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海だ!(6)

 吉田貴美は一見するとまともではない人間と評価される人間だ。彼女自身、その評価に取り立てて異論を持っているわけではない。中学の時分からエロ同人誌なんて物を読んだりしていたし、直樹を始めとする周りの人間に対しても破天荒なことを良くやる。彼氏を女装させて喜んでみたり、最近は多少壊れ掛けてはいるが、男子校に対して過剰な期待と萌えを持っていたり、ヤルとかヤラないとか特に隠さず公言していたり……

 でも、彼女は常に最後の一線という物を心の中に備えている女性だった。

 ここは踏み外しちゃ駄目、ここの一歩くらいなら大丈夫、ここは大幅に踏み越えちゃえ……等々、彼女は全て判っていてやっているだけだ。

 だから、こういう場面に出くわすと、途端にもろさを露呈する。

「あっついですぅ~~~~」

「ちょっと! 美月さん、脱いじゃ駄目! ひなちゃんもなおも居るんよ!? ってか、なお! 何ぽかーんと見とんよ!?」

 それまでチビチビとお酒を飲んでいた美月がおもむろに立ち上がった。そして、彼女は一気にブラウスのボタンを外していく。あれよあれよという間に上半身はブラ一枚。貴美はその胸にしがみつくと、呆然とグラス片手に見物していた直樹に蹴りを一発叩き込んむ。

 ぎゃんっ! と、直樹の口から小さな悲鳴が響き、彼の鼻からあり得ないほどの鼻血がほとばしるが、そっちは無視。この程度で死ぬなら、知り合ってから今日までで三桁は死んでいる。

 美月の体にしがみつき、そのはだけたブラウスを閉じて一安心。しかし一息つく暇もなく楽しげな歌声が彼女の耳に届いた。歌っているのは、先ほどまでなんだか良く解らない寸劇――陽によると彩音の持ち芸『局地的には物凄く受けるが大多数には理解不可能な物まね。その一:陽の母親』らしい――をやっていた彩音だった。

「わたくしのっ! ちょっと良いとこ、見て欲しい! 一気! 一気! 一気!!」

 パンパンと心地良く手拍子をいくつか打つと、いつの間にやら再充填されていた冷や酒のポットを掴み上げる。右手でポットをわしづかみ、左手は腰。お風呂上がりのコーヒー牛乳のように彼女はそれをラッパ飲み。グビグビグビ……そのあまりにも良すぎる飲みっぷりに美月の体にしがみついていた貴美の思考は一瞬停止するほど。

 貴美の思考が停止している間に彼女は一気飲みを終わらせ、コトンとガラス製の小さな冷酒ポットをテーブルに置いた。

「ほっ……」

 朱色に染まる吐息は何処か艶やかで色気を感じさせる。しかし、それも一瞬。

「ううっ!? 何かが……何かが来ますわっ!」

 うっ! と小さなうなり声を上げたかと思うと、彼女の手が彼女自身の口元へと飛んだ。パチン! 小さな音を立ててそれが顔に張り付けば、彼女はそこがダイニングキッチンの真ん中であることも忘れてしゃがみ込んだ。

 咄嗟に貴美は美月の顔を見あげた。どこを見ているのか判らない視線、意味不明に緩みきった口元、そして、指先は押さえられた胸元辺りでもじもじと動き続けていた。

 そして彼女はミリ秒の世界で判断を下す、「今、手を離したら、こいつは絶対に脱ぐ」と。

「ひなちゃん!」

 悲鳴にも似た声を上げ、彼女はパクパクと我関せじとばかりに飯を食っていた男性へと視線を飛ばした。

 しかし……と言うべきか、やっぱり……と言うべきだろうか? つい先ほどまで、パクパクと飯を食っていたはずの青年、彼はただ今現在、その頭を前後左右にフラフラと揺らしながら、目の前にある汁椀を何度も取り損ねていた。

