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月の道を、桜の下を(完)

 優雅に手を大空へと伸ばし月を抱き、他の樹木達を背後に従え人間と妖精という一風変わったカップルを迎え入れた桜の古木は、この僅かばかりの空間を支配する女王だった。彼女は二人が自らが鎮座する謁見の場に入場すれば、耳障りだったフクロウの鳴き声と風の音を止め、代わりに耳が痛くなるような沈黙だけを与えた。二人の侵入者を見極めるための時間を得るために……そして、一陣の風が吹く。それは彼女の体と足下を飾る花びらを巻き上げ、二人を歓迎する紙吹雪のように頭の上で舞った。

 その花びらの舞が収まると、息をすることも忘れ、荘厳な桜と月の競演を見上げていた良夜が大きく息を吐いた。

「凄いな……」

 思わず漏れた言葉は意外とチープでありきたりな物だった。もうちょっと綺麗だったり、難しかったりする言葉が出て来ても良いんじゃないんだろうかと思うのだが、あいにく良夜のボキャブラリーはそこまで多彩ではないし、そもそも、広辞苑にこの桜を評価できる言葉が載っているとも思えない。

「良かった、まだ、元気に花を咲かせてるわ」

 十年ぶりの再開を果たしたアルトも良夜の頭の上で静かに吐息と、彼女の壮健を祝う言葉を述べた。

「まだ?」

 ゆっくりとその桜の木に近付く良夜が、アルトの言った言葉を聞き返した。

「もう、随分なお婆さんだもの」

 トンと良夜の頭の上から太い幹へと舞い上がったアルトは、その幹を小さな体で一生懸命抱きしめ、左右の頬と唇を押しつけた。それはまるで長らく会えなかった祖母に親愛と尊敬の情を表する孫娘のようだ。

 そんなアルトの様子を根本から見上げていた良夜の元にアルトが戻ってきて、その頭の上にちょこんと腰を落ち着けた。

「そろそろ、桜の寿命としては終わりが近付いて居るんじゃないのかしらね……」

 ほんの少しだけ寂しげなアルトの声。確か桜の木の寿命は百年くらいらしいが、目の前にいる彼女はすでにその百年をとっくにここで過ごし終えているように見える。あまり桜に詳しいわけでもないが、テレビ越しに見た樹齢三百年の古木よりかはずっと迫力のある枝振りだと思う。

「お婆さんね……樹に男女なんてあるのかな?」

 ごつごつとした表皮に手のひらを押しつけ、女性なら腰の辺りかな?と愚にも付かないことを考えながら、ゆっくりと手を動かしてみた。硬い表皮は所々大きな窪みがあったり、苔がむしていたりと、彼女の歩んだ人生が決して平坦で短い物ではないことを如実に表現しているようだ。

「さぁ? 何となく女性的だからお婆さんなのよ。それより、いつまで突っ立ってるのかしら? 座ってコーヒーでも飲みましょう」

 良夜はその声に『そうだな』とだけ応え、地面から顔を出した太い根をまたぐように腰を下ろした。背中が硬い桜の表面に当たって、多少痛いが座り心地は割と悪くない。

 バスケットの中には、スクランブルエッグを挟んだクロワッサンが二つとコーヒーの入ったポット。スクランブルエッグのクロワッサンサンドはランチタイムのメニューだったので、良夜にとっては本日二度目である。

「夜食には丁度良いな」

「太っても知らないわよ」

「サンドイッチ一つ分くらいの運動ならここに来るまでにしたし、残り一つ分は帰るまでにするよ」

「それもそうだったわね」

 クロワッサンを取り上げ、それを少しちぎると頭の上からバスケットの上へと移動したアルトに差し出す。アルトはそれを『大きい』と文句を言いながらも、かぶりつくようにして一生懸命食べていた。その姿は何処か滑稽で愛らしい。

「コーヒー、いる?」

「頂くわ」

 一つめのサンドイッチを食べ終わった良夜が、顔ほどの大きさがあったクロワッサンに悪戦苦闘しているアルトに紙カップを差し出した。未だ半分ほど残っているクロワッサンのかけらを良夜の手の上に置き、アルトはいつものようにストローで暖かなホットコーヒーを楽しんだ。

 アルトがコーヒーを飲み終わるのを待ち、良夜も同じカップを口に運び、温かなコーヒーを喉へと流し込んだ。四月の中頃とはいえ、夜風に冷えた体に温かなコーヒーは心地よく、喉から全身へとその温かさが広がってゆく。

