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今年も夏物が始まります(1)

 喫茶アルトの自称フロアチーフは悩んでいた。

 彼女の目の前には二着のワイシャツ、一つは昨日まで着ていた長袖のワイシャツ、もう一つは半袖開襟シャツ。それらを自室の床の上に置き、腕組みして考え続ける事、すでに二時間。お風呂上がりの貴重な時間を彼女はただひたすらに浪費し続けていた。もちろん、当人はその時間を浪費だとは思っていない。この夏数ヶ月を決める大事な選択なのだ、彼女の中では。

「去年、暑かったんですよね……」

 そう呟き、彼女は開襟シャツに手を伸ばす。胸元に当てて思い浮かべるのは、去年の貴美の姿だ。男物の開襟シャツは肩幅で合わせると、貴美の豊かな胸元をグッと強調させていた。引き替え自分はスカスカ……見事に布地が余っていやがった。

 だったら、やっぱり今年も長袖で通すか? しかし、去年、空調を長袖の自分たちに合わせてガンガンに使っていた結果、光熱費は目眩を覚えるような金額に跳ね上がっていたし、何より一部の客から寒いというクレームが付いた。後者の方は背中に『バカ』を背負った――第十八話「海と空で」当たり参照――貴美が無理矢理納得させて事なきを得ていたのだが、今年はそれも使えない。

「ふぇ~~今年はどうしましょぉ?」

 二つのワイシャツを代わる代わる胸元に当て、彼女は涙を浮かべながら、いつまでも悩み続けるのだった。

 

 六月第一週月曜日、未だ梅雨にも入っていないというのに喫茶アルト周辺は気持ちいいくらいの真夏日。去年は梅雨入り直後に変わったメニューも今年は一足先に夏仕様、良夜達も今日のランチメニューを冷製パスタとアイスコーヒーにしていた。

「と、言う事をやっていた結果、美月が昨日の夜眠りについたのは……ああ、今朝ね、今朝。今朝の三時だったわけ」

 そんなお昼ご飯を待つしばしの間、良夜はアルトから聞いた話に軽く額を抑えた。

「……毎度毎度、良くそう言う事で悩めるよな……あの人」

「毎度毎度、貴美の釣り針に釣り上げられる方も釣り上げられる方よ」

 アルトの言葉に良夜の額が押さえていた指先から落っこちる。上げる声はウグッと言う悲鳴にも似たうめき声。

「早速美月にチクってたわよ? 貴美。美月の機嫌が悪くなってなきゃ良いけど……このむっつり」

 テーブルの上に両足を投げ出していたアルトが、彼の顔にピッとストローを指し示す。そのストローの切っ先から逃げるように、良夜は視線を彼女から窓の外へと向けた。ブツブツと口の中ではなにやら言い訳めいた台詞を呟いているのだが、それはテーブルでくつろぐアルトどころか良夜当人の耳にも届かないような大きさだった。

「かわいそうな美月……ペッタンコなだけじゃなくて、彼氏まで大きい方が良いなんて言われて……」

 良夜が視線をそらした事を良い事に、彼女はネチネチと彼の悪口を言い続ける。言われる度に良夜の口元が歪んでいき、ついには視線を窓からテーブルの上へと戻した。

「誰も言ってねえ……大体、見たって言ったって、ちょっと見ただけだぞ? チラッと、ホンのチラッと。なあ、直樹?」

「はい?」

 それまで半分無視されていた形になっていた直樹は良夜同様、まぶしい太陽に照らされた空を眺めていた。それが唐突に声を掛けられると、鳩が豆鉄砲でも喰らったように目をまん丸くする。

「今朝の話だよ」と良夜が言葉を続けると、直樹は「ああ」と小さな顔を大きく振った。そして――

「良夜君が吉田さんの胸に見入ってた?」

 思わぬ方向からの攻撃に良夜はがっくりとうなだれ、再び視線を窓の外へと向けた。やっぱり良い天気だというのに、彼の心は一足先に梅雨模様だ。

「えっ? あれ、なっ、なんですか? 別に良いんですよ、どうせ、吉田さん、見せてるんですから!」

「……私の声が聞こえてない直樹に話を振るのが間違いよ。バーカ。後、貴美は見せてるんじゃなくて漁場にコマセを巻いてるだけよ」

 ふてくされる良夜に直樹は顔色を変えて色々フォローするが、それがフォローになっていないのはアルトの言を待つまでもない。

 貴美は今朝から長袖だったワイシャツを半袖の開襟シャツに着替えていた。涼しげに大きく開いた胸元からは深い谷間が覗き、彼女はそれを惜しげもなく晒すと同時に、「どーよ?」と去年同様良夜に感想を求めた。そんな事をされて、見入ってしまわない健全な男がいるだろうか? 居たらそいつはすでに健全ではない、と良夜は思う。

