初デート……か?(2)
お話は前回のラストシーンから数分前にさかのぼる。
「はぁい……あっ、良夜」
良夜の肩の上に座っていたアルトは、その腕に絡めていた髪の毛をほどき、ふわりと上空に舞い上がった。
「うるさいってば」
背後から良夜の面倒くさそうな声。良夜ってば本当にヘタレね、堂々としてれば少しくらいの独り言、誰も気にしないのに。そう思いながら、入り口のガラスドアに張られた折り込み広告の前にホバリングをする。ぱたぱたと器用に羽を8の字に動かす様は、トンボのようだ。
「せっかくの売り出しなんだから、広告くらいチェックしときなさいよ」
振り向きもせずに、体ごと視線を動かし広告を舐めるようにチェックする。安物の紙に印刷された広告には、お買い得とか大特価と言う言葉がいくつも踊っている。
「書いてることだけは立派なんだけど……」
大特価と書いてあっても、実際には普段とあまり変わらないというオチが良くある。アルトの顔ほどもあるようなフォントで書かれた文字をじっくりと読み進める。
「あっ、今日はオージービーフが安いわよ。後、インスタントコーヒーも安いけど、インスタントは嫌いだから買っちゃダメ。解った?りょ……やぁ?」
振り向いたところに良夜は居ない。代わりに中年のおばさんと目があった。相手はこっちを認識してないだろうけど……大学生の青年が居るつもりで振り向いたら、代わりにおばさんが立っていた。うん、ちょっぴりびっくり。
じろじろとアルトの体を見つめるおばさん。もちろん、見つめているのはアルトではなく、アルトの向こう側に貼ってある広告の方である。
「いやぁん、あまり見つめないでぇ~」
と、小ネタを一発挟むことを忘れない律儀な妖精。くねくねと体をくねらせることも忘れない、それが彼女のジャスティスであった。しかし、もちろん、アルトのことなど見えていないおばさんは、小じわの目立ちはじめた顔で真剣に広告を見つめ続けるだけ。ちょっぴり寂しい。ちなみに、見て貰えないことよりも、小ネタに反応して貰えない方が寂しい。難しいお年頃である。年齢不詳だけど。
「……アホな事してないで、良夜でも捜、フギャッ!」
後頭部を手で押さえられ、ガラスのドアに張られたチラシに顔面を押しつけられるアルト。アメリカンなギャグアニメならペラペラになって風に飛ばされるシチュエーションだ。
もっとも、あいにくだが、彼女のそんなスキルはない。羽とドレスから伸びる白いつま先がピクピクと数回痙攣させて、そのまま、冷たいタイル張りの地面に落下するだけ。落下するまで顔面はガラスに密着したままだった所が、彼女の芸人魂だ。
「いったぁい! 妖精虐待よ! 脳みそが耳と口からあふれるかと思ったわ、よぉ?」
群青色のアスファルトの上、仁王立ちになってそう言った瞬間、頭の上に降ってきたのは、大きなサンダル履きの足だった。
「うっそぉ?」
それを軽やかなステップで紙一重に交わすと、そこにも他の人の足が振り振ってくる。そんなことを数回繰り返し、誰かの膝を踏み場にし、一気に飛び上がろうとした。
が、飛び上がった先は誰かのスカートと白いレースのショーツ。クロッチ以外すっけすけなのがかなりセクシー……と言いたいところだが、それを見入る隙も与えず、顔と言わず羽と言わず、体中にスカートがまとわりついてきて、もう大変。
「えっ、あれ、あっあっ、ちょっと?えぇ?? 風?? 静電気?」
女性はばたばたと暴れるスカートを押さえつけ、そのきわどい下着が見えないように必死になっている。彼女が手を動かすたびに、その手に持っているレジ袋からガシャガシャと言う大きな音が響き渡る。
アルトはスカートをめくり上げ、中から逃げだそうとしている。彼女はめくれないように押さえつける。かくして、女二人のかなり間抜けな戦いはこうして火ぶたが切って落とされた。女性からすれば、得るもののない戦いが……
数分に及ぶ不毛で、かつ、見ている男にとってはちょっぴり楽しい女の戦いは、一言の言葉がきっかけとなって終焉を迎えた。
「嘘、虫でも入った?!」
「誰が虫かっ!」
女性の思わず上げた声が、アルトの逆鱗に触れた。逆鱗の多い奴である。女性の傷一つない白い太ももにストローを力一杯突き刺させば、その白い太ももに小さな赤い点が浮かび上がる。
「イタッ!」
可愛らしい悲鳴を上げ、女性の動きが一瞬止まり、逆の手に持った荷物が冷たいアスファルトの上に落ち、ぐしゃっ! と言う破滅の音と共に女性の情けない声が聞こえた。
