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ゴールデンウィーク(直前)

 最後の客がラストオーダーを過ぎてすぐに帰ってしまう、そんな夜もたまにはある。そんな夜は、喫茶アルトの二枚看板、吉田貴美と三島美月の二人はさっさと掃除を済ませて、お茶会をするのが通例になっていた。美月が入れたコーヒーに売れ残りのケーキか何かを着けてのちょっとしたお茶会。それは仕事終わりのちょっとしたお楽しみにもなっていた。

 ……訳なのだが……今夜はちょっと様子が違っていた。

「……」

 ウェッジウッドのコーヒーカップを二つ前にして、貴美は真剣に悩んでいた。

「……」

 真剣に悩む貴美の姿を美月も真剣に見つめていた。

「……」

 ついでに美月の肩の上でアルトも真剣に見守っていた。

「こっちよ」

 ようやく決断を下した貴美が、一つのカップを持ち上げ断言した。

「……ふぁいなるあんさー?」

 アルトが誰に耳にも届かない小ネタを差し入れる。誰も聞いてくれなくても小ネタは忘れない、それが彼女の生きる道であった。そんな彼女の努力を知らない美月はあっさりと答えを述べる。

「……インスタントです」

「えぇぇぇ~~~!!」

 レギュラーコーヒーとインスタントコーヒーの聞きコーヒー、バイトとは言え喫茶店のウェイトレス相手にやることではない。やることではないが、それを当てられない貴美も貴美。何故、こんな事をやっていると言う事を説明するためには、話を数日前に巻き戻させなければならない。

「『吉田さんはミルクと砂糖が入った泥水もコーヒーだと思う』ってアルトが言ってたんですよ」

 こんな話を美月にしたわけだ。どういう話の流れでこういう話になったのか、それは美月も良夜も良くは覚えていない。ただ、何となくそう言う話をしたわけだ。そして、今日、その話を貴美にしてしまったわけだ。アルトの名前を出さずに言ったので、主語が『良夜さん』になってしまってしまっているのは、ちょっとした不運である。

 まあ、当然、貴美は怒っちゃったわけだ。で、『私だってコーヒーの味くらい判る』ってなもんで、『じゃぁ、とりあえず、インスタントとレギュラーで……』と、聞きコーヒーをやった。やったらモロ外した、それも三回連続で。適当に言ったって一回くらいは当たりそうな物なのに……

 貴美の名誉のために一言言うならば、別に貴美が味音痴というわけではない。むしろ、彼女は料理が非常に上手だ。どちらかというと味にはうるさい。ただ、彼女は決定的に『苦い物が嫌い』ゴーヤも嫌いだし、ピーマンもよく炒めて濃いめの味付けにしないと駄目、コーヒーにも砂糖とミルクをガバガバ入れて飲む。だから、コーヒーの微妙な味わいも何も判らない。なら飲まなきゃ良いじゃないかという話なのだが、ミルクと砂糖をガバガバ入れたカフェオレもどきのコーヒーは大好きというのだから手に負えない。だったら、最初からカフェオレを飲んでろ、とこの聞きコーヒーの一件、その発端となった妖精さんは思っていた。

 なお、ビールなんかは確実に『苦い飲み物』だと思われるのだが、こちらは大好きというのだから、人間の好き嫌いなんて気分の問題だと言われるのがよく解る。

「……本当に?」

「本当です……」

 流石の貴美もショックを受けているのか、珍しく顔が暗い。美月の方はと言うと『あんなに砂糖とミルクを入れるからですよね……』との思いを口に出して良いものやら悪いものやらと悩んでるようだ。細い眉が困ったように垂れ下がっているのが、美月の肩口から彼女の顔を覗き込んでるアルトにも解った。

「……」

 しばしの間、暗い顔で落ち込んでいた貴美は、大股で倉庫兼事務室の中へと消える。そして、出てきたときには彼女の赤い携帯電話がその手の中に握られていた。

 額に深い皺を刻んで、彼女は二つ折りの携帯電話を開いた。そして、何処かに電話……耳に当てたら結構大きめの声で彼女は言った。

「……あっ、もしもし、りょーやん? いますぐアルトに来て! どーせ、ゲームやって泣いてるだけっしょ!? 来ないと、それのネタ、全部話すかんね!! そう、全部! 泣き所からオチまで、全部!!」

