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貴方が出来る事と私が出来る事(完)

「……ごめん、酔った」

「なぁにぃ!?」

 喫茶アルト、最後の望みの綱は見事に切れた。

 彼女はそう宣言すると、頭の上で大きくしゃがみ込み、気持ち悪そうに口元を押さえはじめた。敗因はレジに入った良夜が何度も何度も無駄に頭を下げると言うところにあった。手際の悪い良夜は、ついつい、レジで客を待たせることになり、『お待たせしました』と言っては頭を下げ、それが終わると『ありがとうございました』と言ってはまた頭を下げる。そんな頭の上に座ってれば……まっ、酔うわな、普通。

「……美月さぁん……」

「……良夜さぁん……」

 それを説明した良夜、説明された美月、二人は世にも情けない表情を浮かべ、ランチタイムのラストスパートをかけ始めた店内へと視線を向けた。そして、良夜の手の上には切れた最後の綱……

 それから先の一時間ばかりを、良夜も美月も多くは語りたがらない。ただ……カップとグラスと皿とポットが各一つずつ駄目になった、とだけ言っておく……


「んぅ……んぅ……」

 乗り物酔いに倒れたアルトが目を覚ましたのは、ランチタイムが終わってようやく一息着ける時間帯になってからだった。倒れたアルトをいつもの席に寝かせ、良夜はそこで遅い昼食を一人取っていた。

「あれ……あぁ、私、気持ち悪くなって……」

「……ゲーゲー言ってたかと思ったら、そのまま、気持ちよさそうに寝やがって……」

 言いたいことは山ほどあった。気持ちよさそうに眠るアルトを見ながらの食事、その中で起きた彼女に言ってやる言葉はいくつも考えていた。最終的には言い負かされるかも知れないが、良い勝負は出来るだろうと思っていた。しかし……

「ごめんなさい……」

 その思いも掛けなかった言葉を聞き、良夜は頭の中に並べ、いつでも発射できるようにしていた嫌みの銃を取り上げることが出来なかった。

「……やれることはやったろう?」

 嫌みとは真逆の言葉が無意識のうちに零れた。

「……途中までだわ」

 アルトは膝を立ててテーブルの上に座り、その両足の間に顔を埋めていた。顔を上げることはなく、まるでテーブルと会話しているような姿だ。それを見た良夜は小さくため息をつくと、中身が入ったままのスティックシュガーを右の人差し指でテーブルの上でコロコロと転がし始めた。入れずに飲むことは美月も知っているはずなのに、何故か、毎度毎度付いてくる。

「まあ……なんとかはなったさ」

 ……とりあえず、店は今でも営業中だし、二度と来ないだろうと思われるような客も出なかった。問題があるとすれば、良夜がトレイをひっくり返し、ケトルを火に掛けたまま飛んできた美月がそのケトルを空焚きさせてしまったって事くらいだ。小さい問題小さい問題……と、思うことに決めた、たった今。

「……ごめんなさい……」

 相変わらずアルトは顔を上げない。そして声にも力はなく、ボソボソとまるで蚊の鳴くような声。

「……気にすんな」

 スティックシューの紙はいつの間にかクシャクシャになっていて、そこから白い砂糖の粒がぱらぱらと床の上にこぼれ始めた。

「……手伝えると思ったの……」

「手伝っただろう」

「……半分だけだわ」

 良夜の言葉にアルトは数回首を左右に振り、もう一度、顔を膝の間に押し込み、その小さな手で金色の頭を抱え込んだ。小さな肩が震えているようにも見える。

 もう一度、良夜は小さなため息をつく。もはや、彼が用意した嫌みの言葉は永遠にその行き場を失った。せっかく考えたのに……と使うことのなくなった言葉を心の奥へと押し込み、ついでにサラダを口へと押し込む。

「……飲むか?」

 二人の沈黙は、良夜が最後の一口を口に押し込むまで続いた。そして、カップのコーヒーを半分ほど飲むと、アルトの前へとカップを置いた。

「飲むわ……」

 ようやく立ち上がったアルト、しかし、未だ顔は俯いたままで良夜からはよく見えない。もう少し顔を上げていれば、彼女の泣き顔が見られたのにな、と良夜は少々趣味の悪い事を頭に描いた。

