歌姫は煙草の匂いを纏う
あたしは煙草が嫌いだ。
臭うから、煙たいから、身体に悪そうだから、大嫌いだった田舎のじいちゃんが吸っていたから。嫌いな理由はいくら挙げてもきりがない。自分で把握している以外にもあるかもしれない。
けれど一番の理由はきっと、隣に寝ている彼女が纏っている臭いだから。
「あのさぁ」
「んー?」
「煙草吸うのやめてくれない」
「やだ」
「あっそ」
何度繰り返したか分からないような会話を今日もまた繰り返す。本気でやめさせようだなんて思っているわけではないし、彼女だってそれを分かっているから毎日平気で吸っているんだろう。
不毛だ。そう思いながらあたしは多分明日も明後日もこの会話を繰り返すのだろう。下手したら一か月先、一年先も。
思えば出会ったときにはすでに彼女はこの臭いを纏っていた。
それは単なる気まぐれだった。
夜遅く、というか明け方までLINEでクラスの友達のおしゃべりに付き合って、朝起きて時計を見たら走って行かないと朝のHRに遅刻する時間だった。いつもだったら慌てて着替えてダッシュするところを、今日はいいか、なんて遅刻覚悟でのんびりと学校へ向かったのが一つ目の間違い。まあ軽い五月病みたいなものだと思う。
裏口から学校の中へ入って、体育館の裏を通って昇降口に向かおうとしていたときだった。
――煙草の臭いが、した。
およそ学校には似つかわしくないその臭いになんとなく嫌な予感がしつつも、角を曲がった瞬間。
「ちょっといい?」
足元から突然声がして、あたしは立ち止まってそれを見下ろした。
……うわ、ガラ悪そう。
あたしは反射的に視線を返してしまったことをすぐに後悔する。そこには同じ学校の生徒らしい女が座っていた。こんな時間にこんなところでのんびりしている時点でサボりなのは確定だけれど、見た目からもう“不良”というオーラがむんむんしている。一応うちの制服は着てるけど、シャツのボタンは第3まで開いてるしネクタイは緩んでいるどころか存在さえない。腰にはブレザーを巻いて袖で縛ってあるくせに、その中には普通に立っているだけでパンツが見えそうなくらい短いスカートを穿いている。極めつけは右手に持った煙草。臭いの正体は間違いなくアレだ。
「なに?」
無視したら何をされるか分からないので、一応返事をしてみる。
「金貸してくれない?」
カツアゲ、だった。ただしまったくやる気の感じられない、あたしが抵抗したらすぐに諦めて逃がしてくれそうな。
「返す気があるなら」
「んー、まあ返さないこともない。うん、返す。そのうちね」
適当な返事。絶対返さないだろうな、ということは分かった。というかむしろ返されたら怖い。
どうやって切り抜けようか、と一瞬思考を巡らせたけれど、すぐにやめる。ただ一言『嫌』と言えば済む話だ。本当にお金が欲しいわけじゃなくてただの暇潰しなんだろう。
だけど、暇を持て余していたのはあたしも一緒だった。
「何に使うの?」
「え?」
どうでもいいことを聞く。聞いてどうするっていうんだろう。
「あー……煙草、かな。あと2、3本しかなかった気がするし」
「ふーん」
まるで今思いついたような口ぶりだ。あたしは改めてやる気のないカツアゲ女を見下ろす。背中まで伸びたくすんだ金髪は見るからに傷んでいて、けれどもそれが不思議と似合っていると感じた。たぶんそれはこの覇気のない灰色の瞳のせいだ。
「――いいよ」
そう言ってあたしは鞄から財布を取り出して、野口さんを差し出した。
二つ目の間違い。ビビったわけでもなんでもないのに、あたしはそのカツアゲに応じた。まあ本当にビビってたら喋る余裕なんてなかっただろうな、とは思うけど。
なんだかそのやる気のなさがかえって新鮮で面白いな、なんて思ってしまったのだ。本当にただの気まぐれで。いや、気まぐれっていうのとはちょっと違うのかもしれない。あたしは多分、やる気がなかっただけだ。目の前の彼女と同じように。
お金を差し出された彼女の方はといえば、けだるげだった目を丸くしていた。
「……マジで言ってる?」
「マジ」
「……変なヤツ」
あんたに言われたくない、と言い返そうかと思ったけれどやめておいた。今はやる気がなさそうとはいえ、神経を逆撫でするようなことを言ってキレられでもしたら困る。あとから思えばそんなものは杞憂だったのだけれど、この時のあたしが知る由もない。