 ブチンと携帯を叩ききる。肩で息をしている。

 その姿をドアの陰からそっと見守る美月……逃げ腰であるのは妖精さんの目から見ても明らかだったし、アルト自身、とっとと逃げちゃおうかな? なんて思っていた。


「なんのようだよ?」

『『『わっ、こいつ、本当に泣いてやがった』』』

 目が赤く、必死で顔を洗ったことを示すように濡れた前髪でやってきた良夜を出迎えた三人は心の中でそう思ったらしい……と、言う話はとりあえず置いておいて……だ。

「良夜君、いらっしゃーい」

 営業用人格はなりを潜め、もろ、タカミーズの貴美に戻っている。しかも、呼び方が『りょーやん』ではなく『良夜君』、無性に嫌な予感がする。一応、出かけしなに『保険』はかけてきたのだが。

「ごめんねぇ~泥水に砂糖とミルク入れてもコーヒーだと思う人で」

 その予感は当然のように命中していた。そう言ったのは俺じゃない、と言いたいところだが言えない苦しさ。美月さんめ……と顔を上げると、貴美の後ろで美月が可愛らしく両手を合わせて拝んでる。その肩の上でニヤニヤと楽しそうに笑っているのは言った張本人。俺の人生、今日で終わるのかなぁ……ちょっぴり本気でそう思った。

「ああ……まあ、なんだ、料理上手だから良いじゃん? なおがいつも自慢してるよ。吉田さんの料理は上手だって」

 おだててみた。

「ありがとう、良夜君……でも、その話は関係ないから」

 駄目だった。

「あっ、直樹が今夜はバイトから早めに帰るって、さっさと帰って、直樹といちゃいちゃしたら?」

 違う話を振ってみた。

「じゃぁ、今夜は帰ってこないでね」

 やぶ蛇だった。

「あれ、店長は?」

 助け船を捜してみた。

「お客さんが早めに捌けちゃいしましたから、先にお風呂、入ってます」

 出航済みだった。って言うか、美月さん、貴女が助け船になって下さい。

「ごめんなさい、私が悪ぅございました」

 本当に恐かったんだもん、後に良夜はこう語っている。高校卒業した男の『だもん』は気持ち悪い。

「コーヒーの味が判る良夜君なら、きっと、判るよね? 聞きコーヒー」

 コーヒーカップを二つ持った女がこんなに恐い存在だと思ったのは生まれて初めてのことだった。

 そして、十五分ほどの時間が過ぎた。

「……なんで、判るんだろう?」

 良夜は貴美の聞きコーヒーをクリアーした。それも豆の原産地まで完璧に当てて見せた。そこまでやられると流石の貴美も完全に敗北を認めるしかない。敗北を認めた貴美は良夜が飲みのこしたコーヒーの臭いを嗅いでみたり、指で舐めたりしながら、何度も首をかしげている。彼女にしたらブラックのコーヒーなど、ただの苦い飲み物に過ぎないのだろう。

 しかし、良夜の戦績には大きなインチキが隠れていた。

「良夜~、来週一週間、ランチはブルマン、それで助けてあげるわ」

 このアルトの甘い誘惑に良夜はこっそりと小さくうなずいたのである。本当に小さな男だと自分でも呆れる。しかし、自分が聞きコーヒーで三連敗したからと言って、その原因を作った相手に原産地当てクイズをして、溜飲を下げようとした貴美も小さな女なのでこの際不問にすべきだ。と、良夜は密かに思っていた。それに、最初のインスタントとレギュラーの違いは自力で当てた。

 良夜が辛くも危機を脱した時、アルトの入り口ドアががんがんと大きな音を立てた。

「あっ、すいません、営業終わり……あれ、直樹君?」

 入り口そばのレジで売り上げの計算をしていた美月の声が、静かな店内に響いた。

「こんばんは、三島さん。吉田さんと良夜君居ます?」

「居ますよ。いつもの席です。何かあったんですか?」

「えっと……良夜君が『吉田さんに殺されるかも』ってメールをくれたんですけど……」

 これが良夜の保険、役には立たなかったが、掛け金はパソコンからのメール代だけなので実質無料、問題ない。

「よぉ、直樹。お疲れさん」

「なお、お帰り~」

「あれ、普通ですよね?」

 旧市街からの出稼ぎ帰り、どこぞのGPライダーレプリカヘルメットを抱えた直樹がヒョコヒョコと良夜達の席へとやってきた。ヘルメットを抱えているとバイク乗りらしく見える辺りが不思議だ。

