1. スピリア
枯れた声が好きだった。ガラガラとまではいかないものの、カラカラとした喉が乾ききった時の声は一層良く聞こえる。もしかしたら、その人ならではの味、いわゆる『個性』というものがたまらなく好きなだけなのかもしれない。それでもそういう声を何度も聞いては、「あぁ、やっぱりいいな」と思ったのだから、きっとそれだけではない何か別の良さを感じていたんだと思う。
「どうして好きになったんだっけ」
私は、私の弁当を食べているチッチに向かって無機質な声をぶつけてみた。するとチッチは驚いたのか、遠くの方へ飛んでいってしまった。
チッチというのは、ここ、ミズノ公園に住み着いている小鳥で「チッチッ」と鳴くところから、近所の子どもたちが名づけた名前らしい。この前、遊びに来た一翔くん(4才)が教えてくれた。
「弁当を食べるなら、残さず食べなさい」
少し溜息を漏らしながら弁当に向かって口をこぼすと、またチッチが遠くの方から飛んできては私の弁当を食べた。もう食べないつもりだったからいいけれど。
私は、高校には進学しなかった。専門学校や就職というわけでもない。ただ私には、社会的地位というものも、学歴というものも、なんだか嘘っぱちのような気がして、どうしても、そういうものが必要なことだとは思えなかった。ただただ、私は両親と暮らす生活から抜けだして、好きなことをして過ごしたかった。だからこうして東京の街へとやってきたのだ。一週間の短い家出である。
短い、とは言っても、感覚的には相当長く感じた。
最近、東京で雪が降りだした。凍えて死にそうになる気温だったけれど、「決して戻るものか」と家へは帰らなかった。
私が住んでいた埼玉の実家は、おんぼろのアパートで、一室しかない小さな家だった。そんな空間に私の居場所があるわけもなく、私は東京へ行きたいと小学生の頃から思っていた。その願いがやっと叶ったというのに、ここで諦めてしまってはしょうがない。
とりあえず、昨日の雪が積ってくれたおかげで、ミズノ公園に私の居場所は失くなってしまった。雪があまり好きではない私は、寒さを少しでも凌ぐためにミズノ公園から少し離れた狭い路地に入ることにした。この狭さが私を暖めてくれる、なんて思っているとなんだか恥ずかしくなってそそくさと路地の中へと歩き出した。
『ジャーン』と路地中に大音量で響き渡る。これは、レスポースの歪み。店の中にはニット帽を被った少年が一人ぽつんと、アンプに繋いだレスポールのエレキギターをかき鳴らしていた。この路地にある楽器店『スピリア』は今現在、店長が不在でその息子の翔太が店番をしている。ちなみに、レスポールを軽々と弾いていたニット帽を被った少年というのは翔太のことである。
「翔太、音でかい」
私は耳を塞ぎながら大げさな動作でボリュームを下げよと伝えた。翔太は何を言うわけでもなく、ヘッドホンを取り出し、ヘッドホンの端子をアンプに繋ぐ。それほど音量は大きくないのだけれど、スピリアを訪れるときは必ず下げるよう言うようにしている。特に意味はない。
「おい」
翔太の声は私の耳を熱くする。私は彼の枯れた声が、好きなんだと思う。
私は寒い寒いと言いながら近づき、翔太の側にしゃがんで言った。
「おい、じゃなくてさ。つぐって呼んでよ」
「つぐ」
翔太と私は同い年。翔太はあんまり知的には見えないけど、でもきっと学力はそう悪くはない、と思う。適当な一面もあるけれど、男子の大半は適当なのかなと思い、そういう男子らしさも良く感じてしまう。
私がスピリアと出会ったのは、家出してすぐのこと。どこに行く宛もない私は、たまたま通りかかったレコード店『スピリア』に立ち寄っていた。私にとって音楽は、現実から目を背けるための道具だった。だから、嫌なことがあったり、疲れたときには、音楽を聴くことにしていた。また今回も、今の状況から目を背けるために、沢山に並んだアルバムの中から、今月出たばっかりの新しいアルバムを手に取ろうとすると、レコード店の二階からライブの漏れた音が聞こえてきた。演奏している曲は、私が今手に取ろうとしていたニューアルバム『ニセモノの世界』に収録されている曲だった。このバンドの曲はいくつか聴いたことがあるけれど、どれも何に対して叫んでいるのか分からない曲ばかりだ。それなのに何度も聴きたくなってしまう。もしかしたら、今私に必要なのはこういう刺激なのかもしれない、と思うと、自然と二階のライブハウス会場へと足を踏み入れてしまっていた。
『世界はああだこうだって、不平等に指示するけど・・・』
私の耳に、はっきりと聞こえた第一声はこのフレーズだった。汗だくになりながらも声を枯らして歌う必死さ。圧倒されるほど鋭いサウンドは、私の心を一瞬でめちゃくちゃにした。ドラムのキック音が鳴るたびに心臓が熱くなる。今まで、ライブに来たことがなかった私は、息をするのも忘れてしまっていた。
これだ、と思った。私に必要な刺激はここにあった。私にはこれしかないと思った。
ライブが終わった後の、キーンと鳴り止まない音さえ愛おしく思えた。
私は完璧に、音楽に魅了されてしまったんだ。
「・・・。」
「あ、ごめん。何?」
「お前もさ、音楽すればいいじゃん。音楽好きなんだろ?」
考えたこともなかった。演奏したいとは一度も思わなかった。私の中では音楽は聴くものであって、演奏するものではなかったから。
「私なんかに出来るわけないじゃん」
「出来るよ」
そういって、ヘッドホンをアンプから抜き、レスポールを私に渡してから、翔太は店の奥に向かって歩いて行った。
「私にも出来るのかな」
聞こえないくらいの小さな声に、彼は振り返って言った。
「出来るよ」
そっか。彼の乾ききった声が、その笑った表情が、そんな翔太が、私は好きなんだ。
私は、レスポールを力強く握りしめ、そして勢い良く、完全五度の旋律を奏でた。この空間に満ちた小さな恋と小さな音の振動が私の胸を締めつける。