初デート……か?(3)
アルトのおかげで長い坂道を十キロ近い荷物を担いで上がる事だけは回避された。
しかも、長く美しい黒髪、二重の大きな瞳、小さな唇と顔、こぼれるような笑顔、どこをどう切り取っても『可愛い』という単語しか出てこない女性と、ほんのわずかな距離とはいえ、一緒の車に乗れる。それはもう、嬉しい、とんでもなく嬉しい出来事であるはず。はずなのだが……
(……これに乗るのか……)
彼女――三島美月、喫茶アルト店長三島和明の孫娘にして、喫茶アルトたった一人の店員の車を見た瞬間、良夜の思考は固まってしまった。可愛らしい丸み帯びたパステルカラーの軽四自動車。まあ、それは悪くはない。女性向けの車に女性が乗っているだけ。メーカーとしては嬉しい限りだろう。
が、この中身だ、問題は……
まず、全てのシートに掛けられたシートカバー。それは薄桃色の生地に小さなパステルカラーの妖精がいくつもプリントされた代物。さらに四枚のドアウィンドウには、吸盤で大小様々な妖精のぬいぐるみが貼り付けられ、ダッシュボードの上には控えめな小さなぬいぐるみが一つ、助手席側に置かれて居る。それだけならまだしも、リアシートに巨大な――控えめに見ても五十センチはくだらない巨大なぬいぐるみが二つ、どーんと置かれ、更にシートベルトまで締めている念の入りよう。男が乗るには、甚だきつい車である。
「あっ、浅間さん、荷物はこちらにどうぞ」
彼女の開いたハッチバックをのぞき込むと、そこにいらっしゃった妖精さんとも目があった。もう、妖精さんはアルト一人で十分です、お腹一杯です。
「あっ、ごめんなさい、この子、抱っこしててください」
「……えっ?」
言われるままにラゲッジスペースに荷物を積み込み終わると、彼女が大きな一つのぬいぐるみを良夜に手渡した。もちろん、それも妖精さんである。
度重なる彼女の意図せぬ攻撃に良夜の思考は完全にオーバーフローを起こしてしまっていた。
「助手席に居た子なんです」
彼女は、そう言うと、少し恥ずかしそうに、水仕事で荒れた指先で助手席を指さした。はにかむ笑顔がとてもかわいい。
「美月の妖精趣味は病気なのよねぇ。ちなみにこの車はスズキの『アルト』選んだ理由は『アルトと同じ名前だから』よ」
もはや、完全に他人事と言ったような口調で、アルトは良夜が抱きしめた妖精のぬいぐるみの上に腰を下ろした。
「良夜が抱っこしてるのが、ソプラノちゃん、後ろのが……フォルテちゃんとピアノちゃんだったかしら……私がアルトだから、全部、音楽用語にしてるらしいわ」
そんな言葉は、良夜の耳には届いてなかった。
お日様の香がするソプラノちゃんを強く抱っこしたままの良夜が、助手席に座ると、美月も運転席に座った。母親以外の女性が運転する車に乗るなど、小学校のおばさん教師に学校から家まで送ってもらって以来である。それなのに、良夜の腕の中には可愛い可愛いソプラノちゃん。夢も希望も萌えもない……ソプラノちゃんに萌えられないこともないか? 目も大きいし、顔も可愛い、ゴスロリファッション……うん、その手の趣味のお兄さんなら萌える。残念だが、良夜にその手の趣味はないのだが……
「浅間さんはアルトが見えるんですよね?」
エンジンを掛け、駐車場から車を出すと、美月が良夜に声を掛けてきた。
「ええ、見えますよ……」
今は、ソプラノちゃんの頭の上に乗ってストローをフリフリ、鼻歌を歌っている。ストローが動くたびに良夜の鼻にヒットしている部分を、無視すれば非常に妖精らしい姿だ。ぬいぐるみの位置を変え、鼻に当たらないようにするたびに、アルトも動いている。絶対に悪意を持ってやってやがる。
「羨ましいです……きっと、素敵な姿なのでしょうね……」
ウットリとした表情で、両手を胸の前で組む。
「あっ、あの、ハンドル……」
「あは、ごめんなさい。つい……」
美月は、恥ずかしそうに笑ってそう言うと、再びハンドルに手を置いた。ところで、何が『つい』なのかは良夜にはよく解らない。
解らない良夜をほっといて彼女はさらに言葉を紡ぐ。
「あの、後ろの二人とどちらに似てますか?」
言われて、良夜はバックミラーへと僅かばかりに視線を送る。どうやら、『二人』とはバックシートに鎮座する二つのぬいぐるみを指しているようだ。
「私はピアノの方が似てると思うんですけど……あっ、ピアノは運転席側の子です」
身長五十センチ以上、三頭身でパステルカラーのフリルの付いたドレスに、トンボのような羽、助手席側はチョウチョのような羽だから、強いて言えば、確かにピアノと呼ばれた方が似て――
