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母帰る(完)

 美月にあれだけ深酒をギャーギャーと咎められたにもかかわらず、良夜はその日の内にきっちり深酒をかました。翌日のバイトが休みな貴美が、直樹を引き連れて彼の部屋へと侵攻をかけてきたからだ。その時、心なしか直樹の目に涙が浮かんでいたように見えたのは、昼間の貴美のつぶやきが実行された所為だからだろう。哀れなことだが同情の余地はあまりない。

 そんなわけで、良夜は日曜日をまた寝て過ごし、次に喫茶アルトへと足を運んだのは週が変わった月曜日の昼前だった。

 彼が喫茶アルトの前にまでやってくると、入り口の傍ではホースを持って駐車場や店舗前のアスファルトに盛大な打ち水をしている女性の姿が見えた。喫茶アルトの制服姿に見てるだけで暑くなる長い黒髪、美月かとも思ったが、半袖開襟シャツを着ているところを見るとどうやら違う。未だに美月は長袖蝶ネクタイで頑張っている、おかげで店内エアコンのきついこと、きついこと。温暖化現象とか省エネとか、それよりも彼女にとっては胸の問題が大きいらしい。

 十分に熱せられたアスファルトやからからに乾いた赤土の地面、女性が作っている水たまりの人生は短い。良夜は短い一生を終えようとしている水たまりを散らしながら、それらが生まれ来る場所へと近付いていった。

「いらっしゃいま……あら、浅間さん、でしたよね?」

 女性は近付いてくる客が良夜であることを知ると改まった接客態度を崩し、ガンタイプの筒先から手を離した。すぐに水は止まり、名残を惜しむかのように落ちた水滴もすぐにまぶしい太陽と乾いた地面にかき消されてしまった。

「えっと、美月さんのお母さん、ですよね?」

 美月そっくりの真っ黒い長髪に大きな瞳、一昨日の一件がなくても彼女が美月の親戚縁者であることは誰の目にもあきらか。細身の体つきと上品な化粧のおかげで実年齢よりも若く見える分、本人や回りが強弁すれば姉で通用するかも知れない。

「いえ、姉なんですよぉ……って言ったら、信じます?」

「……あぁ……ちょっと難しいかな」

 ホースを握ったまま本当に強弁しちゃう清華に二の句が継げず、良夜は苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

「むぅ……では、せめて清華さんと呼んでくださいね」

 笑顔で押しが強いのは美月の母親らしい。良夜は清華の要求に「はいはい」と笑みで答え、エアコンが効きすぎているであろう店内へと足を向けようとした。

「あっ、ちょっと待ってください。浅間さんはアルトが見えるんですよね?」

「あっ、はい、美月さんの――いえ、清華さんもアルトのことは知ってるんですか?」

 つい出てしまいかけた『美月さんのお母さん』の言葉に、清華は笑顔を浮かべたまま良夜の顔を睨み付ける。ちょうど、美月に胸の話題を投げかけたような感じ……本当にそっくりな親子。

「清華と呼んでくださいね。ええ、娘や夫が妖精、妖精と言っていれば、嫌でも……それに前に見えていた方もよく知ってますから」

「あぁ……十年前だと……」

 美月は四月に二十一歳になったって事を言っていたし、二人の結婚は大学卒業らしいから、ざっと計算して四十の中頃くらいか。アルファベットには弱いが、数字には強い良夜は、若く見えるなと心の中で呟いた。

「はい、結婚もしてましたし、美月も生まれてましたよ……年齢、計算しないでくださいね」

「あはは……はい、判りました」

 ごめんなさい、もう、計算終わっちゃってます。

「それでですね、ちょっとお願いがあるんですけど……」

 彼女は言いにくそうな顔をすると、良夜に小さく手招きをして自分よりも十センチ以上大きな背を屈ませた。

「なんですか?」

「………………――なんですけど、お願いします、ねっ、浅間さん」

 言われるままに屈み、彼女の耳打ちを拝聴。みるみるうちに良夜の顔が渋い物へと変わっていった。

 手に持っていた筒先を落とし、清華はパンと大きく一つ手を叩いた。斜め下から見上げる『お願い』の表情は、授業をサボってアルトでバイトをさせられたときの美月の顔そっくり。どこまで似たもの母娘なんだと、良夜は頭が痛くなった。そう言えば、店長も笑顔で押しが強い……もしかして、三島家の伝統ではないのだろうか? 清華と和明に血のつながりはないけど……

 

 店内に入ると、いつもの席ではなくカウンター席に座っている直樹の姿が見えた。余りにも暇な貴美が話し相手のために確保しているのか、先日逃げ帰ったのがまずかったのか……良夜は、『よっ』と右手だけを挙げて、彼に挨拶をすると良夜はいつもの席へと歩いた。彼がここにいる、と言う事は決断は早い方が良いな、と清華に重要な任務を申しつけられた良夜の気分はまた重くなった。