「いらないの?」
「いや、もらうけど」
煙草を持っているのと反対の手が野口さんを掴んで。
「……放せよ」
「嫌」
けれどあたしの手は野口さんを手放そうとしない。
「くれるんじゃなかったのかよ」
「貸すだけだし」
「いやそういうことじゃねーだろ」
「よく考えたら次のお小遣いもらえるまでまだ2日あるし。これ持ってかれたらあたし今月どうしたらいいわけ」
「2日くらい我慢しろよ。つか、だったら最初から渡さなきゃよかっただろ」
「今になって急に惜しくなった」
「気まぐれだなおい」
ぷるぷると震えていた野口さんからびり、と嫌な音がして。
「あ」
「あ」
野口さんは無残にも引きちぎられてしまった。
「……ふふっ」
「……はは」
お互いの手に残された紙切れを見て、あたしたちは笑い出した。
「何してんだろうね、あたしたち」
「だな」
やる気なんてなかったくせにムキになって、ただの暇潰しに本気になって。
「面白いヤツだな、お前」
「あんたもね」
楽しいな、と思った。クラスメイトたちに合わせているよりずっと。随分と久しぶりの感覚だった。
「ねえ、名前何ていうの?」
「千秋。お前は?」
「あたしは小春。あんたも季節の名前付いてるんだ、偶然」
「だな。なあ、このままサボってどっか行こうぜ」
「いいね」
三つめの間違い。千秋の誘いに乗ってしまったこと。
「ねえ、カラオケ行こうよ。あたし結構上手いんだから」
続けて四つ目。遊び場所にカラオケを選んでしまったこと。
「いや、アタシのが絶対上手いね」
「あ、言ったね? じゃあ勝負しようよ」
「望むところだ。負けた方が奢りな」
「さっきあたしの全財産誰かさんに破られたのに?」
「アタシのせいかよ。いいよ、後で返してくれれば」
「ちょっと、あたしが負けるの前提? っていうかお金ないんじゃなかったの」
「いつそんなこと言ったよ」
「だってカツアゲしてきたじゃん」
「あ、そういやそうか」
「何それ、テキトー!」
あたしがまた笑うと千秋も笑って、煙草を揉み消して立ち上がった。あたしたちは軽口を叩き合いながらそのまま学校を出る。
退屈だった世界が急に色付き出したような感じがした。なんだかこれから楽しくなりそう、なんてこの頃のあたしは呑気に考えていたんだ。
駅から少し離れた小さなカラオケボックスに入る。制服のままだったからか店員のおじさんには変な顔をされたけれど、特に何事もなく一番奥の個室を案内される。
「意外とすんなり入れるもんなんだね」
「ああ、ここアタシん家だから」
「へっ?」
「っていうか親父が経営してんだよ。よく学校サボって一人で来るんだ」
「なるほどね……」
さっきおじさんが驚いてたのは平日の昼間に学生が来たからじゃなくて、いつも一人で来てたはずの千秋があたしを連れてたからか。
「お父さんに怒られないの?」
「いや、全然。アタシのことなんてどうでもいいんだろ」
寂しそうな顔をしているのかと思ったら全然そんなこともなくて、関係がどれほど冷え切っているのかがなんとなく垣間見えた。
「分かった、自分ちだから奢るとか言ったんでしょ!」
「あ、バレた?」
茶化して話を逸らすと千秋は察したように合わせてくれた。面倒くさい話なんていらない。今はとにかく楽しもう。
「じゃあ、あたしから唄うね」
今クラスで流行っているCMソングを唄う。得点は86点。まあまあだ。
「次、千秋ね」
「ふふん、アタシの美声にビビるなよ?」
「やれるもんならやってみなさいって」
マイクを持って千秋が立ち上がる。流れてきたイントロは予想に反してしっとりとしていた。
「何これ。バラード? うっわ似合わない!」
「悪いか! 好きなんだよこういうの……」
千秋は照れたように頬を少し赤くしたけど、すぐに真剣な顔をして画面を見つめた。
そしてその唇を、開く。
聞いたことがない英語の歌だった。あんまり英語が得意じゃないあたしには、歌詞の意味なんてほとんど分からない。けれども、それが失恋の歌なんだっていうのははっきりと分かった。
