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アルバイト(1)

 良夜はいつものように喫茶アルトへ昼飯を食いに来ていた。今日のランチメニューは極普通の卵とツナのサンドイッチ。その食が並ぶテーブルには小さく丸まり気持ちよさそうに寝ている妖精アルトの姿。たっぷりと良夜のコーヒーをいただいた彼女は、満足しきった寝顔を青年にだけ見せていた。

「やっほー、りょーやん。ここ、空いてる?」

「お邪魔しますね」

 普段なら二研の部室で弁当を突っついてるはずのタカミーズが、珍しくアルトにやってきていた。貴美の手には何処かの席から持ってきた椅子が一つぶら下がっている。これは彼女がいつもやっていることなので、あまり気にしない。

「あれ、どうした? 弁当じゃなかったっけ?」

「はい、今日は吉田さんが炊飯器のスイッ、イタッ!!」

 良夜の質問に答えようとした直樹のつま先に、貴美のパンプスが食い込んだ。恋人への所業としてはあまりにもむごい。パンプスのヒールがつま先に食い込んだ直樹は、つま先を抱えて悶絶している。

「つま先に穴が空いたかも……」

 意外と余裕がある。これならしばらくしたら復活するな、意外と友達がいのない良夜は的確な判断を下した。この二人がじゃれ合ってるのはいつものことだ。

「――の、割りには遅かったな」

 良夜の前にはあらかたからになったランチセットと半分ほどに中身が減ったカップだけ。彼の昼食はほとんど終わりかけ。一緒の授業を受けていたのだから、真っ直ぐに来たとは思えない。

「これ、取ってきたの」

 そう言って貴美は鞄に入れていた数冊の本を取り出し、ばさばさと無造作にテーブルの上に投げ出した。『これだけで受かる原付免許』『原付免許一週間対策』『原付免許過去問題』等々と書かれた教本達。良夜がタカミーズに頼んでいた代物だ。

 良夜はそれを「サンキュー」と軽く礼を言って一冊手に取った。ら、気持ちいい食後の惰眠をむさぼっていたアルトが、白目を剥いて気絶していた。ちょっとびっくり。生きてるのかなぁ……と少しだけ心配になったが、一応、手足は小刻みに動いてるし、息もしてるし、泡も吹いてない、うん、多分、生きてる。下手に起こすと面倒なので放置しておこう。

「それ、一応、二研の備品ですから、終わったら返してください」

「どーせ、誰も読みゃしないけどね。後、来週の水曜日なら二研で大型二輪を取る人が居るから連れて行って貰えんよ?」

 テーブルの空いたところに椅子を置いて、高見が座るとそれに習うように直樹も良夜の向かいに腰を下ろした。ここに三人で来るときはいつも、この席でこうやって座っている。あまり多くあることではないのだが……

「ゴールデンウィーク休みに入ってからだな、授業あるし」

「意外と真面目ね」

「……それ、普通ですから」

 一応、良夜は取った授業は全て出席だけはしている。内容によっては惰眠をむさぼったり、他の授業のレポートを作ったりと真面目に受けてないこともある。二人も一応真面目には出ているのだが、貴美はスーパーのタイムサービスに時々居なくなる。えらく所帯じみた茶髪娘だ。

「でも、早めにバイクでも買わないとアルバイトも出来ないんじゃないんですか?」

 ぺらぺらと問題集を捲る青年に直樹が声をかけた。

 その問いかけに青年は問題集から顔も上げずに聞き返す。

「二人は? バイト」

「なおは旧市街の本屋に決まったよ。私はまだ」

 歩いていける範囲にもいくつかの店はある。しかし、そう言うところの募集はすでに先輩学生達がキープしてしまっていて、空き人員はなかなか出ない。直樹も最初はこの近辺でのバイトを捜したのだが、なかったため、結局、バイクで二十分ほどかかる旧市街にまで出て行くことになった。これを大学内では『出稼ぎ』と皮肉混じりに呼ぶ。本当にどこまでも田舎な地域である。

「一緒じゃないんだ?」

『吉田に用があったら高見を捜せ、高見に用があったら吉田を捜せ』と、言われるほどに一緒に居る二人が別々って言うのはちょっと珍しい。

「募集が一人だったんですよ。で、僕が行くことになりました」

「私もさっさと決めなきゃ行けないんだけどね……喫茶店なら経験があるんだけど」

「えっ、そうなんですか?」

 貴美の声に返事をしたのは、そこに座る二人の男ではなく、タカミーズの注文を取りに来た美月だった。

「あっ、三島さん、ランチセットをホットでお願いします」

「私はランチでアイスね。それとミルフィーユとブルーベリータルトとティラミス。うん、高校三年間、みっちり喫茶店でバイトしてたよ。でなきゃ、あんな大きなバイク買えないって」

 良夜が貴美の乗っているバイクも四〇〇ccのだと言うことを知ったのは、つい最近のことだった。最初に会ったとき「スクーターに乗っている」という話は聞いたのだが、それがスクーターはスクーターでも『ビッグスクーター』という奴であると知ったときは少々驚いた。