「……居たか」

 軽く右手を挙げ、テーブルの上でくつろぐアルトに声を掛ける。出来れば彼女には居て欲しくなった、お互いのために。

「あら、良夜。夏休みの大学生は暇そう……何よ?」

 何も知らない彼女は、いつも調子で良夜に軽口を叩いてくる。普段なら小憎たらしいそれも、今の良夜には心苦しい物にしか聞こえない。

 両足をテーブルに投げ出し、大きな窓から外を眺めていたアルト、その羽を摘むとヒョイとその体ごと持ち上げる。席にも着かず憂鬱な表情で自分をつまみ上げられる良夜を、アルトは不審そうな表情で覗き込んだ。

「あぁ……なんだ、ちょっと付き合え」

 歯切れの悪い台詞に、アルトの表情はますます怪訝な物へと変わっていく。

「何よ、愛の告白なら断るわよ、ロリコン」

「……まあ、良いから」

 いつもなら即座に否定する『ロリコン』の言葉にも食いつきはしない。良夜はアルトの羽を摘んだまま、小さなアルトの体を左右に揺らしながらつい先ほど鳴らしたばかりのドアベルを逆方向から鳴らした。

「変な良夜ね、変なのはいつものことだけど……」

 お前には言われたくないよ……そう言いたいところだが、今日の自分は確かに変なことをしている。その自覚だけはちゃんと持っていた。

「あっ、浅間さん。お手数かけました」

 先ほどと同じように清華はホースで散水をしていた。彼女は良夜が店から出てくるのを見かけると、そのホースを地面に投げ出し、バタバタと駆け寄ってきた、満面の笑みを浮かべて。

「いいえ……あの、ここ、です」

 右手でアルトをつまみ上げ、左手人差し指でアルトの顔を指さし、清華はそこへおずおずと両手を差し出す。

「ちょっと、良夜? まっまさかっ!?」

 彼と彼女が何をしようとしているのか、アルトは即座に理解し、顔色をなくした。

「……悪いな、アルト、あっ、もうちょっと上です」

 今回は、今回だけは本当に良夜も悪いと思っている。もの凄く悪いことをしているとは思っているのだ。だから、彼女にはあの場にいて欲しくなかった。居なかったら、『アルトに触らせてください』との『お願い』も断れたものを……

「この辺ですか?」

 良夜の指示でアルトの体を包み込もうとする清華の両手、必死になってアルトは逃げようとするが、羽を引きちぎりでもしなければ逃げることは出来ない。

「離しなさい! 良夜ッ! 離してっ! キャッ!!」

 ジタバタとを体とストローを前後左右に振るが、彼女の体は良夜の指先から逃げることは出来ない。ただただ、その体を清華に握りしめられるだけ。

「久しぶりに、これ、やってみたかったんですよ~ わぁ、すべすべですね……」

 アルトの体を良夜から奪うと、清華はアルトの頭を自分の頬にこすりつける。清華がどう思っているのかは知らないが、良夜の目からは美しい金髪が清華の頬にこすりつけられ、クシャクシャの滅茶苦茶になった挙げ句、その毛足がアルトの大きな金色の瞳にザクザクと突き刺さっているのがよく見える。所で、髪の毛にほっぺたをこすりつけて『すべすべ』って言うのもおかしい……

「……むご……」

 余りにも容赦のない愛撫……それは立派な虐待。良夜は思わず目を背けたくなった。

「覚えてなさい! 良夜!! あっ、苦しい! お願い、もうちょっとだけ優しくさせて!」

 ついに懇願し始めるアルト……後のことを考えるとかなり恐くなってくる。

「あの、もうちょっと力を緩めた方が良いかなぁ……って……」

 ためらいがちにアルトの懇願を清華に伝えるが、あこがれのアルトに頬ずりを繰り返している彼女は聞く耳を持たない。それどころか、そのテンションは上がりっぱなし。これが四十を過ぎた人がやることだろうか……

「良夜さん、注文もしないで何をしてるんですか? お母さんも……」

 カランとドアベルが鳴る音がしたと思ったら、中から出て来たのは美月だった。一度店に入ったかと思うとすぐに出ていった良夜や、打ち水をすると言って出て行ったきり帰ってこない母に、美月は店の中から顔だけを出して声を掛けた。朝からエアコンの効いた店内にいた所為だろうか、気温も高ければ湿度も高い空気に、彼女の眉が歪んでいる。……暑いんなら、諦めて開襟シャツを着ようよ……

「すべすべねぇ、ふわふわぁ」

 しかし、相変わらずアルトに夢中な清華はそんな声、聞こえてませんって感じでアルトの頭を自分の頬に擦り続ける……良夜にはアルトの金髪が清華の口にも入っているように見えるのだが……大丈夫なのだろうか?