 そんな良夜の考えをアルトは的確に見抜いているのか、それとも単に流れで悪口を言い続けているのか? それは良夜には判らないが、彼女は「むっつり」だの「童貞」だのと小馬鹿にし続ける。

「美月も何が良くてこれと付き合ってるのかしらね……」

 その言葉、全てに対して聞こえない振り。聞こえない振りをしているからこそ、彼女の悪口はヒートアップしていく。彼のストレスは溜まる一方だった。

 そんな良夜にふと直樹が声を掛ける。

「ところで、今日、三島さんと会いました?」

 直樹に聞かれ、良夜は来たときのことを思い出してみる。確か来た時にはフロアには老店長が一人だけで、美月はキッチンにいたはずだ。来るのが早ければフロアで注文を取っている美月に会えるが、少し遅れると会えなくなる。ランチタイムが始まってすぐくらいなら美月はフロアにいるが、ある程度時間が経てばキッチンに立てこもって料理をするのが美月の仕事だからだ。それを思い浮かべながら、良夜は窓の外に向けていた視線を直樹に戻しながら「いいや」と答えた。

「こう言うの、回ってきてるんですけど……知ってます?」

 そう言って小柄な青年は胸ポケットから一枚の紙切れを取り出した。受け取ってみれば、それが良く見るプリンター用紙である事はすぐに判った。それをカサカサと開くと、そこには――

『アルトの黒髪の方は今年の夏をどう過ごすか?

1:冬服で通す

2:開襟シャツに着替える

3:ついにパットに手を出す

4:開き直って水着で働く』

 無地の紙にプリンターで印字されたそれには、こんな文面の後に各項目の掛け率が続く。ちなみに一番人気はやっぱり『冬服で通す』だ。悪趣味というか、下世話というか、くだらないというか、何とも言い難いオッズ表に良夜はもちろん、良夜の肩口から覗き込んでいたアルトまでもが絶句した。

「今日はどっちだ?」

「冬服……悩み抜いて保留中よ」

 大げさに肩をすくめるアルト、彼女の胸も自慢になるくらいペッタンコだが彼女のドレスも今日はすでにノースリーブのワンピース。ノースリーブなのにドレスの裾や胸元にはたっぷりとしたレースが幾重にも折り重なる。涼しげなのか暑苦しいのか良く解らない服装だ。

「回ってきたの、演劇部方面なんですよ……」

「……二条さんだな……」

 くしゃっとオッズ表を丸めながら、良夜が思い浮かべるのは演劇部の女形の顔だ。男の癖に常時女装姿の二条陽は時々こういうギャンブルの胴を持つ。

「おそらくは……ばれたらコトですよね?」

「あの人、怒ると怖いからな……」

『ばれないようにする』

 溜息混じりに話し合う二人の前に、一冊の手帳が滑り込む。開いて二つ折りにされた手帳には、両側のページに同じ文面が書かれ、直樹と良夜や二人が同時に読む事が出来るようになっていた。

「噂をすれば、ね」

 背後から伸ばされた腕に沿うよう視線を動かし、アルトは良夜の方の上から陽とその隣に立つ彩音を見上げる。良夜もそれにつられるように視線を動かしていった。

「こっこんにちは……」

『こんにちは』

 折り目正しく挨拶する彩音と陽。もっとも陽の方は筆談だし、彩音の方は自分たちが話題だったためかその笑みが心なしか引きつり気味。

「……良くこういう悪趣味なギャンブル思いつくよな……二条さんって」

 呆れ口調で良夜がそう言えば、彼は開いた手帳にペンを走らせて……そのペンが止まる。止まったままのペンと手帳を見つめる事十数秒、陽は隣の彩音へと視線を向けた。そして――

「儲けるってどんな字?」

「ひゃっ!」

 低く男らしい声が発せられると、彩音の背がビクン! と伸びる。彼女は貴美以上に大きな胸を右手でギュッと押さえると、ドキドキと脈打つ心臓を沈めるかのように、大きく深呼吸をした。

