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今年も夏物が始まります(完)

 さて、明けて翌日日曜日。カレンダー的にはもう梅雨の時期はとっくに来ているはずだというのに、お空はピーカン晴れの良い天気。昼まで惰眠をむさぼった良夜は、今日も無駄に暑くなりそうな空の下、スクーターを飛ばして喫茶アルトへとやって来た。

「いらっしゃいませ、あっ、良夜さん。昨日はいらっしゃらなかったんですね」

 彼を出迎えるのは、蒸し暑い天気だというのに元気に長袖ベスト姿の恋人三島美月嬢だ。腰まで伸ばした黒髪と合わされば、その姿は暑苦しい事この上ない。

「ええ、レポート、仕上がらなくて……」

 苦笑いを浮かべて頭を掻く。昨日の彼は昼前からレポートに取りかかり、夕方過ぎまでずーっと机に向かってテキストと大学ノートと相手に格闘し続けていた。おかげで昨日の昼食はインスタントラーメン、わびしいたったらありゃしない。もっとも、後で直樹から例の話を聞いた時には、珍しく稼動していた自分の良心というものに深く感謝したものだった。

「本当かしら? 逃げてたんじゃないの?」

 どこからともなく飛んできたアルトが、彼の頭の上に着地を決める。それにチラッと視線を向けて、本当だとだけ返す。美月が一瞬だけ不思議そうに小首をかしげたが、良夜はそれを曖昧な言葉でごまかした。

「ところで良夜さん。ちょっと良いですか? お腹、空いてます?」

 いつもの場所、いつもの席、そこに良夜が座ると普段なら仕事に戻る美月もその正面に腰を下ろした。普段なら、まずは注文を取るはずの美月は注文を取る代わりに、彼の目の前へと腰を下ろす。そして、唐突にこんな事を切り出してきた。

「最近、どうもおかしいんです……」

「はい?」

 真剣な表情、じっと真っ正面から見据えられ、良夜の鼓動がトクンと僅かに早くなる。

「誰かに……」

 いったん視線を切り、美月はきょろっと周りを見渡す。窓から差し込む陽気と日曜の閑散としたフロア、他にいるのは暇そうにパイプを磨く老人の姿だけだと判ると、彼女は再び視線を良夜の瞳へと向けた。

「私、監視されているかも知れません……」

「かっ、監視って……まさか、ストーカー? 警察に連絡とか――いってぇぇぇぇ!!!」

 ぶっちぃぃぃ!!!!

 その言葉に良夜も姿勢を正した瞬間だった。彼の頭頂部から心地良い音が鳴り響く。

 反射的に頭へと手をやり、犯人の体をひっつかまえる。掴んだ手をどすんとテーブルの上に置き、殺気をはらんだ視線で見下すも彼女は普段通りのすまし顔。このまま首をねじ切ってやろうかと思うくらいに余裕綽々だ。

「アルト……お前、俺になんの恨みがあるんだ?」

「賭けやってる馬鹿が美月の事を観察してるだけ。ストーカーとか変質者とかじゃなくて、単なる馬鹿者の群」

 あっ……と小さな声を良夜は上げる。その拍子で手から力が抜けると、アルトは彼の手の内から逃げ出し、再び頭の上へと戻った。

「だから、ストーカーだとか警察だとか、大騒ぎしたら恥を掻くのは貴方と美月よ。貴方が恥を掻くのは良いけど、美月を巻き込まないで上げて欲しいわね」

 ちょこんと腰を下ろして、まるで世の摂理でも解くかのようにアルトは言葉を続ける。それを聞きながら、良夜は安堵に胸をなで下ろすのだった。褒められた事ではないが、現金が掛かっている連中にとって美月の一挙一動は気に掛かって当たり前なのだから。

「で、美月が通訳を待ってるみたいだけど、素直に話したら陽が怒るわよ……男声で」

「良夜さん、お話し、終わりましたぁ?」

 ニコニコ、先ほどまでの不安そうな表所はどこに消えたものやら。彼女はニコニコと幸せそうな表情で良夜の顔を見上げている。

 ヤバ……と考え込む事約十秒。

「アルトのアホが……えっと……白髪、そう、白髪を抜いて……若白髪は幸運って言うから抜くなよって言ってただけなんですよ。ホント、大した話じゃない……です……から」

 じとぉ……

 早口で巻くしてた言葉は根っこから呆けていると言われる美月にすら不信感を感じさせたのか? 美月はじーっと何か言いたげな表情で良夜の顔を見上げ続ける。

「えっと……あの……」

 取り繕うように声を上げても、美月は返事一つ、瞬きすら忘れて良夜の顔を見つめ続ける。大きな黒目がちの瞳から良夜も視線をそらす事が出来ず、二人の時計が止まったかのように見えた。