「素敵な夜ね」

 クロワッサンの最後のかけらを口に押し込んだアルトは、バスケットに腰を下ろし桜の枝の隙間から見える空を見上げた。それにつられるように、良夜も空を見上げる。今にも落ちてきそうな星と枝越しの仄かな月明かり、そして数えるように舞い落ちる花びら。コーヒーじゃなく、熱燗辺りが似合いそうなシーンだと、良夜は思った。あまり熱燗は飲んだことがないが……未成年だし。

「そうだな、これで妙齢のご婦人でもいれば最高なのに」

「クス……そうね、私じゃ『妙齢』と言うには少々年上過ぎるかしら?」

「そもそも、お前、何歳だ?」

 リカちゃん人形は設定によると11歳らしいが、客観的に見てそれより大人っぽいとは思えない。と、言うようなことを口に出すとまたどこかをストローで刺されるので言わない。それが良夜の処世術である。ヘタレである。

「今、リカちゃん人形と同じ年くらいって思ったわね? 良夜」

「全然」

 正確には『リカちゃん人形よりも年下』である。

 じーっと良夜の顔を見上げるアルト、つい、視線をそらしてしまう良夜。なお、見上げるアルトの額にはクロワッサンの欠片がひっついてる。十一歳にもなればそんな盛大に食いカスを顔にはつけたりはしない。

「目をそらしたわね……」

 パタパタと飛び上がり、顔を背けてそらした良夜の視線の中にアルトの顔が滑り込んでくる。そしてすごむのだが、額にクロワッサンの付いた顔ですごまれると、吹き出してしまうから辞めて欲しい。

「やましいことがないのなら、ちゃんと視線を合わせるべきだわ」

 やましいこともあるが、そのクロワッサン付きの真顔を至近距離で見せつけられる方がきつい。なんで、飛んでるのに落ちないんだろうか?このクロワッサン。よっぽど頑固にひっついてるんだろうな。

「アルト……」

「何かしら?」

「……淑女はデコにクロワッサンは付けねぇぞ、どこの最新モードだ?それ」

 アルトは自分の額に小さな手を当て、そこにクロワッサンの欠片がひっついていることを確認。みるみるうちに顔が真っ赤になっていく。

「ついでほっぺに卵」

「……」

 ストローを握っている手がぷるぷると震えて……

「いってぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」

 何年かぶりに客を迎え入れた桜の古木が鎮座する広間に良夜の絶叫が響き渡った。

 

「てっめぇ、照れ隠しで攻撃するな!額にストローが立ってたぞ!!」

 ちなみにアルトが手を離しても立ったままだった。脳みそまで先端が達してなくて良かったと、本気で思った。

「紳士は淑女に恥を掻かせないものよ?」

 ずきずきと痛む額を撫でながら、アルトに殺意を込めた視線を投げかける。しかし、良夜のその殺気を込めた視線をアルトは平然と受け流し、良夜の額から抜いたストローを小さなハンカチで拭いて手入れをしている。良夜に迫力が足りないのか、アルトの面の皮が厚いのか……両方だな。

「傷が残ったらどうするんだよ」

「菅直人か千政夫のそっくりさんになればいいのよ」

 どちらも最近ろくな話題でテレビに出ない人物である。縁起の悪いことこの上ない。

「それが嫌なら、旗本退屈男になる?」

 丁寧に拭いたストローを大上段に構え、にっこりと微笑む。顔に付いていた食べかすはなくなっているので、ちゃんと迫力が出ている。

「ごめんなさい、リカちゃん人形よりも幼いと思いました」

 土下座をする勢いで頭を下げる。本当に小さな男である。

「最初から素直に認めれば良かったのよ」

 最初から素直に認めてても同じ事をした癖に、と思う。

「今夜は気分が良いから許してあげたわよ」

 絶対に嘘だ、と思う。そもそも、気分が良いんなら、顔に食べかすが付いる事を指摘しただけの人を菅直人にはしない。

「だって、あそこまで飛べそうな夜だもの」

 ずきずきと痛む額を撫でながら、アルトのストローが指す方を見る。桜の木の枝、距離3メートルって所。その向こうにあるものだと……

「桜の枝までならいつでも飛べるぞ」

「ちっちゃいのね」

 あきれ顔で呟くアルトに、残っていたクロワッサンを見せると、彼女は顔を左右に振った。顔ほどもあるパンを食べたわけだから、これ以上食べるのは物理的にちょっと難しい。

「現実的なんだよ」

「妖精を目の前において、誰も知らない樹齢数百年の桜の根元に座って、満天の星と月を見上げながら、クロワッサンとコーヒーを食べる、これ以上に非現実的なことはそうそうないわよ」