「にんべん、言語の言に、馬鹿者の者、です」

「馬鹿者はお前だ! ッて感じよね」

 耳元で囁かれる言葉に良夜はちょっとだけ頷き、頷き終わる頃には陽のメモ書きも終了していた。

『その節は儲けさせてもらいました』

 そんな紙切れを見せられたところで、良夜に思い当たる節などありはしない。ただ、不思議そうにニコニコと微笑み続ける陽とその紙を見比べるだけ。

「……バレンタインの」

「美月と貴方がどうなるか? って」

 直樹とアルト、二人に言われ良夜は「ああ!」と大きな声を上げ、ポンと手を叩いた。

「って、そんなに儲かった?」

『トータル3万浮き』

「……内、一万円は私のお小遣いなんよ……お客様、ご注文おきまりでしょうか? それから、ご着席、お願いします」

 嬉しそうに手帳を見せつける陽に対し、両手でトレイを抱えた貴美がその背後から声を掛けた。その表情からは普段の営業人格が剥がれ落ちている。剥がれ落ちた向こう側には貴美には珍しい心底不機嫌そうな顔があった。

『負け犬』

「ほっぺにチューはラブシーンじゃないと思わん? おかげでひと月、どれだけ我が家の食卓が貧相だったか……」

 陽の突き出すメモ帳から貴美は射殺すような視線を無理矢理を外すと、良夜と直樹の前に本日のランチメニューを並べていく。四ヶ月前の大損を思い出したのか、並べる手つきにいつもの優雅さはなく、カチャンカチャンと食器がぶつかり合う音が良夜達の席に鳴り響いた。

『負け犬』

 再び指し示される同じページに、貴美の営業人格はついに破綻を来した。

 がちゃん! 最後までトレイに乗っていたサラダが大きな音を立てて、良夜の前に飛び下りる。一応それに視線を向けた後、貴美は陽の隣に立つふくよかな女性へと視線を向け、ビシッ! と人差し指を突き出した。

「あやちゃん! この彼氏、なんとかしなっ! いますぐっ!」

「お前が言うな……」

「うるさい! りょーやん! 頷くな! なお!!」

「なんとか……と言われましても……お姉様は賭け事で儲けないとご飯が食べられない人ですから……」

 等と申し訳なさそうに彩音はうつむいて言うのだが、そんな言葉など貴美の耳にはかけらほども届きはしない。なぜなら陽がメモ帳の新しいページにこんな一言書いて突き出しているからだ。

『博才ない奴は黙ってろ』

 瞬間湯沸かしの如く、貴美は一気に顔を紅潮させた。そして、置かれたランチを食べて良い物か悪い者か悩み続けながらも、やっぱり手を着けていない直樹の胸ぐらをガッシッと掴んで怒鳴りつける。。

「なお! いくら持ってる!?」

「えっ……今日は五千円くらい……」

「よこしっ!」

「ちょっ、ちょっと?! 吉田さん!?」

 座席とテーブルに挟まれたまま、貴美にしがみつかれた直樹は目を白黒するばかり。彼女の大きな胸が彼の全身を撫で回すように刺激する。彼女の右手は直樹のお尻へ、目指す先は彼が尻ポケットにねじ込んでいる財布だ。それを抜き取ると、彼女はその財布ごと陽の胸元に叩きつけた。

「全部!! 着替えない方に!!!」

『毎度あり』

 大揉めに揉める席の中、良夜だけは静かに食事をしていた。

「……よく食べてられるわね、この中で……」

「他人事他人事……」

 それは肩の上から下りてコーヒーを飲んでいるアルトに言ってるようにも、自分自身に言い聞かせているようにも見えた。


 な訳だが、世の中、そんなに甘くはなかった。

 陽に掛け金を押しつけると、貴美はようやく自分の立場という者を思い出した。彼女は「絶対に今回は勝つから!」と言い捨て、きびすを返す。立ち去る背中がどすんどすんと揺れ、やけに男らしい歩きだ。

