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アルトの一日(3)

「いらっしゃいませ」

 引っ越してきた三月の中頃、あの日から今日まで良夜はほぼ毎日この店に通っていた。理由を考えれば色々と言える。例えば、安くて美味しいから、他に店がないから、三食自炊は面倒だから、家にこもってるのも退屈だから等々……しかし、結局の所「気に入ったから」という言葉に行き着いてしまうのは、当人も認めざるを得ない。

 そう言うわけで、未だ慣れない大学の授業を二つこなし、ランチタイムの始まったアルトのドアベルを良夜は鳴らした。

「いらっしゃいませ、あっ、こんにちは、良夜さん」

「こんにちは、美月さん、空いてます?」

 二人はいつの間にか、良夜、美月と呼び合っていた。主な理由はアルトが美月のことを『美月』と呼ぶので、つい良夜も『美月』と呼んでしまい、それを受けて美月が『じゃぁ、私も良夜さんと呼びますね』と、まあ、そう言うわけである。あまり色っぽい話ではない。

「ええ、空いてますよ。あっ、でも、カップが置いてあったから、多分、アルトが居ると思います」

 それだけ伝えると、美月は「お客さんが待ってますから」と付け加え、混み始めた店内からキッチンへと姿を消していった。

 流石に一月近く毎日通うと、良夜も立派な常連扱いである。しかも、良夜の場合、他の席に座るとアルトの機嫌が著しく悪くなると言う事情もあり、空いていればその席に座らざるを得ない。ちなみに、その席に他の客が座っていることを良夜は一度も見たことがない。

「……これじゃ、他の客は座らせられないよな」

 コーヒーカップが一つだけ置かれたテーブル、そこは他のテーブルからは死角になり、そこに座ると他のテーブルもよく見えない。見えるのは板張りの壁と大きな窓から見える山の風景だけ。その風景を楽しんでいるのが、冷え切ったコーヒーだけというのやけに寂しく見える。

 ――のだろうか? 他の人には。が、残念と言うべきか、幸運と言うべきかは知らないが、良夜の目にはそのコーヒーカップにもたれかかりボンヤリと外に見える桜の山を眺める一人の妖精が見えていた。ボンヤリと何かを考えているようにも見えるし、何も考えてないようにも見える妖精アルト。まあ、何も考えてないよな、こいつのことだし。

「よっ、何してんだ? アルト」

 その良夜の言葉にアルトは視線も動かさず

「花見コーヒーよ、風流でしょ?」

 と、だけ、彼女は答えた。

 花見にはアルコールじゃないのか? と、思うが、先日の様子を思い出すとその事はとてもじゃないが口に出せる代物ではない。他の人間に見えない以上、面倒を見るのは良夜を置いて他にないのだから。

 代わりに青年はひと言答えた。

「あぁ、そう言えば満開だな……」

 山の桜は競うようにその薄桃色の花を咲き誇らせている。初めてここから山を見たときは、つぼみをようやくふくらましかけていた程度だったのに、時間が過ぎるのはあっという間。流れるように時は動き、気がつくとその流れになれてしまう。人生なんてそんな物だ……

 そんなことを思いながら良夜がいつもの席に腰を下ろす良夜の顔を、アルトはじーっと見つめていた。

「丁度良いところに来たわ、コーヒーが冷えてしまったの。貴方のコーヒーが届いたら交換して」

「お前は、悪魔か……」

 いつもの軽口をお互いにたたき合い、良夜はひょいとアルトがもたれていたカップを手に取った。

「あら、飲むの?」

 背もたれのなくなったアルトはそのままソーサーの上に寝転がり、自身のために煎れられたコーヒーに口を付ける良夜を見上げた。別に不満そうな顔ではなく、言葉とは別に特に驚いたような顔でもない。

「勿体ないだろう? どうせ、俺のも勝手に飲むんだし」

 冷え切ったコーヒーに口を付けると、すっかり飲み慣れたアルト特製ブレンドの味が口にゆっくりと広がる。冷えているからと言って、別にマズイとは感じなかった。むしろ、そろそろ暖かくなってきたから、アイスコーヒーを頼んでも良いかもしれないなと思ったほど。