「まぁな、実力が違うところを見せつけてやったわけよ」

「嘘つき」

 大威張りに胸を張る良夜の肩で、アルトが呆れたように小さく呟いた。だから、インスタントとレギュラーの違いはわかったんだよ、俺は。と心の中で呟く。

「なお、判る? 豆の原産地」

「そこまでは判りませんけど……」

「りょーやん、判ったんだよ? おっかしいよね……」

 敗北は認めた物の貴美は未だに疑っているようだ。最初は美月が教えているのかと思ったようで、彼女は美月に売り上げ計算をやるように命じ、その場から追い払った。されど、それでも良夜は当てた。だから、敗北は認めざるを得なかった。どーも、普段『ブルマンとブレンドの違いもわからない』と良夜が言ってることをしっかり覚えていたようだ。なかなか、油断ならない女だ。

「あっ、直樹、もうすぐゴールデンウィーク休みだけど、どうやって過ごすんだ?」

 盛んに首をひねり、飲み残しのコーヒーの臭いを嗅いだり舐めたりを繰り返す貴美に、危機感を感じた良夜は、少々、強引に話題を切り替えた。

「あぁ、そうそう、二十九日と三十日、アルバイトの休み貰えました。吉田さんの方はどうですか?」

「あっ! いっけない! 美月さーん、私、二十九日も休んで良いかな?」

 この強引な話題転換は意外とうまく行った様子。直樹の言葉に、大事な用を思い出した貴美は、売り上げ計算が終わった美月を呼び寄せ、ゴールデンウィーク中の休みについて話し始めた。

「良いですよ。私は別に休まなくても大丈夫ですから」

「んぅ~でも、三十日の夜には帰ってくるから、美月さん、一日休んだら? 一日二日と連休でも良いし」

「でも、一日と二日、大学は休みですけど、ランチはしますよ。一応、平日ですし」

「えっ、そうなの?」

 等々……ひとまずは、あの話題から離れたかな? と良夜は安堵のため息を一つ落とした。

「で、二十九と三十って何があるんだ?」

 仕事の休みを振り分けるウェイトレス二人組をよそに、良夜は直樹に話を聞いた。

「二人でツーリング旅行に行くんですよ、温泉なんですけどね」

 久しぶりのツーリングが正式に決定したこともあって、直樹の表情は普段以上に明るい。何でも一泊数百円のライダーハウスとやらに泊まって、そこから公衆浴場を制覇し尽くすという楽しげな事をやるそうだ。

「そう言う良夜君と美月さんは?」

 あまりそっちのネタには振って欲しくはなかった。とは言っても、最初に振ったのは自分なのだから、自業自得である。

「一日に免許取りに行って、後は未定。寂しい物だよ」

 寂しくなった理由はアルトに毟られたり、スクーターの購入を考えなきゃ行けなかったりと言うわけで、怒濤の金欠が原因。ゴールデンウィークは借り物のゲームをやりつつ、たまにアルトに来てアルトをからかうしかない。泣けてくるほどに寂しい。

「私は溜まってるお洗濯をしたり、みんなを陰干しにしてあげたりですね。忙しくなりそうです」

 結局の所、美月は三日四日の連休を取ることになった。そして、みんなを陰干しにするそうだ。ここで言うみんなとは、彼女の部屋と車を色とりどりに飾り立てているぬいぐるみ達のこと。客観的に見て、年頃の女性が洗濯とぬいぐるみの陰干しと言うのは、ものすごく寂しいのではないのだろうか? 美月を除く全員がそう思った。しかし、本人は至って幸せそうである。『そう』と言うより、実際、幸せなのだろう。


「それじゃ、お休みなさい」

 ゴールデンウィークの話でひとしきり盛り上がり、アルトの閉店時間を二時間ほど過ぎた時間に良夜達三人はアルトを後にした。

「遅くなっちゃったな、さっさと帰ってゲームでもして寝るか……」

 座りっぱなしで固まった関節を伸ばすように良夜が背伸びをした。

「あれ、りょーやん、今夜はなおと私がいちゃいちゃするために、気を利かせてくれるんじゃなかったっけ?」

 話を誤魔化すために持ち出した話を貴美は忘れていなかった。ニヤリとタチの悪い笑みを見せる。

「えっと……話が見えないんですけど?」

 その場にいなかった直樹には、もちろん、それがなんの事やらさっぱりわからない。

「簡単に言うと、今夜はベッドの上でいちゃいちゃ出来るよって事」

 少々顔の赤くなった貴美、おもいっきり赤くなった直樹、そして、野宿決定で顔を真っ青にした良夜。三者三様の夜をゴールデンウィーク直前の黄金色の月が照らしていた。

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