「良夜……貴方は三頭身で寸胴でオマケみたいな羽の付いてるぬいぐるみが私に似てる……そう言うのかしら?」
――と、思ってた所に投げかけられる冷たい言葉と冷たいストロー。
ゴクリ……と生唾を飲んで青年はゆっくりと身長に言葉を選ぶ。
「……えっと……強いて言うならピアノちゃんの……方けど……どっちもあまり……似て……ない……かな?」
「あまり? 全然……じゃないのかしら?」
ドスのきいた声、そして、クイッと鼻に押しつけられたストローに力がこもる。
「良夜……女性と二人きりのところで、いきなり鼻血を出したら……ただの変態よね?」
「そうなんですの? 残念……あっ、そうですわ。じゃぁ、今度、一緒にアルトに似た人形を捜してくれませんか?」
アルトの脅迫なんか、全く聞こえていない美月は、一人、ナイスアイディアとばかりに喜んでいる。しかし、良夜にとっては、ただの変態になるかならないかの瀬戸際である。ここで下手なことを言うと、バッドエンディングへのフラグが立ってしまう。
「アルトは、可愛いですから、もっと可愛いぬいぐるみじゃないとアルトとは比べられない……かな?」
選んだ結果がこれ。情けなくて涙が出そう。ついでにそう言う育て方をした親への不満が心をよぎった。
「そうなんですか? やっぱり、アルトはもっと可愛らしいのでしょうね。あぁ、私もアルトの姿が見えればいいのに」
美月は良夜の言葉に無邪気に喜び、それじゃ、いつにしましょうか? とかアルトのことをもっと色々教えてくださいね、などと言っている。
「……見えない方が良いって……」
ぼそっと小さくつぶやいた声はアルトにしか届かなかった。と言うか、アルトには届いてしまったので、良夜の鼻の頭はアルトのストローで力一杯叩かれてしまった。
そして、車は微妙にかみ合わない二人を積んで片側二車線の国道をゆっくりと走り、良夜の家のほぼ前へ……
ついたときに美月がぼそっと言った。
「ところで浅間さん」
「はい?」
「私……自分の買い物をし忘れてました」
「それじゃ、ここで、ありがとうございました」
大量に買い込んできた荷物を車から降ろし、代わりに抱っこしていたソプラノちゃんを助手席に座らせると、良夜は車の窓越しに深々と美月に頭を下げた。
「アルトはどうするんですか? アルトが家に帰るのなら、一度、家に帰りますけど?」
美月がそう言うと、アルトは美月の肩に立ち、軽く髪を二回引っ張った。
「そうですか? それじゃ、浅間さん、申し訳ございませんが、アルトのこと、よろしくお願いします」
「ええ、解りました。後で送ります」
良夜のアパートの前でUターンをする美月の車を見送ると、一気に疲れがあふれ出した。なんかもう、この二日で一年分は疲れたような気がする。
「なんか……『凄い』人だな……」
「美月は和明や前の見える人の話を聞いて、色々と想像してるだけだから、ホンのちょっぴり、私のことを美化しているのよ」
ほんのちょっぴり……ってのは嘘だろうな……と思いつつ、重い荷物を担いで、青年はアパートの階段をゆっくりと上がる。
「しかし、三島さんとコミュニケーションが取れるんなら、彼女に外に連れて行って貰えばいいじゃないか」
良夜の部屋はこのアパートの三階の二号室。ちなみにエレベーターみたいに洒落た物はないので、そこまで歩いて上がらなければならない。四階建てならエレベーターがあるのに……
「……前に一度連れて行って貰ったのよ。そしたら……ここから二十キロ離れたところに忘れて帰られたのよ……帰るのに三日かかったわ。流石にあのときは……ちょっぴり、死を覚悟したわよ」
珍しくアルトはぐったりと疲れ切った声でそう言った。思い出しただけで、その時の疲労感を思い出すのだろう。
「……天然系か?」
「見えないから、仕方ないのよ……でも……天然系なのは否定できないわね」
二人して猛烈な疲労感を覚えながら、302号室の前に立った。
その部屋の隣、ガタガタ、ゴトゴト……昨日までは聞こえていなかった生活音が隣の角部屋から聞こえて来た。
「ここがそうだ……って、あれ? 隣の部屋に人が入ったんだな」
青年が呟くと、ちょうど301号室のドアが開き、そこから一人の女性が出て来た。
「あれ、お隣さん?」
出て来た女性が良夜を見つけると声を掛けてきた。少し癖のある髪を茶色くした、今時の女子大生といった感じのスタイルの良い女性だ。背と胸が大きい……そう言えば、三島さんはどちらも小さかったな、と一瞬不埒な考えが頭をよぎる。
「ええ、浅間です」
「私は吉田です、よろしく」