 そして、彼は少し狐を思わせるつり目に涙を浮かべて、貴美を見あげるのだった。

「……お汁椀が三つ……どれ取ったらいい? ……吉田ちゃんも三人、美月ちゃんも三人……はーれむ?」

 淡々としたいつもの口調で語られる言葉に、貴美はこの上ない絶望を感じ、一言だけ呟いた。

「こいつもべろんべろんか……」


 さて、浅間良夜は幸せな夢の中にいた。冷蔵庫にもたれかかっていたのもつかの間、いつの間にやら堅い床をベッドに彼はスースーと気持ちよさそうに寝息を立てている。お酒の所為もあるのだろうが、おそらくは昼間、浮き輪にぶら下がった美月を引きずり回していた疲れも出ているのだろう。堅い床の上で、しかも掛け布団はシンクの前に引いてあった足ふきマットだと言うのに、彼は幸せそうに眠り続けていた。

 ごぶっ!?

「なんだ!? グレイ型宇宙人が攻めてきたかっ!!」

 それを打ち破る鈍い音。慌てて飛び起きた良夜が最初に目にしたのは、ショートパンツから伸びる美しいおみ足だった。それが彼のみぞおちにめり込んでいた。そこからゆっくりと視線を上げていくと、オーバーハングした胸の向こう側に吉田貴美の笑みが見える。

「怖かった」

 良夜はその笑みを後にこう語った。

 口元も目も笑っている、微笑とも言っても良い笑み。しかし、その右手に鼻血痕を残す恋人がぶらぶら下がり、左手に何処かで見たブラウスが握りしめられるだけで、どうしてここまで恐ろしく見えるのだろう?

「良夜……」

 しかも呼び捨てだ。

「はっ、はい!」

 腹部を踏みつけられた怒りも忘却の彼方。良夜は飛び起きるとピシッ! と背筋を伸ばして正座をした。頭に足ふきマットを被っている辺りがおしゃれだと思って貰おう。

「寝る」

 飛び起きた良夜をじろりと見つめ、彼女は一言だけ言った。

 彼は早くも始まった二日酔いの頭痛を片隅に感じながら『寝るなら寝ろよ』とだけ思う。

 良夜の思いも無視し、彼女は言葉を続けた。

「あっち、なんとかしぃ」

 白いブラウスを握った指先が彼女の背後を刺す。一瞬だけそうしたかと思うと、彼女はズルズルと半ば死体と化した直樹を引きずり、その場を後にした。向かう先は女部屋としてあてがわれている寝室だ。そこはダイニングを横断しなければならないのだが、彼女は終始良夜から視線を外しはしない。彼女が視線を外さないのだから、良夜も視線を外すタイミングを失う。

 彼女が視線を外したのは、彼女の体がドアの前に到着した瞬間だった。

 かちゃ……ぱたん……

 一度だけドアが開き、閉じる。

 そして、良夜はようやく貴美が「あっち」と示した方へと視線を向ける事が出来た。

 そして、彼は貴美の真意を知る。

 彼女は良夜を見ていたのではない。単にあっちを見るのが嫌だったから、こっちを見ていただけだったのだ、と。

「あっついですねぇ~」

 美月の上半身を覆っていたのはブラ一枚。それでもまだ暑いのか、彼女は冷えた冷酒を片手に放り出されていたファッション雑誌で胸元をパタパタ……チラチラと見える脇と胸の境界線がやけにまぶしい。

「取れない。お腹空いた……」

 そこから右へと視線を移せば、陽が汁椀の右や左を掴もうとしていた。それでも右手にはしっかりと冷や酒のグラスが握られ、満たされぬ食欲を代わりに満たそうとする勢いで、カッポンカッポンと喉に流し込んでいた。汁椀が取れないのにガラスポットは取れるのは、おそらく酔っぱらいの本能だろう。

「気持ち悪いですわ……」

 さらにその先、テーブルの向こう側。足の間から見えるスペースでは彩音がバケツの肩を抱き、友情を確かめ合っていた。どうでも良いけど、気持ち悪いんなら、どうしてグラスを離さない? 何故、空けたグラスにさらに注ぐ?