「あちゃぁ……」
アルトは、その一瞬の隙を突いてスカートの中から逃げ出し、女性の豊満な胸を踏み台にして一息にその場から離れる。踏み台に出来るような胸を持ってる女は敵だ、と思ったのは永遠の秘密。
「ふぅ……酷い目にあったわ……」
酷い目にあったのは、公衆の面前で下着を晒した上に、太ももに強烈な一撃を食らった女性だ……って事は、まあ、アルトにも解っているのだがそこは知らん顔。その彼女をちらりとアルトが顧みれば、彼女はアルトに刺された太ももを痛そうに涙目で何度もさすっている。涙目なのは刺されたからなのか、それとも持っていた物を落としてしまったためなのか、それは誰にもわからない。
「まっ、お互い様って所で良いわね」
妖精はそう呟き、開いたドアから中へと滑り込むのだった。
「なぁにが、『お互い様』だ、バカ妖精」
フワフワと店の入り口付近で飛んでいたアルトの体を、背後から良夜がわしづかみにした。
「あら、良夜。お久しぶり」
鷲づかみにしたまま、店から一度出ると駐車場の片隅へと逃げるように移動。逃げるように、と言うよりも実際に逃げたわけだが。そして、周りをキョロキョロと見渡し誰もいないことを十分に確認すると、大きく深呼吸、一度、息を止めて――
「どこに落としたかと思って捜してたら、スカート捲りなんぞしてやがるわ、一般人に怪我させてるわ、ありゃ、卵か何かが割れたぞ! どーすんだよ、卵が割れてたら! 一ダース全部使って卵焼きか? どれだけ大量の卵焼きが出来るんだ? あの人は今夜は卵尽くしか? お前は馬鹿か? って言うか馬鹿だお前は!! 今度勝手に飛んでいったら胴綱つけてぐるぐる振りまして室伏広治張りの世界を狙える投てきを見せてやるからな!!」
――と、まくし立てた。良夜初の長台詞である。
「良夜、息継ぎ」
良夜の両手に捕まれ、黒髭危機一髪みたいな状態になっているアルトが、一気にまくし立て息が切れている良夜に対して、平然とした口調と態度で言い放つ。
その妖精のセリフに合わせるかのように大きく吸って、大きく吐く。
「すーーーーーーーーーーーー、はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
「それはため息ね。ともかく、結論を言いなさい、結論を、簡潔に」
「結論、外に出たらちょっとはおとなしくしやがれ馬鹿妖精、OK?」
「あら……びっくり、もしかして、心配してくれてたんだ?ありがとう、良夜」
金髪危機一髪がにっこりと満面の笑みを浮かべて言い切る。俺の話を聞け、二分だけ良いとの思いを込めて、青年は言った。
「返事は?」
「はぁい♪」
世界一信用できない「はぁい♪」である。全身の力が抜ける思いを感じながら、握りしめているアルトの体を自由にする。自由になったアルトは羽を数回大きく振るわせると、良夜の肩に再び腰を下ろした。
そして、肩口で彼女はポソッと小さな声で言った。
「……ところで、黒だったわね」
「白じゃなかったか?」
「わっ、こいつ見てやがったわ!」
良夜は素直な男だった。
それから数分後、青年はようやく混んだ店舗の中を、落ち着いて歩き始めた。様々色とりどりな食材を眺めつつ、聞こうと思っていた事をやおら尋ねる。
「で、アルト、簡単な料理とか知ってる?」
周りの人間に聞こえないように、小さな声でつぶやく。間の良いことにアルトの耳は良夜の頬のすぐ横。囁くような声でも十分に届く。
「そりゃ、少しはね。良夜は知らないの? それで良く一人暮らしなんてはじめられたわね」
アルトの呆れかえった声が良夜の耳に直接響く。こいつに呆れられるとは、俺の人生もおしまいだ……と、青年は思った。
「ご飯炊いて、お茶わかして、肉と野菜を刻んで炒めるくらいは出来るよ」
青年がそう言うと、アルトは「そうね……」としばし沈思した後に答える。
「まずはお米よね。それから、砂糖と塩と醤油と胡椒、味噌もあれば便利よね。後はサラダ油。お肉と野菜を適当に刻んで、塩胡椒して炒めて、味噌か醤油、焼き肉のタレ辺りで味を調えれば、よっぽどのことがない限り、食べられるものが出来るわよ」
「実践したことあるのか?」
アルトの言葉に足を止めて、青年は改めて問えば、彼女はしれっとした顔で答える。
「知識としては知ってるわ。あっ、そうそう、今日は牛肉が安かったら、その辺で攻めてみましょう」
