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梅雨と夏の間―はざま―(完)

 二人がアパートから国道へと下りると、叩きつけるような大粒の雨、古い排水溝は深夜の超過勤務に大忙しで働いていた。

「凄い雨、もうすぐ、梅雨も終わりね」

 この辺りでは、梅雨の終わりになるとまとまった雨が降る。少しずつ零れるように雨を降らしていた空は、その地道な行為にひと月で飽きる。そして、飽きた空は最後に残った雨をまとめてぶちまけてしまうのだろう、とアルトは言った。夢があるんだかないんだか……

 バケツをひっくり返したような雨、アルトの作り話が正しいのなら、文字通り、空のバケツがひっくり返され、そこに残っていた水が全て落ちてきていると言うことになる。良夜はその中に傘をし、頭にアルトを乗せて歩いていた。スクーターを使おうかとも思ったが、カッパが蒸れるし、視界も余り良くないので傘を持って徒歩にした。

 古く痛んだアスファルトには大きな水たまりがいくつも出来上がり、それを避けて歩いているはずなのに、ズボンの裾には小さいとは言えないシミがいくつも浮かび上がっていた。でも、アルトは頭の上に陣取り、一滴の雨にも濡れないどころか、傘が真っ黒でセンスが悪いなどと言っている。どうやら、透明なビニール傘が良かったようだ……って、アレ、一本百円か二百円の使い捨てじゃないか……

「透明だと水滴が綺麗に見えてきっと素敵だわ」

 と、言うことらしい。

 時間はそろそろ夜中の三時、出歩く人どころか、国道を駆け抜ける大型トラックすらその数を減らす時間帯。二人の深夜の散歩をお供しているのは、数え切れない雨粒と彼らが奏でる賑やかすぎるシンフォニー、そして、雨粒と街灯と作る複雑な光の模様。

「梅雨が明けたら試験、それが終わったら夏休みね。夏休み、どうするの?」

 何気なく投げかけられたアルトの質問に、良夜は滝のように水を垂れ流す傘の先端を見つめながら答えを捜した。

「……タカミーズや美月さんと出かけるだろう、それが終わったら……一度、地元に帰るかな……」

 僅かな沈黙の後、ぼんやりとした口調で答えた言葉は、つまるところ何も決まっていないと言ってるも同然の答えだった。美月やタカミーズと出掛けるというのも、出掛けると言うことが決まっているだけで何時とも何処ともどの位の期間とも決まっては居ない。バイト先のチーフや店長とも相談しなければならないし、そもそも、目の前の試験をクリアーしなければ話にならない。

「ふぅん、地元に帰るの?」

 アルトの声は余り興味がなさそうに聞こえた。付いて行くくらいは言うだろうなと思っていたもんだから、良夜は少し拍子抜け。

「一応な……あっちのツレとも会いたいし……」

 高校時代の友人達の顔を思い浮かべる。地元で進学した奴、他県に進学して出て行った奴、そう言う連中も夏休みになれば帰ってくるだろう。久しぶりに会うのも悪くはない……全部、男って言うのが泣けてくる所。

「帰らないで! ……なんて言って欲しい?」

 少し伸びた前髪にアルトがぶら下がり、冗談めかした口調で彼女は言った。飛べると言うのに彼女は何故かこの格好を良くする。良夜はそれを左手で軽く払いのけた。

 そして、ぶっきらぼうにひと言、ぶっきらぼうに応えた。

「要らない」

「言わないわよ」

 払い落とされたアルトは、良夜の頭の上には戻らず、今度は傘の骨の一本にぶら下がった。良夜が足を進めるたびにプラプラと揺れる体、まるで何かのアクセサリーのよう。

「大人しく待ってろよ」

「良夜の方こそ、ロリな性癖を満たすために、性犯罪を起こさないようにね」

 持ち主を罵倒するアクセサリー、嫌すぎる機能だ。しかも、揺れるたびにつま先が良夜の額を叩いてる。痛くはないが邪魔。

 良夜はアルトの体をつかみ、再び頭の上へと座らせ、ついでに「アホ」の言葉もプレゼント。

「この辺には小学生なんてあまり居ないものね、居るのは愛らしい妖精さんくらい……美しさは罪ね」

 頭の上がくすぐったいのは、大人しく頭の上に座ったアルトが、その頭の上でくねくねと体を動かしているから。良くは見えないが、芝居臭い仕草でしなを作っている様が良夜には想像できる。

