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二人のお茶会(完)

 一人暮らしをやる上で必須行事、それは買い出し。良夜も例に漏れず、週に数回の買い出しを行っている。本当は売り出しの初日にまとめて買いだめしておくのが安上がりらしいのだが、それを考えるのも面倒臭ければ、そもそも、それだけのレパートリーもない。ついでに冷蔵庫のスペースも大してない。

「一番『ない』のは、料理を作ってくれる彼女よね」

 で、何故か、毎度毎度ついてくるこの女。春休み中、何度か連れて行ったら、大学が始まって以降も連れて行って貰うのが当たり前とでも言うような顔でついて来ている。素直について来させているのは、こいつが意外と料理のレシピを知っているからだ。しかも、未熟な腕でも出来る簡単な料理を教えてくれる。礼は言わないが、自炊初心者を卒業できずにいる良夜にとって、彼女のアドバイスはちょっぴりありがたい。手抜き料理や便利なインスタント調味料なんかもよく知ってるんだわ、この女……どこでそう言う情報を仕入れているのやら……

「大きなお世話だよ……って、ちっ、降って来やがった……」

 そんなこんなで、数日ぶりの買い物をアルト共に済ませた良夜が、店の駐輪場まで出てくると、彼の頬を冷たい梅雨の雨が濡らた。

「本当ね、降らないと思ったのだけど……」

 それは良夜の頭の上に陣取っていたアルトの頭も濡らし、次第にその勢いを増していく。二人は恨めしそうな顔をして、灰色の雲に覆われた空を見上げた。

 常々、アルトは『雨が好き』を公言する女ではあるが、それが『濡れないところから眺めている雨』であることは良夜も良く理解している。数分とはいえ、スクーターで走らなければならないこの雨は、雨好きの彼女にとっても余り好ましい物ではないに決まっている。

「お前が降らないって言ったからだぞ」

 良夜はうんざりとした声を、頭の上に座って同じように頭上を見上げているアルトへとかけた。

「仕方ないでしょ、梅雨はいつも湿気臭いんだから」

 良夜の頭の上に座ったまま、彼女は自分の髪を一房握ると、そのほんの少し跳ねた毛先へと視線をおとす。

 アルトはその美しいブロンドの跳ね具合と空模様から天気を予想する。朝、起きたときの寝癖が酷かったら雨、大人しかったら晴れ。非常にいい加減な根拠での天気予報なのだが、その的中率は九割を超えている。越えているのだが、何にでも例外という物は存在する物だ。それが今、雨が降っても降らなくても高い湿度を誇る梅雨の空気は、彼女の滑らかな髪をいい具合に跳ねさせてくれる。おかげでアルトの天気予報も外れ気味。ちなみに今日、テレビでの天気予報は『にわか雨に注意』であった。

「グダグダ言ってないで、カッパの一つも出しなさい、とろいわね」

 雨を自分の所為にする良夜の額にかかとを叩きつけ、アルトはクイッと軽く彼の髪を引っ張った。

「……持ってきてねえ」

「はぁ?」

 カパッと良夜の手により開けられたスクーターのメットボックス、その中には必要な書類以外何も入っていない。見事に空っぽ、カッパのかの字もなかったりする。

 今日の良夜はそのアルトの外れ気味な天気予報を信じた、信じた結果、カッパを家に置いてきた。良夜のスクーターは美月が一度盛大にすっ転んでぶっ壊した代物だ。クシャクシャに壊れた前カゴは外して捨てられてしまい、未だに新しいカゴが付けられてはいない。故に買った商品を入れておける場所はメットボックスだけ。そこに余計な物は入れておきたくない。そして、雨が降らない日のカッパという物は、余計な物の第一番手。本日のカッパ君は玄関の靴箱の上で休息の日を過ごしている。

「……――と言うわけ」

 そんな説明を良夜がしている間にも、雨足はその勢い強め、あっという間に叩きつけるような豪雨と化していく。降れば土砂降り、そんなことわざもあったなと思ったところで現状が好転することはあり得ない。

「持ってきてないもんは仕方ないだろう! ほら、さっさとポケットでも胸元で好きなところに入れよ! 帰るぞ!!」

「……逆ギレ? 見苦しい男だわ」

 そう言ってアルトは、良夜の胸元奥へと潜り込んでいった。


 良夜が自室に滑り込むまで、十分ちょっとの時間が必要だった。雨具の一切を持たない良夜の体は頭からつま先まで、物の見事にずぶ濡れ。それに引き替え、シャツの中に潜り込んでいたアルトの方は、良夜に比べると幾分かその被害は小さい。