流暢に英語を紡ぐ張りのある声。銀色にきらめく瞳。傷んだ金髪でさえ、今は彼女を引き立たせるための存在であるかのようだった。そのあまりの綺麗さにあたしは確かにビビってしまって、そして――。
曲が終わってしばらく経っても、あたしは声を発することが出来なかった。画面には97点、という文字が踊っていた。
「小春?」
はっと我に返る。
「あ、ごめんぼーっとしてた……」
「なんだよ、マジでビビっちまったのか?」
馬鹿にしたように口角を上げてみせる千秋に、あたしは頷いた。
「すっごくよかった!」
「そ、そうか?」
興奮して詰め寄ると、千秋は照れ臭そうに眉尻を下げる。こういう顔もするんだ、なんてちょっとどきりとした。
「ホントに歌上手いんだね……びっくりした」
「だろ? これで今日はお前の奢りな」
余裕が出てきたのか今度は得意げに笑う千秋。普通だったら絶対ムカついてるのに、あの歌を聴いてしまうとそんな気全然起こらない。
「もういっかい」
「まだ諦めてないのかよ。じゃあ二回戦……」
「そうじゃなくて」
あたしは千秋の肩を掴む。
「もういっかい唄って、千秋。っていうか今日あたし唄わなくていいからずっと唄ってよ」
「え? まあ、いいけど……何、そんなにアタシの歌が気に入ったわけ」
「うん、気に入った!」
「ストレートだなおい……」
「だってすごく綺麗だったもん、千秋」
千秋はかあっと赤くなった。
「そういうこと真顔で言うなよ……」
「そのくらい千秋の歌がよかったってこと! いいからほら、早く聴かせて?」
「分かった、分かったから……」
ぱっぱと次の曲を入れて千秋が立ち上がり、それから口端を上げてみせた。
「――惚れても知らねーぞ?」
はっとしたときにはもうあの真剣な表情に戻っていて。
「……もう遅いよ」
呟いた声は千秋の澄んだ声に溶けて消えた。
そしてそれがその日最後の、そして最大の間違い。
――切なげに愛を唄う彼女の声に、あたしは恋をしてしまったんだ。
それからは、学校をサボって千秋とカラオケボックスに行くのがあたしの日課になった。心配そうに毎日LINEを飛ばしてくるクラスメイトを既読無視し続けて、でもそれすらも面倒くさくなってアプリごと消した。
その代わりに最近あたしの夜のお供になっているのは、iPhoneの中に入ったたくさんの動画。千秋にお願いして唄っている姿を録画させてもらったものだ。夜布団の中に入ってずっとそれを眺めている。何度見ても全然飽きなくて、気が付いたら朝だったなんてこともしばしばだ。でもクラスメイトのおしゃべりに付き合っていた時とは違って、それが苦にならない。寝ているより千秋の歌を聴いてる方が疲れがとれるんじゃないかなんて馬鹿なことを考えてしまうくらいだ。だけどやっぱり生の歌声が一番だから、どんなに寝不足でもカラオケボックスに行くのは絶対にやめなかった。
そんな日々を送って、10月。
「お前さぁ、学校行かないの?」
千秋がふとそんなことを言ったのは、2時間ほど唄って一息ついていたときのことだった。
「なんで?」
「いや、そろそろやばいんじゃねーの、単位」
「うわー千秋が真面目なこと言ってるー」
「茶化すんじゃねーよ。アタシは別に留年しようが退学になろうがどうでもいいけどさ、小春は違うだろ」
「あたしだってどうでもいいもん」
「嘘吐け。美容の専門行きたいって言ってたじゃん、お前。ああいうとこってほとんど高卒じゃないと入れないんだろ?」
痛いところを突かれる。
「……この間担任から電話来た」
「なんて?」
「このまま行くと留年は確定だって。どうしても来たくないなら自主退学を考えろってさ。で、おとーさんにもバレて、『留年なんて絶対許さない、退学なんてもっての外だ』って」
「ほら。やっぱり行けよ、学校。アタシに付き合ってなくていいからさ」
やめてよ。そんなふうに笑わないで。
「千秋に付き合ってるとか、そういうんじゃない。あたしがやりたいからそうしてるだけだよ」
せめてお父さんのことを話したときみたいに言ってくれたら諦めもつくのに、そんな寂しそうな目をされたら期待してしまう。ひょっとしたら千秋も――って。
「あたしは千秋の歌が好きなんだもん。ずっと、毎日でも聴きたいくらい大好き。あたしは、千秋が――!」
待って。あたし今、何を言おうとしてた?
