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アルバイト(完)

 かなり気の重い足取りで、良夜は直樹の待つ座席に帰ってきた。すでに二人分の食事は並べられていたが、律儀な直樹はそれに手をつけず、手持ちぶさたで良夜を待っていた。アルトの方は……と視線を向けると、相変わらず三白眼だった。すねていると言われてみれば、確かにすねているように見える。それも下手に分別の良いガキのすね方だ。この顔を横に置いて食事かと思うと……と、良夜は日本海峡よりも深いため息をこぼすしかなかった。

「何してたんですか?」

「あっ、うん、ちょっと」

 良夜が適当にお茶を濁して席に座ると、直樹はそれ以上の追求はせず、並べられたランチに手を伸ばした。

「今日はオープンサンドですね、美味しそうですねぇ」

 人なつっこい笑顔を浮かべた直樹が、ピザトースト風のオープンサンドをちぎって口に運ぶ。長く伸びるチーズと適度に焦げたビザソースが食欲を誘う。しかし、良夜の視線の隅には恨めしそうな出来損ない幽霊が一体。溶けたチーズも溶けたゴムも変わらない味だ。

「吉田さんに会いました? 普段と対応が違っていたでしょ?」

 良夜が三白眼で睨み続けるアルトの顔を見る。

「あれ、高校時代は『営業用人格』って呼ばれていたんですよ」

 アルトが視線をそらす。

「どんなに嫌ってる相手に対しても完璧な笑顔を見せて、接客してましたから」

 良夜も視線をそらす。

「頭と表情を分離する方法を覚えたらしいですよ」

 三白眼の気配を感じる。

「器用ですよねぇ」

 最初に戻る。

「良夜君、僕のこと、嫌いでしょ?」

 アルトと『無言のだるまさんが転んだ』という新機軸な遊びを開発していた良夜に、直樹は完璧なる無視をされ続けていた。いくら話しても生返事一つ返して貰えないうちに、寂しくなってちょっぴり目尻に涙が浮かんでいる。その目で斜め下から見上げられると、普通に可愛いと思ってしまう。アルトの三白眼でプレッシャーを受け続けてきた身には、その小動物的な視線は大きな癒しだ。

「悪い、ボーッとしてた」

 気がついたら、直樹の食事は半分ほどに減っている。それに反して、良夜の方はほとんど減っていない。直樹の食事の速度が、決して早いほうではないと言う事を考えれば、かなりの時間をアルトと視線で追いかけっこをしていた事になる。

「あの……良夜君、良かったら、今夜、少し飲みません? 二人で」

 減っていない食事を慌てて食べる良夜に、直樹が心配そうな視線を向けた。今更も知れないが、お酒は二十歳を過ぎてから。

「えっ、そりゃ良いけど……なんで?」

 貴美をのけ者にして二人で飲んでたりしてたら、それこそ貴美がすね……ずに大喜びしそうだ。大喜びで、ビデオ撮影を始めるだろう。そして、適当なタイトルを付けて漫研のお姉様方に売りさばいて、一財産稼ぐに決まっている。根拠はないがそう言う女だと良夜は理解している。

「だって、失恋した時って、男同士だけでゆっくりって方が良いと思いますし……」

「失恋? 誰が? 直樹が?」

「いや、僕はほら……吉田さんって人が居ますから」

 少々照れているが、何処か自慢っぽい。ちょっとむかついた。

「じゃぁ、誰が? 誰に?」

 訳がわからんとあきれ顔の良夜に、誤魔化さなくても良いじゃないですかと顔で言ってる直樹。話が完璧にかみ合っていない。

「良夜君が三島さんに」

 良夜は軽く頭が痛くなった。

「……悪いけど、どういう思考ロジックを使えば、そう言う結論に達するのか、事細かく教えてくれるか?」

 頭を抱えつつ聞く良夜に、直樹が懇切丁寧にそのロジックを説明してくれた。

 曰く、なんだか今日はキョロキョロして挙動不審だった。そして、美月を呼び止め、わざわざキッチンに行ったと思ったら、真っ暗な顔をして帰ってきた。深刻そうにため息をついて席に座ってからも、キョロキョロするだけで話しかけても上の空。

 言われてみれば、告白を前に緊張してた男が、見事に玉砕したと言うシナリオが綺麗に成り立つ。

「えっと……僕も、一応、失恋の経験もありますから、相談ぐらいには乗れると思うんですよ」

 ちなみに良夜は男子校の進学校に三年間通ったおかげで、失恋の経験すらろくにない。恋愛と言えば、中学の時に隣に座っていた同級生を『可愛いな』と思った程度。告白すらもせずに終わった。改めて考えてみると、すさまじく寂しい人生だ。

