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Stray Pixie(1)

 その夜のアルトはお疲れ様だった。

 数日前に良夜が始めたアルトバイトについて行ったからだ。

 旧市街の再開発地域に出来た大きなスーパー、そこで夕方から閉店まで五時間ほどのバイト。行ったところで面白いものでないことは判っていたが、良夜が驚くだろうなと思ったら、やってみたくなった。鍵が壊れたままになっているメットボックスの中に潜り込んでスーパーの駐輪場で顔を出したら、やっぱり大いに驚いていた。ギャーギャーと大きな声で怒鳴りまくってるけど、あまり気にしない。言ってる文句も想像通りだったし。

「頭の上で居ろよ、迷子になっても知らんからな」

「判ってるわよ。気の小さな男ね、童貞だからかしら?」

 一通り文句を言い終わると、彼はアルトの体を頭の上に座らせて仕事を始めた。これ以上弄ると、本当にスクーターのメットボックスの中に封印されてしまいそうな気がしたので、邪魔はしない。一応、仕事をしているわけだし。

 そう言うわけで、五時間ほど良夜の頭を椅子代わりに座っていたわけだが、これが結構疲れる。

 出来たばかりのスーパーはそれなりににぎわっていて、新人バイトの良夜もバタバタとあわただしく雑事に追われていた。

 そして、バタバタと走り回る椅子は、その上に腰掛けた可愛い妖精さんの体力を容赦なく奪う。五時間連続でジェットコースターに乗っているようなものだ。しかもシートベルトもなしで。良夜の仕事が終わる頃には、アルトの体力はゼロを大幅に割り込み、借金生活になっていた。ついでに乗り物酔いにもなった。

「きぼちわるい……」

「今日は忙しかったからな~ちょっとは懲りたか? 馬鹿妖精」

「流石に懲りたわよ、二度とついて行ったりしないわ」

「そうしてくれるとありがたいね、ゆっくり寝とけ。サテンのヒッキー」

 とっくに営業時間が終わった喫茶アルトの前、アルトはそんな話をして良夜と別れた。

 ペンペンと乾いたチャッチイ排気音を放つスクーターが満天の星空の下を走り去るのを見送り、換気扇の隙間から店内に潜り込んだのは、日付が変わるちょっと前。普段の就寝時間よりも一時間程度遅い。アルトは脱いだドレスを畳むことすら忘れ、おしぼりケースの中に崩れ落ちるように眠ってしまった。

 そして、起きると……

「ここは……どこかしら?」

 大量のおしぼりと共に、見知らぬ車に揺られていた。

 

「疲れていたのね、私らしくないミスだわ」

 二重のミス。新品のおしぼりの中で寝るつもりが、使用済みのおしぼりの中で眠ってしまっていた事、おしぼりを取りに来るまで目覚められなかった事。昨日の疲労は思ってたよりも遙かに大きかったようだ。

 業者のライトバンは古く、ちょっとした路面の変化を大げさに拾い、アルトの体を大きく上下左右に揺らしてくれる。お世辞にも乗り心地が良いとは言えない。昨日に引き続き、連続で乗り物酔いになってしまいそうだ。そんな車内でアルトはカゴの縁にちょこんと座り、流れる外の風景を眺めていた。見覚えのない風景が次から次へと流れ込む。雰囲気としては、喫茶アルトから旧市街の方へと走っているような気がする。

「さてと……どうしましょうか?」

 とりあえずは、使用済みのおしぼりを一つ取り、それを体に巻いて服の代わりとする。下着すらも着ていないのが非常に心許ない。それに、このおしぼりを使った人はどんな人なのだろうか? 不潔な人だったら嫌だな、と思う。アルトの客層から考えれば顔を拭いたり、脇まで拭いちゃうようなおじさんはあまり多くはないが、講師や教授にそう言うのが少し居るのが気に掛かる。それと……

「ストロー……置いて来てしまったわね……なくなってなければ良いのだけど……」

 一番古い記憶の中ではすでに持っていたストロー、それは体の一部、手の延長。確か……と、寝る前の記憶をたぐる。いくらたぐってみても思い出せない。普段なら、妙なところに落ちたりしないように気をつけてはいるのだが、昨日は無意識のうちへ何処かへ置いてしまったらしい。三つめのミス。一晩に三つのミスは初めてかも知れない。手の中にあるべきものがないことが、アルトを少しだけ不安にさせる。