当てになんねぇ……とは思いながらも、他に頼るべき人間も居ないので、アルトの言うとおりに物をカゴに入れていく。
そうすると――
「メチャクチャ重いんだけど……」
――と、なるのは常識の範囲である。
「まあ、そうよね、普通。入り口にカートがあったの、気がつかなかった?」
「そう言うことを早めに言う優しさを期待しちゃダメかな?」
「うん、ダメ」
言い切るアルトの言葉に、心で涙を流し大量の買い物を店の隅っこに置き入り口へと戻る。
そして、カートを見つけるとそれをがらがら通して戻ろうとする。と……
「ちょい、良夜待って」
と、力一杯髪を引っ張る……また、抜けた……
「痛いって! 髪は大事な長い友なんだぞ」
「声、大きいわよ。それより、良夜。それ、持って帰るの大変だと思わない?」
米三キロ、味噌と砂糖が一キロ、サラダ油が二キロくらい、これだけで七キロ。それを担いで、あの坂を……
頭の中でちょっとした計算をすれば、妖精が言ってた言葉を思い出す。
「あぁ、お前、朝の『大変』ってそれか?!」
「そうよ、今頃気がついたの? で、アルトのブルマンで足を調達してあげるけど、どう?」
言わずと知れたブルーマウンテンはアルトで一番高いコーヒーである。
「タクシー使った方が安くないか?」
その値段は初乗り料金より、確実に高い。
「半分は良夜が飲めばいいわ」
半分だと考えれば、タクシーよりかは安い。しかし、そんなにコーヒー通じゃない良夜にブルマンもブレンドもあまり差を感じることは出来ない。でも、一度喫茶店でブルーマウンテンをたしなんでみるのも悪くはない。しかし、それならアルトに半分取られるのは惜しい。しかし……しかし……
たかだか、コーヒー一杯で深く悩みふける良夜に、アルトが呆れかえった声をかける。
「ヘタレなだけかと思ったら、優柔不断でもあったのね。そりゃ、年齢=彼女居ない歴で童貞なのも仕方ないわ」
「……アルト、人の心をナイフでえぐるのは止めろ。まあ、いいや、じゃぁ、頼むよ」
何をやり始めるのか、それに多少の興味がある。それに、実際、あの荷物を持ってあの坂を上るのも苦痛だ。妙なことをやれば、本当に胴綱つけて、室伏のまねをすればいい。
「商談成立ね」
ポンと良夜の肩を踏み台に飛び立つアルト。そのまま、羽を広げ女性の長い髪につかまると、それを軽く引っ張った。
「えっ?」
アルトのやっていることを、良夜は一瞬理解できなかった。
「キャッ!」
慌てて振り向く女性。振り向いた先にはアルトとそのアルトを呆然と見つめている良夜。しかも、良夜と目があった。
「えっ?」
二度目の驚きの声を上げ、慌てて彼女から目をそらす。自分が引っ張ったとは思われない距離に立っているのが何よりの救い。知らない人の髪なんて引っ張ったら、犯罪者そのものではないか……と言う事は、アレは犯罪者か? と、女性の髪を無邪気に何度も引っ張る妖精を見つめる。
「えっあっ、もしかして、アルトぉ? なんでこんな所にいるんですか?」
アルトは女性の美しい黒髪をクイっと1回だけ強く引っ張る。良夜の髪を引っ張るときは全然違う引っ張り方である。
「そうよ、お帰り、美月」
「なんで、アルトがこんな所にいるの? 一人でここまで来たの?」
今度はクイクイと二回引っ張る。
「ううん、違うわ、良夜に連れてきて貰ったの」
「じゃぁ、誰につれて、って、そんなの教えられないですよね、アルトには」
彼女――美月とアルトに呼ばれた女性はアルトの居る方向とは違う方向を向いて言葉を重ねているし、会話も微妙にかみ合っていない。どうやら、美月にはアルトが見えても居ないし、アルトの声が聞こえているわけでもないようだ。
「良いからこっちに来て」
「ちょっと、髪を引っ張らないでくださいよぉ」
言葉とは裏腹に嬉しそうな表情を浮かべる。大きな黒目がちの目が魅力的な女性だ。
アルトは髪をつかんだまま、良夜の方へと飛ぶ。しかし、これ、アルトが見えてない人が見たらどう見えるのだろうか?風に髪がなびいている……と、見えなくもないか? と思ってるうちに、髪を引っ張られた女性が良夜の方へと近づいてくる。
そして、見つめ合う二人。
「えっと……」
「あの……」
ひっきりなしに客が出入りするスーパーの入り口で見つめ合って居る二人の男女。傍目に見ると凄く間抜けな構図である。
「だから、良夜は彼女居ない歴=年齢の童貞なのよね」
アルトの呆れかえった声が、スーパーの入り口に響き、良夜の耳にだけ届いた。