「俺、シャワー浴びるから。妙な事するんじゃないぞ」

 アルトを懐から放り出した良夜は、各種冷凍食品中心の荷物を冷蔵庫に入れることも忘れ、小さめのユニットバスの中へと駆け込んでいった。

「良夜、私もシンクでシャワー浴びるわ、出るときは声を掛けなさい」

 風呂トイレ共用の狭いユニットバス、そこで濡れた服を脱ぐ良夜へとアルトの甲高い声が届く。余り濡れていないはずなのに、奴も体を洗うつもりらしい。

「誰が見るか、タコ!」

 怒声の返事がユニットバスの中に響き渡る。

 熱めのシャワーを濡れた頭から強くかけると、冷えた体温がゆっくりと戻っていく感触。アルトもシャワーを浴びるのなら、湯船に水を張れば良かったかなと思うが、服を脱いだ今からではちょっと遅い。

「こう言うの、付き合い初めの恋人同士みたいよね?」

 頭からシャワーを浴びる良夜に、シンクの方でシャワーを浴びているアルトが声を掛けてきた。薄いとはいえ壁一枚越しに聞こえる声はいつもよりも遠く聞こえる。

「ばーか、幼児体型の妖精が色気づくな」

 アルトのシャワーも考え、普段よりもたっぷりと時間を掛けてシャワーを浴び続け、いかにも一応は付けてるんですよ的な戸棚の中からバスタオルを引っ張り出す。そして、無造作に温かなお湯で濡れた体を拭いていく……と、そこで……

「げっ……着替え」

 そこはそれ、女を部屋に呼ぶなどと言う洒落たことなどやったことのないモテない大学生君、更に慌ててバスルームに飛び込んだ物だから、着替えの服を綺麗さっぱり忘れてきていた。普段なら、一人暮らしの気楽さをフル活用すれば良いところだが、今日は奴が居る。いつもの調子で、バスタオルだけ巻いて出たら何を言われることやら……と、気が重くなる。重くなるがなったところで、いつまでも立てこもっているわけにはいかない。

「悪い、下着持って来るの忘れた!」

 ばつが悪そうに頭を一つ掻くと、良夜は部屋にいるであろうアルトへと声を掛けた。

「……馬鹿、ベッドの下にでも潜り込んでるから、勝手に着替えでもなんでも取りなさい」

「反省してるよ、出るぞ」

「ちょっと待ちなさい…………良いわよ」

 数分程度アルトに待たされ、良夜は部屋に彼女の姿がないのを確かめると急ぎ足でクローゼットへと向かった。

「ハイ、チーズ」

 アルトの『良いわよ』からきっちり十秒後。自分の声でもなければアルトの声でもないチープな合成音、それに導かれるように向けた視線の先にはテーブルの上に鎮座する自分の携帯電話……一瞬思考が停止した。

「何してんのよ? 着替え、まだ、終わらないの?」

 続いて、ベッドの下辺りからアルトの声が聞こえた。

「……てっめぇ! どー言うブービートラップしかけてやがる!!!」

 真っ赤な顔をして携帯電話をつかみあげれば、それには間抜け顔で映る自らの姿、色々と問題のある部分がタオルで隠されていることだけが僅かな救い。当然のようにセルフタイマーの設定になっている。本当にこの腐れ妖精、家電製品に対する知識が高すぎる。

「あら……床において下から撮った方が良かったかしら?」

 そう言うのは、濡れた服と髪をそのままにした姿のアルト。いつの間にやらベッドの下から這い出してきた彼女は、良夜の肩口から液晶画面に映る彼の間抜け顔を覗き込んでいた。

「……死ね、この盗撮妖精」

「ちょっとしたギャグよ、それより早く着替えた方が良いわよ……うっすい胸板ね……」

 いつも彼女が潜り込んでいる胸元、そこへ視線を移して彼女は小馬鹿にしたような声を上げた。太っても居ないが鍛えても居ない、本当に薄い胸板、言われなくても十分に判っている。

「お前だけには言われたくない」

 ピッピと携帯電話を操作し、自分の写真を削除する。ぱたんと二つ折りの携帯電話を畳んでベッドの上へと投げ捨てた。

「だけにアクセントを付けたわね……美月だって薄いわよ」

「不毛だな……」


「ねえ、良夜、何してるの?」

「読書」

 着替えを済ませベッドに寝転がり、窓ガラスに叩きつけられる雨音をBGMに読書……と言えば聞こえは良いが、彼が読んでいるのは少年誌に好評連載中の漫画の単行本、ありがちなバトル漫画。凄く面白い、と言うわけでもないが高校時代からコミックは欠かさずに購入している。この手の漫画は買い始めると、最後まで買わないと気が済まなくなる。