「あの……うちの母、壊れちゃいました?」

 美月は店内から出てくると、自らの母を余りジロジロと見るべきではない可愛そうな病気を患っている人、とでも言いたそうな雰囲気で評する。ご無体なお言葉だが、確かにアルトを差っ引けばそう見えるかも知れない。差っ引かなくてもそう見えるか……

「美月、助けて……ホント、苦しい……」

 弱々しいアルトの声、そろそろ、本当に助けた方が良いのかも知れないが……喜色満面の表情でアルトに頬ずりを繰り返すご婦人へと掛ける言葉を、良夜は所有していなかった。

「えっと……あの……」

 説明しても良いのかな……と悩みながらも、良夜は手短に事のあらましを説明して……しまった。後に良夜は語る、止めるもんだと思った、と。ちゃんと、アルトが苦しそうにしてるって話は伝えたはずなのだが。

「お母さん!! 次、私!! 私もそれしたいですっ!!」

 喜び勇んで母の元へと駆け寄る娘……一昨日、あれだけ文句を言いつのっていた相手だとは思えない様。仲のいい母娘の姿に良夜の頬も緩む……と言うか、軽く痙攣し始めた。

「さてと……逃げるか……」

 殺される前に……

「良夜!! 覚えてなさい!!!」

 しばらく喫茶アルトには行かないでおこう、良夜は心の中で強く強く誓った。

 

 さて、その日の夜。喫茶アルトから逃げ出した良夜は、スーパーでのお勤めを済ませ、誰も待っていない自室へと帰宅してきた。明かり一つ付いていない部屋、美人の彼女でも待っていてくれればどれだけ心が和むだろう?

「……お帰り、良夜……まあ、そこに座りなさい」

 代わりに、妖精が、居た。

「……タカミーズと一杯飲んでくるか……」

 わざとらし大きな声で、独り言ともアルトへの呼びかけともつかない言葉を発し、良夜はアルトに背を向けた。

「この怒り、明日の朝まで熟成させて良いの? 今の私の怒りはトイチよ」

 地の底から響き渡る声が良夜の背中を引き留める。その声には致死量の怒り成分が含まれていることを容易に感じるとる事ができた。

「えっと……十時間で一割?」

 ゆっくりと振り向き、アルトの方へと視線を向けた。

「ううん、十マイクロセコンドで一割、もちろん、複利」

 十万分の一秒で一割……一秒の百分の一程度で宇宙に存在する星の数を超える怒りらしい。

「そんなに酷い目にあったか……」

「あれから三時間、清華と美月が代わる代わる……さようなら、清かった妖精さん、こんにちは、汚れちゃった妖精さん……」

 細い腕で自分の体を抱きしめ、よよっと泣き崩れてみせる。意外と余裕があるようだ。

「……大変だったな、それで、お前、どうやって来た?」

 良夜は諦めてアルト裁判の被告席へと向かう。判決は死刑か死刑か死刑しかない……死ぬんだ……俺……

「貴美にぶら下がってきたの……まさか、四百ccのオートバイがあんなに凄い物だとは思わなかったわね」

「あぁ、服がボロボロなのはその所為か……」

 昼過ぎから今まで、服や髪を直す暇もないほどに二人に遊ばれていたわけではないことに、少しだけ良夜は安心した。もし、その通りなら殺されるどころか、一度死んで、生き返らされた挙げ句にもう二-三回殺されるところだろう。

「貴美は貴美で買い物行っちゃうし、今日は散々な目にあったわ」

 歩いてきているものだと思っていたのに、彼女は愛車のシルバーウィングでいらしてた。その挙げ句に、まっすぐ帰らず直樹のバイト先にまで足を伸ばしたらしい。その間、ずっと貴美の体にしがみついていたもんだから、風に煽られドレスと髪がこうなった。そっちは良夜の責任ではないのだが、彼女の中では良夜の責任になっている模様。

「お疲れさん、コーヒー、飲むか? ドリップパックの奴」

「その前に……お手」

 即決、しかも刑の執行は今からだという。アルトは神妙な顔で被告席に座る良夜に、テーブルをストローでペチペチと叩いて見せた。

「……いや、お前、良く考えろ、お前をボロボロにしたのは三島母娘だ、俺じゃない」

 ついでに貴美とその愛車。

「良いから……」

 そこで一度言葉を切って、大きくアルトは息を吸い込んだ。

「お手!!!」

 吸い込んだ空気は全て声に変換され、良夜の耳をつんざいた。切れてる……マジで切れてる……手で許してくれなくなるのも時間の問題だ。

「俺が悪かった!!」

 手が置かれた瞬間、そこから七回、肉を突き刺す鈍い音と良夜の悲鳴が響き渡った……

「りょーやん……しまいにゃ、泣かすよ! なおの攻めで!!」

「えっ、えぇぇぇぇぇ!!?」

 貴美のご無体な怒鳴り声と直樹の驚きの声を壁越しで聞きながら、良夜は俺は悪くない、俺は悪くないんだと何度も心の中で繰り返した。その手のひらには七つの、それもご丁寧にヒシャクをかたどられた傷が浮かび上がっていた。……まあ、悪いんだけどね、実際の所。

 

 そして翌日……

「「あの、今日も……」」

 二人仲良く、三島母娘が良夜の元へとやってきたわけだが、良夜は半泣きになってそれを断ったとさ。


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