「……小春」
黙ったあたしの肩を千秋が掴む。
どうしよう。気付かれちゃったかな。気付かれた……よね?
「ち、違うの千秋、あたしっ」
――甘い匂いが、した。
「……放課後だったらいくらでも付き合ってやるよ。だからちゃんと学校行け。行かないんだったら二度とアタシの歌は聴かせねー。録画したやつも全部消せ」
「わ……わかっ、た、けど」
唇に触れた柔らかさが、鼻腔を満たす彼女の匂いが、いつまでも残って離れてくれない。
「分かってたよ、ずっと。気付かないとでも思ったか?」
「だって、全然そんな」
「お前がアタシとどうなりたいのかよく分かんなかったから。でもずっと一緒にいたいってんなら、いてやる」
「ホントに?」
「……ああ」
そうしてまた唇が塞がれて――あたしの背中はソファの上に沈み込んだ。
「千秋……」
傷んだ金髪を掻き抱く。嬉しいはずなのに、胸の奥にずっと引っかかって取れないものがあって。
――彼女からは、いつもの煙草の臭いがしなかった。
あたしは学校に復帰した。クラスでは見事に浮いてたけどそんなもんは無視して毎日退屈な授業を聞いて、なんとか3年に進級も出来た。
帰りのHRが終わったらさっさと教室を飛び出して、いつものカラオケボックスへ向かう。店員のおじさんに会釈して一番奥のドアを開ければ、今日も彼女はいた。もう制服姿ではなくなってジャージを着ている。彼女の方はあたしが学校に戻ってすぐに自主退学したらしい。それに関してお父さんに何か言われたとかそういう話は一切聞かなかったし、実際なかったんだろうと思う。
千秋が唄って、疲れてきたらおしゃべりしてっていうのが前までのパターンだったけど、今はそれだけじゃなくなっていた。
「あんま大きな声出すなって」
「分かっ、てる、けど……っ!」
この部屋がラブホ代わりに使われていること、あのおじさんは知ってるのかな。多分知ってるだろうな、監視カメラとかあるし。何も言ってこないのは千秋が、正確にはそのお父さんが怖いからか。あるいは向こうも楽しんでいるのかもしれない。ギブアンドテイクってことで大目に見てあげよう。
「ちあ、きっ……」
「なに?」
耳にやわく歯を立てられて身体がびくりと震える。ゼロ距離で囁くのはやめてほしい。あたしが千秋の声ダメなの知ってるくせに。
「なんで煙草やめたの?」
そう尋ねると千秋はあたしの太ももを撫でていた手を止めた。
「ん? ああ……うん。嫌いだろ、小春」
「あたしそんなこと言ったっけ?」
「アタシが煙草吸ってるといっつもしかめっ面してた」
「そうかな?」
「そうだよ」
確かに嫌いな臭いだけど、千秋のだって思ったら結構平気だったのに。頭がそう勘違いしていただけで、実際のあたしは煙草が嫌いなままだったらしい。
「まあどうでもいいだろ。そんなこと」
「やっ、ちょっと、千秋……」
千秋の手がスカートの中に伸びるとあたしはすぐに目の前のことしか考えられなくなって、そこから先は行為に没頭した。
「ねえ、小春」
炬燵にもぐってまったりとドラマを眺めていると、一緒に眺めていたお母さんがふと口を開いた。
「やだ」
「話くらい聞きなさいよ。お願いがあるんだけど」
「どうせ『お腹空いたけど今目が離せないから代わりに何か買ってきて』とか言うんでしょ」
「分かってるなら早く行ってきてよ」
「あたしだって目離せないもん」
「本音は?」
「寒いからやだ」
もう9時を回っている。どうしてこんな寒い日の、しかも冷え込んだ夜にわざわざおつかいへ行かなきゃいけないんだ。
「お金出すから」
「当たり前でしょ、あたしの買い物じゃないんだから」
「あんただって食べるでしょ」
「食べないよ、太るもん」
「あっそ。じゃあお釣りあげる」
「そんなんでつられるわけ――」
「一万円でどう?」
「行かせていただきます」
暖かさよりお金。現金なものだ。だってカラオケ代ばかにならないんだもん。千秋はタダでいいって言ってるけど、それじゃ悪い気がするから一応ちょっとだけお金を出すようにしてるんだ。まあ正当な使い方してるかって言ったら、してないしね。迷惑料みたいなもんだ。いや、ちゃんと後始末はしてるけど。