 アルトの飲み残しを半分ほど飲み干し、カップをソーサーの上に置く。

 それを避けてソーサーの端っこにちょこんと座り直したアルトが応える。

「あら、くれる気があるのね?」

「嫌だと言えば、飲まないのか?」

 良夜がそう言うと、アルトはカップの端から立ち上がり、ソーサーの上に置かれたカップへとぴょんと跳び上がりその縁へと腰を下ろした。初めの頃は向かいの椅子の背もたれに腰掛けていたのだが、最近はこの位置がお気に入りらしい。

 そして、彼女はニコッと笑って言った。

「と、思うのかしら?良夜は」

「思わないよ」

「楽しそうですね」

 そんな会話にメニューを持った美月が交わってくる。老紳士の孫娘だと言うことがよく解る笑み、その笑みはその言葉が本心からの言葉であることを示している、そんな気がする。

「楽しそう……って、見えてるんですか?」

 もちろん、見える見えないの対象はアルトのことである。美月の話によると、美月はアルトのことを見えないし、声も聞こえないはず。

「いいえ、見えてませんよ」

 良夜の質問に答えながら、美月はメニューを良夜の前に置いた。そのメニュー、良夜は毎日開いているのだが、ランチの時間に来ると結局は日替わりランチを注文している。コストパフォーマンスが一番良いので、他のメニューは今度で良いやと思ってしまうのだ。

「見えませんけど、良夜さんの顔を見てると楽しそうに見えますから」

 そう言う物なのだろうか? 知らない人が楽しそうに独り言を言ってたら、良夜なら百%そばには近づかない。むしろ、楽しそうであればあるほど怖いと思うだろうなぁ……なんて思いながら、青年は読み慣れたメニューから顔を上げ、いつものセリフを吐いた。

「えっと、日替わりのランチセット、飲み物はブレンドのホットで良いかな、まだ」

「ブルーマウンテン!」

 良夜の「ブレンドのホット」という言葉に会わせて、アルトが力一杯に自己主張をするが、当然そこは無視である。味が判らない人間がブルマンなんて飲む物じゃないって。初デートの日にアルトに約束したブルマンを飲んでみたが、良夜の感想は『ブレンドと味が違うことは判った』だけであった。正直、それが美味しいのかどうかは判らない。値段を知らなければ、飲み比べても高級なのかも判らない自信がある。

「ケチなのね、男の癖に……」などとアルトは文句をたれているが、そちらも当然無視。そもそも、美月は全く気にしないが、人前でアルトと会話するのは控えたい。

「はい、いつもの、ですね。今日はベーグルのツナサンドとコーンスロー、それからコンソメスープ、ティラミスですよ」

『いつもの』にちょっとだけアクセントをつけて、柔らかな笑みを残して美月はキッチンへと姿を消した。

「ここの二人はいつも笑ってるな……」

 歩くたびに左右に揺れる長髪を見送りながら、小さな声で呟いた。あの二人が怒っている所など、全く想像がつかない。

「そうね、美月はたまに凄く怒るわよ。和明がパイプ吸ってるのを見つけたときとか……和明は年単位で怒ってる所なんて見たことないわ……十年単位かしら?」

 アルトは視線を天井へと向け、老紳士が怒ったところを思い出そうとしているが、どうやらその試みはうまくいってないようだった。しかし、それほど怒らないとなると、下手をすれば良夜が産まれたときくらいから一度も怒ってないのかも知れない。

「ところで、タカミーズは? 仲、良いんでしょ?」

「あぁ……タカミーズな、あいつら、昼は弁当なんだよ。吉田さんが作ってるらしい」

 三人で来たときは、二人掛のこの席に、貴美が適当な椅子を持ってきて三人で座って食事をしていたのだが、それも大学が始まるまでで、大学が始まってからは一回くらいしか来ていない。

「貴美がつくってるの? 卵料理以外も作れたのね……」

 誰の所為で卵づくしになったかを都合良く忘れ去っているアルトは、平気な顔をして貴美の料理の腕を一方的に低く見積もっていた。まあ、茶髪の今時の大学生って姉ちゃんが料理上手だ、と言われてもちょっとピンと来ないかも知れない。

