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海と空で(6)

 怒濤の初日も終わり、翌日、二日目。美月が水着まで脱ごうとしたとか、それに一番慌ててたのは貴美だったとか、アルトの脱ぎ癖は相変わらずだったとか、男同士ダブルベッドに貴美が異常な興奮を見せたとか、些事がなかったとは言えないが、概ね平和な夜だった。

「ダブル二部屋って何考えてるんだろうな……ここの経営者」

「男女四人に対する配慮らしいわ」

 と、アルトが良夜に教えて、二日目の開始。


 二日目の予定も当然海水浴。美月と貴美、それに良夜も少々の手伝いをして作ったランチボックスを持って五人は、前日と同じ海水浴場へと繰り出してきた。手乗り妖精のアルトの名前がないのは当然として、直樹の名前がないのは『キャベツを剥がして洗う』という作業をさせたところ、キャベツをべりべりに破いてしまったから。彼の指先は機械を弄っているときには器用に動くが、家事をさせると途端に動かなくなる、とは貴美の評価。

 昨日に引き続き、三十度を大幅に超えてきた海水浴場。良夜達は混み始めた浜辺の一画を、ビーチパラソルやレジャーシートで占領した。昨日よりも幾分時間が早いおかげで、キープできた場所は波打ち際に近い良いポジション。シートの上に置かれるのはランチやジュースがたっぷりと入ったクーラーボックス。ジュースは海の家でも売ってるけど、それは高くて薄いのでスーパーの安売りジュースと手作りブレンドで十分。作戦立案はケチンボの貴美、美月がそれに喫茶アルトから特製ブレンドを持ってきてそれをフォロー。朝から喫茶アルトのブレンドアイスコーヒーを飲めて、アルトもご満悦。

 ビーチパラソルを立てたり、レジャーシートをひいたり、荷物を運んだりしているだけで汗がにじみ、いい具合に準備体操の代わりになる。泳ぐか、と良夜が波打ち際へと足を向けると、貴美はひいたばかりのシートの上へと腰を下ろした。

「今日はとりあえず、背中を焼こうかな、と思うんよ」

 昨日の時点で、貴美の肌は随分と焼けていたのだが、今日は本格的に焼くつもりらしい。彼女は昨日のアルトがしていたかのようにどろっとした液体を自分の手足や胸元へと入念に塗り込んでいた。アルトと違うのは、塗っているのが日焼け止めクリームじゃなくてサンオイルだって事と、濡れない背中を素直に他人に塗らせようとするところ。

「はい、続きはお願い」

 黄金色の液体が入った小瓶を直樹に突きだし、貴美はそのしなやかな四肢をレジャーシートの上へと投げ出して寝ころんだ。茶色い癖っ毛は巻き上げられ、余り焼けていないうなじが白くまぶしい。