「あっ、良夜さん、食事、終わりました?」

 椅子に深く座り、アルトの後ろ姿を見るともなしに見つめていると、仕事に一区切りを着けた美月が良夜に声を掛けた。

「ええ、今、アルトがコーヒーを飲んでるので……」

「あっ、アルト、大丈夫ですか?」

 美月に声を掛けられたアルトは、コーヒーカップを足場にトンと飛び上がり、美月の肩へと舞い上がった。そして、一度だけ軽く髪を引っ張る。計算なのか、偶然なのかは判らないが、美月の肩へと飛び移る瞬間もアルトの顔は良夜には見えず、また、美月の肩に取り付いてからも顔を美月の長い髪の間に隠していた。

「そう? 余り、無理はしないでくださいね」

 しかし、今度は二度……

「無理しないと、お店が回らないわ」

「お店……閉めちゃっても良かったのに……」

「だめっ!!」

 次は二度、力一杯、髪が引っ張られた。それに美月が小さく悲鳴を上げると、アルトは慌てて髪から手を離した。

「えっ……」

 絶叫と言っていいほどの力で叫ぶアルトの声、それに良夜も驚きの声を小さく上げてしまう。そもそも、良夜は何となく、美月が無理に開けた物だと思っていた。良夜に手伝わせることと言い出したのも美月のはずだ……

「私は……臨時休業にしようと思ったんですよ、今日……」

 アルトを肩に乗せたままの美月は、申し訳なさそうに両手を胸の前で組むと小さな声で、良夜の家に電話を掛ける直前の話をし始めた。


 和明がぎっくり腰になったのは昨夜の話だ。とりあえず、一晩様子を見て……と言うことになったのだが、様子を見てもやっぱり、立ち仕事が出来るほどには回復しなかった。回復してないと言うことを知った時、美月は今日の営業は諦めようと思った。基本的に美月は喫茶アルトで働くことが好きだ。祖父が守ってきた店であり、アルトの住んでいる店でもあり、また、彼女自身が育った家でもある店で毎日働くことにある種の誇りも持っていた。

 しかし、どう考えても一人で店をまわすというのは無理な話だった。キッチンとフロアに一人ずつは確実に人間が必要だと言う事は、脳天気な美月にも十分に判っている。それでも営業したいという気持ちは強く、その二つの気持ちの間で美月は浅からず悩んでいた。

「良し! 今日は臨時休業、良し!」

 自分自身に言い聞かせるように、彼女は誰もいないフロアに出て大きく言い切った。祖父の部屋を覗いた彼女は、制服姿で店内へ通り『Closed』のプレートの上に『臨時休業』の張り紙を貼ろうとした。しかし、店を出る一歩手前で彼女の髪が二度、強く引っ張られた。

「えっ……アルト? ちょっと、二回って……駄目なんですか?」

 今度は一度。

「でっでも……私一人じゃ……やっぱり、無理ですよ」

 開きたいのは山々、祖父は美月の好きなようにすればいいと言ってくれた。開いて、最悪、途中で閉めるようなことになっても、彼は文句を言わないだろう……しかし、それはただの自己満足に過ぎない。何より、お客さんに迷惑を掛けてしまうかも知れない。美月はもう一度頭を強く左右に振って、強く言い聞かせるように無理だと言った。

 しかし、髪は二度引かれる。それもいつもよりも強い力で。

「せめて……後一人はいないと……アルト、手伝ってくれるの?」

 今度はブチッと音がするほどに一度。

「イタッ! もう……引っ張りすぎ。でも……アルトが出来る事なんて……」

 せめて、誰にでも姿が見えるのなら小さな体でも出来る仕事はあるのだろうが……アルトもそれは十分に理解しているのだろうか、美月の髪はいつまで経っても引っ張られることはなく、数秒の沈黙が二人の間に舞い降りた。

「やっぱり、止めましょう? 今日はお休みにして……アルトの分のコーヒーは私が煎れますから……」

 弱々しい力で美月の髪が二度引っ張られた。

「でも……アルト、良夜さん以外に見え……じゃぁ、良夜さんに仕事を教えてくれますか?」

 それは美月にとっては、ただの思いつきに過ぎないことだった。しかし、アルトにとっては天佑にも近い言葉だったのかも知れない。彼女は美月に返事をすることすら忘れ、ポーンと肩から飛び降りると、レジの横に置かれた電話へと飛びついた……