「帰らなきゃいけないわね」

 ストローさえあれば、明日、この車が再びアルトへおしぼりを回収しに行くまで待っても良かった。しかし、手元にないだけならともかく、置いた場所すらはっきりしないのだから、早く帰って捜さなければならない。下手なところに置き去りだったら、貴美か美月が捨ててしまうかも知れない。彼女たちの目にストローは見えないのだから。

「和明はそれでも捨てないと思うのよね」

 窓の外を眺めながら、アルトは独り言を呟く。

 そんなアルトを乗せたライトバンは、ゴトコトと不規則な振動を繰り返し、道を行く。

 窓の外、流れる風景はますます見覚えのないものへと変わって行っていた。この間、美月達が買い物に行ったときには使わなかった道、見てて飽きない。どこに止まるのかは知らないけど、帰る方法は止まってから考えよう。旧市街なら電車もある。再開発地区なら、良夜のバイト先で待ってても良い。山のど真ん中で営業してるって事はないだろう、いくら何でも。

 そんな計画を立てれば少しは落ち着き、窓の外を眺める余裕も生まれてくる。

 流れる風景を眺めるのは好き、止まっている風景を眺めるのも好きだが、そっちはいつでも見られる。過ぎ去る時間は他人が運転する車の窓から見える風景ににていると思う。立ち止まりたいと思った時には過ぎ去り、先を急ぐのに全く動かないって事もある。いざ、走り出したら、そこに戻ってみたくなる時もある。何一つ思い通りにならないところが好き。

 ――と言う話をこの間したら、良夜は『そうかぁ?』と変な顔をしていた。情緒の判らない男、だからモテないのだろう。

 ちょっぴりの不安を誤魔化すようにいつもよりも大きめの声で鼻歌を歌う。いつものように勝手に動き出した手には、いつものストローはない。あるべき物がないことを再認識。さっさと帰らなきゃいけないって事も再確認。

 

「遅かったよな? 道、混んでた?」

「なーんかな、飛ばす気にならなかった」

「そう言う日もあるか?」

 ライトバンがおしぼり屋の前に止まると、従業員が一人出て来て、運転手と一緒に大量のおしぼりを車から降ろし始めた。彼らは固く閉ざされていたテールゲートを開き、クシャクシャになったおしぼりがつまったカゴを下ろしながら、何か色々と話をしていた。もちろん、アルトには興味のない話。動くたびにずれるおしぼりに気を払いながら、トントンと片方の頭を踏み台にやけに狭い空へと舞い上がる。

「――どうした?」

「あぁ……なんか、頭に当たった」

 踏み台にされた従業員が仕事の手を止め、四角い立木で埋め尽くされた空へと舞い上がるアルトの方へと顔を向けた。彼の目にはまぶしい昼前の太陽しか見えてない事だろう。

 それを確信しながら彼女は言う。

「見上げないで欲しいわね、いやらしい」

 この時、アルトにはかなりの余裕があった。おしぼりドレスの中を見上げる従業員に馬鹿な冗談を言える程度には。おしぼり屋のある場所は予想通り旧市街の駅の傍。十年以上も来たことのない場所で、前に来たときとは全く雰囲気も違うが、さすがは都会、目に着くところに各種案内表示がなされ、駅に行く道くらいはお上り妖精さんにも十分に判る。現在地から最寄り駅までと、喫茶アルトとその最寄り駅までがアルトの脚ではそこそこに時間が掛かりそうだという点を除けば、帰ることに問題はない。まだ『迷子』じゃない。これがアルトの余裕の源だった。

「この辺はアルトの傍とは全然違うわね。前に来たときと風景が変わっちゃってる」

 前に来たのは、前に見えていた人の買い物に付き合ったときだ。その時に行ったはずのレコード屋はすでに潰れ、他の店が建っている。レコード屋という表現はあの頃すでに死語だった。『レコード屋さんに行くのかしら?』と、尋ね、大いに笑われた事を思い出した。