 そして、二人以外の時計がきっちり五分の時を刻む。

「良夜さん……」

 ゆっくりと美月が真剣な口調で呟く。視線は未だに良夜の顔を捉えたまま。

「はっ、はい!」

 ピンと背筋を伸ばして良夜は答える。心臓の鼓動が焼けにうるさい。今、もし、妙な事を聞かれたらばらしてしまうかも知れない……青年は女装青年の低い男声で怒られる事への覚悟を決める。

「私……ガンなのでしょうかっ!?」

「はい?」

 きょとん……とする良夜を尻目に美月は一層ボルテージを上げてゆく。

「きっ、昨日、テレビで見たんです! ガンで余命幾ばくもない患者さんの家族とかお友達が妙によそよそしくなって……ああ!! 吉田さんがキッチンにちょこちょこ来るのも、私が倒れたりしないように見張って居るんですね?! うわぁ~~~私、死んじゃうんですか!? ガンで苦しみながらぽっくりですかっ!?」

 自らの発言に自らのテンションを美月は上げてゆく。大きな瞳からはぽろぽろと涙をこぼし、子供のように彼女は騒ぎ立てた。

「……あの、美月さん?」

「はっきり言って下さい! 私の命は後何日ですかっ!?」

 ばんっ! とテーブルに拳を叩きつけ、彼女は涙目で訴える。訴えられても良夜も困るだけだ。その勢いに彼が引いてしまうと彼女はさらにテンションを上げてゆく。大体、こんな元気なガン患者居るんなら一度会ってみたいところだ。

「ンな事あるわけないでしょ……」

 どうしてここまで話が飛躍するのだろうか? その思考回路は美月本人しか判らない事なのだろう。多分、残りの人生半世紀ちょっと付き合っても理解できない自信が良夜についた。

「ああ!! 同じです! 疑った患者さんに恋人が言ったのと同じ台詞です!!」

 と、こんな感じで言う事なす事、全部「嘘をついている恋人」へと美月は結びつけた。もう、説得する気力すら失うところだが、ほっとけるほどに良夜は冷たい人間になる事も出来なかった。

 で、時計の長針がきっちり一周した。もちろん、一周した時点においても美月は死ぬ死ぬの連呼をしっぱなし。良夜の話など聞く耳すら持たない。そんな事をしていれば、ただでさえ少なめな良夜のボキャブラリーも尽き果てる。

「アルトがですね、美月は百まで生きるって言ってますから……」

 言うべき言葉も使い果たし、良夜は半ばやけっぱちになっていった。その勢いを駆り、彼はアルトの言葉をでっち上げた。それにアルトが批判がましい視線と言葉を贈るが、そっちは無視だ。

「えっ、本当ですか? やぁ~~~良かったです~~~」

 途端に落ち着きを取りもどす美月。さっきまで死ぬ死ぬと言っていた女性とは思えないほどに落ち着くと、彼女はほぉ~と大きな溜息をこぼした。

「安心しましたぁ~もう、それならそうと言って下されば良かったのに! あっ、いっけなーい、良夜さん、今日、何食べます? 今日はクロワッサンのタマゴサンドのセットなんかお勧めなんですよ」

 パァと顔色を明るくすると、彼女は普段の彼女へと戻った。そして、いつものように明るい口調で良夜に注文を尋ねる。もちろん、良夜には色々と言いたい事が多々あるが、下手に突いて話が巻き戻ったのでは手に負えない。ともかく良夜は美月が薦めるまま、クロワッサンのタマゴサンドセットを注文し、彼女を見送る。もはや出るのは溜息だけだ。

