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ゴールデンウィーク(二十九日-三十日)

 四月二十九日土曜日みどりの日、当人は決して認めないのだが、この日、喫茶アルトに住まう自称「可愛い妖精さん」は朝っぱらから上機嫌だった。いつもの朝よりも早くに起き、鼻歌交じりに身だしなみを整え、良夜の席にちょこんと座ってその席の主が来店するのを今や遅しと待ちわびていた。その理由は一つ、今日明日はタカミーズが留守をしている。正確を期すならば、直樹が居ないから良夜と沢山しゃべれる。コーヒーも遠慮なくブラックで飲める。ついでにストローで奴を刺しても良い……いや、刺しちゃダメだろう? と、良夜がアルトの本心を聞いたら突っ込みを入れたかも知れないが、とりあえずは、刺しても良いことになっている、アルトの中では。

 良夜にとってすれば迷惑この上ない話ではあるが、ともかく、上機嫌だった。

 一応、良夜は『毎日は来れない』と常々言っているし、アルトも『期待しないで待っている』と言っているのだが、その前日、良夜は珍しく『明日も来るよ』と言って帰った。彼も直樹と一緒にランチを取るようになって、アルトとあまり話が出来なくなった事を気にしているのだ。一度、ひどくすねられたし。だから、タカミーズの居ない二十九日と三十日はアルトと多めに遊んでやろう、気分は仕事に追われるお父さん。

 が、奴はランチタイムになっても来なかった。アフタヌーンティの時間にも来なかった。ディナーの時間にも来なかった。夜食の時間には……閉店している。

「……殺す」

 その夜、喫茶アルトの美人ウェイトレス三島美月は、何か細い棒のような物が風を切る音を聞いたという……

 

「スマン、寝てた」

「遺言はそれだけかしら?」

 翌三十日日曜日。土曜日が祝日だと振り替え休日がないので不満な社会人は多いだろうという話は本編には全く関係ない。

 良夜は朝一番に喫茶アルトを訪れていた。怒っているだろうな、とは思っていた。グジグジとすねられるよりかは、ストレートに怒ってる方が気楽だとも思っていた。しかし、いざ、ストローに息を吹きかけペーパーナプキンで磨いている姿を見ると、背筋が凍る思いをした。

「いらっしゃいませ!」

 美月に声をかけられてなきゃ、ドアを閉めて帰ったところだ。

 そして、いつもの席に通され、アルト裁判の被告席に座っている。弁護士も居なければ、黙秘権も通用しない。今の彼に人権という物は存在していなかった。

「ヘイ、良夜。お手」

 アメリカーンな発音で、アルトはストローでちょいちょいとテーブルの上を指す。そこに置けと言っているようだが、置いたら確実に刺される。

「アルト……言い訳くらい聞かないか? って言うか、聞いてください、お願いします」

 普段よりも卑屈だった。いっぺんの曇りもなく、自分が悪いのだから卑屈にもなろうというもの。

「そうね、風邪を引いて寝込んでいた、とかだったら聞いてやっても良いけど、タカミーズと朝まで飲んでて、翌日は夜まで熟睡してた、なんて言ったら……殺すわよ?」

 冷たい視線を持って彼女はそう言った。

 アルトの予想は良い線をついている。間違いは相手がタカミーズではなく、他の友人連中だったって所と、朝までじゃなくて翌日の昼までで、一眠りのつもりで寝たらつい先ほどまできっちり熟睡をしていたって所だけだ。いやぁ、飲んだ飲んだ、肝臓がいてーや。

 くどいようだが、お酒は二十歳を過ぎてから……なんて綺麗事、良夜も知識としては知ってる。

 さて、どうするか? 選択肢は三つ、嘘をつくか、正直に話すか、素直に刺されるか。ちなみに、するつもりだった言い訳は『風邪を引いて寝込んでた』である。先に言われた以上、使えるとは思えない。絶体絶命である。

 ちらりとアルトの顔を伺い見る。ペチペチと乗馬鞭のようにストローを自らの手に叩きつけて微笑む妖精。何か隠し球を持っている……ような気がする。この選択肢を一つ間違えれば、自分の死刑執行書に実印を押すことになるだろう。

「まあ、そのなんだ……あれだな、うん、あれだ。あれと言ってもいろいろあるから、どれと言うことははっきり言えないんだが……ともかく、調査報告書は二週間以内に出すから」