「僕がするんですか?」

 思わず受け取ってしまったが、直樹はそのボトルと貴美の背中を何度も見比べ、照れているような顔で不平の声を上げた。

「他に誰がいんよ? りょーやん? 恋人の素肌を他の男に触らせるなんて……なお、サイテー」

「では私が……」

「私でも良いわよ」

 美月とアルトがほぼ同時に立候補。しかし、組んだ手に頬を押し付けた貴美は華麗にスルー、アルトの方は聞こえてないけど。そして、右目だけで恋人の顔を見上げた。

「だっ誰もそんなこと言ってないじゃないですか!」

 ついでに直樹も美月とアルトをスルー……タカミーズ二人に華麗にスルーされた二人がみるみる不機嫌になっていく。

「じゃぁ、塗りなよ」

 慌てる直樹を尻目に、見上げていた目を閉じた貴美は、気持ちよさそうにその肌を大輪の向日葵のような太陽に晒した。

「私の背中が焼けすぎたらなおのせい」

 両手の上に額を置き、貴美は直樹の顔も見ずにそう言った。ひく気はないし、直樹が塗らないとこのまま焼いてしまう気満々、ある意味立派。

「もう……判りましたよ。塗れば良いんでしょ、塗れば」

「そうそう、塗れば良いんよ……興奮しちゃだめだよ?」

「しません!」

 細い紐がバッテンしているだけの背中に、直樹の小さな手が行き交う。手の持ち主の顔はいい感じに真っ赤。触り慣れてるだろうに……と触り慣れてない良夜は思ったりする。

「お付き合いしているのは知ってるんですけど……ここまで無視されるとカチーンと来ませんか?」

 キュッと小さな音を立てて髪を結び終えた美月が、その頬をちょっと膨らませた。本気で塗る気だった模様。

「想像して萌えた?」

 肩の上で余計な一言を言うアルトの額を軽くデコピン。額を抑え「図星だったわね」と呟いた言葉は無視ぶっちぎり。

「じゃぁ、俺ら泳いでくるぞ」

「へいへーい、荷物の番は二人で適当にしてっから」

 貴美が気の抜けた返事をするのを聞いて、良夜、美月、アルトの三人は高い波の来る波打ち際へと歩いていった。


「それじゃ、今日も泳ぎましょう!」

 ジャバジャバと海に足を入れる美月、今日はその右腕に大きな浮き輪が抱えられている。昨日の泳ぎっぷりが余りにも下手くそだったので、半ば強制的に押し付けられた品。

「ちゃんと泳げるんですよ? 二十五メートルプールの端から端まで泳げるんですから」

「二十五メートルプールを横じゃなくて、縦に泳げるようになってから泳げるって言い張ってください」

「むぅ……アルトが告げ口するから……」

「泳いでるところ見てれば判りますから」

 泳いでるところと言うか、溺れているところと言うか……最大限譲歩しても、もがいてるうちにいくらか前に進んだ、と言うのがやっとなのが、美月の泳ぎっぷり。

「大体、息継ぎできない癖に泳げるなんて言わないで欲しいわね」

「と、アルトも言ってます」

 口々に責められ、美月はちょっとふくれ顔。脇の下に浮き輪を入れるとバタ足で沖の方に向かって泳ぎ始めた。背後から見るとまるで子供。一生懸命バタ足をしているようだが、その速度はアルトが飛ぶよりも遅い……訂正、ほとんど進んでいない。バタ足の「バタ」が「ジタバタ」の「バタ」になっていた。

「どーせ、私はカナヅチなんですよ。カナヅチ美月です、英語で言うならはんまーびゅーてぃむーんですぅ」

「最後の一つ、訳解らないんですけど……」

「レオタードで戦ってる中学生の親戚みたいね」

 良夜も今日は浮き輪を借りてのんびり。一生懸命バタ足をしつつもほとんど動かない美月の横に浮かんでいた。アルトはアルトで……

「なあ、お前、何をしてんだ?」

 良夜の浮き輪に釣り糸を巻き付け、それを握っている。釣り糸の調達先とかは聞いてはいけない。どうせ、聞いても教えてくれない。

「水上スキーごっこ。ほら、良夜、泳ぎなさい。全速力で」

「アホ抜かせ。今日はのんびりするんだよ」

 良夜が泳がないものだから、彼女の握っている糸はダランと垂れたまま。それでも彼女は羽をパタパタと動かし、海の上に立っている振り。足下が木靴なのは新しいタイプの水上スキーか? 世の中には裸足でやる人もいるらしいが……

「若さが足りないわね。十代なら、あの島まで全速力で泳ぎ切ってもへっちゃらだぜ~的な有り余る体力を見せて欲しいわ」

 ピッとアルトのストローが指さすのは十キロほど離れたところにある小さな無人島。その手前にはヨットの姿が見えてるんだから、結構な水深がありそうな雰囲気。

「若さでどうにかなる距離じゃねえぞ」

 ボートのフォローなしに泳げる距離ではない……と、良夜は思った。海と言えば、通学途中に眺める程度にしか馴染みがないんだから、遠泳なんてやったことがない。浮き輪があっても確実に死ねる距離だ。

「気合い?」

「気合いでも無理」

「じゃぁ……欲望」

「どんな欲望だ?」

「あそこまで行けたらキスしてあげるわ。もちろん、ほっぺた」

 アルトの中指と人差し指が彼女自身の唇を軽く押さえ、続いて、良夜の頬へと押し付けられる。海水で濡れた指先は少しひんやり。

「……お前のキスは滅茶苦茶高いよな」

 前にして貰ったときは美月と二人で二万もするようなドレスを買ってやったとき。その時のことを思い出すと、今でも懐が寒くなる。

「当たり前じゃない、淑女の唇よ。高くて当たり前だわ」

 再び自分の唇を押さえた二本の指が、今度は良夜の唇を押さえる。そして、そのままペチンと良夜の鼻を叩いた。

「へいへい、そんな高価な唇を貰うわけには行かないよ……って、美月さん、ホント、全然、進んでませんね?」

 アルトとのアホな会話を打ち切り、先ほどからずーっとジャブジャブ言わせている美月へと良夜は視線を移した。移す先は真横から三十度くらい前方。五分ほど経ったはずなのに進んだ距離は四捨五入しても十メートルに達しない。

「はい? すごーく進んでません?」

 上下に動き、水しぶきで虹を作っていた足が止まり、彼女の濡れた顔が良夜とアルトの方へと振り向いた。アップにまとめていた髪はいつの間にか解け、彼女の顔と言わず首筋と言わずそこら中に張り付き、ちょっとした和風幽霊のおもむき。