「遊びに来ている淑女をほったらかして、漫画の本? だから、いつまで経っても童貞なのよ」

 アルトの長いブロンドはクルクルと丁寧に巻かれ、洗濯ばさみで頭上の止められていた。バレッタの変わりらしいのだが、何処か大幅に間違えているような気がする。

「……口説けとでも?」

 頭の上に掲げていた漫画を閉じ、胸の上で頬を膨らませたアルトの顔を下から見上げた。

「ごめんなさい、良いお友達で居ましょう」

 芝居がかった仕草で大きく頭を下げると、典型的なお断りの言葉を申し上げるアルト。相手がアルトだから良いようなものの、これが本当に好きな相手だったら、結構クルんだろうな、と良夜は一つ恋愛の経験値を増やした。ただいまレベル二くらい。

「ソッコーだな……って、服、濡れてるな、また、服ごと浴びたのか?」

 大きく下げた前髪から滴り落ちた水滴、よく見ると少し短めのスカートが彼女の華奢な足にからみつき、その脚線美を幾分強調させていた。彼女は時々、服を着たままシャワーを浴びる、特に良夜が傍にいるときは確実に、と言っても良いほど。喫茶アルトならハンドドライヤーがあるから、そこに体を突っ込んで乾かせばいいのだが、あいにく、一般家庭である良夜の家にそんな便利な物はない。

「こんな所で服を脱いで、良夜を喜ばせる趣味はないわよ」

 良夜が体を起こすと、アルトはその胸を一つ蹴ってベッドの隣に置いてあったパソコンの上へと飛び移った。液晶モニタに腰を下ろして、足をプラプラ……

 ベッドから下り、ドライヤーが置いてあるユニットバスへと入ろうとした良夜に、コツンコツンという小さな音が届く。そう言えば、彼女はこういう仕草をしょっちゅうしている。良夜の頭や肩、喫茶アルトのコーヒーカップ等々、もしかしたら癖なのかも知れない。

「かかとで蹴るなよ、壊れるだろう」

「はぁい」

 いつものように全く信用できないアルトの返事、信用できないことを示すかのように彼女が立てるコツンコツンという軽快なリズムは止まるところを知らない。更に鼻歌までもが混じり始めてきた。

「辞めろって」

 持ってきたドライヤーを彼女の顔に向けて発射、洗濯ばさみからはみ出た髪だけが、パタパタと忙しそうに上下に踊る。それをアルトが心地よさそうに眼を細めて受けると、彼女の鼻歌のテンポとかかとでのリズムは更にアップテンポな物へと変わっていく。

「……やるならこっちでやれよ」

 アルトの羽をつまみ上げ、タワーの上に彼女を座らせる。高校時代に組み上げた自作パソコンは彼が持っている家電製品の中で一番高価な代物で、モニタは一番高い部品。壊されたんじゃたまらない。

「相変わらず、みみっちいのね。もうちょっと下」

「みみっちいとかそう言う問題か?」

「そう言う問題なの……所で、良夜、バイトは?」

 ゴーゴーと大きな音を立てるドライヤーを左右に動かし、アルトの濡れた体を乾かしながら「休み」とだけ答えた。アルトもそれに「そう」とだけ答えると、雨の音とドライヤーの音だけがしばしの間、部屋を支配していった。ゆっくりと乾いていくアルトの服は、次第にそのふくらみを取り戻し始め、張り付いていた彼女の体から剥がれていった。

 十分に正面からの熱風を楽しんだ彼女は、クルッと体を一回転させると今度は背中を乾かし始めた。長いブロンドをアップにまとめる洗濯ばさみがなければ、ちょっと色っぽいのに……非常に残念。

 二人の視線が向くのはいくつもの雨粒が叩きつけられては砕け散っていくベランダへの窓。そして、梅雨の雨としては少し強すぎる雨と梅雨の空らしい薄鈍色の空。

「いい天気ね」

「目ン玉腐ってんのか?」

 土砂降りの雨は風までも強め、外はちょっとした嵐の様相を呈してきた。とても『いい天気』だとは思えない。

「嵐の夜、男と女……十月十日後に出産。良夜の変態」

 歌うように少しだけ節を付けた台詞回し。

 良夜は大きく開いた背中、その羽と羽の間にほどよく熱せられたドライヤーの先端を軽く押し付けた。濡れた白い肌からじゅっと控えめな音が……

「アツッ! なんて事するのよ!!」

 流石のアルトもこれには大きく背をのけぞらし、軽い恐慌状態になっていた。熱い熱いと何度も言いながら、細い腕を背中に回してパソコンの上でのたうち回る姿を見ると、普段の鬱積が少しだけ晴れていくような気分になる。