「二人で飲んでたら、吉田さんを喜ばせるだけだし、失恋もしてないから」

「じゃぁ、うまく行ったんですか?」

 顔をパッと明るくさせる直樹に、青年はため息をつきつつ、応えるしかなかった。

「……そこから離れろ」

 そんな、一部不幸な勘違いもあったが、それなりに楽しい会話を続け、良夜はしばしの間アルトの三白眼のことを忘れてしまっていた。むしろ、あまり考えないようにしていたのかも知れない。だから、数十分ぶりに何気に動かした視線が、アルトの三白眼に絡み合ったとき、背中に冷たいものが一筋流れた。鬼が居る、金髪の鬼だ。英語で言うならブロンドヘアードデビル。

 その金髪鬼を刺激しないよう、ゆっくりとそこから視線を直樹へと動かした。細心の注意を払わないと、噂のヒステリーが爆発しそうな気がした。

「直樹、昼の授業なんだっけ?」

 ひとまず、アルトのヒステリーを爆発させずに視線を動かし終えた。しかし、意識してしまった所為で、頬への視線に物理的な力を感じるような気がした。頬に穴が開くか、焦げるかしそうだ。

「微分方程式と英語表現法ですよ、一緒でしたよね?」

 記憶に間違いはない。どちらも代返が効いて、一回や二回出なくてもノートさえあれば話しについて行ける。英語表現の方は半分投げてるけど。

「両方、代返とノート頼める?」

「お代はケーキセット二人前になります」

 直樹に頼んだはずだが、返事はランチタイムの仕事を終え、アルトの制服の上からカーディガンを羽織った貴美が答えた。確か、朝も同じ様な格好をしていたはず。どうやら、平日は大学にアルトの制服で通うつもりらしい。

「高っ!」

「暴利ですよ、いくら何でも」

「残念だけど、交渉している時間はないのよ」

 そう言って貴美は自分の腕につけた細い腕時計を指さした。それはぼちぼち教室に向かわないと間に合わない時間を示している。確かに、交渉をする暇はない。

「あぁ、判った判った。ケーキセット二つな、コーヒーはブレンドだぞ」

 圧倒的に不利な交渉に時間を取られる暇はあまりなかった。授業もそうだが、それより先にアルトが視線で人を殺すという器用なスキルを得てしまうだろう。

「毎度あり~」

「あはは……僕はコーヒーだけで良いですから」

 苦笑いをしつつも、きっちりコーヒーはオーダーする辺りが、こいつもちょっと侮れない。ブレンドコーヒーでも十分に暴利だ。


 さてと……タカミーズをその場から追い出し、良夜はアルトと二人きりになった。大学が始まる時間と言うこともあって、店の中には残った二人の店員と、最初からないのか、休講になったのか休講にしたのか判らない連中が数人いるだけ。すねたガキと喧嘩するには良い環境だと言えなくもない。

「……言いたいことがあったら言えよな」

「別にないわ」

 まともに声をかけたおかげか、とりあえず、返事をする程度にアルトの機嫌は良くなった。それでも、まともに視線はあわせないし、会わせたとしても三白眼だ。

「とりあえず、三白眼は辞めろ。恐い」

「目つきは生まれつきだわ」

 良夜は、アルトが手に持ったままテーブルに置いていたストローの先端を指先で撫でるように弄ぶ。その行為に大した意味はない。ただ、何かしてないと間が持たないだけ。綺麗に片付けられたテーブルの上で弄れるものがそれしかないから、それを弄ってる。叱られた子供が畳の縁を指で撫でているのと変わりない。

「仕方ないだろう、吉田さんがバイトしはじめたんだからさ」

「だから、別に怒ってなんかないわ」

 当人は普段と変わらない口調を心がけているのだろうが、その努力は全く成果に結びついていない。

「誰がどう見ても怒ってる」

 良夜にとってはその一言は何気ない軽口のつもりだった。しかし、彼女はそうとは受け取らなかった。いや、受け取れなかったと言った方が正しいだろう。

「一体、誰がどう見るというのかしらね! 貴方以外で!!」

 小さな体を仁王立ちにし、その言葉を吐き捨てた。その迫力に、良夜はもう一度迂闊な言葉をこぼしてしまう。

「わりぃ……」

 その一言で彼女のリミッターは完全にはじけ飛んだ。

「何が悪いというのかしら!? 貴美をこの店に誘ったのは美月! それを受けたのは貴美! その貴美にひっついて通い始めたのは直樹! 良夜は何も悪くないじゃないの!! だから! すねてるのよ! 子供みたいに!!! ちょっとは空気読みなさい、このクソ童貞!!!!」