「勝手に浸ってろ」

「最近、ノリがイマイチね……もう飽きたのね! けだものっ!!」

 なんだか知らないが、獣らしい。大声で怒鳴られる理由も判らず、良夜は「お前、何処までアホなんだ?」と、呆れたような声を頭の上に座り込んだアルトへとぶつけた。

「そのアホに勉強を教えて貰ってた超アホ」

「……」

 指摘される事実に、良夜の歩みと言葉が止まる。

「そして、そのアホに口喧嘩して勝ったことのない激烈アホ……生きてる価値があるのかしらね?」

 そして、掛けられる追い打ち。この女には勝てないな、と思いながら雨の中の散歩を良夜は再開した。

「……俺が悪うございました」

 言葉のキャッチボール、良夜が降伏の白旗を揚げると、アルトは勝ち誇った口調で「判ればいいのよ」と勝利宣言を下す。頭の髪が引っ張られている所を見ると、その薄い胸を偉そうにふんぞり返しているのかも知れない。見えなくて良かったと、良夜は思った。

 良夜のスニーカーがアスファルトを蹴る音は、強い雨音にかき消されてしまうが、二人の声は雨音にも負けない。言葉は傘で覆われた二人だけの空間を満たし、二人の耳元にまでちゃんと届く。雨音がうるさいはずなのに、奇妙に静かだと感じていた。


 雨に煙る喫茶アルトの姿が、ようやく見え始めた。雨とアルトとの会話の所為で、いつもよりも少々余分な時間が必要だった二人の深夜の散歩も終わりの時間だ。全く名残惜しくはない。

「明日、どうするの? 勉強」

「明日はバイトが休みだから、アルトでやるかな。直樹は多分バイトだから、直樹が居なくなったらだな」

 その言葉に「ついでに他のカリキュラムも頼む」と良夜は付け加えた。言葉は悪いがテスト対策としては十分に使えそうな気がしたから。

「一教科に付きブルマン一杯ね」

「……高いな、その値段を要求すんなら、カンペやってくれ」

「嘘八百の答えを教えるかも知れないわよ」

「お前ならやりかねないな……」

「そう言うことだから、自分で学びなさい、学生さん」

 コツンと良夜の額にアルトのかかとが振り下ろされた。

「ったく、泥棒妖精の癖に正論ばっかり並べやがって……」

「建前はともかく、今夜は面白かったわよ。明日からも楽しませてね、浅間くん」

「明日はもうちょっとお手柔らかに頼むぞ……そのうち、校内暴力に発展するからな」

 良夜が換気扇の下に止まると、アルトは頭の上から飛び上がろうと体を僅かに伸ばしたが、踏み切ることはせず、変わりにお辞儀するように体を倒した。良夜の顔の前へと長い髪が流れ落ち、アルトが挑発的な笑みを浮かべて良夜の顔を見下ろした。

「良夜がちゃんと出来たら褒めてあげるわよ。ご褒美も欲しい?」

 飛び上がらなかったのは、この言葉が言いたかったからだろう。彼女は嬉しそうな顔をして良夜の顔を覗き込んでは、どんなご褒美が良いの? とか言っている。ここで下手なことを言えば、また、ロリコンと罵倒されるに違いない。

「……要らないって。普通にしてくれ、普通に」

 面倒臭そうに答える良夜の視野の隅、ちょうど、アルトの背後当たりに随分としおれた紫陽花の姿が見えた。確か、梅雨の晴れ間にはアルトがその下で昼寝をしていた場所だ。それがしおれ、枯れ始めることに寂しさと夏の始まりを良夜は感じた。