 そして――

「今日もブルマン……明日もブルマン……明後日もブルマン……」

 素っ裸の妖精アルトさんは台ふきの上で熟睡中。コロコロと丸まった体が左右に動いて、とっても気持ちよさそう……なのが無性に腹が立った。

 とりあえず、奴を起こそう。水をぶっかけるのが一番だろう。彼はそう思い、実行に移そうとした。

 ツカツカ……周りを出来るだけ見ないように、出来るだけ気にしないようにアルトへ良夜は向かう。僅か十歩に満たぬ距離。しかし、そこは遠かった。

「浅間くん……」

 陽が良夜の腕を掴んだ。切れ長の目に涙が浮かび、ウルウルと潤んだ視線で彼を見あげる。

「なっ……なんですか?」

 今日の陽は紛れもなく男の格好をしている。しかし、普段から“女形”としての研鑽を忘れぬ彼、むだ毛はないし、お肌はぴかぴか。良夜自身、未だに酒の抜けきらぬ頭ではどうにも鼓動が跳ね上がることを押さえきれなかった。男装の麗人っぽい……

「お汁椀が三つある……どれが本物?」

 太い声で泣き言を言われると、やっぱり相手は男だったかと再認識。良夜は溜息混じりに「そこ」と、見間違うことなく陽の目の前にあるお椀を指差した。

 じっと陽はそれを見つめる。さっさと手を出せばいいのに、と良夜の表情は僅かに歪むが、陽はそれでも手を動かさず。代わりに日本酒をグラス一杯喉の奥へと流し込んだ。

 ホッと一息、朱色に染まった溜息をつく。その溜息が扇風機の風に乗って何処かへと消えると、彼はやおら顔を上げ、先ほどまでと同じ調子で言った。

「……浅間くんの指も三本……どれが本物?」

 小首をかしげる言い方がちょっぴり可愛いと思った……除く声。

「ああ……もう……はい、これ」

 汁椀をひょいと取り上げ、彼の手に握らせる。中身はとっくに冷え切っているようだが、ラッフィンググールにはあまり関係ないだろう……と思う。そもそも、ここまで酔ってる奴に味がわかるかどうかも危うい。

「浅間くん……いい人」

 陽の意外なほどに柔らかい手が良夜とお椀を包み、彼はさらに言葉を続ける。

「食べさせて」

「ふざけるな」

 即答だった。一秒の隙もない即答だ。

「ヒドイ……なんて意地悪」

 よよと崩れ陽は崩れ落ち、テーブルの上に溜まった水滴でのの字をいくつも書き始めた。その仕草だけを見ると男装の麗人が拗ねているようにも見えるのだが、残念なことに彼の声は地の底から響き渡るような悪魔声。それでは全てが台無しだ。

 覚め行く酔いを自覚しながら、良夜はさらに冷たい声を上げた。

「自分で食って。俺は――」

 忙しいと続け、さらにはアルトの馬鹿をたたき起こさなきゃいけないと心の中だけで続けられる予定だった。しかしその予定は、一人の女性の声によって叩き切られた。

「あぁぁ!」

 ぴしっ! それまでグラス片手にパタパタと胸元を仰いでいた美月が良夜の顔をぴしっと指差す。白いブラが日焼けとお酒で薄桃色を僅かに越えた色具合に染まる肌と美しい色合いを織りなす。そのコントラストが彼の網膜を焼いた。一瞬だけ見入る、いや、魅入られたと言っても良い、自分の立場も忘れて……もしかしたら、酒の所為で頭のろれつが今ひとつ回っていなかったのかも知れない。

 数秒の至福。彼はこの時、久しぶりに生まれてきて良かったと思ったそうだ。


 その頃のアルトちゃん。

「今日もブルマン……昨日もブルマン……飽きたから……明日はモカ……」

 ほんのりしめってヒンヤリ心地良い台ふきの上で、都合の良い夢を未だに見ていた。


 閑話休題。

 天国の後には地獄が待っていた。

「浮気ですねっ!? 酷いです! 酷い裏切りです!!」

 美月の悲鳴が響き渡った。バタバタとまるでオモチャを買って貰えなかった子供のように、美月は暴れる。暴れるたびにグラスの中からお酒が飛び散り、彼女や彼女の周りを酒浸しにしていった。