「と……言うわけだったんですよ……私も出来れば店を開けたかったので……」

 話を終えた美月は、小さくため息をついて最後に、良夜に小さく詫びの言葉を呟いた。良夜はその詫び言葉に「良いんですよ」とだけ答え、アルトへと視線を向けた。アルトは相変わらず、美月の髪に顔を埋め、その表情を見せることはない。事ここに至ると、彼女が良夜に顔を見せないようにしていると言うことに気がつく。

「お前、そんなに店を開けたかったのか?」

「……ええ……」

 美月の黒髪の中に顔を隠したままのアルトは、良夜に背を向けたまま、消えそうな声で返事をした。

「理由は?」

「……別に……ないわ……ほら、二人しかいない店員がこんな所にいてどうするの?」

 そして、ようやく顔を良夜へと向け、美月の肩から良夜の頭の上へ飛び移った。その顔は普段通りに小憎たらしい笑みを浮かべている。もしかしたら……目がいつもよりも僅かに赤みがあった……かも知れない。

「お前……また、酔っても知らんぞ」

「しばらく寝たから大丈夫だわ。ほら、今日は馬車馬のようにこき使うって言ったでしょ!」

 これ以上聞いても無駄だな、と思った良夜は美月にアルトの言葉を伝え、二人で肩をすくめ、首をひねり合った。


 昼からの喫茶アルトはそれなりに忙しくはあったが、ランチタイム前後のように二人だけの店員が半泣きになるほどのことでもなかった。良夜も少しは仕事に慣れたし、美月も幾分余裕を持って仕事をこなせるようになっていた。明日があるなら、もう少しはスムーズに働けるかな、と良夜は慣れない仕事で疲れた肩をほぐしながら思っていた。とは言っても、毎日授業をサボって喫茶アルトで働いているわけにも行かない。明日は必修の授業も多い。

「じゃぁ、美月さん、俺……そろそろ、本業があるんで……」

 時間は五時少し前、この場で言う本業とはスーパーでのアルバイトのことだ。間違っても、大学での授業のことや家での勉強のことではない。

「……良夜さん、学生の本業は授業ですよ?」

「……サボらせたの、誰ですか?」

 結局、良夜が今日受けたのは朝一つ目の授業だけだった。昼からの授業はランチを食いに来ていた友人を捕まえ、彼に代返を頼み、昼から二つの授業もフケてしまった。

「えっと……アルト?」

 両手を重ね、頬の横に置くいつもの仕草で誤魔化す美月。彼女の言葉にアルトがため息混じりに答えた。

「……否定はしないけど……」

「まあ……誰でも良いんですけどね。バイトは代返効きませんから……」

 ついでに変わりに働いてくれそうな人間も知らない。勝手にサボったら、一緒に働いてるパートのおばさんが翌日怒り狂うことはたやすく想像が出来る。母親と同じ年頃のパートのおばさんは、日帰り圏内で一番苦手としている人物である。母親に怒られているような気がするのだ。

「えぇ……やっぱり?」

 目を潤ませ、抗議の視線を送る美月、昼からの授業をサボる羽目になったのもこの視線のせいだったりする。単位取れなかったらこの人のせいだ、良夜は心に決めた。

「やっぱりじゃないですって……」

「スーパーなんて辞めて、ずっとここで働けばいいのに……」

 良夜と美月のやりとりを聞いていたアルトが、ぼそっと小さな声で呟いた。

「……ここ、四人も従業員、要るんですか?」

「要りませんよ?」

 アルトの声が聞こえていない美月は、良夜の言葉にキョトンとした顔で答えた。ランチタイムが終わった今では、二人でもこんな無駄話が出来るくらいに暇になってきている。時々、突発的に客が数人、入ってくることもあるので、余り油断は出来ないが……部室代わりにここを使ってる同好会なんかもあるからだ。