「この怒りを二週間も熟成発酵させて良いのかしら? 致死量になるわよ、比喩表現ではなく」

 ラッキー、まだ、致死量じゃないつもりなんだ……嘘だろう? ゼッテー致死量だよ、こいつの怒り。そんな思いが頭をよぎった。

「痛くしないでね?」

 小ネタを挟んでおずおずと手をテーブルの上に置く。素直に刺される事を選んだようだ、意外と潔い男だった。まあ、彼女の怒りが致死量を超えるまでの時間に都合の良い言い訳を考えられそうになっただけ。

「男の『ね?』は気持ち悪いから止めなさい。それと……お手拭き、噛んでおく? 大声出すとみっともないわよ」

 痛くしないつもりは毛頭ないらしい。と言うか、思いっきり痛くするつもりのようだ。

 そして、アルトのストローが三回ほど良夜の手のひらに振り下ろされた。それはひと思いに殺せと思うくらいに痛かった、とだけ言っておく。

「思いっきり痛くしやがって……」

 ズキズキと血をにじませながら痛む手を大きく振りながら、全くの手加減なしでストローを振り下ろしたアルトに、恨みがましい視線をぶつけた。

「生きてる証よ、良かったわね、良夜。生きてるつもりで死んでる人って時々居るらしいわよ」

 深々と三回、良夜の手に突き立てられたストローをアルトは丁寧にナプキンで拭く。何処かの剣豪……と言うよりも、タチの悪い辻斬りのような仕草だ。実際、一日遅れで、思いっきり良夜の手にストローを刺すことが出来て満足しているのだから、立派な辻斬りである。

「そんなに俺に会いたかったのか?」

「そうね……久しぶりに良夜にストローを突き刺せるかと思うと、自分でも驚くくらいに浮かれていたわ」

「だったら、思いっきり三回も刺したら十分だろうが……」

「だから、それで許してあげたんじゃない」

 恨み言を言う良夜に、アルトは面倒くさそうな視線を向けストローを拭いたナプキンを良夜の手とテーブルの隙間に押し込んだ。どうやら、捨ててこいという意思表示らしい。

「そりゃ……どうもありがとう」

 無理矢理握らされたそれをギュッと丸め、テーブルの隅に置く。アルトが批判の視線を向けているが無視。

「いえいえ、どういたしまして」

 ふわりと広がったスカートの裾をちょこんと摘み、アルトは恭しく頭を下げた。

「所で、コーヒーが冷えてしまったのだけど?」

「あぁ、お前の拷問を受けてる間にな」

「私、コーヒーは熱い方が好きなのだけど?」

「じゃぁ、自分で注文したらどうだ?」

「判ったわ」

 あっさりと引っ込んだアルトは、先ほど良夜が丸めたペーパーナプキンを両手でよいしょと持ち上げると……それを閑散とした店内で暇そうにしている美月に向けて、投げつけやがった。

 良夜が「あっ!」と声を出す暇もあらばこそ。それは、フラフラとやる気のない速度で大きな放物線を描き、見事に美月の頭にヒットした。

 どこからともなく飛んできた丸められたペーパーナプキンを片手にキョロキョロと店内を見渡す美月と視線が交わる。思わず、にっこりと会釈をしてしまう良夜。

「お客様、口で呼んでくれれば聞こえますから」

 ぶつけられたペーパーナプキンを握りしめ、美月は良夜の席に近付くとにっこりと優しく微笑んだ。心なしか、こめかみと唇の端が痙攣しているような気がするのだが……

「あっ、アルトですよ、それぶつけたのは」

「お客様……人の所為にするのは良くないですよ?」

「日頃の行いの差ね」

 知られてないだけじゃないか……クスクスと笑いながら胸を張るアルトとこめかみを痙攣させている美月、その二人を交互に見つめて、はぁ、と大きくため息をついてしまった。俺の人生はどうしてこんなに理不尽に出来上がっているのだろうか? 一度、ゆっくり、人生について考え直してみる必要があるのかも知れない。こうして、工学部一年生は、自分の学位には全く関係ない哲学へと目覚めていく……わけはない。


「もう、アルトったら……悪戯が過ぎます」

 昼食までの時間を美月への説得に費やし、ようやく誤解を解くことが出来た。そして、美月も店が暇なことを良いことに、店番は和明に任せ、良夜と一緒に食事を取ることにした。

「ちょっとした悪戯だわ。気にしないで」

 二人前のランチ、美月はフルーツと生クリームたっぷりな自家製ワッフル、良夜はピザトースト、二人ともブレンドコーヒーをセット、それをほんの少しずつ摘みながら、アルトは悪びれもなく言い切った。

「……――と、言い切ってますよ、美月さんの生クリームをなめながら」

 アルトの言葉を良夜が美月に通訳する。

「生クリームの方は余計ね、言わなくても良かったわ」

 ついでに良夜のサラミも食ってる。生クリームとチーズの付いたサラミって言う組み合わせは、見ているだけで胸焼けがしてくるのだが、当人は美味しそうに食べてる。おかしな奴だ。