あたしはコートにマフラー、手袋、ブーツにニットキャップという重装備で駅前のコンビニへ繰り出した。安いスナック菓子を適当に見繕って、お釣りをほくほくと財布に仕舞う。くそー、薬局とかスーパーが開いてればもっと手元に残せたんだけどなぁ、なんてつい欲が出る。ドリンクバー込みでフリータイム100円という超良心価格にしてもらってるとはいえ、それがほぼ毎日となると一か月のお小遣いからしたら結構な割合になるんだよね。
「……さむっ」
まあいいや、早く帰ろ。そう思って近道しようと裏通りへ出たとき。
「あれ?」
家路を急ぐサラリーマンたちの人ごみの中に見つけたのは、見覚えのあるくすんだ金髪。こんなところで何してるんだろう。
「ちあ――」
声を掛けようとした瞬間、彼女があたしとは反対の方向へ手を振った。その先にいたのはスーツを着た30代くらいの男の人。ひらひらと手を振り返して、煙草の紫煙を残して人ごみの奥へ消えていった。
その後姿を見送ったあと、千秋はぎょっとしたように銀色の目を見開いた。そりゃびっくりもするだろう。振り返ったら真後ろにあたしがいるんだもの。
「小春……なんでこんな時間に」
「今の、誰」
「なんの話――」
「誰」
あたしってこんな冷たい声出せたんだ、なんて頭の隅っこでぼんやりと考える。千秋は傷んだ髪をくしゃりと掻いて溜息を吐いた。
「……元カレ」
「あたし聞いてないけど」
「言う必要ないだろ。小春と付き合う前に別れたんだから」
「なんで今会ってたの」
「たまたまそこでばったり会ったからちょっと話しただけ」
「ホントに?」
「ああ」
千秋は微笑む。
「今アタシが好きなのは小春だよ」
その瞳は――灰色。
「……なら、いいけど」
あたしを抱き寄せてマフラーに鼻先を埋めた彼女の髪からは、懐かしいあの臭いがしていて。
「あの人、指輪してたよ」
「……うん」
「やめといた方がいいって」
「……うん」
今まで千秋は何度もあたしを抱いたのに、あたしは千秋の裸さえ見たことがない。今更気付いた事実があたしをどうしようもなく揺さぶる。
その日、あたしは知ってしまったんだ――灰色の瞳に光が宿る瞬間を。
卒業したあとあたしは専門に進んで、千秋は色々なバイトを転々としながらふらふら遊び歩いていた。関係はまだ続いていて、千秋はしょっちゅうアパートに転がり込んできてはあたしを抱いたし、あたしもそれを受け入れた。けれどあれ以来、千秋からあの臭いが消えない。
「――ッ!」
がくがく、と腰を震わせてシーツに沈み込む。乱れた呼吸を整えるあたしから離れると、千秋は身体を起こして咥えた煙草に火をつけた。
「やめたんじゃなかったの」
「あー……」
煙草を下ろした背中の向こうに白煙が見える。
「なかなかやめらんなくてさ。やっぱ難しいな」
「ふーん」
付き合いだしてから1年くらいは吸ってなかったくせに。あたしが嫌がるからやめたって言ってくれたの、結構嬉しかったんだけどな。
「……あたしは、嫌い」
「……そうだな」
分かってるならなんでやめてくれないの。そんなことを思ってぎゅっと掌に爪を立てる。いい加減、我慢の限界だった。
「ねえ」
「なに?」
「――元カレってどんな人?」
だからずっと避けてきた、触れてほしくないであろうその話題に、触れた。
「小春……」
「教えて」
今夜ばかりは流すつもりはない。千秋は溜息と一緒に白い煙を吐き出して、それから灰皿で煙草を揉み消した。
「……はじめて、アタシの声を好きだって言ってくれた人だよ」
小春みたいに、と付け加えるように続けたのにずきりと胸が痛んだ。
「アタシはずっと、自分の声が嫌いだった」
「え?」
初めて耳にする事実に、あたしは思わず身体を起こした。
「なんで? すごく綺麗なのに」
千秋の横顔が少しだけ笑う。
「……昔、親父がさ」
飛び出したのは、出会ったあの日以来聞いていなかったお父さんの名前。