「あの、俺との距離、覚えてません?」

「うーんっと……てっきり良夜さんも進んでいるものだと……」

 完璧に泳げている物と思いこんでいる美月に、良夜は言葉を失った。

「どちらかというと……浜に戻ってるわね。満ち潮なのかしら?」

 振り向くアルトに釣られて良夜が振り向けば、良夜に釣られて美月も振り向く。確かに言うとおり、心持ち海水浴客でにぎわう浜辺が近くなっているような気がする。それに、つま先が触れるそこもさっきまでよりも確実に近くなっている。

「まっ……沖に流されたら洒落で終わらないから……こっちの方が良いよな」

「大丈夫ですよ、流されても。ちゃんと、泳いで戻れます! 浮き輪もあるんですからっ!!」

「美月さん、その無意味な自信はどっから来るんですか?!」

「……大体、流されたらまともに泳げる人だって帰って来れないわよ」

「と、アルトも言っているので十分気をつけてください」

「むぅ……良いです。私は一人で泳ぐんです」

 ふくれた美月はジタバタ足を再開。進む方向はますます浜辺向き。二日目もひとまず平和に進んでいた。


 美月のジタバタ足は非常に体力を消耗したようで、彼女の無駄なあがきが三十分も続くとあからさまに息が切れ、ぜーぜーという洗い呼吸音を発し始めた。憔悴しきってはいるが満面の笑顔で「大丈夫なんですよ?」と言い張る美月を、良夜は強制的に浜へと引っ張り上げようとした。浮き輪にロープが付いていたので運ぶのは簡単、疲れ切っているので抵抗もあまりない……どころか、浮かんだまま引っ張られるという行為に彼女はご満悦。美月が気持ちよさそうなので、アルトまでも同じ事を要求し始める始末。

 そして、要求されれば、やらざるを得ないのが良夜の生き様。それも五往復。終わる頃には膝が大爆笑というか、膝がカクカクし始めたから、美月にお願いして辞めていただいたと言ったところ。物足りなさそうな顔をしてる彼女が素直に怖かった。

 そう言うわけで泳ぎ始めて一時間ちょい。良夜はへろへろになった体を引きずり、ビーチパラソルの元へと帰還した。

「よっ……っと、なんだ、二人とも熟睡かよ……」

 三人がレジャーシートの所にまで帰ってくると、二人は背中を上にして気持ちよさそうな寝息を立てていた。一応、荷物番という役割もあるのだが、全く同じ姿で熟睡している二人に、そんな役割を期待する方が無理。三人はお互いの顔を見合わせ、苦笑いを浮かべると、思い思いにビーチパラソルの下へと腰を下ろした。

「良夜さん、コーヒーで良いですか?」

「ああ、頂きます。アルトも飲むだろう?」

 魔法瓶のポットから美月がアイスコーヒーを紙コップへと注ぐ。いつものウェッジウッドとは違う使い捨ての紙コップ、入れ物は全然違うが、味はいつもと同じ。良夜は美月からそれを受け取ると、海水の味が残る喉へと無造作に流し込んだ。

「……それより、良夜。これ、大丈夫なのかしら?」

 アルトが指さすのは、いい感じに焼け始めた貴美の背中。そこには砂で書かれた『バカ』の文字。

「げっ……直樹の奴……定番過ぎることやってるぞ」

「どうかしました? ……えっと……こんなことしちゃったりしまして」

 美月はその辺の砂を握ると、貴美の背中に『ウシ』と書いた。……ウシってやっぱり、胸の話なのだろうか? 良夜は美月と美月の書いた文字を何度も見比べるだけで、それを確認する勇気はなかった。

「みっ美月さん!?」

「あはは、冗談ですよ~」

 パンパンと美月がその「ウシ」の文字を払うと、「バカ」の文字もちゃんと落ちた……訳だが、『ウシ』の方はともかく『バカ』の方は薄くだがしっかりと日焼け跡として残っていた。小麦色の背中に白く浮かび上がる『バカ』二文字。

「んぅ……うーん……ふわぁ~……あれ、りょーやんと美月さんじゃん……もうお昼?」

 頬に手の跡を残した貴美がむっくりと体を起こした。そして、気持ちよさそうにぐーっと入道雲まで届かんかとも言うような勢いで、大きく背伸びを一つ。よっぽど熟睡していたのだろう、背伸びをしてもその目はまだ眠たそうな涙で濡れていた。

「えっと……はい、ご飯ですよ。直樹くんも起こしてくださいね」

 引きつる美月の笑顔は寝ぼけ眼に映ってない。貴美は寝ぼけたまま直樹の背中を大きく叩き、その日焼けの始まった背中に大きな紅葉を散らせた。

「おは……ッ!」

 目覚めた直樹に、良夜は貴美の背後から彼女の背中を指さしてみせた。それだけで全てを思い出す直樹、彼の顔からざーっと血の気がひく。

「……どうしたの?」

 何も知らないのは、背中のバカ二文字を背負った吉田貴美ただ一人。

 一番やばいところにやばすぎる地雷をしかけた四人の明日はどっちだっ!?


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