃなくてオイルを塗っておいたから」

 そう言ってみせるのは、一枚のティッシュペーパー。何も考えずにベタベタとクリームを塗る美月に対し、アルトは美月があのバカ二文字の上にクリームを塗るたびに、その部分だけクリームを拭っていたと、彼女は説明をした。

「へぇ……気が利く……」

 感嘆の言葉が素直に良夜の口からこぼれ落ちた。

「ふふふ、このアルトちゃんに任せなさい」

 ポーンとオイルに汚れた手で胸を叩けば、その白い水着にシミが浮かび上がる。そして、軽く凹む。うん、相変わらずバカだ。

「それじゃ、ご飯にしましょう!」

 全員がそろい美月が宣言をすると、楽しい楽しいランチタイムが始まった。


 食事も終わり、良夜は貴美がトイレに立った機会を見付け、直樹に例の話をした。

「美月さんがちゃんとバカの所だけ、オイルを塗ってくれたんだってよ。安心しとけ」

「えっ?! 本当ですか?」

「はい?」

 パーッと顔を明るくし、直樹は美月の方へと顔を向けた。それに答えるのは美月のキョトンとした顔。そんな覚えはないのだから、美月がそう言う顔になるのも当然のこと。

「えっと……あれ?」

 美月が首をかしげるものだから、直樹も首をかしげる。向かい合って首をかしげあう二人。とても間抜けな構図。

 ザブ~ン……ザザザ~~~寄せては引く波の音、それが十回ほど繰り返された。

 はあ、とため息をついたアルトが美月の右肩に乗って髪をクイクイと数回引っ張り、良夜が自分の右肩を指し示すのを見て、美月はようやく気がついた。

「ああ、はい。そうなんですよ! あの部分はちゃーんと日焼けで消えるようにしてあげたんですよ! 知ってましたか?」

 パンと大きく手を叩き、美月は直樹の不審そうな表情を消す努力をした。てか、この人、あれだけベタベタ貴美の背中を触っておいて、あの『バカ』二文字のこと、綺麗さっぱり忘れていたのではないだろうか? 慌てた様子で美月が紡ぐ言葉を聞くにつれ、良夜はその不安を抱かずには居られなかった。

「はい、良夜君に教えて貰いましたから。はい、本当にありがとうございます!」

 正座していたものだから、美月相手に土下座しているような感じ。それを美月はえっへんと胸を張って見下ろしていた。高くなった美月の鼻に、良夜はおいおいと心の中で突っ込みを入れる。貴女は彼女の背中にクリームを塗って幸せになっていただけでしょーが……と。

 後、直樹、あっさり騙されすぎ。疑うことを覚えろ。

 それから数分も経たないうちに、貴美が帰ってきた。もう少し早ければ、美月と直樹が首をかしげて見つめ合っている様を彼女に見られたかも知れない。やばいやばい。

「たっだいま~いやぁ、トイレから出て来たらさ、声掛けられちゃったんよ。なお、妬く?」

「えっ……ああ、そりゃ……でも、ちゃんとすぐに帰ってきましたから」

 未だ少々の堅さは抜けきるものでもないが、美月の――実際にはアルトの――配慮のおかげで、彼は普段通りに貴美との会話を続けられるようになっていた。

「そっかぁ~じゃぁ、もうちょっと、何処かで時間、潰してきても良かったよね」

「迷子になったのかと思いますよ」

「でもさ、一言『彼氏いっから』って言って後ろを向いたら、それ以上なんも言わんかったんよ? なんか、情けないよね」

『そりゃ、背中を見れば誰だってそれ以上声は掛けたくなくなるって……』

 その場にいる全員、直樹本人までもが心の中で突っ込みを入れた。

「りょーやんもさ、女に声を掛けるときはちょっとくらいは押しを強くせんと、いつまで経っても一人もんだよ? まっ、私はなお一筋だから、押しても無駄なんよ」

 ……そっとしてあげよう、誰もそう思った二日目の午後だった。


 で! あっという間に二日目の海はあっという間に終了。午後からはタカミーズも海に入って泳いだり、ビーチバレーをしてみたり、美月がナンパされかかったりと、それはそれは楽しいひとときを五人は過ごした。

 夕方の五時過ぎになり、一同は貸別荘に帰ってきた。

 ここでトリビア。紫外線の量は午後二時にピークを迎えます。貴美を筆頭に五人はこの時間もしっかり浜辺で遊びまくっていた。

 すると、どうなるだろうか……

「おふっろ、おふっろ~」

 ノリノリで脱衣所にやってきた貴美、未だ美月が下着姿だというのに、気にする様子もなくばさばさと服を脱いでいく。

「もう、ここ、二人で脱ぐと――」

 しゃがんだお尻に貴美の服が当たると、美月は困ったような怒ったような顔をしてた髪の背中へと視線を向けた。

「――ああっ!!!???」

「良いじゃん、女同士……どったの?」

 小麦色に焼けた背中の上で、焦げ目のように浮かび上がるのは『バカ』二文字……しかもそれは、白抜き文字だった頃よりも遥かに目立ちまくり。

「なっなんでもありませーん!! わっ私、ちょっと!!」

 バタバタと下着姿で美月が脱衣所を飛び出すと、リビングから良夜と直樹の叫び声が遠くに聞こえる。

「……なお、見てたら折檻しちゃる……」

 もっと酷い折檻の理由があることに、貴美は未だ気付いては居なかった。

 風呂場の明かり取りからは、夕焼けのまぶしい光。貴美はそれを体一杯に受け止めながら、背中の日焼け跡の心地よい痛みを冷ためのお風呂の中でゆっくりといやした。

「明日はスイカ割りなんか良いなぁ……」

 白い乳房を湯船に浮かべ、貴美は幸せそうに瞳を閉じた。遠くリビングから聞こえる三人の声をBGMにして……


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