「なっなんて事するのよ! 玉のお肌に傷が残るわ!!」

 ひとしきりもだえ苦しんだ彼女は、すっくとパソコンの上に立つと良夜に向けてびしっとストローをつきだした。が、転がり回るほどにもだえたせいで髪の洗濯ばさみは明後日の方を向き、ドレスもクシャクシャ、余り迫力を感じさせる姿ではなかった。

「残らねえよ、ほれ、これで終わり。コーヒーでも飲むか?」

 そして、そこはそれ、コーヒーにつられやすいアルトのこと、良夜がドライヤーを置いてそう言うとコロッとその態度を軟化させた。

「……インスタントなら要らないわよ」

 まだ少し熱いのか背中をさすってはいる物の、口調から怒鳴り声は消え、ばつの悪さをにじませたような物へと変わっていた。

「ブルッ○ス、この間、無理矢理買わせただろう?」

 ドリップバックのレギュラーコーヒー、少し前にスーパーで安売りしていたのをアルトが無理矢理買わせた物だ。

「あら、まだ残ってたの? あれ、ひと月も前よ」

「家じゃ余り飲まないんだよ、毎日アルトで飲んでるから」

 客が来たときにでも開けようと思っていたそれは、未だ未開封のまま。客が全く来ないわけではない、ただ『コーヒーを出すほど』の客が全く来ないだけ。大抵の奴らはアルコールの類を持ち込んでくれるから。

「ふぅん、じゃぁ、頂く――ちょっと待ちなさい」

 紙製のドリッパーをマグカップの上にセットし、ポットの下へと置いた良夜の手を、アルトの大声が制した。

「なんだよ?」

「馬鹿! ポットから煎れないで!」

 彼女によると、コーヒーは沸かしたてのお湯、それも出来ればくみ置きじゃない、空気をたっぷりと含んだ水から沸かしたお湯が美味しいらしい。当然、冷えるたびにスイッチが入って何度も沸かし直したような形になっている電気ポットから煎れるなど言語道断だと言うことらしい。面倒臭いことこの上ない……

「で……お湯を沸かせと言えば、片手鍋を用意する訳ね……貴方は」

「ヤカン、買ってないんだよ」

 電気ポットがあるんだから、ヤカンは要らない。良夜らしい合理的かつ味気のない判断で良夜の家にはヤカンもケトルも存在しなかった。合理的と言うよりもセコイというかケチというか……その辺は良夜自身も十分に理解している。

 この後も、一度にお湯を全部入れるな、蒸し方が足りない、今度は蒸しすぎ、最後まで抽出するな、アルトのレクチャーを山ほど受けながら良夜はコーヒーを煎れた。まさか、コーヒー一つ煎れるのにここまで苦労するとは思わなかった。

 そして、ようやく煎れ終えたコーヒー、それを一口飲んだアルトの感想は良夜にとって、大いに驚くべき物だった。

「まっ……美味しいわ」

 ストローで吸い上げたコーヒーを飲み干すと、彼女は小さな声でそう言った。

「……本当か?」

 先月、新市街の喫茶店に連れて行ったときはミソクソに言っていたアルトが、素直に美味しいというとは……雨……あっ、すでに土砂降りだ。

「今後の精進に期待って所ね、楽しみにしてるわよ」

「……これ、まだ、三十何枚も残ってるからな」

 正確には三十九枚のパックが残った大きな袋をアルトに見せる。良夜のペースなら一年程度は残っていても不思議ではない。

「それがなくなる頃には売り物になるコーヒーの煎れ方を仕込んであげるわよ」

 ストローを一振いし、中に残ったコーヒーを飛び散らせる。もう、終わりの合図、良夜は残ったコーヒーを喉に流し込んだ。余り詳しくない良夜にも判るほどに、いつも飲んでいる物からは劣る味……そうだな、ヤカンくらいは買っても良いか……お世辞にも余り美味しくないコーヒーを美味しいと言った妖精の姿を見ながら、良夜は小さく呟いた。

 外の雨は未だ止まず……


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