「アタシの声を聞くと虫唾が走るって、言ったんだ。ずっと前にアタシと親父を捨てて出ていった母さんにそっくりだって」
「そんなの……千秋にはどうしようもないじゃん」
だけどあたしにはその気持ちもなんとなく分かる。多分、あたしが煙草を嫌う理由とあまり変わらない。
「でもあの人はアタシの声を綺麗だって、好きだって言ってくれた」
きっと、眉尻を下げて笑ったんだろうな。あのときと同じ、いや、それ以上に照れた顔をして。
「最初はナンパだった。カラオケに連れてかれて、嫌だったけど我慢して適当に唄って。あんまり褒めてくれるもんだから調子に乗ってずっと唄ってたな、あの日は」
もし、あの人よりも早く千秋と出逢っていたら。そうしたら、千秋はあたしだけを見てくれたんだろうか。
「アタシを落とすためのお世辞だったのかもしれない。それでも嬉しかったんだ。ホント、バカみたいにさ」
千秋の声が沈む。
「けど小春と付き合い出すちょっと前に、フラれちまった」
千秋が煙草をやめた頃だ。ひらひらと手を振っていたあの人の薬指に光っていたものを思い出して、あたしは目を伏せた。
「小春と会う前からそういう雰囲気はあったんだけどな。それでぱったり連絡が途絶えた。あの日会ったのは本当に偶然だったんだよ。じゃなきゃ、絶対会えなかった」
それで、『久しぶりに少し話そうか』ということになったらしい。
「今の人は声がちょっと好みじゃなくて、それであんまり歌が上手くないんだって、笑ってた。この間会ったときも、やっぱり千秋の声の方が綺麗だなって」
あたしの知らない、あの人だけが知っている千秋の“声”。
やっぱり、千秋とあの人との関係はまだ終わっていない。いや、一度は確かに終わったんだ。それがあの日、少しいびつな形で再開した。
「……なあ、アタシじゃダメなのかな?」
千秋の声に嗚咽が混じる。
「アタシの声、好きって言ってくれたじゃん。アタシ、歌いっぱい練習してあの頃よりもっともっと、上手くなったよ。それでもアタシだけじゃ、ダメなのかなぁ……?」
「千秋……」
細い背中をそっと抱きしめる。
「あたしは千秋だけでいい。千秋がいいよ。それじゃあ、ダメ?」
千秋は何も答えない。
前に回した手を千秋のシャツのボタンにかけると、掴んで阻まれた。
「……なんで?」
あたしの声にも嗚咽が混じる。
「あたしだって千秋の歌、綺麗だって言ったじゃん。千秋の声大好きだって、言ったじゃん。その人と何が違うの? ねぇ、千秋」
沈黙は肯定。
「違わないんでしょ? じゃああたしにも聞かせてよ」
「こはる……っ」
シャツ越しに胸に触れれば千秋の声が僅かに上擦る。ああ、やっぱり千秋の声は綺麗だ。あの人が手放したくなくなるのも、むかつくけどよく分かる。
「あたしだって千秋の声、もっと聞きたい」
けれど千秋は首を振った。
「……なんで? どうしてよ、千秋」
千秋はただ首を振るばかりで、何も答えてはくれなかった。
専門を出て美容師になったあと、あたしは千秋と一緒に暮らしはじめた。千秋は相変わらずバイトを転々としている。週末になるとそれとは関係なしに帰りが遅くなることがあるけど、あたしは何も聞かないし千秋も何も言わない。それがあたしと千秋の選んだ答えだった。
「あのさぁ」
「んー?」
「煙草吸うのやめてくれない」
「やだ」
「あっそ」
繰り返す不毛な会話。もうこのくらいのやりとりではお互い感情を揺らしたりしない。ただ惰性的にあたしはその言葉を繰り返したし、千秋もその答えを繰り返しつづけている。
「ねえ、千秋」
「んー?」
「もういっかい」
「明日仕事じゃなかったのかよ」
「いいからして」
溜息を吐いたあと、千秋は寝返りをうってあたしを組み敷いた。やる気がないようでいて、灰色の瞳はちゃんと欲情に濡れている。それが少しだけ嬉しくて、そんなことで嬉しくなってしまうあたしは心底馬鹿な女だと思った。
「千秋」
「なに?」
普段煙草をふかしている指があたしの髪をそっと梳く。
「なまえ、呼んで」
「……小春」
ねえ、あたし知ってるんだよ。千秋、煙草吸えないんでしょ?