「中二からだから、ざっと五-六年はやってる計算らしい。後、彼女、貴美って呼ばれるの、嫌いらしいから辞めておいた方が良いぞ」

 流石にアルトも驚いたのか、目を大きく見開きキョトンとした顔を見せている。もちろん、良夜もその話を聞いたときは少々驚いた。何でも、きっかけは「ガールフレンドは彼氏の弁当くらいは作る物だ」というのを少女漫画で読んで実戦し始めたら、結構面白いので今まで続けている、と言う事らしい。ネタ元が少女漫画というのが貴美らしい。

「どうせ聞こえないから良いわ。しかし、貴美がね……見かけによらないわね」

「お弁当がどうかしました?」

 手に大きなトレイを持った美月が、良夜の背後からランチを並べながらそう言った。

「あぁ、吉田さんって知ってます? ほら、この間、連れてきたカップルの女の子の方。あの子が彼氏にお弁当作ってるんですよ」

 視線を空中に漂わせながら、記憶の糸をたぐっていた美月が「あぁ」と言う声を上げた。

「確か……胸の大きな人ぉ……ですよね?」

 途端に美月の顔が曇り、良夜の前に手早くランチセットを並べると、それが乗っていたトレイを胸の前に両手で抱えた。

『胸の大きな人ですよね?』と聞かれた場合、男はなんと言って答えたらいいのだろうか?『はいそうです』と答えるのもなんだか、そこばっかり見てると思われそうだ。しかし、実際大きいのだから『はいそうです』としか答えるすべはない。

「多分、その人だと思います」

 そう言う訳なので、良夜はこういう答え方になってしまうわけだ。少々顔が赤くなってる辺りが可愛い。流石童貞。しかも男子校出身、女に免疫がない。

「美月は貧乳だものね。胸の大きな人は良く覚えてるのよ」

 早速、新しいコーヒーカップに取り付いたアルトがそんなことを言うから、良夜の視線は自然とトレイで隠されたところにいってしまうわけで……そして、美月はアルトの声が聞こえていないわけで……

「……」

「……」

 ものすごい嫌な沈黙だった。人間、五分あれば胃潰瘍になれると言うが、良夜はこの沈黙の中に30秒いれば胃潰瘍どころか、胃ガンになって、しかもその胃ガンがリンパを通って、全身に転移してしまえるような気がした。ので、つい……

「あっ、小さいのは小さいので味があるというか、美月さんも美人ですよと言うか……」

 などと言うことを口走ってしまったわけだ。馬鹿である、一言で言って……それは後から良夜自身も思った。

 美月のトレイを握る手が小刻みに震えているような、顔は笑ってるけど目が笑ってないと言うか、心なしかあの長い黒髪が逆立ってるような気がするというか……あっ、もしかして、俺は今『たまに凄く怒る美月』というのを見ているのかも知れない。うん、レアな物を見れて眼福だ。出来れば他の人に怒ってるところが良かったな。マヂで。泣いちゃいそう。

「それでは、ごゆっくり、お・きゃ・く・さ・ま」

 ぷいっと言う声が聞こえそうな勢いで美月は振り向き、やけに大股にそこから立ち去っていった。ポツネーンとの取り残される良夜の背中は、美月の胸よりも小さかったと言われている。

「馬鹿よね、実際」

 そんな良夜の姿を入れ立てのコーヒーをストローでチューチューと飲んでるアルトが見てそう言った。

「返せ!」

 とりあえず、アルトからコーヒーを奪って、八つ当たりをする良夜であった。ちっちぇ……

 

 良夜が食事をかき込み……サンドイッチをかき込むってのも器用な物だが、その後に美月に平謝りに謝り許しを得てアルトを後にしたのは、午後の授業が始まる直前であった。美月の仕事が一息つくまで待ってる間の気まずさと言ったらもう……。

 その時間帯になると、喫茶アルトの客も一気に減り、そこの三人の住人達もまた暇な時間を迎えることになる。アルトが忙しい時間帯があるわけではないのだが。

 いつもなら穏やかで退屈な時間が流れるのだが、今日の美月は少々違っていた。

「Aカップでも一生懸命生きてるですよ……」

 カウンターの隅の席に座って、その上にのの字を書いて落ち込んでいましたとさ。

 

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