初デート……か?(1)
アルトとの衝撃の出会いをした翌日、その日を、良夜は布団を引くスペースだけはなんとか確保出来た部屋で迎えた。片付けの終わっていない荷物の一部が、布団の上にまで進出している部屋での寝心地は最悪だったが、疲れていたためか、睡眠はいつもよりも深かったような気がする。
枕元に無造作に放置されたままだった携帯電話を取り、時間を確認すれば朝の十時を少し過ぎたところ。休日にしては早く目が覚めた。もっとも、世間一般ではきっちり平日なのだが……
今日こそは片付けを終わらせよう、そのためにはあの喫茶店に入っちゃダメだ。アルトに捕まったら絶対に長くなる。初日に二回も遊んでやったんだから、しばらくは行かなくても怒らないだろう。
と、強い決意を心に刻んだはずなのに、彼は三十分後、喫茶アルトの昨日の席に腰を落ち着かせていた。
「もぉ、毎食食べに来るなんて……惚れた?」
やけに嬉しそうなアルトを目の前において食べるモーニングセットの味は……最高なのが泣けてくる。食事とコーヒーは美味しいのに……どうして、自分にだけ余計なサービスが付いてくるのだろう? 静かな食事がしたい……
「うるさい、家庭内害虫」
シーザーサラダをフォークに刺し、不機嫌そうに口に運び続け、出来るだけアルトの顔を見ないで食事をする。酸味の効いた自家製ドレッシングがまた美味しい。
そんな美味しい食事をしている青年に妖精が冷たい声を投げかける。
「はいはい、どーせ、今朝食べるパンも買ってないってのがオチでしょ? 間抜けよねぇ~」
昨日の夜になかった食材が、今朝になって冷蔵庫の中に溜まっている道理はない。あればいいのに……
ザクッと心地よい音を立てるレタスにフォークを突き刺し口へと運ぶ。レタスの中に混じったクルトンも自家製らしい。その自家製クルトンが香ばしい。
「解ってんなら聞くなよ……」
買い物に行き損ねた理由の半分は目の前でゴチャゴチャと話しかけてくる妖精さんの所為である。残り半分は、妖精さんとじゃれてるうちに買い物のことをころっと忘れてしまった良夜本人にある。後者に関してはあえて目をつぶる。
ちなみに彼は朝食はご飯と卵とノリとみそ汁派である。納豆はこの年齢になるまで食べたことがないので、多分、食べられない。良く考えたら、三食連続でパン食だ。ご飯を食べないと元気が出ないような気がする。
「んじゃぁ、今日はこれから買い物? 大変ねぇ~」
テーブルの上に置かれたブレンドコーヒーにストローを突き刺し、昨日と同じようにチューチューと飲んでいたアルトが、顔を上げてそう言った。
「お前な……ホットコーヒーをストローで飲むのはおかしいだろう? ――って……大変って? 何が?」
「美味しいわよ、コーヒー。んぅ……だって、良夜んチ、あそこのアパートって言ってたでしょ?」
カップに突き刺していたストローを引き抜き、壁に阻まれ直接には見えない峠の頂上に向け、それを突き出す。つられるようにそちらの方へと顔を向けた。
「確かにそうだけど」
良夜が答えると、アルトの大きな目がすっと細くなった。その細く開いたまぶたから覗く目が『わっ、こいつ、本当に解ってねえ』と言ってるような気がして、物凄く腹が立つ。
「すぐに解るし……まあ、せいぜい、がんばる事ね」
「言いたいことがあるなら、早めに言えよな」
アルトがストローを再び入れようとしたカップを取り上げ、アルトの飲みのこしたコーヒーを飲み干す。今朝はアルトの勧めるとおりにブラック。苦みは強いが、ほのかな甘みと酸味の複雑な味が美味しく、そして口内から鼻腔へと抜ける香りが香ばしい。確かにブラックがお勧めかも知れない。
「あっ……全部飲んだ?」
良夜の喉元をじーっと見つめていたアルトが、良夜がカップをテーブルに置くとふくれた顔でそう言った。
「飲んだよ」
「一口くらい残しなさいよ、けちんぼ」
「昨日は全部飲めって言った癖に……」
「あんな、お風呂代わりにした挙げ句、飽和するまで砂糖を入れて、更にそれが再結晶してそうなほどに冷えたコーヒーなんて飲みたくないわよ」
「お……お前なぁ……」
「私をコーヒーに突っ込んだのは良夜、砂糖を馬鹿みたいに入れたのも良夜、更にそれが再結晶するまで放置してたのも良夜。自業自得って言葉は小学校で習うわ」