 目に涙でも浮かべてればかわいげもあるのだが、仁王立ちでその金髪を逆立て怒鳴り狂われると、普通に恐い。しかし、大声で童貞と叫ぶのは止めて欲しかった。いくら誰でにも聞かれないとは言え、深く傷つく。好きで童貞やってる訳じゃない。

 彼女は息継ぎもなく一気にまくし立てるとゼエゼエと肩で息をしながら、良夜に小さな背を向けてちょこんと座り込んだ。

「言いたいこと言って、少しは気が落ち着いたか?」

「四割だわ」

 言いたいことの四割程度を言ったのか、四割程度気が落ち着いたのか、その判断が良夜には付かない。

「じゃぁ、うちで住むか? あまり暇って訳じゃないけど、部屋の中なら少しは相手してやれるよ」

 その小さな背中に向かって、小さな声を投げる。

「ありがとう。でも、私の家はここだから……」

 何となくそういう感じの返事をするのではないかな、と良夜は思ってた。そうして欲しいのなら、アルトは最初からそう言っているし、その場合、嫌だと言っても無理矢理押しかけているだろう。彼女はそう言うタイプだ。だから『そっか』としか言うことが出来なかった。

 そして、ほんの少しだけ、お互いに何も言わない時間が過ぎた。最初にその沈黙を破ったのはアルトの方だった。

「やっぱり、良夜はロリコンね、可愛い妖精さんに同棲を持ちかけたわ」

 その沈黙の間に、アルトが何を考えていたのかは判らない。ただ、良夜に向けていた背をコロンと倒し、テーブルに寝転がって見上げるアルトの目は久しぶりに三白眼ではなかった。

「博愛精神だよ、孤独な妖精さんに対する」

 そう言った良夜は、アルトの金色に輝く頭を指先でピンと弾いた。

「だったら、ブレンド以外のコーヒーも頼んで欲しいわね。コーヒー好きの妖精さんのために」

「原チャリ買ったら、たまには他の店に飲みに行くか? 土日とか……」

 良夜はテーブルに広がった長い金髪を指先で弄りながら、出来るだけ普段と同じ口調を心がけて言った。それが上手くいったかどうかは本人には判らない。ただ、良夜が弄っていたアルトの金髪はいつの間にかクシャクシャにはなっていた。

「あっ……ええ、そうね、酷評して、二度とその店に行く気を失わせてあげるわ」

 アルトはほんの少しだけ言葉につまり、そして、いつもの憎めない口調と声で毒をはいた。そして、ほんの少しだけお互いの顔を見て微笑み会う。

「良夜さんの裏切り者……」

 アルトの機嫌が直ったら、今度はコーヒーカップを乗せたトレイを持つ美月がすねていた。

「うわっ、美月さん、えっと……あっ、俺、コーヒーなんて頼んでませんよ?」

 強引に、そして、無理矢理話題を変更する。美月も本気ですねているわけではないのか、すぐにいつものほんわかとした笑顔に戻って、良夜の前にコーヒーを一つ置いた。

「お祖父さんが、仲直りが出来たら飲んでください、ですって。でも、他のお店で飲むのでしたら、要りませんか?」

 少しは本気だったようだ。ちょっと恐い笑顔になってる。

「と、言ってるみたいだけど、飲んでも良いかな? アルト」

「だめよ、だって……」

 良夜がアルトに尋ねる声しか聞こえない美月が、アルトはなんて答えましたか? と、小首をかしげた。

「だめですって」

「えっ?」

「自分が飲み終わるまで待て、だそうです」

 ほんの一瞬だけ、美月はキョトンとした顔を見せ、空になったトレイを胸に抱いていつまでも嬉しそうに笑った。

「店の外でいくらでも相手にしてやるから、直樹がこの席に座ってもすねるなよ」

「んぅ……考えておくわ」

 アルトはいつものように暖かな湯気を立ち上らせるカップにストローを入れ、美味しそうに飲みながらそう言った。

 そのコーヒーはいつも良夜が飲んでいるブレンドではなく、アルトが一番好きなブルーマウンテンだった。


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