そう言う女性の顔……何処かで見覚えがあるような、ないような……知り合いがこの辺に住んでいるわけはないし、良夜の同窓生でここの大学に進学した人間は他には居ないはずだ。そもそも、吉田という名前の知り合いは居ない。だから、会ったことはない……はずなのだが……
「どうしたの?」
自分の顔をマジマジと見ながら、首をかしげる良夜に、彼女もまた首をかしげる。
「何処かであった……って事、ないよね?」
「えっ……ナンパ? 悪いけど、私、彼氏、居るよ」
「わっ、良夜、ベタベタ、流石童貞」
吉田と名乗った女性は苦笑いを浮かべてるし、アルトはアルトでバカにしきった表情で良夜の顔を覗き込んでくるし、間抜けな事を言ったと後悔しきり。もっとも、もう遅い。
「あっ、ごめんごめん、勘違い。それじゃ、とりあえず、お隣同士よろしく」
慌ててごまかせば、女性の方も特に気にはしてない様子、社交的な口調で答える。
「ええ、こちらこそ、よろしくお願いするわね」
「吉田さ~ん、サボってないで早くゴミ紐、買ってきて~」
二人が話していると、301号室からちょっと甲高い男性の声が響いた。
「解ってるって。ごめん、今、急いでるから」
中から声を掛けてきた男性に返事をすると、女性がパタパタと走り出そうとした。
「あっ、ゴミの紐ならあるよ、俺も部屋の片付けがあるから」
走り出そうとした足がぴたりと止まり、良夜の方にくるっと振り向いた。振り向いた瞬間、スカートがめくれ上がり、包帯を巻いた右太ももが見えた。ん?
「ホント? 助かる、ちょっとで良いんだ、分けて。」
スカートがめくれて……太もも……包帯……太もも……何かが繋がりそうな気がする。えっと……
「あぁ! スーパーの人!」
あの時の女性の顔と、目の前にいる吉田さんとの顔が、ここに来てようやくぴたりと重なった。白いショーツのインパクトが強すぎて、顔は良く覚えていなかった、と言うのは秘密である。
「げっ、あのとき、居たんだ?! あちゃぁ……恥ずかしいところ見せたなぁ~」
ごめんなさい、居ました、って言うか、貴女が公衆の面前で下着を晒す羽目になったのは、僕の肩に止まって知らん顔を決め込んでる馬鹿妖精の所為です。と、心の中で深く謝っておく。
も、肝心のやった本人はと言うと……
「良夜、お隣さんも美人じゃない。もう、攻略するしかないわね」
と、全く悪気を感じていない。なんで、こいつが悪気を感じてないのに、俺が悪気を感じなければいけないのだろう? やっぱり、ヘタレだから? ヘタレでも一生懸命生きてます。
話をしてるところに聞こえるもう一つの声。
「もう、吉田さん、早く買ってきてよ」
その声がする方――ドアの方へと視線を向ける。畳んだ段ボール箱の束が歩いた上に、しゃべってる。一瞬、良夜はそう思った。最近の段ボールはジーパン穿いた足が生えてて勝手に歩く……訳はないか。小さな人が段ボール箱の束を抱えてるだけだ。
「ごめんごめん、でも、紐はこの人がくれるって」
「ホント? ありがとうございます」
段ボールの束から、小さな顔がヒョッコリと現れた。顔も小さければ背も小さい。ついでに手足も小さくて細くて、指なんか、水仕事で荒れまくってた美月よりも綺麗で細い。
「なんて言うか……半ズボン穿かせたいわね……」
お前、そう言う趣味があったんだ? お前とのつきあい方、考え直そうかな……
アルトの発言も、良夜の思いも、どちらも知らない吉田さんが良夜をその少年に紹介する。
「この人、浅間君、お隣さんだって」
「あぁ、そうですか。僕、高見直樹って言います。よろしく、浅間さん」
「あっ、そうそう、私、吉田貴美って言うの。だから、彼のことを『タカミ』って呼んだらどっちか解らないから、彼は直樹って呼んでね」
背の高い貴美の隣に直樹が立つと、彼の背の低さが更に強調される。そして、貴美はポンポンと数回直樹の頭を叩いて……
「で、一応、私の彼。一緒に住むから、彼も浅間君のお隣さんって事、よろしくね」
良夜もアルトも『弟だと思ってた』と心の中で小さくつぶやき、お互いの顔を見て、その思いを確認しあった。都合良くサッカー日本代表張りのアイコンタクトに目覚めたようである。
「吉田さん、頭に手を置かないでってば!」
もちろん、良夜とアルトの考えていることなど知らない直樹は、頭の上に置かれた貴美の手から逃げるように、体をくねらせた。その仕草は小動物にしか見えない。普通に可愛い。
「攻略対象……?」
良夜の肩に座ったアルトが、良夜の顔を見上げ、小さくつぶやいた。
新生活波乱の二日目は、未だ半分が終わったばかり。