空っぽになったカップの縁にしがみつき、中を残念そうにのぞき込んでいる姿は、まさに家庭内害虫。白っぽいドレスと白く透き通った羽と金髪のおかげで、黒っぽく見えないのが何よりの救いだ。これで黒っぽかったら、とてもではないが一緒に食事を取る気にはなれないだろう。なれなくても、こいつは目の前をうろちょろするのだろうが……
「最後の一つは、アルトがいつまでもコーヒーを風呂代わりにしてた所為だろうが……」
せめてもの反撃を加えておかないと、今夜、悔しくて眠れない。
「そうね、良夜が私をコーヒーに突っ込んだりしなければ良かったのに」
最後の反撃にカウンターを合わせられたボクサーの気分。
「うるさいよ」
ティカップの縁に腰を下ろし、未だ、名残惜しそうにコーヒーの残り香を楽しむアルトの後頭部を指先で軽く弾いて、席を立つ。
「あら、もう、いくの?」
カップの薄い飲み口から器用にぴょんと跳ね上がると、そのまま、良夜の肩に着地するアルト。そして、彼の髪を右腕に絡ませる。もはや、降りる意志は全くないようだ。
「付いてくるのか?」
「喫茶店でお茶して、一緒に買い物って……デートみたいよね?」
「相手がリカちゃん人形……ぎゃっ!」
耳元でブチブチという音が聞こえた。
「童貞捨てる前に耳たぶの処女を奪われなかっただけ、ありがたいと思う事ね、良夜」
アルトは、自らの細い腕に巻き付いた哀れな髪の毛を無造作に捨てると、再び、髪を腕に巻き付かせた。
「お前は鬼か……」
なお、彼の母方の親戚、男は全員禿である。禿は母方男性の親戚から遺伝する言う話を聞いて以来、彼は将来に対して大いなる不安を抱いていた。
「可愛い妖精さんよ。あっ、良夜、痛んでるわよ……こりゃ、将来禿げるわね」
シャボネットで体を洗ってる奴に言われたくない台詞だが、思い当たる節はたっぷりとある。
「ありがとうございました」
昨日と同じく折り目正しい老紳士にお金を払い喫茶アルトを後にする。アルトは自らの姿を見えてはいないはずの老紳士に「行ってくるわね」と声をかけ、手を大きく何度も振っていた。
朝来た道を峠の頂上、そしてその下にある小さな駅前に向いてのんびりと歩く。
穏やかな陽光とそろそろ耕され初め田んぼ、そして、学生マンションと大学しか見えない田舎の国道。通る車の数は少なくないが、立ち止まる車はほとんどなく、ここだけが取り残されているような印象を受ける。
「相変わらずね、ここは……」
肩の上から景色を眺めるアルトが、嬉しさとも悲しさとも付かない複雑な感情を載せた言葉をつぶやく。
「そうなのか?」
「そうよ……十年ぶりだけど、全然変わらない町。不思議な町、ここは……だから、私の居場所があるんだけどね」
ふぅんと軽く相づちだけ打ち、アスファルトで舗装された歩道を歩く。歩きながら、視線を足下へと落とす。そんなに新しくはない痛んだ舗装。雨が降れば水たまりがたっぷりと出来そうだ。
この道はどれくらい前に出来たのだろうか? もしかしたら、この道が出来たことがこの町にとって最大の変化で、それ以来変化はないのか知れない。そんな時代のエアポケットに落ち込んでしまったような町で、四年間過ごすことになるのか……
「って、この町にずーっと居たんじゃないのか?」
峠を越え、丁度、良夜のアパートの前で足を止めて、肩に座るアルトに視線を向けて訪ねた。少なくとも、あの老紳士の口ぶりだと三十年以上はここに居るはずだ。
「この町には居るけど、アルトの外に連れて行ってくれる人はここしばらく誰もいなかったもの」
一瞬、アルトの顔に寂しげな陰が揺らいだ……ように見えたが、気のせいかも知れない。
「自分の足でも羽でも使えばいいだろう?」
「馬鹿、身長差を考えて物を言いなさい。私の体だと、ここまでくるのにどれだけの時間が掛かると思う?」
言われてみて、今、自分が歩いた道を振り返り、喫茶アルトに視線を向ける。良夜の足ならば十分と掛からないが……
「半日?」
「……やっぱり、耳たぶの処女失ってみる?鼓膜でも良いけど」
「ごめんなさい、冗談です」
ビバヘタレ。
すたすたと再び足を動かし初め、下り坂になった道を下っていく。
「ここのアパートも十年前はもっと古くかったわね。そこに住んでたのよ、前に見えた人は」
良夜のアパートを見上げ、先ほどよりもはっきりと寂しさを載せた言葉をこぼす。こんな口調も出来るのかと、極めて失礼なことを考えた。
「築三年らしいよ」
「ふぅん」