『浅間くん』

 それを見送った陽が良夜に手帳を見せる。見せられたメモ書きに良夜の意識が向くと、陽はあらかじめ書いてあったページをめくった。

『三島さんの服に関し 余計な事は言わないように

 恋人の立場を利用して勝負に介入するのは厳禁』

「要するに『開襟シャツの方が良い』とか『長袖のままでいて欲しい』とか言っちゃ駄目って事ね……」

 アルトに言われなくても、良夜にもそのくらいの事は判る。判るのだが……

「どっちが良い? とかって聞かれたらどうするんだよ……」

 食事の手を止め、良夜は立ったままの陽を見上げて尋ねる。その質問に陽は大きく頷き、ピッと人差し指を一本立て、再びページをめくった。

『陽の演技指導コーナー』

「……そんなコーナー、いつ出来たのよ?」

 あきれ顔になったアルトの声など、陽に聞こえるはずもなく、彼は彩音の肩をポンと一つ叩いた。そして、彼女にもあらかじめ用意していたページを見せる。

「はい?」

 不思議そうに小首をかしげ、彩音はじっと手帳を見入る。そして……

「どちらの、服が、良い、ですか?」

 一応は演劇部に名を連ねているはずだというのに、彩音の台詞は棒読み丸出し。これでは小学校のお芝居でも名前付きの役は回ってこないだろう。それにほんの少しだけ陽はムッと固まるも、首に巻いたレースのショールを外しながら、彼女の腰にそっと手を回した。

「どちらの服を着てても彩音は素敵。愛してるよ」

 地の底から響き渡るような低い声も、この時ばかりは僅かに甘く聞こえる。その声と台詞に彩音は引く事すら忘れ、顔を真っ赤にして陽の顔を見上げ続けた。

「あの……ひっ陽さん……」

 見上げる顔と見下ろす顔、二人はじっと見つめ合って――

 パッと離れた。

 離れれば彩音はぼんやりと宙を見上げながら、真っ赤になった頬を両手でギュッと挟んだ。そして、余韻に浸っているのだろうか、彼女の顔がニマァとにやけた笑い顔に変わる。幸せそうなのは良いのだが、頭の悪い子に見えるのは気のせいではないだろう。

『ここからは大人の時間 ハタチ超えてから』

 余韻に浸る彩音に背を向け、陽は良夜と直樹の未成年コンビにメモ帳を見せる。照れまくりの喜びまくりの彩音に引き替え、彼の方は普段通りの微笑みだけ。

「良夜が美月にそれをやったら『どちらでも良い』って言うのを『どうでも良い』と勘違いして、美月がへそを曲げるだけだわ」

 済ました顔でアルトが良夜の顔を見上げながら解説する。その解説は非常に悔しい物であると同時に非常に考えられるオチでもあった。やりなれない良夜と言われなれない美月の組み合わせで考えれば、良夜自身もその可能性を強く認識してしまう。だったら、余計な事を言わずに聞かれれば開襟シャツが良いと答えてしまった方が楽だ。ちなみに開襟シャツが良いというのは、去年、美月の見た目が暑苦しかったのとアルトの店内が妙に寒かった所為……どうでも良いと思っている事は否定できないかも知れない。

「ああ……善処はするけど――」

『駄目 ゲームは公平であるべき』

 言いよどむ良夜の言葉を陽のメモ帳がバンと遮る。これもあらかじめ書かれていた物なのだろう、「公平たって……」と言い訳とも不平とも付かぬ口調で良夜が続けようとするのを、陽は再びメモ帳で制した。

『だったら 水着 親の総取り 利益ン万円 奢る』

「……いや、それはないだろう?」

『じゃぁ 黙ってろ』

 なんでここまで言われ……いや、書かれなきゃならないのだろうか? と理不尽な人生に悩みを今日もまた深める。そして、彼は黙ってろのメモ帳を突きつける陽と、その後ろで未だにくねくねと妙なダンスを踊る彩音と、良夜のコーヒーに舌鼓を打っているアルトと、何故か他人事のように飯を食っている直樹の顔を見比べ……

「なんで、お前、他人事なんだよ?」

 陽のメモ帳まで進んだ視線が直樹の顔へと戻り、彼の口元をじっと見つめる。見つめられれば食事なんて出来るはずもなく、彼のフォークがぴたりと止まった。数秒。ぽろっとフォークに絡んでいた細めのパスタがこぼれ落ちると、青年は視線をそらしながら呟いた。

「……どうせ、吉田さんには万単位の借金をしてますから……」

「……ちょっとはバイクに掛ける金、減らせよな……」

 良夜の言葉に直樹はガバッとテーブルに突っ伏して――

「お巡りさんのバカぁぁぁぁ」

 泣き始めた直樹の頭を、アルトが「今は泣きなさい」と優しく撫でていたりするのだが、それを直樹に教えて良い物やら悪い物やら、良夜はちょっぴり悩むのだった。


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