「うっ、浮気じゃないです! この人、男ですよ!?」

 握りしめられていた手をふりほどき、慌ててとってつけたような言い訳を良夜は言った。しかし、そんな言葉、酔っぱらいに届くあろうはずがない。

「愛は年齢と人種の壁も越えるんですよ~~~年齢と人種の壁を越えられる物が、性別の壁……あぁぁ!! 性別は同じだから、乗り越える必要もありません!!!」

 美月はバタバタと手足を振り回しながら、訳の判らない理論を並べ立てる。手に入っていたグラスはすでに空っぽ、代わりに彼女の周囲からはむせ返るような酒の香が発せられていた。

 そして、彼女はその混乱の渦をさらに広める。

「彩音さん!! 陽さんが浮気中です! しかも相手は良夜さん!! 大変です! バケツの底を見ている暇はありません!!!」

 彩音はそれまでバケツの底と対話をしていた。良夜は吐いたと思っていたのだが、不思議なことに彼女は吐いていない。曰く、バケツの底を眺めていると落ち着くらしい。正確に言うと、ブリキ製の底を見ていると落ち着くそうだ。プラスティック製だとこうはいかない。彼女が舞台美術でブリキに慣れ親しんでいるせいかも知れない。

「……お姉さまは……わたくしよりも殿方からお慕われて……呑むしかありませんわ、わたくしは……」

 ショートの髪を揺らし、彼女はすっとバケツの底から顔を上げた。そして、何故か未だにキープしているグラスを一気に煽る。

「女の子では彩音ちゃんが一番」

 パクパクと口にモツを運ぶ手を止め、陽は小さな……でも、確実に部屋にいる人間には届く声で呟いた。呟くだけ呟くと、再び、彼は一心にもつ鍋を食べ始める。

「男では良夜さんなんですか!? 彼氏とお友達に裏切られましたぁぁぁぁ~~~……――呑むしかっ!」

 もはや良夜のキャパはすでにオーバーフロー。美月が一気飲みを始めたとしても、諦めたような言葉を呟く以外、彼に与えられた選択肢は何一つとしてなかった。

「なんでそうなるんだ……?」

 その台詞はどの行為、どの台詞に対していったのだろうか? 良夜自身、そのことを理解できない。強いて言うなれば、この世界に対する全ての理不尽に対していった言葉なのかも知れない。


 その頃のアルトちゃん。

「あぁ……駄目、アイスブルマン風呂は……死んじゃう……幸せすぎて……」

 やっぱり、未だに夢を見続けていた。


 ここから約九十分を良夜は深く語りたがらない。

 それぞれから酒を奪い取るのに三十分。美月と彩音を女部屋に連行するのに三十分。さらに直樹を引っ張り出して、陽と共に男部屋に放り込むのにさらに三十分……

 この一時間半の間に、彩音には抱きつかれるわ、それで美月が怒り始めるわ、陽は陽でまだ食べると言い出すわ、貴美に抱きつかれて眠る直樹の処遇に頭を抱えるわ、そこから直樹を引っ張り出して代わりに彩音を生け贄に差し出して……そして、その一時間あまりの攻防戦の中、酒は飛び散り、モツは宙を舞ったのだから、部屋の中はグチャグチャ……誰が掃除をするかなんて、考えたくもない。

「はぁぁぁぁぁぁぁぁ……」

 全てが終わり、何一つ片付いていないテーブルに腰を下ろし、良夜は大きな溜息をついた。

 テーブルの上には概ね空になった鍋と数多くの汚れた食器、そして僅かな内容物だけを残すガラスポット……最後の一つからグラスに酒を注ぎ、良夜は一息に煽る。冷酒だったはずのそれはすでに生ぬるく、決して美味しいとは言えない代物になっていた。それを飲干すと、良夜は立ち上がり、男二人が眠る寝室へと足を向ける……

「……忘れ物……」

 一旦進めた歩を数歩巻き戻し、その“忘れ物”をある場所へと置く。

 パチンと電気を消して、ようやく、長かった二日目は終わり、三日目はすでに始まっていた。


 その頃のアルトちゃん。

「むっ……胸が……コーヒーで……胸焼け……ああ……それでも幸せ……」

 彼女は大きな皿を布団に、寝苦しくも何故か幸せな夢を見ていた。



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