「もういっかい」
「小春」
なのにどうしていつもそうやって身体にその臭いを染み付かせてるの?
「もっと」
「小春」
絶対ではないけど、煙草のせいで喉がダメになることがあるって知ってるくせに。もし本当にそうなったら、今度こそあの人に愛想を尽かされるかもしれない。あたしにとってはその方がいいけど。
「ねえ千秋」
「なに?」
でも、あたしはやっぱり千秋の声が好きで。それを手放したくなくて。
「煙草、やめてよ」
千秋は何も答えない。
こんな臭い、嫌いだ。吐き気がする。
「ねえ――」
それなのに。
「――キスして」
不毛だ。そう思いながらあたしは明日も明後日も彼女の唇を欲しがるのだろう。きっと一か月先、一年先も。
明日は金曜日だから、多分また千秋の帰りは遅くなる。あたしの知らない声であたしではない名前を唄って、そうしてあたしのよく知っている臭いを纏ったままあたしを抱くのだろう。
触れた唇から伝わる彼女の吐息があたしの鼻腔を満たしていく。嫌いだ。こんな臭い、こんな――匂いなんか。
「……好きだよ、小春」
そう囁く灰色の瞳に、嘘はなくて。
ああ、やっぱり。
「あたしも千秋が好きだよ」
――あたしは煙草が、嫌いだ。
『歌姫は煙草の匂いを纏う』
というわけで、第十六期テーマ短編『百合』でした。
また10000字超えちゃいましたね。すみません。
いつもだったらテーマに恋愛を結び付けてアイディアをひねりだすんですけれども、今回は結び付けようがないというかもともと結び付いてるので結構困りましたね。
活報にも書きましたが、今回のテーマを決定したのは私。かつ、私は普段から百合スキーを豪語している人間です。ハンパなものを出すわけにはいかないわけですよ。うわぁどうしようと頭を抱えまして。
しかしあっさり解決しましたね。いつもの現実逃避です。二次創作の方が今ちょっと詰まってまして、そこから逃げるように書き出したらするするいってくれました。現実逃避をしているときの白身魚は最強です。すごいときは執筆速度がやる気ないときの15~30倍になりますからね。いやちゃんと測ったことないんではっきりしたことは言えませんけど。
狙ったわけではないんですが、また『傷舐め』と似たような話になってしまいましたね。こう、女特有の面倒くささというか、ドロドロした感じ好きなんですよ。こういうのは百合ならではじゃないかなぁ、なんて。えっ、そもそもこれは百合なのかって? え、百合ですよ。百合……ですよね?(汗)
『傷舐め』が重かったので、今度はキャッキャウフフな可愛い百合を書こうかなーと思ってたのにどうしてこうなった。ぼやーっと“不良娘に憧れて、それがいつのまにか恋に”みたいな流れは頭にあったんですが、まさかそれがこんな話になるとは自分でもびっくりです。まあ真面目に書こうと思ったらこうなるか……白身魚が真面目になると重くなる、覚えておきましょう。
まあそのくらい真面目に書いたので、結構自分でもお気に入りの、久しぶりに自信を持って出せる話です。が、そういうやつほど評判がよろしくない、というのが私のいつものパターンなんですよね……。同じ末路を辿りそうで怖いなぁ。
まあそんなことはさておき、今回は自分なりの裏テーマみたいなものを念頭に置きながら書いてみたので、ちょっとでも考えてみていただけると嬉しいですね。まあ分からなくてもそれは読解力のなさではなく私の実力不足なので、そのときは反省します。はい。
では。