「……俺はベンチの秘密兵器か……」

 切られたことない切り札とか、勝ち試合には出せない押さえのエースとか……

「素直に補欠と言いなさい」

「何が悲しくて、補欠アルバイトなんて愉快な地位につなきゃならん……」

 速攻で戦力外通告を受けてしまいそうだな、と良夜は寂しく思った。トレイもひっくり返したことだし……

「ふぇ、補欠アルバイトじゃないですよ。アルトの通訳をしてくだされば……」

「……それ、補欠アルバイト以下ですから、美月さん」

「どういう意味なのかしら? 返答によってはまた禿に一歩近付くわよ……えっ、和明! 起きて良いのっ!?」

 最初に彼に気がついたのはアルトだった。彼女が何気なく店内へと向けた視線の端に、住居とフロアを区切るドアから入ってくる和明の姿が映った。

 その言葉に良夜が「あっ」と小さく声を上げると、美月もそれに続いた。

「ご心配、おかけしました……浅間さんにまでご迷惑を掛けて……」

 カウンターで話していた二人に気がつくと、和明は一番に深く頭を下げた。そして、すぐ、痛そうに腰へと手をやった。

「腰が痛いのに、頭下げないでください。アルトのわがままはいつものことですから……」

「お祖父さん、今日は寝ててくださいって言ったのに!」

 口々に掛けられる労りの言葉を、彼は節くれ立った手と笑みで小さく制した。

「大丈夫ですよ、老人は余り寝ていると寝たきりになりますから……」

 冗談めかした口調ではあるが、彼が言うほど楽でないのはすぐに見て取れる。その証拠のように、老店長はすぐにストゥールに腰を下ろし、大きく安堵したような吐息を一つそこに置いた。

「ぎっくり腰って癖になりますよ、店長」

「大丈夫ですよ、随分と良くなりましたから。浅間さんはスーパーの方に行ってください、後は私と美月さんで何とかなります……」

 深くストゥールに腰を下ろし、彼は良夜へと穏やかな視線を向けた。ある意味、美月の涙目よりもアルトの脅迫じみた引き留めよりも、彼のこの表情の方が後ろ髪を引かれてしまう。とは言っても、良夜もサボるわけにも行かなかった。

「とりあえず……俺、バイトの方行きますから……なんとか……なりますか?」

 良夜は美月をキッチンへと引っ張り込むと、和明に聞こえないように小さな声で囁いた。

「どうなんでしょう……でも、お祖父さんも言い出したら聞きませんから……コーヒーだけでも煎れて貰えれば、随分違うと思いますし……」

 ちらちらと美月はカウンターに座る祖父と良夜の顔を見比べて、良夜に習うように小さな声で答えた。

「アルトも店長に無――あれ?アルトがいねえ……」


「……貴女でしょう? 今日、店を開けさせたのは……」

 良夜と美月がそそくさとキッチンへと入っていくと、カウンターに座った和明は小さな声で呟いた。

「……」

 二人がキッチンへと入って行こうとしたとき、アルトは良夜の肩から飛び降り、和明から僅かに離れたところに腰を下ろしていた。和明の声が届くか届かないか……そんなギリギリの距離。アルトは彼の言葉には答えず、カウンターから投げ出した足をプラプラと前後に揺らしていた。

「ありがとうございます……」

「……ここは私の家だもの……」

 アルトの言葉は彼には届かない。そんなことは十分に判っている。何度も何度も確かめた。でも、この何年かは届いているような気がする……多分、気のせいだろうが……


「ふっかーつ!」

 翌日、部屋から出た良夜を出迎えてくれたのは、一日眠り続け、無駄に体力を有り余らせた貴美の声だった。

「そりゃ、良かったな……で、直樹は?」

 いつもなら一緒に出てくるはずの直樹の姿が、今日は見えなかった。そもそも、貴美自身、手ぶらだ。

「うん、移った」

「移すなよ……」

 あっさりと言い切る貴美の言葉に、良夜は全身の力が抜ける思いを覚えた。

「りょーやんが言ったとおりに、彼氏に甘えたら移ったんだから仕方ないじゃん?」

「……何やった?」

「……風邪が移るようなこと。まっ、そー言うわけなんで、二人分の代返お願いね。私は忙しいんよ」

「お前ら、昨日何やってた!? こっちはひどい目に遭ってたんだぞ!?」

「あっ、アルトのバイトには出るから、その間、なおのことよろしく!!」

 トントンと階段を踊るように下っていた貴美は、良夜の怒鳴り声を無視し、言いたいことだけ言って、大きなスクーターに乗って何処かへと消えていった。取り残されるのは、貴美の言葉に実戦の伴わない無駄知識をかき立てられる童貞君ただ一人であった。


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