アパートの前を通り過ぎ、それが視界から消えるまで彼女はその三階建て築三年のアパートを見つめていた。肩の上に乗った彼女がどんな表情でアパートを見上げているか、それは良夜にうかがい知るすべはない。
「この町の外面は全然変わらないの。でも、ここに暮らす人、特に大学生達は毎年四分の一が入れ替わっちゃう。素敵だと思わない?入れ物は変わらないのに、中身はどんどん変わっちゃう町」
肩の上で良夜の歩くテンポに合わせて上下に揺れるアルト、さっきまでとはうってかわって楽しげな、歌っているようにも聞こえる口調。楽しそうに良夜の歩くテンポに合わせて、木靴に包まれた足をプラプラと動かしている。鎖骨の辺りにかかとが当たってちょっとくすぐったい。
確かに良夜の生まれ育った辺りは古い建物は取り壊され、新しい建物が建ち、新しい道が延びてはいるが、住んでいる人の四分の一が毎年居なくなったりはしない。
再び良夜の足がぴたりと止まり、肩に止まったアルトの羽をつまみ上げ、自らの顔の前にぶら下げた。
「どうしたのよ」
顔の大きさの割りには大きな目が良夜の視界の中央に滑り込む。
「いや……なんか、妖精っぽかったから」
「刺すわよ、その男の癖に二重の目ん玉」
本気であることを示すかのように、まぶたの上に細いストローを押しつける。
「目は止めろって。シャレで済まない」
「解ってるわよ」
羽を数回動かし、つまんでいた指先から逃げると、再び良夜の肩に腰を下ろす。もちろん、髪を腕に絡ませることも忘れない。
それから、更に十五分ほど坂道を下る間、アルトが十年前と比べて町のどこが変わっているかを教え続けていた。その内容、全てが「あのアパートは建て替えられている」だったことが、ここの変化のなさ具合を如実に示している。穏やかな昼前の陽光が二人を照らす。相手がリカちゃん人形じゃなければ、本当に良いデート日和だ。
「で……なんで、こんなに混んでるんだ?この店」
新鮮市場キムラ、ローカルなスーパーチェーンらしい。駐車場はほぼ満車でガードマンまで出ているし、レジには長蛇の列が出来てるのが、店の外からでも見えていた。
「今日、売り出しの初日だもん。近隣の街からみんな来てるんじゃないの?」
「よく知ってるな」
「ここ、十年前から毎週水曜日が売り出しだもの。変わってないみたいね」
「へぇ……今日水曜日なんだ」
ダメ人間一直線な台詞を吐く良夜。ここしばらく学校が休みだったおかげで、曜日の感覚がわからないし、気にもしてない。
しかし……と、店内へと視線を向け直す。凄いな、これは……レジなんか、三十分は待たされそうだ。昨日、この店の前を通ったときはこの半分も客は来ていなかったはずなのに。この中にはいるわけ? 俺……と思うと、
「今夜もアルトで食うかなぁ……」
と、言う気になってくる。
「やーい、ヘタレ」
耳元でアルトが茶々を入れてくる。ここで引き下がれば、また、今夜もアルトにからかわれながら食事をする羽目になる。
操られてるような気がしないでもないが、とりあえず、毎晩外食では金がいくらあっても足りない。
「うるさいって、それから、人が多いんだから、話しかけてくるなよ」
「はぁい……あっ、良夜」
「うるさいってば」
さてと、今夜は何にするかな。とりあえず、米、それから簡単に焼いただけで食える肉と野菜かなぁ、煮物とかは出来るわけないし……と、ぶつぶつと口の中で小さくつぶやきながら、人の波をかき分け店舗の中へと入っていく。
色とりどりの野菜が並ぶ陳列ケース、それを越えると肉が色々来て、魚がどーん……肉はともかく、魚などは半分くらいは調理方法が解らない。
冷凍商品が良いのかな、でも、こう言うのは割高だって言うし。実家を出る前にとりあえず、何種類かの料理は教えて貰ったけど、食べられなくはないって感じだったし。米の値段なんて解らないぞ……頭の中が混乱していく感覚を感じながら、人の波の中で足を進めていく。
あっ、そう言えばこの無駄知識だけはやけに持ってる自称妖精、簡単な料理くらい知ってるかも。
「なあ、アルト」
話しかけるなと言って置いて、自分から話しかけるのは負け犬気分を味わうが、そうも言ってられない……って――
「あっれぇ!おっことした?!」
アルトが居なかった。
良夜が思わず上げた大声に、周りのおばさん達が一瞬良夜の方へと向き、僅かばかりに奇異の視線を投げかける。が、その視線に良夜が気づく前に彼女たちは良夜に興味を失うのだった……