「CD屋さんって変だわ。最近はCDショップとか言うのかしらね……何でも横文字にすればいいって物じゃないわよね」

 横文字の名前を持つ妖精さんは、最近の日本の風潮に嘆いていた。ついでにアルトの看板にも「Cafe」と横文字が書かれている。その辺はまとめて心の棚にナイナイ。彼女の心の棚はいつも整理整頓がなされている。二度と引っ張り出されないけど。

 そんなちょっぴり昔のことを考えていると、そのレコード屋さんの近くに喫茶店があったことを思い出した。確か、あの時は帰ってアルトで飲めば良いと主張したと思う。しかし、半ば無理矢理連れて行かれた喫茶店で出されたコーヒーは、珍しくアルトの舌も満足させるだけの味だった。あの店なら、潰れてたりはしないだろう。少しくらいの寄り道なら大丈夫、まだ、時間は昼前、寄り道してもアルトの閉店までには帰れる。ストローが気がかりではあるけど……美味しいコーヒーの方が大事だった。今朝は全然飲んでないし。

 ビルの足下を縫う道を行き交う人の頭を踏み石に歩くように飛ぶ。アルトの羽はあまり性能が良いわけではなく、高度も二メートルが限度、しかも、一度高度が落ちると上がるのに少々努力が必要になる。喫茶アルトの周りだと、一部の時間を除いて人通りも少なく、踏み石になる頭もあまりないが、ここだと頭は掃いて捨てるほどある。もっとも、おかげで一度落ちると、誰かに踏まれて大怪我をしてしまうかも知れない。楽で早いが、油断は出来ない。危険な賭だ。

 トントンと目的地に近付くであろう頭を捜しては、それを踏み台に次の頭を捜す。何度もそんなことを繰り返し、目的地へと近付いていく。一人で飛ぶよりもずっと早い。見知らぬ人の髪、堅い人、柔らかい人、長い人、短い人、生えてない人、色々な頭、ダンスを踊るつもりでその頭を踏み台に飛んでいく。

 そして……迷った。

 

 から~ん。

 いつものランチタイム、良夜は喫茶アルトのドアベルを鳴らした。

「いらっしゃい、良夜さん。ねえ、アルト……居ます?」

 店内に入った良夜を出迎えたのは、心配顔の美月が言ったそんな言葉だった。

「えっ、どうしたんですか?」

「毎朝、一度は歌ってるような気配がするんですけど、今日は全然しなかったんですよ」

 美月は良夜と一緒に来た貴美に仕事を任せ、彼をキッチンに呼ぶとそんなことを言った。彼女の話によると彼女の祖父も今日はアルトの気配というか、そう言う物を感じていないらしい。

「滅多にないことらしいんですけど……」

「アイツ、昨日、凄く疲れてたから、変なところに潜り込んで寝てるんじゃないんですか?」

 アルトが毎晩、気分によって寝るところを変えるという話は、良夜は聞いていたし、その話を美月にしたこともある。ポットの中で寝てて、翌日、危うく茹でられそうになったこともあるらしい。そのまま茹でられときゃ良かったのに……と、本気で思った。

「そ……そうでしょうか?」

 そんな話をしても、美月はまだ心配そうな顔を崩さない。

「大丈夫ですよ。そのうち、ヒョッコリ何処かから顔を出しますから。見かけたら美月さんにも声を掛けますから」

「はい、よろしくお願いします」

 居れば居たらで迷惑になるようなことばっかりやるし、居なきゃ居ないで心配を掛けてくれる、どこまでも人を振り回してくれる妖精だ。良夜は大きく腰を曲げた美月に、軽く手を振っていつもの席に腰を下ろした。そこにはすでに、直樹が座っていて丁度おしぼりの袋を開けようとしていた。