「どうしたの?」

 自分の顔から僅かに離れた良夜の視線、それにアルトは少しだけ首をかしげ、彼の向く方へと視線を向けた。

「いや……紫陽花、枯れてるなって」

 アルトから逸らしていた視線を彼女の大きな瞳に戻し、良夜は少しだけばつの悪そうな声で答えた。

「夏だものね、雨が降ってるときは元気に咲いて、お日様がまぶしくなると枯れるのよね、変な花だわ」

「嫌いか?」

「ううん、好きよ。じゃぁ、そろそろ、帰るわね。お休み」

 思い出したかのようにぴょんと良夜の頭から飛び上がり、換気扇へと取り付く。彼女は閉店後のアルトに入るときは、いつもここから中へと潜り込む。

「そうだ! 夏になったら海、忘れちゃダメよ。ロリの良夜に可愛い妖精さんの水着姿を見せてあげるから!」

「貧相なもんを見せんな!」

 駐車場からアルトを見上げる良夜、換気扇の縁にたって良夜を見下ろすアルト、二人は二人を隔てる大粒の雨にも負けないように大きな声を出し合った。

「スレンダー! なの!! また、明日ね」

 油煙や埃の汚れが酷く、掃除どころか触れたくもないような大きな換気扇、その隙間から服や体を汚さずに入っていく器用な後ろ姿を見送り、良夜も喫茶アルトの駐車場を後にした。

「明日には上がるかな……」

 さっきよりもずっと小さな声、つぶやきが雨にかき消され、自らの耳元にも届きはしない。やけに雨音が大きくなったような気がする。

 一人きりになった良夜が見上げた空には星一つなく、変わりに大粒の雨がいくつも降り注ぐだけ。上がれば上がったで過ごしにくい真夏日になるのだろうが……


「……で、アルト、おかげで単位は落さずにすんだよ……」

 あの夜から二週間ほどの日付が進んだある日のこと。もう、七月も末、試験結果の発表も終わり、良夜はとりたいと思っていた単位は一通り収得できた。特に英語二つを取れたのは大きかった。

「あら、全部? 英語の二つ、どちらかは落とすと思ってたのだけど……下手したら両方」

「あれだけ、毎晩、罵倒した癖に良くそんなことが言えるよな、お前」

 初日の罵詈雑言は、はっきり言ってマシな方だった。日にちが進むたびに酷くなっていくアルトの悪口に、良夜は『試験が終わったら、こいつを殺そう』と何度心に誓ったことか……単位を落していれば、その誓いは実行されていたに違いない。

「その割りには随分と不機嫌そうだけど、どうしたの?」

 アルトの言葉通り、良夜は喫茶アルトには居る前からとっても不機嫌だった。

「今日、山下先生に呼ばれたんだよ……」

 苦虫をかみつぶしたような顔で、テーブルの上でくつろぐアルトを見下ろす。

「英語表現の教官ね、どうしたの?」

「……お前、どこの田舎もんに英語を教えて貰った? って言われたわけだが……」

 スラングを多用した表現、それは、アルトに教え込まれたものだった。確かに教官のウケは非常に良かった。良夜を呼びつけた教官も、「誰に教わった?」と笑っていた。問題があるとすれば「教科書通りに採点したら不可だよ」とのありがたいお言葉とお情けの『可』を頂いたことだけだ。散々罵倒された結果がお情けの可では割に合わない。

「おかしいわね……」

「何が?」

「私は、スラム街出身、ロックシンガーを目指してみたけど、結局肉体労働で日銭を稼いでる中年黒人をイメージした英語、のつもりだったのよねぇ……」

「壮大で判りにくい罠に掛けんな!!」

 良夜が大声を上げて叩いたテーブルを、大きな窓から差し込むまぶしい太陽がジリジリと焦がすように照らし続け、駐車場の紫陽花は次の梅雨までの長いお休みに突入中。糞暑い夏が始まった。


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