「生クリームは良いんですけどね……本当にアルトって悪戯が好きなんですね」

 自分のワッフルを小さく切り分け、それにたっぷりと生クリームをのせるとお皿の端っこに置く。それをアルトはストローで突き刺すとパクッと大きく口を開いて囓った。

「幻滅しました?」

「女の子ですからね、悪戯好きな方が可愛いです」

 美月は全然気にしていない。良夜がやったと思っていたときとはえらい違いだと思う。ちょっと寂しい。

 そんなことを思いながら、良夜も千切ったピザトーストを一口囓った。口いっぱいに広がる濃厚なチーズの風味とタバスコの効いたピザソースの味。

「美月は心が大きいのよ、良夜とは大きな違いだわ」

 小さくて結構だという思いを込めてアルトの額を指先で弾こうとしたが、それはアルトの額ではなく、アルトが立てたストローの先端の方に当たった。爪の生え際にストローが潜り込むって言うのは、なかなかに痛い。

「ツッ……カウンターかよ」

「やりようが甘いのよ。修行を積みなさい」

「良夜さんだけ、アルトと遊んでる……」

 美月がぷーっとほっぺをふくらませ、良夜の顔を恨みがましく見つめている。そんな目で見ないで欲しい。遊んでると言うより、遊ばれているって言うような立場なのだから……と思ったら、凄く悲しくなった。

「美月さんとも遊んでやれよ」

「……見えない人と遊んで貰うのは危ないのよ……」

 ピザとワッフルに満足したアルトは両足をテーブルで投げ出し良夜の顔を見上げてそう言った。

「そうですよ、私とも遊んでください」

 そんなアルトの様子も声も聞こえない美月は脳天気なものだ。

「何回、叩き落とされそうになったか……実際に叩き落とされたこともあるわ」

 それは今を遡ること数年前、美月が高校を卒業した頃の話だった。その日、美月は祖父の元でアルバイトをして貯めたお金でスクーターを購入した。それが嬉しくて仕方なかった美月はアルトを誘って遠乗りに出かけた。そして、見つけた空き地にスクーターを止め、アルトと遊び始めた。アルトも数年ぶりの外出と言うこともあり、美月の髪を引っ張ったり、スカートにじゃれついたりと楽しいひとときを過ごしていた。

 が、その時振った美月の手がアルトの後頭部を直撃。アルトはそのまま叩き落とされ、冷たい地面の上で白目を剥いて気絶してしまった。

 こいつ、しょっちゅう白目剥いてんな、一応ヒロインなのに。まあ、それはどうでも良い。

 ともかく、そう言う不幸な事故が起きた。起きただけなら良かったのだが、美月は自分がアルトを叩き落としたことにも気がつかず、ひとしきり、一人で遊んだ後、アルトに「じゃぁ、帰りますよ~」とのんきに声をかけたつもりで、一人で帰ってしまったのだ。

 アルトが目覚めたのはそれから数時間後、流石のアルトも本気で泣いた。

「と、言うことがあったのよ……」

「……むごいな」

 本気で同情した。

「あの……また、アルトが何か言いました?」

 アルトに自分の恥ずかしすぎる過去を暴露されていることなど、美月は知りようもない。しかし、良夜がアルトの居るであろう方向に向けて、激しすぎるほどの同情心を込めた表情を向けていることから、ろくでもない話がされていることだけは理解した。

「……美月さん、いくら何でもアルトが可哀想なので、はたき落とすのは止めてあげてください。カトンボじゃないんですから」

「同情してくれるのは良いんだけど、カトンボって誰のことなのかしら?」

 アルトがぶっ殺してくれそうな視線を向けているがとりあえず無視、恐いから。

「そっ、それは子供の頃の話ですよ~アルトが急に髪を引っ張ったから、びっくりしちゃっただけです」

「それはまだ小学生だった頃の話ね」

「それじゃないんですけど……」

「えっ、そっ、それじゃ、えっと……中学生の頃の? あれは、お店にトンボが入ってきたから……」

「トンボと一緒に叩き落とされたのよね、トンボと抱き合う羽目になったのは辛かったわ」

「……申し訳ございませんが、それでもないです」

 アルトの叩き落とされ人生が意外と充実していることを知ったゴールデンウィーク二日目であった。

 

 追伸、美月が高校卒業時の話を思い出すことはなく、良夜に言われ初めて、叩き落とした挙げ句に忘れて帰ってきていたことを知ったのだった。


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