「……さっきまでなんであんなに信じなかったんだ……」

「そうね。きっと、昨日見たテレビに『嘘をついてる恋人』って設定はあったけど『嘘をついてる妖精さん』って役回りのキャラは出てこなかったのよ」

「……訳がわからねえ……」

「淑女は紳士にとって永遠に謎の生き物……ごめん、美月は私にも良く解らない生き物だわ」

 くてーと二人仲良くテーブルの上に突っ伏する。アルトの方は両手両足を投げ出して大の字だ。頭を置く事しかできない良夜にはそれがちょっぴり羨ましい。

「まあ……なんにせよ、例の話はごまかせた……苦労したかいがあったよ」

「……美月が必要以上に呆けてて良かったわね?」

 チラッと視線だけを合わせ、二人は仲良く安堵の吐息。が、しかし……

「あの……でしたら、どうして私は皆さんから監視されているのでしょう?」

 クロワッサンのタマゴサンドセットを持ってきた時、彼女は改めて良夜にそう尋ねるのだった。


 で、だ。

「良夜、ただの友達のオカマと恋人、どっちが大事なのかしらね?」

 なんて汚い女なんだ……良夜はテーブルの上でそう言うアルトに対し、心の中だけで罵倒する。

 良夜の昼食を持ってくると、美月は再び良夜の前に座って当初の疑問を持ちだしていた。もちろん、彼女に良夜が何かを知っているという予想などない。ただ、不安だから一緒に考えて欲しい、彼女の言い分はそれだけだ。

 しかし、逆にそれが良夜を悩ませていた。

「可哀想な美月……周りから妙な注目を浴びて……ああ、それを恋人はオカマの低い声に怯えて黙っているの。なんて可哀想なのかしら……この甲斐性無し!」

 テーブルの上に立ち、彼女は自分の体をギュッと抱きしめる。そして、くねくねと妙なステップを踏んで踊り始める。まるで歌劇のように歌う口調と芝居がかった仕草。良夜の胃袋はキリキリと悲鳴を上げる。

「ああ! 愛する恋人に見捨てられた美月、彼女の運命はどうなってしまうのかしらっ! …………後でチクろう」

 この裏切り者……てめえは俺の敵か? と内心愚痴ってみても、アルトの言ってる事はおおむね正論だ。ああ……あの男声はいやだな、良夜は先ほど決めた覚悟を決めなおし、居住まいを正す。そして、

「美月さん……実は――」

 はい、ばらしちゃいました。ええもう、二-三日陽相手から逃げ回る覚悟を決め、彼は少し前に渡された掛け率表を美月に手渡した。

「………………………………」

 嫌な沈黙にテーブルは包まれていた。まぶしい陽光の中、美月は手渡された掛け率表を凝視、良夜は用意された料理に手を着ける事も忘れて、その美月をうかがう。ただ、良夜のアイスコーヒーをアルトがストローで吸い上げる音だけが、ちゅーちゅーと響いていた。

「良夜さん……これはどういう意味でしょう?」

 ゆっくりと、静かに美月は口を開く。抑揚のない低い声。独り言のようにも聞こえる声は極端に小さかったが、静かなテーブルの上では必要十分を過ぎていた。

「素直に言えば怒るわね」

 アルトに言われずともそれは良夜にも判っている。伊達に何度も美月の胸地雷に突っ込んだわけではない。

 だがしかし……

「言わなくても怒るのよね」

 行くも地雷原なら行かなくても地雷は暴発する。しかも勝手に近づいてくる。どうにかしてくれ! と心の中で神に祈っても、彼の祈るべき神は現在居留守を使っていた。

「さっ……さあ?」

 とりあえず曖昧な言葉でごまかす。

「ヘタレ」

 アルトに馬鹿にされてもごまかす。

「…………………………」

 再び美月は沈黙す。しかし、掛け率の印刷された紙を握る手には、まるで万力が鋼鉄でも押しつぶすかのように力が込められ、長袖に包まれた上からでも二の腕がプルプルと痙攣している事が見て取れた。

 料理人は毎日重たい寸胴を持ち運ぶため、意外と腕力があるらしい。その上美月は祖父がぎっくり腰で寝込んだ翌日から、コーヒーの重たい豆袋の管理も受け持つようになっていた。もしかしたら、良夜の知り合いの中では一番の力持ちかも知れない。