「三島さん、どうしたんですか?」

「ン、ああ、ちょっとな」

 適当に誤魔化すと、直樹はそれ以上決して立ち入っては来ない。この辺は貴美と違うところだ。そうですか、とだけ言うと袋から出したおしぼりで手を拭こうとした。

「イタッ!」

 袋から出したおしぼりを広げた直樹の指先に、小さいが決して無視できない痛みが走った。

「どった?」

「……なんか……針が入ってたかも……」

 そう言って、直樹がおしぼりを振うと中から小さな針がキィンという涼しげな音を立てて、テーブルの上へと落ちた。

「本当だ……結構、でかいぞ、これ」

 直樹の手元に落ちた針は、大きな窓から差し込む光にきらきらと光っていた。良夜は何気なくそれに手を伸ばし、つまみ上げて自分の目の前へ掲げた。太く長い針のような物。何処かで見たような気がする。

「……どれですか?」

「これ」

 摘んだ針を自分の目の前でフラフラさせる。しかし、おしぼりに針って、どこの業者だろうか? 美月さんか店長に言って、クレームつけて貰わないと……半ば関係者みたいな直樹と良夜だから良かったような物の、妙な客に当たってたら大変なことになってた。

「……だから、どれですか?」

 目の前でその針を揺らして見ていた良夜に、直樹の声が届く。その声で良夜の頭の中で微妙にずれていた歯車がコトンと音を立ててかみ合った。

「!!」

 賑やかになりかけたアルトの店内に良夜の椅子が倒れる音が響く。良夜は倒れた椅子もそのままに、キッチンへと掛けだしていた。

「りょっ、良夜君?」

「ワリィ! フケっかから、代返とノート頼む!!」

 立ち上がった良夜は、回りの目も気にせず大きな声で美月をキッチンへと呼び出した。

「あんの馬鹿っ!」

 血のにじむ人差し指を抱えたまま、呆然と良夜を見送った直樹の耳に、吐き捨てるような良夜の声が微かに聞こえた。

「……良いですけど、別に……あっ、吉田さん、バンドエイド下さい」

 チュパッと細い指先を薄い唇で咥え、傍で客の相手をしていた貴美に声を掛けた。


 喫茶アルトのキッチン、良夜はおしぼりの中にアルトのストローらしき物が入っていたことを和明と美月に伝えた。そして、そのおしぼりが置いてあった場所を教えて貰う。

 キッチンの片隅、大きな棚が二つ並んでおいてり、そのひとつがそうだ。

 そこには今日も真新しいおしぼりが奇麗に並んで入ってある籠が一つと、使用済みのおしぼりが適当に放り込まれた籠が一つ、並んで鎮座していた。

 そして、その籠の間、隙間にアルトが昨日着ていたドレスが押し込まれていた。誰にも触れられず、そこに置かれ続けていたのは幸運だと言えるだろう。それが床の上にでも落ちていれば、彼女が使用済みおしぼりの中で寝ていたと言うことに、誰も気がつかなかったかも知れない。服も良夜にしか見えないと言うことを考えれば、奇跡に近い幸運だ。

「ここで寝てたみたいですね、あの馬鹿たれ……」

 ひとまず、ストローをドレスにくるみポケットにねじ込む。本当に寝たまま連れて行かれてるのならば、今の奴は裸のはずだ。

「昔から、変なところで寝るのが好きな娘でしたから……」

 流石の老人店長も落ち着かない様子で、その辺りに置かれていた物をひっくり返したり、棚の裏を覗き込んだりしている。見えないことは判っていても、しないではいられないのだろう。

「とりあえず、俺、そのおしぼり屋さんを見てきます」

「お願いします。おしぼり屋さんには連絡しておきますから」

 流石にクリーニングされるまで眠り続けはしないと思うが……しないよな、普通。妙なところで抜けた奴だから……と今までの行動を思い起こすと、自信が持てなくなってくる。

 青年はろくろく支払いもしないで裏口から駆け出すと、一端、アパートへと帰った。そして、自室に戻って荷物を置く時間すらも惜しみ、スクーターを引っ張り出す。

 目指すは旧市街にあるおしぼり屋。

 古びたヘルメットに頭を突っ込むと、色々問題ある速度でかっ飛ぶ。

「ほんっとーに居ても居なくても迷惑ばっかり掛けやがって!! 今日こそは折檻してやる!!」

 お古のヘルメットの中で、怒りに不安と心配のエッセンスを混ぜた大声が響き渡った。


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