 口から返事を出す代わりに、サンドイッチを口に押し込む。その味と満ちてきた食欲、そのどちらもこれが現実以外の何者でもないことを示していた。

「夢がないのよ」

 バスケットの上でパタパタと羽を動かしながら、アルトはもう一度星空を見上げた。

 アルトなら……この妖精なら、本当にこの小さな二枚の羽であの星の一つまで飛んでいきそうだ。良夜はその元気よく動く二枚の羽を見つめながら、そんなことを思ってしまった。不覚にも。

「でも、良夜が連れて行ってくれなきゃ無理ね。だって、この桜に会いに来るまで十年掛かったんだもの」

 そう呟くアルトの顔は、彼女が背を向けている所為で見ることは出来ない。

「星だの月だのは無理だけど、まあ、歩いていける範囲なら連れて行ってやるよ」

「ありがとう」

 そこで二人の会話はとぎれた。良夜もアルトの小さな背中を見つめることを辞め、桜に抱かれた星空を見上げることにした。サンドイッチのおかげでふくれた腹、コーヒーのおかげで暖まった体。そして、心地よい静寂。その全ては二人を静かな眠りに誘う。その誘いにあがなう事なく、二人は静かに花びらの下で程なく眠りに落ちてしまった。

 

「へっくっしゅん!」

 古典的なくしゃみを一発かまし、良夜が目覚めたのは日の出の直後だった。

「さっ、流石に野宿の時期じゃねえよな、普通……と、アルトは……?」

 キョロキョロと周りを見渡し、小さな妖精の姿を捜すが、どこにも見あたらない。見あたらない代わりに、腹部の辺りに妙な違和感を感じた。その妙な違和感は腹部からはい上がり、ヒョッコリと懐から顔を出した。

「おはよう、良夜……んぅ……やっぱり、服を着たままだと寝心地が悪いわね。それと、良夜、腕が時々当たってたわよ」

 懐から這い出してきたアルトは、そう言って朝の新鮮な空気を胸一杯に吸い込み、言いたい放題に言ってくれた。もちろん、その顔に罪悪感だの感謝だのという素晴らしい感情は一切ない。

「あら……」

 寝ている間に着崩れたドレスを直していたアルトの視線が良夜の頭の少し上に釘付けになっていた。

「んぅ……どうした?」

「全部、散ってるわ……」

 その声に良夜が立ち上がると、その体の上に降り積もっていた桜の花びらが、音もなくその足下に流れていった。

「あっ……本当だ……」

 昨夜はそんなに風は強くなかった。でなければ良夜はとっくに風邪を引いている。そして、その散ったその花びらの大部分は彼の体の上につもっていた。まるで薄い毛布のように。

「気を遣ってくれたのかしら?」

「……まさかな……」

 パンパンと服に付いた桜の花びらを払い堕とし、一晩のうちで裸になってなってしまった老木を見上げる。彼女は何も語らず、昨夜と同じように威厳を持ってそこに鎮座しているだけだった。

「でも……ありがとう、また、来年も来るよ」

 パンと軽く桜の幹を一つ叩き、良夜とアルトは桜の広場を後にした。

 

 オマケ

 良夜達が喫茶アルトにまで帰ってきたとき、丁度、美月がその開店準備のために店の前にまで出て来ていた。

「あら、おはようございます……・」

「あっ、おはようございます。昨夜はありがとうございました。これ、バスケット」

 美月は良夜から返して貰ったバスケットを胸にしっかりと抱くと、良夜の体を頭のてっぺんから足下まで、じーっと何度も見つめた。

「えっと……何か付いてます?」

 地面の上で一晩中寝ていたわけだから、色々な物がついてそうな気がする。一応、向こうを出る前に丁寧に払ったのだが……

「いえ、昨日と同じ服ですねぇ、と思いまして……」

「あぁ、桜の木の下で寝てしまって……それがどうかしましたか?」

「……朝帰りですねぇ、と思いまして……」

「……えっと、美月さん?」

 このお姉さん、なんだか、妙な勘違いをなさっておいでになる?良夜は猛烈に嫌な予感を覚え、肩に止まっていたアルトの顔へと視線を送った。アルトも同じように猛烈に嫌な予感を感じているらしく、軽く冷や汗を掻いて良夜の顔を見つめ返した。

「……意外と良夜さんって手が早いのですねぇ、と思いまして……」

 この時点で、二人は猛烈に嫌な予感が正解だったことを思い知った。

「ちょっと待ってください、本当に寝てただけですから!!」

「そうよ、美月!寝てただけ、居眠りしてただけなんだから!!」

 その誤解を解くのに、三日の期間が必要だったという。その三日間のアルトの不機嫌さは筆舌に尽くしがたい物があり、良夜の体はストローで穴だらけになりかけたという……

 

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