 ちなみに貴美は三年間のバイトで二百万程度の貯金を作ったと言う。それもお小遣いや携帯の料金を自前で支払いつつ二百万の貯金だ。彼女がどれだけバイトに精を出していたかが判ると言う物。最後の一年に至っては、受験生でありながら店のボス面をし、受験前日も残業をしていた。

 との話を聞いた良夜は、目の前に座る直樹にひそひそ声で尋ねた。

「もしかして、吉田さんってかなり勉強できる人?」

「やれば出来るけど、目標以上は絶対にやらないタイプの人です」

 しかも、その目標は彼女の能力から見るとかなり低め。教師にとって一番手に負えないタイプの生徒だったらしい。

「それで、今、アルバイトを捜して居るんですよね?」

 まずは注文を受け取り、それをキッチンの祖父に伝えると、美月は早々に帰ってきて、再び、貴美に尋ねた。

「うん、良いところあるの? って言うか、もしかしてここ?」

「はい、ここです。その代わり、平日のランチタイムに入って貰いたいので、授業がギリギリになっちゃうと思いますけど……」

 美月は申し訳なさそうな表情でそう言った。アルトのバイトは、給与面ではそこそこの条件なのだが、『経験者』で『平日のランチタイムに』と言う条件がこの店の人材不足の一因となっていた。ランチタイムに入ろうとすれば、かなりのダッシュをしないと昼の授業に間に合わない計算になるからだ。

「昼の授業が終わってからランチの終わりまでだけ? それとも授業が終わってからも?」

 などと、貴美と美月が話していると、良夜どころか、作者にまですっかりその存在を忘れ去られ、白目を剥いたままに放置されていたアルトが蘇った。

 むくり……と彼女は起き上がり、立ち上がる。そして、くらくらと痛む頭を数回振り、乱れたドレスの裾を治す。ゆっくりとした、何処か気品のある仕草、しかし、その背後には目に見えるほどの怒りのオーラを身に纏っている。

「良夜、私の頭の上に重くて堅い物を降らせたのは、どこのどちら様かしら?」

 地獄の底から響き渡ってくるような静かな声。一ヶ月になるこいつとの付き合いの経験上、ここまで怒った場合、血を見ずには終わらせるための手段は、たった一つである事を良夜は知っていた。さて、どうしよう? 今回の場合、血を見るのは貴美、良夜ではない。吉田さんだし、いいかな? 一瞬、そう思った。この間、酷い目に遭わされたし。

「十秒以内に答えなさい。答えなければ、この怒りを貴方にぶつけるわ」

「美月さん、ホット」

 そのたった一つの手段を行使する事にした。友人を売れるほど冷たい人間にはなりきれなかった。ある意味優しいとも言えるが、ある意味ヘタレとも言える。

「……物では釣られないわ。でも、ブルマンだったら釣られてあげる」

 今日のたった一つの方法は値上がりしていた。彼女の怒りが普段よりも激しいことを示している。

「……良夜、男なら初心貫徹なさい」

 しかも、奴はすでに飲む気満々である。今更辞めますと言えば、怒りにニトロを注ぐも同然。怒りがゼロヨン十秒フラットで駆け抜けるだろう。

「……美月さん、ぶ、ブルマン」

 血を吐く思いで良夜でブルーマウンテンを注文した。なんで他人の彼女のためにブルーマウンテンを注文しなきゃいけないのだろう? しかも、貴美は良夜が危機から救ったことも知らない。世の中、無駄に理不尽だ。

「あっ、はーい、それじゃ、ランチタイムと四時から閉店まででお願いします。詳しいことは今日、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。じゃぁ、詳しい話は後でね」

 普段よりも少しだけ早口で貴美にそう言うと、良夜の注文と仕事の続きをするために美月はキッチンの方へと歩いていった。

「なんか、なし崩し的にバイトが決まっちゃいましたね」

「うん、渡りに船って言えば渡りに船なんだけどね。喫茶店なら慣れた物だし」

「しかし、吉田さんってバイトなんかしてたんだ?」

 しかも、接客業。ちょっと印象じゃない。ビール飲んでるところと、猥談してるところと、ボーイズラブの本に萌えてるところしか、見たことがない。

「りょーやん、私がいつもビール片手にBL本に萌えてるだけの女だと思ってるでしょ?」

「まあ、ほぼ、その通りなんですけどね」

「なお、後で泣かす」

 美月がオーダーを届け食事が始まると、話題はバイトの話、一色になった。思わぬ好条件なバイトをゲットできた貴美は終始ご機嫌。

「ふぅん、貴美がここで働くの?」

 新しく届けられたブルマンを存分に満喫したアルトの怒りは、ひとまず、危険水域を脱して居るようだった。良夜はそんなアルトの羽をひょいと摘むと、二人に気づかれないよう、その体を肩に乗せた。