「……賭は良いんです。ええ、良いですとも。ここは田舎で娯楽も少ないでしょうから……」

 ゆっくりと美月の唇が動く。それと同時に美月の握った紙に微細な皺が走り始めた。

「でも、これはどういう事なのでしょうか?」

「と……言いますと?」

「これです……」

 ギリギリのところで破れずにいた紙を良夜の手に戻すと、彼女は少しだけ荒れた指先をその一カ所に置く。

2:着替えない 1.1倍

 ちなみに本命である。ド本命。

「こっ……これが……何か?」

「判らないんですかっ!! 良夜さん!!!」

 小さな声で良夜が聞き返すと、彼女は握っていた紙を一気に引き破った。紙は真っ二つに破れ、さらに半分、八等分、十六等分と細かく破られて行き、最後には紙吹雪となって喫茶アルトのフロアに舞い散った。

「要するに、です! 私の胸が小さいから皆さん、開襟シャツには着替えて欲しくない!! そう思ってるんですねっ!!!!」

 がん! とテーブルに拳を叩きつけ、美月は涙目で切れた。

「こう言う切れ方をするとは見抜けなかったわ……」

 紙吹雪舞い散るテーブルの上、ぽっかーんと美月を見あげながらアルトは妙に感心した声を上げていた。


 それから十分後、美月は陽を喫茶アルトのフロアに呼び出していた。演劇部の練習で大学に出てきていたのが、陽の運の尽き。

「二条さん、これはいったいなんでしょう?」

「あっ! あの! ゆっ許してあげて下さい!! お姉様は悪気が、悪気……悪気がなくてこんな事を出来てしまうほどたちが悪いだけなのです!!」

 涙ながらに許しを請う川東綾音に、離れたところ、良夜と共にその様子を観察していたアルトがつぶやく。

「全然フォローになってないわよ……」

「良いんですよ~別に怒ってませんから」

(怒ってる怒ってる……絶対に怒ってるから)

 美月は笑顔で黒髪を逆立てる。まるでメデューサだ。そのメデューサに石にされた人間、良夜とアルトと陽と彩音の心が一つに重なる。

「おっ、怒るのでしたら、わたくしも一緒……一緒……」

 半泣きになりながら陽を彩音は庇う。しかし、その肩を一つ叩き、陽は美月の前へと進み出た。

『あたしも漢 罰は潔く受ける』

 女装姿の青年はメモ帳を見せる。その表情からは珍しく微笑みが消え、視線は真っ正面から美月の顔を射貫く。何処か高貴な威厳すら感じさせる。まるで大国の女王を思わせる雰囲気を彼はまとっていた……男だけど。

 その視線を受け止めるメデューサ美月は大きく首を振ってみせる。

「私も参加するだけですよ」

 そう言って美月が取り出したのは一通の預金通帳だった。それを見た瞬間、アルトの顔色が変わった。

「あっあれ……この店の運転資金……」

 その預金通帳を陽は恐る恐る開く。瞬間、ざーっと音を立てて血の気を引かせた。先ほどまでの威厳も遠いお山の向こう側へと消えてゆく勢いだ。

「それを全額――」

 大きく息を吸って、美月はにっこりと微笑む。同時に彼女は一つの紙袋を持ち上げた。そこに入っていたのは――

「水着」

 彼女は昨年買ったストライプのビキニを見せながら、はっきりと宣言。その瞬間、陽の手から手帳がぽとりと落ち、彼の表情が凍り付いた。

「水着に全額掛けます」

「ごめんなさい、許して下さい、破産します」

 その日、喫茶アルトでは演劇部の女形が美月に土下座して詫びている姿が、一日中見られたという……

「いくら入ってるんだ……あの通帳」

「そうね……あの掛け率なら家一件分は儲かったはずよ……」

 結局、陽に下された判決は掛け金の全額没収。彼の顧客には良い迷惑だが、その辺は半ば逆恨み入ってる美月に言い出せる奴は一人もいなかった。


「良夜のアホ……」

「死ねよ、浅間……」

「浅間くん、サイテー」

 そして、美月に掛け金全額没収された連中は、何故か良夜を責め続けた。昨日まで顔すら知らぬ女子大生から「浅間くん、死んじゃえ」と言われた時は本当に死んじゃおうかと思うほど。

「……なっなんで……?」

「美月より責めやすいからじゃない? 後、貴美が言いふらしてたわよ」

 今年、結局美月は六月十四日遅い梅雨入り宣言が下された日から、開襟シャツを身につけ始めた。

 梅雨が明ければ夏本番。

 今年も夏物が始まります。


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