「反対?」

 口の中でボソボソと呟く。それは、良夜の頬に耳を貼り付けたアルトにしか聞こえない。

「そんなことはないわ。今までだってアルバイトは何人も居たもの」

「ならいいけど」

 不機嫌そうな声に聞こえたんだけどな、と良夜は軽く首をひねった。まだ、本を頭の上から降らされたことに怒ってるのか、それとも、スタイルの良い貴美に嫉妬しているのか、まあ、その辺の理由だろうな。と良夜は勝手に理解したつもりになった。


 そんなわけで、アルトに第三の人間が働くことになった。

「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」

 翌日、アルトの入り口で美月ではなく、貴美に言われた良夜は流石に固まった。『来たんだ? りょーやん』絶対にこんな感じの接客だと思っていたからだ。って言うか、こいつ、敬語とか丁寧語とか尊敬語とか、知ってたんだな……

「あっ、うん、お一人様」

「いつもの席になおが居るよ」

 馬鹿な答え方をした良夜に、貴美は少しだけいつもの口調を出した。この口調の方が落ち着くな、と思いながら、言われたとおりにいつもの席へとやってきた。

「こんにちは、良夜君」

「今日は早いな」

 直樹の目の前、テーブルの真ん中に不機嫌そうな顔で、両足を投げ出してアルトが座っていた。あからさまに不機嫌な顔だった。良夜がテーブルに着いた後も一言も喋らず、じーっと良夜の顔を三白眼で睨み続けるだけ。居心地が悪いことこの上ない。

「ええ、今日からお昼はここですから」

「えっ、そうなんだ?」

「はい、吉田さんはここの賄いを頂くそうですから」

 そんなありきたりな日常会話を続けている最中も、良夜の視界の隅にはアルトの三白眼がちらちらと映っている。しかし、良夜が視線を向けるとぷいと横を向くし、肩に乗せようと手を伸ばすと逃げる。しかし、二人が会話をし始めると、良夜の目に付くところでにらみつけている。しかも、視線を違う方向に向けると、その視線の隅っこに入る位置に移動する。決して、視線の真ん中に来ない辺りがひねくれている。

 出来損ないの幽霊のようでうっと惜しい。これなら、耳の横でゴチャゴチャとコーヒー講座でもされる方がずっとマシ。

「いらっしゃい、良夜さん、直樹君」

 そうこうしているうちにメニューを持った美月がやってきた。

「あっ、美月さん、ちょっと良いですか?」

「はい?」

 注文を受け終わり、キッチンへと帰ろうとしている美月を呼び止め、良夜もキッチンへと着いていった。丁度、貴美はフロアで仕事をしているから、アルトの話をするには丁度良い。

「どうかしたんですか?」

「アルトの奴、何かあったんですか?」

「……えっ、アルトですか?」

 少し心配そうに尋ねる美月に、アルトの機嫌がすさまじく悪いことを伝えた。その不機嫌さが、ひねくれ回って螺旋階段状になっていることも付け加えた。

「特に変わったところはないと思いますけど……あぁ、また、私がお水をかけちゃったから、それで機嫌が悪いのかも……」

「またですか?」

 この一ヶ月の間にも三回か四回はその話をアルトから聞いた。しかし、その事が原因でアルトが昼過ぎまで不機嫌だった記憶はない。『昼まで不機嫌』と言えば、アルトはしょっちゅう怒ってはいるが、その怒りの賞味期限は意外と短い。ポンと怒ったら、次の瞬間には笑っているタイプだ。

「それはすねて居るんですよ」

 煎れ終わったコーヒーを貴美に預けた和明が、キッチンの隅でボソボソと話し合っていた二人のそばへ来て、いつも通り、穏和な笑みを浮かべてそう言った。

「吉田さんがうちで働きだしたから、直樹さんがいつもの席に座っているでしょう? それですねて居るんですよ」

「あぁ、あの席に吉田さん達がいらしたら、良夜さん、アルトにあまり話しかけなくなるから……」

「多分、そうだと思いますよ。それが今日からずっとですからね、寂しいんじゃないんですか?」

 二人の言葉にようやく良夜も思い至り、あぁ、と大きく頷き、そして頭を抱えた。貴美がここでバイトを始めた以上、直樹も毎日ここに通う。直樹にあの席から出て行けとも言えなければ、直樹と違う席に座るというのも変に思われる。

「あっちゃぁ……どーすっかなぁ……」

「あまり長くすねさせておくと……ヒステリーを起こしますから、早めに対処してください」

 その場合、ヒステリーのターゲットになるのは、まずは良夜なのは間違いない。しかも、すねた上でのヒステリー……対応を間違えれば、比喩表現ではなく殺されるかも知れない。

「りょ、良夜さん、がんばってください!」

 そう言って二人は一人頭を抱える良夜をキッチンの隅に残して、仕事へと戻っていってしまった。あのすさまじく居心地の悪い席に戻らなきゃ行けないのか、と思うと胃に穴が空く思いがした。


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